個人的な病気ネタが続いていてしまいしたが、なんとか復活です。病因についてはコメント欄でも色々と取り沙汰されていたようですが、私の診断としては1/19付のエントリーによる食中毒と考えています。あのエントリーは1/18に書き上げていましたから、潜伏期間1日で発症したと考えれば日数的には符合し、食材の毒性から病状の強さも説明は可能と言うわけです。冗談はともかくエライ目にあいました。
今日のネタは1/20予定分のネタでして、誰か触れるとかと思っていましたが、さすがに論説委員ネタですからスルーされているようです。そんなネタなのにあえて私が取り上げようと思ったのは、阪神大震災のお膝元の新聞である神戸新聞の社説だからです。他の事柄であったり、他の新聞社の社説より個人的に閾値が低くなるとぐらいに御理解ください。
1/18付神戸新聞社説より、
災害時医療/患者思いやる心を忘れず
困っている人を思いやる心は、阪神・淡路大震災で一層、膨らんだ。
例えば神戸市では、市民救命士は三十五万人を数える。多くの市民ががれきの下から被災者を救い出した経験を持ち、その意味や重要性を肌で感じている。
だから災害が起きれば、すぐに救援物資が集まり、ボランティアが駆けつける。
震災以降、災害や事件・事故を経て、救急医療の重要な手順として定着したのが「トリアージ」だ。治療や搬送の優先順位を判断するための負傷者選別のことである。
しかし、被災地での「思いやる心」から見れば、どうだろう。災害現場でルール化が強まるあまり、かえって臨機応変の対応を妨げている。医療現場からそんな疑問が出ていることに注目したい。
トリアージはテレビドラマにもなる。助かる見込みのない負傷者を後回しにした医師の判断を、肯定する場面があった。
実際の現場では、心肺停止の被害者が人目につく路上に放置されたり、トリアージを経ずに病院へ搬送されたことがルール違反として問題になったことがある。
どうもトリアージに振り回されていないか。兵庫医大の丸川征四郎教授(救急・災害医学)は、そんな指摘をする。
四年前の尼崎JR脱線事故で、兵庫医大は百十三人もの負傷者を受け入れた。
教授はそのとき、テレビが映し出す現場の状況から負傷者は数百人に上ると判断。どんな負傷者でも受け入れると決め、発生から約三十分で、緊急の診療態勢を確立した。脱線現場でのトリアージをあてにせず、大学内ですべての患者を振り分けた。
病院の能力の限界まで負傷者を受け入れる発想は、震災当時、十分な医療を提供できなかった悔しさからきている。「大切なのは他人を思いやる心」と言う。
トリアージは戦地の発想で、限られた医療資源を有効に使う考え方が基本にある。よほどのへき地ならともかく、医療資源が整う都市部で常に選別する必要があるだろうか。トリアージのためのトリアージになってはならないと、丸川教授は考える。
この考えは少数派だが、医療が見落としているものはないか、もう一度振り返る上で大切にしたい視点だ。
災害などに駆けつける医療チーム(DMAT)の整備が全国で進む。震災が生んだ財産だ。それだけに、現場が混乱していても患者を慈しむ心を忘れてはならない。
この社説も1.17の震災にちなんだ社説の一環です。ここでは災害時、それも大災害時医療時への主張が書かれています。その大災害時医療でのトリアージについて書かれている事も明らかです。社説のトリアージへの主張のキモは、
震災以降、災害や事件・事故を経て、救急医療の重要な手順として定着したのが「トリアージ」だ。治療や搬送の優先順位を判断するための負傷者選別のことである。
阪神大震災以前でもトリアージは行なわれていましたが、この行為が社会的な認知となったのが阪神大震災であるというのは大きな異論は無いと思います。そのトリアージに対して社説は、
トリアージは戦地の発想で、限られた医療資源を有効に使う考え方が基本にある。よほどのへき地ならともかく、医療資源が整う都市部で常に選別する必要があるだろうか。
阪神大震災以降でトリアージが濫用され過ぎているのではないかの主張です。かなり批判的であるのは明らかで、ポイントを列挙すれば、
- 災害現場でルール化が強まるあまり、かえって臨機応変の対応を妨げている
- テレビドラマで、助かる見込みのない負傷者を後回しにした医師の判断を、肯定する場面があった
- 実際の現場では、心肺停止の被害者が人目につく路上に放置された
- トリアージを経ずに病院へ搬送されたことがルール違反として問題になった
トリアージが必要になる災害時医療の条件とは、
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医療が必要な傷病者数 >> 医療戦力
被災地での「思いやる心」
こんなものが銀河系の端まで吹っ飛ばされた状況であるという事です。この論説委員がヌクヌクとした論説委員室の中で考えるトリアージ状況とは、「医師が根性出せばトリアージは不要」なんてお花畑ですが、現実は論説委員室にあるのではなく現場にあるのです。おそらく論説委員如きでは死んでも理解できないでしょうが、傷病者全員に十分な治療を即時に施せる状態では全く無いという事です。
論説委員に医療の話で喩えを出すと「根性論」で凝り固まった頭脳が拒絶反応を起すでしょうから、他の例で示してみます。論説委員でも知っている有名な大事故にタイタニック号遭難があります。タイタニック号遭難時には十分な救命ボートも救難用具もありませんでした。ここは話を単純化するために、遭難者全員が乗り込める救命ボートがありませんでした。遭難者全員が救命ボートに乗り込めば救命ボートが沈没します。状況としては、
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遭難者数 >> 救命ボート収容者数
この選別も一種のトリアージです。ここに十分な救命ボートの数があれば誰も選別など行いません。数が足りないからやむなく行なわれるのです。平時のトリアージの発想とは
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全員救助が無理だから、限られた条件で1人でも多くの人を助ける
実際の現場では、心肺停止の被害者が人目につく路上に放置された
痛ましい光景ですが、それを記者が見たのであれば「お前は何をしたのだ」と問いたいところです。路上に放置されていたのなら、せめて路上でないところにその記者は動かす努力をしたのかと言うことです。被災地救助は人手不足の上に、一刻を争います。救助にあたるものは懸命の努力にあたっていますが、それでも手が回らないからやむなく「路上に放置」されているのです。記者に一片でも「思いやる心」があれば、せめて路上でないところに移動できる手助けはしようとしなかったかと言うことです。
かえって臨機応変の対応を妨げている
木を見て森を見ずの典型で、トリアージを行うというのは究極の臨機応変です。個々の重症患者に全力を尽くしたいとの思いを耐え忍び、傷病者全体の救命率を考えるのは非情の作業です。ある超重傷者に持てる戦力をすべて注ぎ込めば救命の可能性がゼロではありませんが、それをすれば多くの他の重傷者が助からなくなるのが大前提です。これがトリアージでの臨機応変です。
助かる見込みのない負傷者を後回しにした医師の判断を、肯定する場面があった
ここまで来ると何をかいわんやです。ではと言っては何ですが、黒タグ傷病者を後回しにするのがトリアージの場面描写において「否定する」のが正しいと神戸新聞は主張することになります。否定してしまえばトリアージ自体が成立しなくなります。トリアージにおいて黒タグ傷病者への扱いへの理解は非情に重要です。トリアージを行なうものにとっても精神的重圧や、後になっての精神的障害さえでかねない行為です。それをマスコミが先頭に立って「否定する」なら今後誰もトリアージなど行なう医師は日本からいなくなります。
四年前の尼崎JR脱線事故で、兵庫医大は百十三人もの負傷者を受け入れた。
教授はそのとき、テレビが映し出す現場の状況から負傷者は数百人に上ると判断。どんな負傷者でも受け入れると決め、発生から約三十分で、緊急の診療態勢を確立した。脱線現場でのトリアージをあてにせず、大学内ですべての患者を振り分けた。
大嘘を書いてもらっては困ります。JR事故でトリアージが必要になったのは搬送先医療機関の収容能力の問題ではありません。事故現場から医療機関への搬送能力の問題です。簡単に言えば救急車が足りなかったという事です。状態としては、
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負傷者数 >> 搬送能力
どうにもこうにもこの論説委員は、
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被災地での「思いやる心」
ところがこの論説委員は大きな被害を受けた神戸新聞が新聞を発行し続けたのを称賛するのではなく、紙面が縮小されたことについて非難を行っている事になります。「思いやる心」さえあれば、本社が倒壊し、印刷工場が大きな被害を受けようともいつも通りの紙面編成で発行できたはずだと主張するのに等しい事になります。それがどれだけ無茶苦茶な事か全く理解できないのが論説委員だと言う事です。
たかが論説委員のたかが社説ですが、阪神大震災のお膝元のローカル紙であり、神戸新聞自体も震災で大きな被害を受けています。そんな神戸新聞が社説とは言え、震災関連の記事でここまで無知蒙昧な主張をする事は言語道断です。これを書いた論説委員は震災を経験しなかったのでしょうか、それとも震災後に入社した人物なのでしょうか。もし震災を現場で経験した人間が書いているのなら、既に認知障害が明らかに現れていますから、適宜処置される事を強く希望します。