もちろんですが古橋氏の活躍時代は存じません。私の子供の時でも古橋氏は既に伝説の人物でした。なんと言っても子供向きのスポーツ偉人伝みないな本に登場するぐらいですから、「よくわからないが凄い人」に印象だけが植えつけられたものです。
今でも使われる「水泳日本」のキャッチコピーですが、私の子供の頃にも使われていました。ただし遥か昔に過ぎ去った過去の栄光としてです。私の子供時代の日本の水泳はあまりに弱体と言うか、今でも強いアメリカと異常に強かった東ドイツが驚異の世界記録を連発し、日本選手は予選段階で殆んど姿を消してしまっていたからです。メダルどころか決勝に進出するのさえ至難の業の時代です。
テレビ画面に世界記録と日本記録がよく映されていましたが、その差の大きさと、世界記録が次々に塗り替えられる勢いに、「水泳日本」はどこの国の話だと感じざるを得ない時期です。もっとも陸上よりはマシでしたけどね。
それでも歴史上には水泳日本は記録されています。これは財団法人日本水泳連盟からですが、
種目 | '28 | '32 | '36 | '40 | '44 | '48 | '52 | '56 | '60 | '64 | '68 | '72 | '76 | '80 | '84 | '88 | '92 | '96 | '00 | '04 | |
自 由 形 |
100m | 銅 | 金 銀 |
銀 銅 |
大 会 中 止 |
大 会 中 止 |
参 加 で き ず |
銀 | * | * | * | * | * | * | ボ イ コ ッ ト |
* | * | * | * | * | * |
200m | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | |||||
400m | * | 銅 | 銀 銅 |
* | 銀 | 銀 | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | |||||
800m | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | 金 | |||||
1500m | * | 金 銀 |
金 銅 |
銀 | 銀 | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | |||||
400mR | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | |||||
800mR | 銀 | 金 | 金 | 銀 | * | 銅 | 銅 | * | * | * | * | * | * | * | * | * | |||||
背 泳 |
100m | 金 銀 銅 |
銅 | * | * | 銅 | * | * | * | * | * | 金 | * | * | 銀 銅 |
銅 | |||||
200m | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | 銅 銅 |
|||||
平 泳 |
100m | * | * | * | * | * | * | * | * | 金 | * | * | * | * | * | * | 金 | ||||
200m | 金 | 金 銀 銀 |
金 金 銅 |
* | 金 銀 |
* | * | * | 銅 | * | * | * | 金 | * | * | 金 | |||||
バ タ |
100m | * | * | * | * | * | * | * | * | 金 | * | * | * | * | * | * | * | ||||
200m | * | * | * | * | 銀 | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | 銀 銅 |
|||||
メ ド |
200m | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | ||||
400m | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | * | 銀 | * | |||||
400R | * | * | * | * | * | 銅 | * | * | * | * | * | * | * | * | 銅 | 銅 | |||||
金 | 1 | 5 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 3 | |||||
銀 | 1 | 4 | 2 | 3 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | |||||
銅 | 1 | 2 | 5 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | |||||
計 | 3 | 11 | 11 | 3 | 5 | 4 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 4 | 8 | |||||
*は競技行なわれず |
競泳の全競技ではありませんが、主要競技の成績です。自由形の800mを除いて男子の種目でまとめています。ちょっと寄り道ですが、バタフライが平泳ぎから分離したのぐらいは知っていました。ただかつては自由形の200mがなかったり、背泳100m、平泳ぎ100mもなかったのには少し驚きました。
水泳日本を本当に誇ったのは戦前のロサンゼルス('32)、ベルリン('36)を頂点として、戦後のメルボルン('56)、ローマ('60)ぐらいまでであった事がわかります。以後は長期低落が続き、アトランタ('00)あたりから少し復活と言う感じでしょうか。歳がばれますが、私が五輪での日本の活躍を知っているのはこのどん底時代で、中継で「水泳日本」と叫ばれても「どこが」とツッコミを入れたくなる時代でもあります。
こういう時代背景がある事を示しておいて古橋氏です。古橋氏は1928年9月16日生まれです。これぐらいの年代の方々は戦争が大きな影を落としますが、終戦時で17歳であった事がわかります。戦争には行かずに済んだようですが、勤労作業中に左手中指を切断するという怪我を受けています。時代的にはそれでも死なずに済んだのは幸運だった時代ではあります。
その後、古橋氏は日大に進学して頭角を現すのですが、なんと言っても戦後の混乱期です。ソースが定かではないのですが、古橋氏が日大水泳部に入部する決め手になったは「イモを腹いっぱい食わせてやる」であったと伝えられています。実際は腹いっぱいには程遠い食糧事情であったともされますが、生きるために食べていくのが精一杯の時代をよく表しているかと思います。
古橋氏が日本に名を轟かせたのはwikipediaによると、
1947年の日本選手権では400m自由形を4分38秒4で優勝し、公式記録にはならなかったものの当時の世界記録を上回るタイムを出した。
この当時の世界記録が気になるのですが、1941年のビル・スミスの4分38秒5であったと思われます。もっともこの年の9月12日にはアレックス・ジャニーが4分35秒2の記録を出しています。この記録の更新度合いから、世界の水泳も大戦の混乱から復活しはじめている気配を感じる事が出来ます。しかし、この年に古橋氏は19歳であり、まさにこれから飛躍の時代に入る事になります。
古橋氏にとって惜しまれているのは、翌1948年であるとされます。大戦のため中止されていた五輪がようやく再開されたのです。しかしロンドンで行なわれた大会には参加を拒否されます。この辺の事情は様々に伝えられますが、そういう時代であったと言う事です。古橋氏は現役引退後も水連の重鎮であり続けましたが、1980年のモスクワボイコットの時にどう感じたかを聞きたかったところです。
この1948年ですが、五輪参加を拒否された日本水連は日本選手権を五輪と同じスケジュールで行なうというイベントを行なっています。同じとはロンドン五輪の決勝スタートと同じ時刻に日本選手権の決勝もスタートする企画です。確かロンドンと東京の時差は9時間ですから、ロンドンの決勝が夕方4時ぐらいなら日本では深夜を回る事になります。
出場する選手も調整が大変ですし、観客も大変だったと思うのですが、この時の明治神宮外苑プールは超満員の観客で膨れ上がったと伝えられています。この時の記録がwikipediaからですが、
400m自由形4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出しロンドン五輪金メダリストのタイムはおろか当時の世界記録をも上回った
ロンドン優勝者のタイムはわからないのですが、400mはアレックス・ジャニーが4分35秒2、1500mは天野富勝(1939年)の18分58秒8ないしはアーネ・ボルグ(1927年)の19分7秒2であったと思われます。ただしこれも時代でwikipediaからですが、
これらの記録は日本が国際水泳連盟から除名されていたため世界記録としては公認されなかった
古橋氏が当時どれだけ国民的英雄であったかは、随所に語られています。終戦後の混乱期の中、印象としてはただ1人、世界と互角に戦えるヒーローとして称えられたのはよく理解できます。それと古橋氏は33度も世界記録を出したと伝えられますが、公式記録にはそんなに残されていません。おそらく非公認・未公認記録が多数あったのだろうと考えています。
古橋氏の活躍を認めたのか、米軍の占領政策の一環であったのかは不明ですが、日本は1949年の全米選手権に招待されます。ここで出した記録が
いずれも世界記録で圧勝します。古橋氏のそれまでの記録の扱いは、「日本のプールは短いのだろう」「きっと時計が狂っている」「いやいやズルイ日本人の事だからみんなウソさ」ぐらいであったのが、全米選手権と言う晴れ舞台でそんな陰口を封じてしまう事になります。いやそれどころか、あまりの活躍に古橋氏の終生のキャッチフレーズになった言葉を贈られる事になります。
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「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)
思えばこの時期が古橋氏の頂点であったと思われます。待望の五輪には1952年のヘルシンキ大会に参加できましたが、1951年の南米遠征でアメーバ赤痢にかかった事、また能力としてもピークが過ぎていたと言われ、五輪では期待されながらも惨敗します。それでも日本人が古橋氏にかける期待は壮絶だったようで、惨敗した古橋氏の心情を思いやったのか、実況を担当したNHKの飯田次男アナウンサーは涙声で
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「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展は有り得なかったのであります。古橋に有難うを言ってあげて下さい」
そういう目で見ると、2004年のアテネ大会の活躍は古橋氏への大きなプレゼントであったと思います。生きている間にようやく見れたとの感慨もあったんじゃないかと思います。ただそれでも古橋氏が最後まで心残りであっただろう事は、自分が得意中の得意種目とした自由形400m、1500mの世界記録、金メダル獲得をみれなかった事かと思っています。
そこから思うとアテネで柴田亜衣選手が自由形800mで金メダルを獲得したのは、古橋氏にとって一番嬉しかったと思います。
さすがに古い時代の選手で、情報をかき集めようにもwikipedia以上のものは殆んど無く、その点は陳謝させて頂きます。また古橋氏が作った数々の記録も、残酷なもので、今となっては大した記録ではありません。それでもあの時代を生きた日本人にとっては最高最大のヒーローであり、おそらく水泳界で二度と出現しないスーパーヒーローだと思っています。
これは記録ではなく、あの時代の空気を吸った人間の不滅の記憶だからです。謹んで御冥福をお祈りします。