焼野原

ちょくちょくコメント寄せさせて頂くブログで、「医療問題の解決法は?」の問いかけがありました。うちのブログも読まれているようで、現状分析より解決法を教えてくれないかという趣旨です。解決法の糸口については分散してはいますが、書いてきたつもりですが、それでも分かりにくかったようで、コメント先にも書き込んでおきましたが、ここでも書いておこうと思います。続けて読まれる方には重複する事柄も多いですが、少し我慢してください。

医療危機に関連して取り上げられる課題は幾つかあります。思いつくままにピックアップしますと、

  • 医療事故問題。これに関連して第3者審査機関設置、無過失保障制度、刑事免責が挙げられます。
  • 産科医、小児科医不足問題。この二つだけではなく、メジャー科と呼ばれる外科、内科も不足傾向を示し、最近では脳外科の不足の問題も報道されています。
  • 地方医療での医師不足。原因として医師の偏在化が語られ、また新研修医制度の功罪についても話題にされます。この問題に関しては医局制度解体との関連性も話題になります。
  • 医師激務問題。上に挙げた問題とも重複する問題ですが、医師と言う職種として相応しからぬ勤務条件が日常化しており、訴訟問題とも連動して、特定診療科の専攻敬遠、僻地地方勤務の敬遠の遠因の一つと指摘されています。これには救急医療の問題も上記諸問題とともに問題化しています。
他にもあるような気がしますが、とりあえずこれぐらいは確実にあります。問題であれば解決解消する方法を考えなければならないのですが、このブログでもバラバラですが、それぞれにつき現状分析と、考えられる対策を書いてきたつもりです。

しかしこれらの諸問題は重層化し、複層化しており、なおかつたった一つの問題でもこれを特効薬的に解消する妙案は無いのです。ここで言う妙案とは発想の転換とか、現場での創意工夫程度の事で解消する案を指すと考えてください。ただ一つの問題であっても具体的に解消するためには莫大な予算を必要とし、医療費は削減するものと宣言している政府方針とは相容れず、どう手繰っていっても最後は「お金」の問題で立ち往生します。

医療は国策的要素が非常に濃いものであり、医師と言えども現場で出来る裁量の余地は限定的なものです。良くも悪くも保険医療の縛りが厳格に定められ、革新的な発想で劇的なコストダウンが図れるとか、業務効率が飛躍的に上げるのを期待しにくい職種です。医療現場にも機械装置は数多く導入されていますが、それで自動化して人手を省ける部分は非常に少なく、最終的にはほとんどすべてを人の手で運営されざるを得ないのです。

頂いたコメントにもありましたが、病院経営といえども赤字は許されない。赤字は許されないから頑張って患者を集め治療に励む。頑張れば頑張るほど医療費は増大するため、今度は医療の定価と言うべき診療報酬が削減される。削減されて収入が減った分だけまた経営のために集患を進める。コメントでは構造的欠陥とまで指摘されました。

全国の自治体病院の多くが赤字経営です。赤字の原因はそれぞれの事情はありますが、赤字のところに値下げを強制されたら悲鳴が上がります。医者が優れた診療技術と、類稀な経営センスの二つを併せ持つ事は非常に難しく、また個人病院ならともかく、自治体病院であれば経営の実権は自治体が握り、院長と言っても単に医者集団のリーダー程度しか権限の無い事は珍しくありません。権限も無く、経営センスも乏しい人材では、厳格な制限のある医療経営でさほどの期待はできないと考えます。

どうしても各論の小道に入り込んでしまうのですが、個々の問題に対する各論対処で対応できる問題ではなく、医療の枠組みがおかしくなっていると言う事です。総論とも言うべき医療の枠組みが変調をきたしているために、各論とも言うべき諸問題が発生していると考えます。そうなれば各論対処で医療危機を考えても、出口の見つからない迷宮に入り込むような状態に落ち込むだけだと言えます。

日本の医療は国民の実感とは相違するかもしれませんが、国際比較でもローコストでハイパフォーマンスの医療の提供に成功しています。ただし患者側、医療側のどこにも無理や矛盾が無いわけではありません。需給者である患者側はある水準まで医療が整備されるともっと高い水準のものを望みます。この辺は医療がサービス産業の側面を持っているのである程度はしかたが無いと思います。その一方で、供給側の医療側はただでもローコストであるのに、さらにローコストになる事を要求され、そのうえ患者側の要求の高まりにも応えよと要求されます。

より高いパフォーマンスをよりローコストで実現せよは、経営改善の余地が比較的乏しい医療ではとても応じきれるものではありません。現実は厳しく、しわ寄せは医師個人の双肩にどっしり圧し掛かる事になっています。

ここで根本的な解決法は、医療をどうするかの枠組みの問題に帰結します。患者側の要求、財政的な問題の矛盾を、すべて医療サイドに押し付けてもなんの問題解決にもなりません。それに応える余力は医療には失われているからです。だから現状の国家財政と医療体制から提供できる医療の限界をまず明確にする事が大切です。患者側に限界を提示した上で、その条件を受け入れるかどうかの社会的合意が必要です。

その水準では患者側が満足できないのであれば、どの程度が望ましいのかの検討が必要です。もちろんより高い水準を望むなら、それ相応の負担の増加が必要です。医療の質と量は費用に相関する部分が大きく、高い水準の実現には当然高い負担が必要です。ここの所の方針、方向性をはっきり決めないと、医療問題はスケープゴートさがしに終始するのみであり、これまでスケープゴートにされ続け、矛盾による破綻を表面化させなかった医師の士気も遠からず総崩れになります。

医療の枠組みを決めなおすところはどこかと言えば、それは政治です。患者側と医療側の二元論で語りましたが、この二つの集団は間違っても一枚岩ではなく、統制なく多種多様の意見が渦巻くところです。そういう多様な意見を取りまとめて一つの結論に導かせるところは、政治の場しか考えられません。

政治の場で国民的関心をもって検討討議されなければならないと考えます。一部の有識者と称する人間が、誰も知らない密室で、誰の関心も引かずに結論を出しても何もなりません。直面する社会問題として、高度な政治問題とならねば問題は解決しません。

となれば医療危機の対処のためには、医療危機を国民的関心事にする方策が必要です。医療危機は私たち医師には地崩れの予兆の地鳴りのように聞こえています。総崩れする前に手を打ちたいのはヤマヤマです。総崩れまで起こると修復には膨大な手間が必要です。それでも現在程度の医療危機、医療崩壊ではほとんど関心を引けません。

ではどこまで進めば関心を向けてくれるか。現実に通う病院が消滅する事です。そこまで身近に不便にならないとどうも関心を向けてくれないと考えます。またそういう不便に痛みを感じる人間が少数では社会問題にはなりません。その程度では、単なるローカルニュースにしか扱われませんし、その地域の特殊事情以上には考えてくれません。

怖ろしい事ですが、医療崩壊の地域が広い範囲に拡大し、相当数多数の人々が切実な問題として感じるまでは無理なような気がします。つまり医療崩壊による焼野原が広い範囲に拡大しないと難しいと言う事です。図式的には

です。

これまで医療危機に対して、当然の事ながら危機の段階でくい止める、崩壊への過程を阻止したいと考えていました。考え自体は今でも同じです。しかし危機から崩壊への道筋は、現在の医療政策では必然と絶望せざるを得ません。個々の努力の手に負える代物とは思えません。危機への根源となっている医療政策の変更をし、なおかつ患者にも医療者にもある程度納得できるものにするには、医療問題を洗いざらい検討しなおし、組み直す必要がどうしてもあります。

そうなれば焼野原戦法にならざるを得ません。それにこれは積極的に加担する必要は無いのです。自然経過で焼野原が出てきます。願わくば焼野原の範囲が限定的なうちに再建の道筋が出来て欲しいものです。間違っても日本中が完全に焼野原になった上で、原爆まで投下される様な状態にはなって欲しくないと思っています。