救急医療の断末魔

救急医療の重要な一翼を担う救急隊の方々の献身には感謝しています。私も商売柄何度もお世話になり、患者の救命のために一緒に力を尽くしましたし、その真摯な姿勢は自然に敬意を抱いています。昨今「たらい回し」問題がしばしば取り上げられますが、救急搬送における医療機関の受入状況等実態調査の結果についてを見ても、

分類 3回まで 4回以上
重症救急 96.1% 3.9%
産科救急 95.2% 4.8%
小児救急 97.3% 2.7%
救命救急 94.3% 5.7%


医療側の受け入れ態勢が弱体化していく中で優秀な成績を残していると考えています。

しかし医療側の受け入れ態勢の弱体化の進行は拍車をかけて進んでいます。どこかの弁護士がいくら「過剰反応」と力説しようが加古川心筋梗塞訴訟を始めとする各種の医療訴訟の影響は医師の心理に深刻なダメージを確実に与えています。もちろん訴訟の影響だけではなく、余りに過酷な救急医療の現場に燃え尽きてしまう医師も少なくありません。かつては救急医療(とくに一次・二次クラス)に従事することで豊富な臨床経験を積めると言われた時代さえありましたが、今は昔の話です。

医療側の受け入れ態勢が弱体化しても救急患者は発生し、救急隊は搬送に従事します。これが救急隊に与えられた使命であるからです。医療側の受け入れ態勢の弱体化は救急隊の搬送作業を難しくしているのは間違いありません。そういう困難な状況下で医療側、救急隊の間でもっとも必要とされる事は連携を緊密にし乏しくなっている医療資源の有効活用を図る事と、両者の間の強い信頼関係を築く事かと考えられます。

ところが救急医療事情の逼迫化は、こういう当たり前の事さえ気にかけなくなってきているようです。ある話を許可を得て転載しますが、転載元の特定を避けるために一部モデファイしてのものにします。これは細かな事実関係を検証するというより、一つのモデルケースとして読んでもらえれば十分だからです。ただ創作では真実味に乏しくなるのであくまでも実話に基づいたものにしています。

近所のグループホームから、入居者が痰を詰まらせ、心肺停止状態で来院。外来診察でしたがこれを中断し、蘇生措置を施した上で病棟で呼吸管理などのさらなる救命処置を行なっていました。そこに救急隊から電話があり39度の熱と食欲不振で見てほしいとの新たな要請が舞い込んできます。正直なところ今の患者で手一杯なので(本院は救急病院ではない)、よそへ行ってもらうように看護師に連絡します。

ところが救急隊は「かかりつけの患者なのに、なぜみてくれないのかと」と更なる超強力な要請(原文では「逆ギレ」)を行ないます。しかしどう思い出してもその患者の名前に記憶がまったくなかったのですが、「かかりつけ」とまで言われたら仕方がないので、「今の心肺停止の患者の処置が落ち着くまで待ってもいいか?」と断って、救急車の受け入れを決定します。

その間、患者を調べたが、受診歴はやはりない!救急車が到着して患者の顔を見たが、やっぱりみたことない!つれてきた救急隊員に確認したら、かかりつけ医は別の医院だそうです。よその救急病院に入院を断られたので、「かかりつけ患者」と嘘をついていたのです。それも超強力な要請つきで。

勤務医の皆様なら誰でも思い当たるような話かと思います。こんな話は珍しいとか例外的な話ではありません。確かに昔からありましたが、ここ数年で急増している印象があります。これに類似の経験談は私でもありますし、もっと凄いのをお持ちの方々もゴロゴロおられるかと思います。

こういう現象が急増している背景は医療側の受け入れ態勢の弱体化、救急需要の増加という単純な算数的な問題があります。単純な算数問題なら医療側の受け入れ態勢を充実するなり、不要な救急需要の抑制を考えれば良さそうなものですが、どちらも社会的、構造的な問題となっており一朝一夕には手のつけようも無い状態です。つまりこれからも受け入れ態勢はさらに弱体化するでしょうし、救急需要はさらに増大していくと言う事です。

ちなみに過去から現在まで救急受け入れ態勢が万全であった時代などありません。それでも医療側、救急隊側がなんとかやりくりして体制を維持してきました。常に綱渡り状態ながら両者の協力でなんとかここまでやって来たと考えています。ところが「需要 > 供給」の増大は「やりくり」の限界点を越え始めたと考えています。

そういう時代だからこそなお一層「緊密な連携」と「信頼関係の構築」が求められると考えるのですが、事態はそういう方向に必ずしも動いていません。原因として誰でも思い浮かぶのは「たらい回し」批判の重圧です。批判の重圧は救急医療を改善させる作用がほとんど無かったとしてよいかと思います。批判の重圧は医師不足、訴訟の重圧で萎縮しつつあった医師の心をさらに萎えさせる事になり、救急現場からの医師の逃散を徒らに加速します。

今日はあまり詳しく書きませんが救急医療への従事は多くの医師にとってボランティアに限りなく近いものであり、ボランティアをボロクソに批判されたら出てくる答えは「やりません」になります。救急医療は肉体的にも経済的にも恵まれるところが乏しい仕事ですから、ボロクソに批判されながらも執着する必要性は無いという事です。

批判の重圧は救急隊にもかかっているようです。現在のところ「たらい回し」批判が救急隊に向うことはまだ少ないですが、どうにも風向きは微妙です。どこかで風向きが変れば批判の重圧が救急隊にいつ降り注いでもおかしくない情勢とも見れます。そんな救急隊が取る態度が「たらい回し」をそもそも発生させないです。「たらい回し」を発生させないという姿勢は何も悪くないのですが、発生させないために「緊密な連携」とか「強い信頼」みたいな迂遠で即効性の乏しい方法を選ぶ余裕が無くなってきているかと見ています。そういう状況下で発生しているのが、

    放りこみ搬送、押しつけ搬送
とにもかくにも搬送要請のあった患者を「たらい回し」を発生させずにどこかの医療機関に「放りこむ」なり「押しつけ」てその場限りの手段です。どんな手段を用いてでも医療機関に搬送してしまえば救急隊の業務は終了します。一つの例が今日に紹介したお話です。確かにその場では救急隊に課せられたもっとも重要な使命である患者の搬送の業務は果たしていますし、「たらい回し」批判の発生を封じ込めます。ではそれで万々歳で問題無しかといえば大いに疑問です。

受け入れた医療機関には拭い難い救急隊への不信感のみが残ります。救急隊は嘘八百を並べてでも医療機関に救急患者を「放りこむ」なり「押しつけ」て来るという不信感です。この不信感が広がれば「救急お断り」の姿勢が急速に広がります。たとえ救急病院であってもいつでもどんな患者でも救急応需できるわけではなく、救急隊の情報を頼りに自分の病院の戦力で応需できるかどうかのギリギリの判断を行なっています。

救急隊情報は医師からのものではないので、時に判断ミスはありえます。救急隊の判断ミスは医師は許容します。許容できるのは救急隊への信頼からです。ところが救急隊に不信感が広がれば救急隊情報などアテにならなくなります。アテにならない情報を参考に誰も判断など行なわなくなるということです。判断を行なわないとは救急隊情報での搬送応需の判断を行なわないだけではなく、救急応需自体を行なわないの判断につながっていきます。

おそらくですが、嘘八百医療機関に応需させた救急隊は「無事搬送終了」と報告しその場の仕事は救急隊的には丸く収めたつもりかもしれません。さらに言えば自分ぐらいがやったところで大勢に影響しないと考えているかもしれません。さらにさらに言えば昔からある程度はあったと考えているかも知れません。しかし公式に報告されない嘘八百の搬送応需要請の情報は、今の時代では非公式に集まり伝播します。

非公式の情報であるが故にこれを読むものは「一事が万事」の感触を実態以上に強く抱きます。一部の不心得者の嘘八百が、他の真摯な救急隊の報告まで不信の目で見る結果を速やかに招来します。そして救急医療の弱体化を水面下で加速させます。


あるシステムが弱体化したとき、これを危機と捉えて関係者一同が一致団結して解決に当たろうとする時は心配ありません。危機を乗り越えて危機前よりより強固なシステムを築く事も珍しい事ではありません。ところが危機に対して全体を考えず個々の目に見えるテリトリーだけを守る事のみに汲々とするようになれば、これはシステムの寿命が来ている証拠です。ましてやテリトリーを守る行動が内部抗争を引き起こし、内部抗争に勝つ事に血道を上げ、勝っても不毛の荒野が広がる状態になれば末期状態です。

今日は救急隊を非難する内容に受け取られる方も多いと思いますが、医師だって無問題の正義の使徒ではありません。救急医療に向ける目は既に冷え冷えしたものになっています。つまり医師が悪い、救急隊が悪いの犯人探しをする事が問題の本質ではなく、寿命が来たシステムの断末魔で喘いでいる状態と見ます。救急隊側と医療側でこういう問題が発生するのは、システム全体の劣化の現れの結果に過ぎず、ここを小手先で修正するような対策ではなんら有効な結果を生み出さない状態であるという事です。

ここまで追い込まれる前に打つ手はあったと思っていますし、傾聴に値する意見も間違い無くありました。でも最早老人の繰り言に等しいかと考えています。既に救急隊と医療機関の連携と信頼と言う基礎中の基礎の関係にさえ、ヒビがビリビリと入っている断末魔の時代を迎えていると感じています。