奈良事件とマスコミ報道

実は10/21のエントリーでやりかけて、前段の前段を書いているうちに本段にたどり着きそうに無いと思い断念した話の蒸し返しです。

ニュースとは何かです。ニュースとはある出来事が起こったとき、当事者およびそれを周囲で見たものが見聞したものです。出来事が興味深いものであるなら、当事者及び周囲で見聞したものは他人に伝えます。さらにそれを聞いたものはまた他人に伝えます。これが噂になって広まるものがニュースの一つの側面です。

情報伝達手段が乏しい時代でも人は一生懸命このニュースを集めました。戦国武将なら相手の国の武将の性質、能力を限られたニュースから必死で分析しました。江戸時代でも商人達はニュースをかき集めて商売の浮沈を賭けました。有名な話では武田信玄が新興の織田信長を分析するために、旅の僧から信長に関する噂話を根掘り葉掘り聞きだし、信長が敦盛の一節を愛唱していると聞けば、嫌がる僧に無理やり謡わせ、さらに踊らしています。鷹狩りが独自の方法であると聞けば、それもまた出来うる限りその方法を聞き、信長の思考法、能力を計ろうとしています。

噂としてのニュースは伝聞の過程が多いほど、変形する可能性が高くなります。伝える人の聞く能力、理解力。さらに次に伝える時の表現力にも大きく左右されます。また伝えられる過程で表現が大げさになったり、話を面白くするために新たな話が創作され付け加えられたりします。その辺の事は当時の人も分かっている人はよく分かっており、同じ出来事の複数に伝えられる噂を比較検証して、その実像を見抜こうと努力しています。出来うるものならば情報のより正しいものを求め、元になる出来事のより源情報に近い物を求め歩くのも、場合によっては手間を惜しんでいません。

こういう情報の入手法、分析法は情報伝達手段が乏しい頃から盛んに行なわれました。もちろん聞いたそのものを鵜呑みする人間も沢山いましたが、少しでも物を考える人間なら、聞いた情報の信憑性、信頼性をよく熟考した上で、その情報の価値を判断していました。情報をもたらしたのがどれほどの信用を置ける人間なのか、またその人間の情報収集力、分析力はどの程度のものなのか。またその情報をもたらした人間が、どの程度の信用の置ける人から情報を得たのか、またその人間の信用性はと考察を重ねるわけです。

人間の情報に対する欲求は古来より生理的にあります。この欲求に対し、近代になり巨大な情報源が誕生する事になります。新聞であり、ラジオであり、テレビです。これらのマスコミは情報収集を本業とし、これを整理整備して広範囲の人々に同時に均質な情報を提供することになります。非常に便利な情報装置で、人々はこれらの情報機関に接するだけで、整理された膨大な情報を手軽に入手できるようになりました。

便利は便利なんですが、マスコミはその巨大な影響力で情報の価値も自らが決定する機関に変質します。つまりこういうメディアに取り上げられるか否か情報の価値の軽重が計られます。また取り上げられるだけではなく、どういう扱いをされるかでも価値は決定されます。そして人々はこれを情報価値の絶対的物指しとします。扱いという点に関してはある意味司法による断罪よりも強大な権力を誇り、その権力は司法決定にも「既に十分な社会的制裁を受け・・・」の文言が含まれる事がしばしばあることでも分かります。

異論はあるにしろそういうマスコミの存在を我々は基本的に許容してきました。ネット時代以前にはマスメディア以外に独自の情報源を確保する事は非常に難しく、報じられる事を信用する以外に他に方法が無く、また検証するにも一個人ではどうしようもなかったからです。

そういう誰からも検証されない情報のマスコミによる独占状態が長く続いてきました。余りに長く続いたため、人々は情報とはマスコミから流されるのもであり、その情報に誤謬は無いと無意識に信じ込むようになってきました。それは情報の内容だけではなく、情報の解釈の仕方までに影響を及ぼしたといえるかもしれません。つまりマスコミがクロといえばクロ、シロと言えばシロとしか考えられなくなり、それ以上は思考停止の状態になっているという事です。

ところがネットという新たな情報源が怪物のように成長しつつあります。ここでの情報はまさしく膨大であり、文字通り玉石混交です。とくにブログが普及してからは、様々な情報が様々な立場から無数に発信される状態となっています。そこでの情報の取捨選択、価値判断の基準はマスコミ登場以前にもどりつつある様な気がします。そこで試されるのは自らの知識、経験からその情報の価値を自分で判断する時代です。

マスコミ情報でさえ、その信憑性を厳しく問われる世界です。ネットを見る人々は今まで無条件に信じ込んでいたマスコミ情報にも誤りがあり、意図的な情報操作が行なわれている事を知りました。そういう事は決して例外的出来事でなく、しばしば見られることを知りました。記事の意図するもののためには不都合な情報を抑え、自らの主張に都合の良いものだけを流す手法が日常的に行なわれている事を知りました。

もちろんマスコミ情報のすべてが情報操作の末というわけではありません。そうでない情報もたくさんあるかと思います。問題なのは操作された情報が確実にあるということです。操作された情報が確実にあるのですから、マスコミ情報に接する時に、常にこれに操作が行なわれているか、行なわれていないかを考える作業が必要である事を知ったのです。また操作されている情報の中から信頼するに値するエッセンスを見つけ出す作業も重要です。

ところでマスコミの情報収集能力は絶大です。これは誰しも認めるところです。一個人では到底太刀打ちできません。ところがマスコミとは言え万能の巨人ではありません。この世の中のすべての分野に情報網を張り巡らしているわけではありません。また蒐集してきた情報を分析する能力もすべての分野に秀でているわけではありません。とくに高度の知識と経験を要する専門分野の分析能力は劣ります。

また集める情報も時と場合によりますが、単なる噂、憶測の類もたくさんあります。その上、取材時間も限られています。マスコミが集めて記事にした噂、憶測の類はマスコミのお墨付を経て信頼性を獲得していますが、マスコミが切り捨てた情報の中に本当の真実が無いと誰が断言できるでしょうか。

少し話が混乱していますが、冒頭の方で書いたニュースの成立過程を思い出してください。ニュースを伝えるものは出来事の当事者およびそれを現場で見聞したものの話が一番信用が置けます。ここからの情報のみでニュースを構成したものが一番精度が高いというわけです。しかしマスコミといえども、いつもいつもそこから情報が得られるわけではありません。また当事者も複数の事もあり、周囲で見聞したものも複数の事があります。当事者といえども話せるのは自分が直接見聞きした範囲に留まり、必ずしも出来事の一部始終をすべて知っているわけではありません。当事者よりもかえって周囲で見ていた物の方が出来事の全貌を把握しやすいなんて事もあります。

今回の奈良事件をスクープし、現在でも突出した報道を行なっているのは毎日新聞です。10/21のエントリー時点で私はマスコミの取材源は遺族しかないのではないかと推測しました。この事実を裏付ける記事が10/22付の毎日新聞に掲載されています。長いですが、全文引用します。

支局長からの手紙:遺族と医師の間で /奈良

 今年8月、大淀町大淀病院に入院した五條市の高崎実香さん(32)が容体急変後、搬送先探しに手間取り大阪府内の転送先で男児を出産後、脳内出血のため亡くなりました。

 結果的には本紙のスクープになったのですが、第一報の原稿を本社に放した後、背筋を伸ばされるような思いに駆られました。

「もし遺族に会えてなかったら……」

 というのは、今回の一件はほとんど手掛かりがないところから取材を始め、かなり時間を費やして事のあらましをどうにかつかみました。当然ながら関係した病院のガードは固く、医師の口は重い。何度足を運んでもミスや責任を認めるコメントは取れませんでした。なにより肝心の遺族の氏名や所在が分からない。

「これ以上は無理」

「必要最低限の要素で、書こうか」

 本社デスクと一時はそう考えました。

 そこへ基礎取材を続けていた記者から「遺族が判明しました」の連絡。記者が取材の趣旨を説明に向かうと、それまでいくら調べても出てこなかった実香さんの症状、それに対する病院の対応が明らかになりました。それがないと関係者にいくつもの矛盾点を突く再取材へと展開しませんでした。

 さらに、患者、遺族は「名前と写真が出ても構わない」とおっしゃいました。「新聞、テレビ取材が殺到しますよ」と、私たちが気遣うのも承知の上の勇気ある決断でした。

 情報公開条例や個人情報保護法を理由に県警、地検、県、市町村などの匿名広報が加速するなか、記事とともに母子の写真、遺族名が全国に伝わり、多くの反響が寄せられています。それは実名と写真という遺族の「怒りの力」によるものに他なりません。

 支局の記者たちも、ジグソーパズルのピースを一つずつ集めるような作業のなかで、ぼやっとしていたニュースの輪郭がくっきりと見えた感覚があったに違いありません。手掛かりある限り、あきらめないで当事者に迫って直接取材するという基本がいかに大切で、記事の信頼性を支えるか。取材報告を読みながら、身にしみました。

 改めて、お亡くなりになった高崎実香さんのご冥福をお祈りします。【奈良支局長・井上朗】

 hogaraka@dream.com

毎日新聞 2006年10月22日

この記事から毎日新聞の記事の意図が良く分かります。

  1. ニュースの情報源は当事者の遺族のものだけである。
  2. 病院側は医療情報、個人情報のため当然の事ながら情報提供を行なっていない。
  3. 取材の方向性は遺族への同情である。
10/21エントリーにも書きましたが、病院内で患者の容態が急変し修羅場となったとき、患者家族といえども必ずしも病院側の動きの全貌を知る事は不可能です。全貌を知るには病院側の情報が不可欠のはずです。病院側も隠蔽したくて情報を提供しなかったのではなく、情報を提供することが許されていないから提供しなかったのです。

取材の原動力が遺族への同情であることには異議を唱える気はありません。そういう精神はジャーナリズムに携わるものにとって必要なものと考えます。遺族にはかけがえの無い肉親を失ったやり場の無い怒りがあることも十分理解します。自分がそういう立場であれば同じように感じるだろうからです。ただしそういう怒りの感情で物事を見れば、同じ物を見ても解釈が変わります。遺族がそう見るのは全く問題はありません。遺族が直接感じた事を訴えるのは誰にも止める権利はないと考えます。

しかしジャーナリストを自認している者なら、そういう遺族感情を受け止めながら、一方で事実の検証を冷静にする必要があると考えます。決して遺族の感情のみに従って物事を見てはいけないと言う事です。遺族への同情と、事実を冷静に組み立てなおして、これを記事にする作業は完全に分けてやるのが王道かと考えます。

毎日新聞の報道内容は言い方が悪いですが、この事件の一方の当事者の主張を丸呑みして作られている事は明白です。遺族の主張は事実ですが、あくまでも当事者の一方の目から見た見解で今回の事件を組み立てています。遺族から提供された情報の貴重さは言うまでもありませんし、人間としてこれに深い同情心を抱く事も構いませんが、それだけですべてを決定するのは問題だと考えます。

決定というのは病院側に責任ありとする報道姿勢です。責任ありとして報道するのならもう一方の当事者である病院側の情報を検証しなければなりません。そのための努力をどれほど行なったかです。たしかに病院側には医療情報、個人情報を保護しなければならない立場にありますが、遺族であるならカルテの開示を請求する事は不可能ではありません。カルテの開示を請求するように遺族に話をしたのか、それとも開示を請求したが病院に断られたのかは不明です。

もし遺族の怒りが記事の額面通りであるなら、カルテ開示請求の協力を得ることは不可能ではないと考えます。カルテが入手できれば、それを専門家に依頼して、家族が見た事実と病院側の行動がある程度検証できるはずです。そこで納得できない点があれば、遺族ならその点の説明を病院及び担当医師に要求する事は不可能ではないと考えます。

その程度の最低限のアプローチを行なったかどうかが大いに疑問です。今回引用した記事とその後の報道内容を見る限り、その程度の行動を起した形跡が見られません。もしカルテ開示の拒否を行なわれていたのなら、報道姿勢から大々的に罪状として書かれていると考えるのが自然だからです。

ネット情報は急速に力をつけていますが、マスコミ報道に較べると現時点では情報発信能力ははるかに劣ります。それにマスコミ報道をそのまま真実だと疑いもしない人はネット上でもたくさんおられます。それだけの影響力がマスコミにはあるのです。マスコミが一旦クロと発信すれば、クロとされた人間には社会的制裁という名の多大な被害が及びます。その影響力を考えれば十分な検証無しで安易に報道できないはずです。

現在医療側の事情がネット経由でポロポロと漏れ出しています。これについての信憑性の議論はあります。現時点ではどれほどの信用性を置くかは個人の判断で変わるでしょう。ただ毎日新聞が断定的にクロであると報じるのなら、これらの情報は一部に囁かれる医者の庇いあい情報に過ぎないことになります。もちろんそうである可能性も否定できません。否定できませんが、あれほどクロと断定して報道するのであれば、その程度の情報を軽く一蹴する確固たる情報を提供すべしと思います。

できないのであれば、病院側のあの日の動きについては何も知らなかった事になります。遺族の話のみに沿ってストーリーを創作したとの批判は当然受けなければなりません。遺族がその目で見、感じた事に嘘は無いと私は考えています。ただしそれは物事を半分しか見ていないことになります。ごく簡単な例をあげれば、医者にとって「経過を観察する」が、遺族にとっては「放置された」と感じるという事です。そのどちらかであるかを十分に検証しないと一方的な非難は出来ないのではないかという事です。

毎日新聞の報道によって担当の産科医は批判の矢面に立たされています。一人の人間の社会的信用を破壊したのです。それほどの影響力のある記事を毎日新聞は確信を持って発信したのです。これが真相が明らかになり、産科医に責任無しであるとなったら、どういう責任を取ってくれるというのでしょうか。それほどの行為を毎日新聞は行なった言う事を自覚して欲しいと思います。

誤解して欲しくないのですが、記事にする事自体の是非は私は問題にしていません。遺族の話を聞いて、あの夜の病院側の対応に疑問点があるという内容なら私は批判しません。私が問題にしたいのは、不十分な検証で問答無用の社会的制裁を行なうとしている報道姿勢です。

私も含めて多くの医療関係者が真相ではないかと考えているあの夜の病院側の行動について、病院側をクロと断定した毎日新聞の根拠のある明快な報道を希望します。それがなされず、ましてや知らぬ顔でこの事件を「済んだ事」とする態度を取るのなら、今後毎日新聞が発信するすべての記事に対する信用性が低下する事になります。これは毎日だけの問題ではなく、他のマスコミもしょせん同じ穴のムジナであると同一視されます。

あくまでも個人的な印象ですが、今回の事件は医療問題という点からメガトン級の破壊力があります。一方でこれはまだ小さな問題かもしれませんが、マスコミ報道の信用性について大きな疑問を投げかけたのではないかとも考えています。もう少し時間が経てばこの事件がマスコミ報道の信用性への曲がり角になった事件になるような気がします。