黄昏交差点:バーにて

『カランカラン』

 このバーのドアにはカウベルが付けてあって、入ると音が鳴る仕組み。もう通い始めて何年になるかな。

「お待たせ」
「来たばっかりよ」

 いるのは恵梨香。元嫁との離婚騒動でゲッソリしている最中に、このバーで偶然知り合い、愚痴を聞いてもらったのが出会いだったかな。まだ飲み友だち、食べ友だちで、今のところそれ以上の関係に進んでいない。歳は二つ下のはず。

 他愛ない話題から、いつしか墓参りから由佳の話題に。そんな話題はつまらないだろうと思ったけど、恵梨香は妙に熱心に聞いてくれた。

「その由佳って子は、好意はあったと思うよ。でも恋かどうかは微妙ね。あの頃って恋ってなんだかわかってなかった気がする」

 恋に恋する時代か。そうだったかもしれない。異性に好意を抱くと言っても、その次にどうしたいかをわかっていなかったかも。

「女の方が早いけど、男ならキスしてアレやりたい以上は考えてなかったんじゃない」
「手厳しいな。男はしょせん、突っ込みたがる生き物だよ」

 でもあの頃なら、恵梨香の言葉の通りの気もする。そこまでが妙に具体的で、もしやったとして、次にどうするつもりかと言われれば困ったかもしれない。強いて答えれば結婚になるけど、世の中はそんな単純なものじゃないのはさすがに学習した。

「恵梨香の友だちにも高校で経験したのは結構いたけど、やったからと言って結婚したのは少ないよ」

 同級生結婚が少ないのはボクの高校も同じだったと思う。実際に経験したのがどれほどいたかは知らないけど、

「由佳って子もどうしたら良いかわかんなかったんじゃない。だってだよ、本当に好きだったら、そのシチュエーションなら告るよ。嫌いではないと思うけど、そこまで追いかけるほどじゃなかったのかもね」
「ボクが告白していたら?」
「どうだったかな」

 そういうと恵梨香はジン・フィズをぐっと飲みほして、

「こういう話にはパンチが欲しいから、マンハッタン作って」

 恵梨香は独身。それもずっと独身で良さそう。少なくとも子どもはいない。恵梨香で助かるのは美味しい店を良く知ってる点かな。おかげで三宮界隈でちょっとしたグルメになった気分。

 恵梨香の良いところはとにかく美味しそうに食べること。もっとも、これは美味しい店の時で、チャレンジして外れの時は素っ気ないというか、二度と行かない。それとボクにはうれしいのだけど、実に遠慮がない。

 かなり飲める方で日本酒も大好きだけど、飲みたいのは遠慮くなく飲んでくれる。もちろん恵梨香なりに気を使っていて、さすがにワイン・バーでオーパス・ワンをボトルごと注文するようなムチャはしない。

 実に気が楽な女友だちで良いと思う。ボクにしたら一人で外食するのもつまらないし、恵梨香もお一人様が好きなわけではなさそう。関係的には恵梨香がカップルの相手役のバイトで、バイト料が飲食代ぐらい。それぐらいはボクでも払えるし、恵梨香と過ごす時間は楽しいから十分価値があるよ。

 では恋愛感情はどうかと言えば、ゼロじゃない。誘ったことも、はっきりいうとあるのだけど、

『今は色気より食い気だよ。やっても構わないけど、それで関係が重くなるのは嫌だな。恵梨香は食い気に集中したいし』

 実にあっさりしたもの。見ようによってはタカられてるとも言えるけど、それでボクが満足しているなら問題はないで良いと思ってる。

「ちょっと結婚の話に戻るけど、あんたの失敗は愛情と同情を混同している点だと思うよ。それとヘタレの点」

 グサッ、当たってるものな。

「それなのに未だに恋に恋するロマンチストであること」

 そりゃ、『男は初恋をあきらめる事ができず、女は最後の恋をあきらめる事ができない』だろ。

「J・S・ヴェイスね。オスカー・ワールドはこうとも言ってるよ、『男は女の最初の恋人になりたがるが、女は男の最後の恋人になりたがる』。あははは、前の奥さんがそうかもね」

 この辺は似たような箴言が多いけど、

『男の初恋を満足させられるのは、女の最後の恋だけである』

 これはバルザックだけど、男は初恋の相手と結ばれるのが理想の恋みたいなところがあるけど、女は最後と決めた相手に執着するかもしれないな。

「気を付けた方が良いかもね。由佳って子はあんたの初恋の相手に近いじゃない。それが今の境遇は幸せじゃなさそう。そう、あんたの弱点の同情が出てきやすいってこと。独身に戻ってたりして、もし姿を現したら『つい』って気を起こしかねないよ」
「悪いか」
「そういう人は嫌いじゃない」

 褒められてるのか貶されてるのか微妙だけど、こうやって平気でポンポン言ってくれるのが恵梨香かな。さすがに二十三年前の由佳との恋が再燃するとは思えないし、とにかく記憶が高校一年で止まったままだから、

「思い出は時々、引き出しから出して懐かしむものかもな」
「あの時の続きが突然動き出すってことはまずないよ。そりゃ、二十年も二十三年もすれば人は変わるからね」

 あの時の続きか。あっても高校が別じゃ続かなかったろうな。高校が一緒なら今度は医者になれてないし。どっちが大切なんて比べられるものじゃないけど、医者になってなければ由佳を幸せに出来るかどうかは自信が無い。

「人生ってそんなものよ。すべてを手に入れることは出来ないよ。そんな人はいないんじゃない。すべてを手に入れたように見える人でも満足してないと思うよ。あんたは医者になるべきだったで良いと思うよ。本当に由佳って子と結ばれる運命なら、何があっても結ばれていたはずよ」

 そうだよな。高校が一緒であっても結ばれるとは限らなかったし、あの高校からでは医学部なんて夢のまた夢。最悪、由佳とも結ばれず、医者にもなれずの人生を送ってたとか。

「そうなっても人生だよ。あんたに同情するのはあの奥さんを選んだことね。次があったら良く考えるべきかな。それが経験を活かすってことだろ」
「恵梨香は立候補しないのか」

 そしたら恵梨香はダークラムをオーダーしながら、

「恵梨香は色気より食い気だから」