医療の堤防

何日か連続して取り上げましたが、一段落して感じる感想と言うか雑感です。世間の注目は事件発生病院の医者の対応と、搬送を断られた病院が18ヶ所になった事に集まっています。他人のことは言えず私もその世間の関心に沿って情報を集めて論じています。そこを取り上げないと次に話が進めないですしね。

ただ世間が注目している点より少し外れた点の方が関心があります。それは医療の足腰が本当に弱ってきた事です。

事件が起こった夜はいわゆる出産ラッシュの大波が来ていた期間じゃなかったかと思います。新生児病棟に勤務したことがある者や、産科病棟に勤務していたものなら常識ですが、出産時期は相当なムラがあります。「まだ生まれるか」とヘトヘトに出産が続く期間と、本当に平和な夜が続く期間です。出産数が増えればそれだけリスクのある新生児も増えるわけで、出産ラッシュの時期にはNICUも悲鳴が上がる事になります。

出産ラッシュの影響でNICUが満床状態になったときの搬送依頼に難儀した経験は私にもあります。それこそ「なんとかお願いします」と八方手を尽くして頼み込んだものです。それでもなんとかはなっていました。もちろん神戸という比較的大都会であったからかもしれませんが、引き受けてくれる方も相当な無理を重ねて頑張ってくれました。

受ける方の新生児病棟も経験はありますが、パンパンの状態の病棟にまだ引き受けると聞かされて「堪忍してくれ」と部長に呪詛をつぶやいた事もありました。それでもここが引き受けないとこの子供はどうなるのかと考えれば、嫌も応も無いと言えない現実がありますから、無限にも感じる仕事の山にあがいた経験もあります。

そういう出産ラッシュにより病棟が綱渡り状態になる事は年に何度もありましたが、それでもなんとかなっていたと思います。少なくともこんな事件にとして報道されるような事態にはなっていなかったと思います。もちろん表面に現れなかっただけでこれまでもあったのかもしれませんが、こう言う事が事件と表出するぐらいになるには、その陰にもっとたくさんの類似の事件があったと考えて然るべしで、奈良事件はほんの氷山の一角が現れただけのものだと考えます。

何が言いたいかですが、奈良事件は今回だけの特殊例ではなく、救急搬送システムの足腰が本当に弱った表れではないかと感じる事です。医療者として今回の事件は弱ったシステムの整備を怠った結果と言う風に映ってならないのです。怠慢といっても個々の医者は眼前の仕事をこなすのに精も根も尽き果てる思いで取り組んでいます。現場の最前線の医者を責めるのには無理があります。また現場の最前線の医者は超多忙の仕事の合い間を縫って、システム改善を訴えています。その声を放置していた事が最大の問題点ではないかという事です。

今回の事件も痙攣発作の後、速やかに搬送が行なわれ、結果はともかくスムーズに搬送先で検査治療が行なわれていたら、こんな問題にはならなかったはずです。最大の問題点は患者の容態急変から搬送開始まで2時間もかかった事です。この2時間が10分〜30分程度であれば、不幸な事故以上の何者でなかったと思います。たとえ結果が同じであっても、残された遺族にとっては出来る限りの処置をしたと感じてもらえたと思います。

ただしそこまで考えた時に、またもや暗澹たる気持ちに成らざるを得ません。新生児に限らず救急医療には金がかかります。救急医療といっても三次救急レベルには莫大な費用が必要です。ある程度いつでも余力を持った制度の整備には莫大な費用が必要です。それを果たして整備する事にどれだけの国民的合意が得られるかです。

あくまでも私見ですが、河川の整備には百年に一度とかのレベルの整備が行なわれます。これを行う事に予算の無駄使いとの批判は少ないかと思います。河川はひとたび氾濫すれば大きな被害をもたらすからです。医療にもそういう視線をもって頂いたら嬉しいと思っています。医療の堤防は人です。人と人とのネットワークが医療という堤防を形作っていると感じています。この整備を怠れば時に強さを増す流れに氾濫が起こります。医療での氾濫は河川に較べて被害を及ぼす範囲は少ないですが、本質的に似ている部分があるように感じてなりません。

奈良事件は医療の堤防が部分的に破綻したものと考えます。さらにこの堤防は目に見えて弱ってきています。今回の事件では一人だけが搬送で立ち往生しましたが、これがそう遠くない将来に何人もの患者が立ち往生する事態が起こっても何の不思議も無いと考えます。いつそうなってもおかしくないと最前線の医者たちは身を持って感じています。感じるだけでなく出来うる限りのチャンネルで訴えています。

真の問題点は堤防を支える医者が悲鳴をあげている事です。医者であるならこの堤防を支えるのが当然であり、喜びであったはずが、疲労困憊の余り徒労感になり燃え尽き、次々と戦線離脱し、そのうえ新たな補充が乏しくなっている状態になっています。補充者より離脱者が多ければ残されたものへの負担は急増します。負担が増えれば離脱者の増加にさらに拍車がかかる事になります。

完全な負のスパイラルに陥りつつあります。まだ目に見える分だけは堂々としているかもしれませんが、内実はいつ大崩壊が起こっても不思議はありません。大崩壊が起これば我々医療者も困りますが、もっとも困るのは患者です。大崩壊に至らないように残されたものは歯を食いしばって耐えていますが、これがいつまで続くか非常に憂慮される状態である事だけは知ってもらえればと思います。