ツーリング日和14(第31話)味噌鍋

 泊った宿はなんと温泉だ。

「京都市内では珍しいよ」
「ラドン温泉やったらあるやろうけどな」

 ラドン温泉もたまに見かけるけど、あれって普通の温泉とどこが違うんだ、

「あれはお湯の中にラドンガスを送り込んだものよ。だから人工の温泉で、天然のものはラジウム温泉って言うのよ」

 さすがは温泉小娘で即答だ。へぇ、温泉だけど民宿なんだ。妙に立派と言うか、風格を感じるけど部屋は民宿だな。いっつも思うけどホントにあのエレギオンHDの社長と副社長かと思う選択センスだよ。

「風呂だ、風呂だ、温泉だ」

 浴場は銭湯風かな。洗い場がずらっとあって奥に浴槽だけど。

「ここから出られるね」

 なるほど庭に出られて露天風呂か。

「これやな」
「おもしろ~い」

 少し上がったところにあるのは、これって五右衛門風呂とか。さすがに四人で入るには狭いから順番に。これは気持ちイイな。ツーリングの後の風呂は最高だし、それが温泉なら文句なしだ。亜美さんと二人だから、今日の話はわかったかと聞いてみたんだけど、

「なにか歴史を見る目が変った気がします」

 だろうね。金ヶ崎の退き口はそれなりに有名な出来事だけど、歴史の授業的には敦賀に攻め込んだものの、浅井氏が裏切って京都に退却したぐらいを知っていれば必要にして十分だものね。

 それが若狭の国内事情と朝倉氏の介入、そこに信長の上洛戦に、さらに義昭の陰謀なんて話も絡んで来るドラマとして聞けちゃうもの。信長の撤退作戦も大胆かつ緻密な物だって思っちゃうぐらい。

 そういうのはコウもコトリさんに叩きこまれたみたいだし、一緒に楽しみたいからユリなりに勉強してるけど、コトリさんから聞くとまた一味も、二味も違うって感じかな。でもさぁ、高校生に聞かせるにはどうかと感じたんだけど、

「教えてもらったことを全部活かせるとは思えませんけど、ユラの尻啖え孫市は叩き潰してやります」

 ならいっか。部屋に戻ったら、

「メシ行こか」

 食事は大広間みたいなところだな。

「ここは京地鶏の味噌鍋が名物やねんて。」
「味噌は自家製らしいよ」

 味噌へのこだわりがあるみたいで、広間の一角に何種類かの味噌が自由に取れるようになってる。

「こっちはおばんざいだね」
「美味そうやんか」

 鍋は自分で作るみたいだけど、どうやるのかな。

「まずこうやってあるだけの具材を鍋に放り込むやろ」

 ふむふむ、

「目いっぱい入れたら蓋を閉じてや」

 なるほど、

「大五郎、十分間待つのだぞ」
「ちゃん」

 なにかのギャグみたいだけど、古すぎるのが出てくるのが欠点だよな。それとだけど作り方が大雑把すぎると言うより雑な気が、

「味噌鍋はな、じっくり煮込んだ方が美味しいんや」
「しゃぶしゃぶじゃないからね」

 ところで味噌を適当に取って来たけど、これってどうやって食べるのだろう。味噌鍋にでも足すのかな。

「そうやってもエエんやろうけど」
「ご飯につけて食べるのよ」

 へぇ、京都ではそうやって食べるのか。

「ちゃうちゃう。本来はそうやって食べるんや」
「焼いたらもっと美味しいかな」

 信長軍の兵糧輸送の話もあったけど、少し疑問に思っていたのは、米は良いとしておかずはどうするのだろうもあったのよね。

「おかずは現地調達が基本やったぐらいで思たらエエ」
「基本を言うのだったら、味噌をおかずにご飯を食べてたの。だから味噌と塩は兵糧として運んでたの」

 そうだったのか。味噌をおかずにするバリエーションの一つに、

「そう考えてもエエかもしれんわ。具材が手に入ったら味噌鍋や」

 時代劇でもそんなシーンがあったような。おばんさいも美味しいけど、普通のおかずとは違うんだろうな。

「いや普通のおかずや」
「死語になっていたのが復活したぐらいよ」

 昭和の頃に京都の家庭料理を紹介する連載新聞コラムがあって、そこから広まったみたい。

「あえていうたら東京で惣菜と言うのに近いとこもあるらしいけど」
「要は家庭料理ってこと。そうだね、観光客用に出すのだったら京野菜とか使ってるんじゃない」

 たちまちビールを飲みほして、

「京都やったら玉乃光やな」
「これも昔は良く飲んでたね」

 でたあ、一升瓶だ。

ツーリング日和14(第30話)寂光院

 朽木からはようやく普通の走るツーリングだ。名所旧跡巡りや歴史ムックも楽しいけど、ツーリングはやっぱり走ってこそだよ。そりゃ、寄り道もするし楽しいけど、今回みたいなのはやりすぎだ。

 それでも若狭街道って歩いても歩きやすいのじゃないかな。寒風峠は厳しそうだけど、水坂峠はそれほどじゃなさそうだし、保坂まで出たら昔でも平坦な道だった気がするもの。だから鯖街道として栄えたのだろうけど

「ツーリングコースとしても人気があるそうや」

 そう言えばすれ違うバイクは多いし、道の駅朽木本陣にもバイクがいっぱい停まってたものね。だけどあんまり聞いたこと無いな。

「信号も少ないし、京都からやったら熊川宿って目的地もあるし」
「中間過ぎぐらいに朽木の道の駅はトイレ休憩に便利そうやし」
「蕎麦とか、鯖寿司も楽しみになんだけど」

 お昼の鹿カレーでも奥歯に挟まっているのかな。

「ユリもわかるやろ」
「ずっと山の中じゃない」

 良く言えば林間コースだし、安曇川に沿って走ってるからリバーサイドコースでもあるけど、

「すかっと見晴らしが良い絶景スポットがないのよ」
「こんだけ琵琶湖に近いんやから一望できるとことがあっても罰当たらんやろ」

 それは言えてる。ツーリングの楽しみは人によって変わるだろうけど、走りながら見れる風景を楽しみたいのはある。いわゆる絶景ってやつ。ツーリンゴコースとして有名なところは、どこも、これでもかの絶景が続くコースとして良いもんね。

 そんなコースがそんじょそこらに転がってないけど、せめて絶景スポットは欲しいかな。展望台とかにバイクを停めて休憩しながら風景を楽しむって感じ。ゴールが熊川宿なのは魅力的だけど、バイク乗りは景色の方が好きなところがあると思う。

「京都とか大津ぐらいの人やったら熊川宿までの日帰りツーリングにするのが多いらしいで」
「だけどね、たとえば神戸から遠征してきてまで走りたいかと言われたら考えちゃう」

 それはあんたらが下道専科やからだと言いたいけど、ユリだって琵琶湖まで来たら琵琶湖が見えるコースを走りたいものな。あれって不思議な感覚で海とか湖を見えるとそれだけでテンション上がる気がするのよね。

「海こそ生命の揺り篭」
「海こそ生命の母」

 だからDNAが叫んでるは無理があるよ。それを言いだせば、生命の起源は隕石の中のアミノ酸って説もあるじゃない。

「宇宙、それは人類に残された最後の開拓地である」
「そこには人類の想像を絶する新しい文明、新しい生命が待ち受けているにちがいない」

 なんだそれ、

「これは人類初の試みとして、五年間の調査旅行に飛び立ったU.S.S.エンタープライズ号の驚異にみちた物語である」

 ギャフン。こいつらならテレビ版の初映から余裕で見てるはず。あれまた山道になってきたけど、

「ちょっとストップ」

 なんだ、なんだ、なんにもないところだけど、

「あそこにチェーンで封鎖してある道あるやろ。あれが花折峠に行く旧道や。今でもバイクで走れるみたいやけど、マナー違反はようあらへんから、このまま花折トンネルで行くわ」

 花折峠は標高五百九十一メートルもあって若狭街道の最大の難所だったそうで、現在の花折トンネルでも標高五百メートルもあるそう。今だって結構な登りでタンデムのユリにはちょっとキツイかな。あいつらの怪物バイクのことはどうでも良い。

 ここだけど、朽木の標高が百七十メートルぐらいで、そこから川沿いに登ってるから、花折峠の麓ぐらいで標高差が四百六十メートルぐらいになってるそう。勾配はキツイけど、標高差としてそれぐらいみたいなんだ。花折トンネルを抜けるとまた下って、

「最後の難所かな」
「ここはホンマモンの鯖街道を走るで」

 それは勝手にしたら良いけど、途中ってこれが地名か。

「由緒ある地名やで」
「平安時代からのものよ」

 どうしてそんなことまで知ってるんだよ。物知りにも程があるぞ。国道はトンネルを潜るみたいだけど、

「こっちがホンマの途中越や」

 あんまり長くなくて国道に合流してくれて助かったけど、ここからは下りだ。かつての鯖の行商人も、

「信長かってホッとしたと思うで」

 なるほど途中越えを下ったところにあるのが大原なのか。大原と言えば三千院、

「そうや恋に疲れた女が一人でたたずむとこや」
「そうね。わたしのような」
「五千年早いわ」
「他人のこと言えないでしょうが」

 このまま下って行ったら三千院だ。

「古知平って書いてある方に入るで」
「なるほど、そっち方が古道かもね」

 ぐぇ、またセンターラインの無い道だ。それも進めば進むほど狭くなるじゃないの。

「バイクなら楽しめる道や」

 バイクだって狭いのが得意じゃないぞ。川沿いの道だけど、

「ちょっと待った、あれやったみたいや。ターンするで」

 ターンってこっちは二五〇ccだしタンデムなのよ。

「あら簡単よ」

 一人乗りの小型バイクに言われたないわ。もう怖々なんてものじゃないターンをなんとかして、

「まさか石柱の道標だけとはね」
「それも黒なって読みにくいやん」

 道は相変わらずだけが、なんとなく街道の雰囲気があるところを抜けて、

「あそこ入るみたいや」
「あんなものこっちから来たら見落とすじゃない」

 そこからはもう路地サイズの道になり、

「ここや、ここや」

 これは旅館? コトリさんは中に入って、

「この辺に適当に置いといたらエエみたいや」

 バイクで最後まで行かないんだ。

「行けんこともあらへんけど、ここも京都や」
「駐禁が気になるのよね」

 そこから歩き。風情のある店が建ち並ぶ、いかにも京都って感じだよな。やがて寺の門みたいなところ着き、ここって寂光院なのか。名前だけは聞いたことがあるけど、

「建礼門院の寺や」

 それは誰だ、

「清盛の娘、高倉天皇の后、安徳天皇の母や。壇ノ浦で助けられてもうて、ここで余生を過ごしたとこや」

 どうして即答で出る。

「平家物語の最後の大原御幸の舞台だよ」

 由緒ある寺のはずだけど、建物がなんとなく、

「二十世紀最後の年に放火で焼けてもてんや」
「どうして、そんなことするのかなぁ」

 それはユリも思う。

「宿帰ろか」
「お風呂、お風呂、お風呂」

 酒とメシだろうが。

ツーリング日和14(第29話)鹿蕎麦

「腹減った」
「そやな」

 コトリさんが向かったのが道の駅の前の蕎麦屋さん。なんとも言えない外観で、中も庶民的と言うか、なんと言うか、

「ライダーが入るにはピッタリやろ」
「気楽が一番」

 さて何を頼むかだけど、店の前にはデカデカと十割蕎麦と出てるから、

「悩むとこやな」
「二八の方が無難だよ」

 十割蕎麦と二八そばなら十割蕎麦しかないじゃないの。

「そう簡単な話やない」
「十割蕎麦はとにかく難しいのよ」

 うどんとかパスタの滑らかさとかコシを作っているのはグルテンだって。

「ぶっちゃけ小麦粉や。そやから蕎麦のコシも小麦粉で作るんや」
「でもね、蕎麦粉にはグルテンが含まれていないの」

 それなら、

「ヘタクソが作った十割蕎麦はポロポロ崩れるし」
「ボソボソなのよね」

 そもそも麺を繋ぎ合わせてるのがグルテンなんだって。でも表にあれだけアピールしているから、

「十割蕎麦でも美味いのはある」
「滅多にないけどね」

 珍しく悩んでるな。

「これもチャレンジや。鹿蕎麦、十割で大盛。焼鯖寿司も一本つけてくれるか」
「わたしも鹿蕎麦。十割で大盛。鯖寿司も一本下さい」

 あの大食いには付き合えないからユリも亜美さんもざるの十割蕎麦セットにした。

「鹿カレーも食べる」
「鹿尽くしもおもろいな」

 鹿蕎麦って鴨南蛮みたいなもんだろうと思っていたのだけど、なんと焼いた鹿肉が麺つゆに入っているざる蕎麦みたいなもの。

「こういうジビエは」
「ありそうでないのよね」

 肝心の蕎麦は、美味しいと思う。

「当たりやな」
「今日は良いことあるんじゃない」

 蕎麦セットには鯖寿司もついてるけど、これもなかなか。

「それにしても朽木産の鯖寿司ってありか」
「鯖は朽木で獲れるわけないけど、朽木で作ってるからありじゃない」

 美味しければ文句はない。

「鹿カレーもいけるな」
「でも鹿って言われないとわかんないよ」
「そんなん言い出したら鹿蕎麦の鹿肉もやろが」
「あっちはわかるよ」

 もう三回目のマスツーだから、こいつらのアホみたいな食欲はさすがに見慣れて来たけど、亜美さんは引いてるな。気持ちはわかるよ。今だってすさまじいけど、夜なんか一升瓶抱えて茶碗酒だものね。

 ウソかホントかわからないけど、いくら食べても、いくら飲んでもスタイルにも健康にも影響しないとか。スタイルが変わらないのは知ってるけど、体は本当にだいじょうぶなのかな。

「食べて飲んでこその人生やんか」
「食べられなくなったら人生終わりよ」

 そりゃ、そうなんだけど、

「だから言ったでしょ。腹八分にしてるって」
「それが美と健康の秘密や」

 どこが腹八分だ。フードファイターぐらい食べるじゃない。亜美さんが小声で、

「月夜野社長と如月副社長ですよね」

 言いたい気持ちはよくわかる。だからあれだけ暴飲暴食しても食費なんて気にもならないだろうけど、

「それいうたらユリも侯爵やんか」
「それも特命全権大使でしょ」

 それを言うな。あれは血の為せる祟りじゃ。今回は亜美さんを守るのに役に立ったけど、あれがあるばっかりに、

「晩餐会とか、舞踏会にいつでも出れる」

 出たいもんか。あんたらかって皇室園遊会とか蹴ってるやんか。

「ユリは出たんだよね」

 しょうがないでしょうが。招待状が来るんだから、

「ヒマやもんな」
「高給プータローみたいなものだもの」

 言うな。しょうもない肩書のお蔭で就職しようにも会社はどこも門前払いなんだから。でもイイの、ユリは割り切ってる。会社に就職できないなら永久就職してやるんだ。

「どんな式になるか楽しみ」
「コトリらも見に行ったるわ」
「コウの式でもあるからね」

 どうか三日三晩になりませんように。

「そやけど二回はあるもんな」

 そうだった。

ツーリング日和14(第28話)光秀の謎

 朽木谷と言えば光秀が来たエピソードがあったはず。

「国盗り物語やな」
「あれも道三編はおもしろかったけど」

 やっぱりあれもフィクションとか、

「あれは可能性を膨らませただけや」
「無いとは言い切れないよ」

 光秀が朽木谷を訪れたのは義輝の時、

「司馬遼太郎も義輝に会わせんかったんはさすがや」
「いくら落魄しても将軍だものね」

 身分差は朽木谷に来ても絶対なのか。

「なおさらのとこはあったと思うで」
「それぐらいしないと権威を保てないじゃない」

 だから義輝ではなく細川藤孝に会わせたとか。

「あれなかなかの発想だよね」
「コトリも信じ込みそうになったぐらいや」

 光秀と藤孝の交流は深いのは事実だそうで、その始まりが朽木谷での偶然の出会いとするのは秀逸だとコトリさんもしてるぐらい。

「だってやで、完全なフィクションとも言い切れへんやんか。そういうところを膨らませるのが歴史小説やと思うで」
「でも現実的にどうだったのだろう」

 戦国武将の多くは官職名の名乗りを持ってるのは知ってる。粟屋備中守とかもそうだよね、

「織田上総介も初めはそうやったはずや」

 だけどこれは自称であってニックネームみたいなものだって。だけど細川藤孝のものは朝廷からの正式のもので、

「従五位下兵部大輔いうたら堂々の官職や」
「無位無官の浪人の光秀なら土下座して直答も出来ないよ」

 そうのはずだけど朽木に落去中の設定が絶妙だそうで、

「御殿の中で畏まってばっかりおられへんから出歩いてもおかしないし」
「歩いてる時に里人に声をかけたって不自然じゃないもの」

 それでも光秀と藤孝が合うにはハードルがあったとか。やっぱり身分差?

「それは大前提やけど、余所者やからや」
「それで武士でしょ。暗殺者って疑われてしまうのがこの時代のデフォよ」

 言われてみれば。義輝もそれを恐れて朽木に逃げ込んでうものね。じゃあ、会う機会はやはりなかった。

「いや、それでもあるねん。光秀みたいに諸国を放浪しているような連中は、藤孝が欲しくてたまらんもんを持ってるねん」

 そんなものあったっけ、

「情報よ。とにかく情報伝達がプアな時代じゃない。だから、諸国の情勢をなんとか知りたいのよ。そういう話を聞かせてくれると言うだけで、食事を振舞ってくれたり、泊めてくれたりもあったのよ」

 だから光秀と藤孝が実は会っていたは完全に否定できないところがあるのか。その光秀だけど、

「謎が多すぎる人物や。出自さえわからんぐらいや」
「信長に仕える前にどうしていたかがサッパリわからない人物なのよ」

 えっと、えっと、美濃の明智家の御曹司で、道三崩れの時に・・・

「それが通説や。その証拠に明智を名乗っとるし、後の明智軍団には明智の一族も参加してるやんか」

 だったら、

「通説に沿ってもかまへんねんけど、道三崩れが一五五六年や。次の足取りが一五六六年の田中城の米田文書や。そいでもって信長の上洛が一五六八年や」

 米田文書まで十年。信長の上洛まで十二年なのか。ここが光秀の空白期間みたいなものみたいになってるとか。

「それもやで、タダの空白期間やあらへん。光秀の特技の一つは教養やけど、京都の貴顕紳士のウルサ型を感心させたのはホンマやと思う」

 光秀が最初に頭角を現したのはそこのはずで、信長もその特技を買って召し抱えた話はどこかにあったはずだもの。

「そんなもん、どうやって身に着けたかや。田舎の豪族の付け焼刃とはちゃうで」

 それが空白の十年になるとか。そう言えば米田文書では医学も身に着けていた事になるとか。通説では越前にいたとなっていたはず。えっと売れない兵法指南だったけ、、

「それは国盗り物語やけど越前にはいたとは思う。そやけど、タダいたんやない。そこであの教養を身に着け、さらに諸国を回ってるはずや。それが見聞の広さになってるはずやねん」

 越前にいてそれが可能かどうかは・・・わからないから謎だよね。

「司馬遼太郎は道三の薫陶としとったな」
「それもアリだけど」

 道三にどれほどの教養があったかも不確かなところもあるそう。というか道三も今では二代説まであって正体不明の人物のところもあるみたい。それとたとえ教養があったとしても、道三にそれを教えるヒマがあったかどうかが疑問だとか。

「あんまり注目されとらへんが、一次資料としてエエぐらいのもんがあるねん」

 遊行三十一祖 京畿御修行記って聞いたこともないけど、

「遊行言うたら時宗やんか。時宗の三十一代目の教祖が畿内に遊行した時の記録や」

 そんなものがあるとは驚いた。これは昭和になってからある時宗の寺院から発見されたものだとか、

「内容は当時の他の記録と照らし合わせても矛盾がないそうや。そやから一次資料に値すると考えとる」

 そこに光秀が出て来るらしく該当箇所は、

『惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申』

 越前の称念寺に十年も居たとなっていて、これはちょうど光秀の空白期間に重なるんだって。

「ちょい捕捉しとくが、教祖は京都で天皇に会って、それから奈良に遊行する予定やってん。奈良に行くから筒井順慶に紹介状みたいなもんを光秀に書いてもらいに使者が行くねんよ」

 教祖の使者に会った光秀は懐かしがって、坂本城に引き留めて昔話に花を咲かせたぐらいの内容だって。こんな決定的な資料があったなんて、

「時宗と言うのがエエねんよ」

 時宗は遊行を基本にする宗派で、教祖さえ例外でないから、ああいう記録が残されているらしい。時宗僧の遊行は幕府も公認となっていて、さらに全国の時宗寺院を宿泊先に使えるとなると、

「光秀の諸国巡りを説明できる」

 それと称念寺は時宗の北陸の一大拠点で、

「文化の中心みたいなもんで、今やったら大学と思うたらエエで」

 光秀のずば抜けた教養も説明出来てしまえるとか。義昭との関係は、

「同朋衆に時宗僧が選ばれることも多いのよ」
「時宗僧やったら使者に適任やんか」

 同朋衆って何かと聞いたら、将軍の側近の話し相手、遊び相手ぐらいだって。そっか、そっか、義昭の使者として信長と会ってるうちに才能を見込まれて引き抜かれたとか、

「そんな感じやと思うてる。細川藤孝とのつながりも、その頃からとちゃうか」

 辻褄は合ってるかも。これだけの資料があるのに、

「通説って重いのよ」
「一度流布して固まるとなかなか変わらへんねん。たとえば桶狭間や」

 あれって谷間で勝利に浮かれて酒宴を始めた義元を梁田政綱が見つけ、そこに信長が奇襲をかけて討ち取ったはずでしょ、

「やっぱりそうなってるよね。あれってね、江戸初期に活躍した小瀬甫庵の創作なのよ」
「甫庵は今でいうたら司馬遼太郎みたいな人気流行作家で、その後に歴史を書いた連中は甫庵の小説が事実やと信じ込んでもてんよ」

 では桶狭間の真実は、

「長うなるからさすがにここで出来へん」

 今日もノンビリだな、もうお昼だよ。

ツーリング日和14(第27話)朽木

 保坂から朽木までも十分足らずかな。保坂からすぐに谷間の道って感じだ。そういえば朽木って要害の地だよね。

「それなりにはな。そやけど真ん中に若狭街道が突っ切っとうから、交通不便の地とは言い難いな」
「朽木に入れる道は三本だから、それを塞いだら守りやすい気がするけど」
「京からはけっこう遠いで」

 朽木に入ったけど、これは盆地というより谷間の町だよ。そこからまず訪れたのが朽木陣屋。ここは予約制みたいで、

「それぐらいしか見に来るやつがおらへんってことやけどな」

 まあそうなんだけど。陣屋ってことは朽木氏は江戸時代も小大名だったのか。

「そうじゃないよ、関が原の時に一万石切ったから旗本」
「あれも、関が原の時に二万石あったのが半分以上削られて大名から旗本にされたって話になっとるのが多いんや。そやけどホンマに二万石あって大名やったかもはっきりせんとこがあるねん」

 とりあえず江戸時代は旗本なのは間違いなさそう。だけど旗本なのに大名並みの待遇を受けた部分もあったとか、

「この陣屋は三の丸まであって、多門櫓も七か所あったそうや。他にも御殿、侍所、剣術道場、馬場、倉庫とかも備わっていて大名の陣屋として良いぐらいの規模やねん」

 旗本だから江戸に住んでいて参勤交代もしないのに、

「交代寄合言うてな・・・」

 自分の領地に屋敷を構えて住む大身旗本ぐらいの意味で、交通の要衝とかの家が多かったとか。

「旗本は若年寄支配やねんけど、交代寄合の旗本は老中支配やねん。そやから上位旗本ちゅうか、旗本と大名の中間ぐらいの待遇やと思うで」

 交代の意味合いは参勤交代を行う旗本の意味なんだって、

「参勤交代って罰ゲームみたいに言われるけど、交代寄合の旗本に関しては権利みたいな扱いやったんちゃうかな」

 大名の参勤交代は一年おきの義務のはずだけど、交代寄合の参勤交代は数年おきでも良かったそう。これも義務じゃなく自発的に行ってるとされたとか。朽木氏は元網の時に江戸時代に突入しているとなってるけど、

「元網は三人の息子に領地を分けて、宣綱六千四百七十石、友綱二千十五石、稙綱千百石にてとる。さらに宣綱も次男と三男に合わせて千七百石を分けてるねん」

 どうしてそんなことを、

「元網に聞いてくれ」

 そりゃそうだけど、江戸初期の大名家ではしばしばあったとか。この頃の相続も原則は惣領制のはずだけど、

「関ヶ原の教訓もあったかもしれん。まだ大坂城に秀頼はおったし」

 天下分け目の決戦が起こった時にどちらに乗るかは家の存亡に直結するのか。ここで勝ち馬が見抜けたら良いけど、そうじゃない時は、

「両方に賭けて、勝った方で生き残る戦略や」

 そんなかんなで朽木本家は五千石足らずで明治を迎えることになり、陣屋も維新後に取り潰されてる。形式として平城よね、

「詰めの山城が別にあって、ここは麓の屋敷みたいなもんで、そこを順次拡大したとなっとる」

 だからどうしたって程度の陣屋だけど、実はタダの陣屋じゃない。だってだよ、義晴、義輝の二人の室町将軍がここに住んでいた華麗すぎる経歴があるんだよ。まあ京都から逃げて来ただけだけど、朽木氏は二人の室町将軍を庇護してたことになる。

「無理やりいうたら首都やった時期もあったことになるもんな」

 かなり無理やりだな。まあ将軍は日本の統治者だから、その将軍が住んで、そこで政治の指示を出していたなら政府、それも中央政府と言えなくもない。シケていても中央政府があることころが首都と強弁できない事もないか。

 首都と言うより亡命政権の所在地ってほうが合ってる気もするけどね。京都からの距離感が微妙な気がするけど、朽木なら京都の戦乱が避けれたのか、

「当時の政治情勢やろうけど、京から見たらよっぽど遠いイメージやってんやろな」

 あの頃の情勢は複雑怪奇らしいけど、南近江の六角氏が将軍派であることが多かったみたいで、六角氏が南近江に頑張っていると朽木まで攻め込むのが大変ぐらいの判断もあったかもしれないって。

「次は興聖寺や」

 この寺は道元禅師が佐々木信綱に頼まれて建立した由緒あるものだって。この寺の見どころが旧秀隣寺庭園。ここはもともと義晴や義輝が朽木に逃げ込んだ時に建てられた屋敷の跡で、将軍の無聊を慰めるために作られた庭園がこれだって。

「庭だけでも残ったのはたいしたもんや」

 この将軍館は秀隣寺になったんだけど、後に移転して、代わりに興聖寺が移って来て今に至るとなってるそう。だから興聖寺にあるけど旧秀隣寺庭園と呼ぶそうだ。

「この庭見ながら、京都に戻れる日を夢見てたんやろな」

 そんな気がする。

「わび住まいの朽木の生活の中で、京都の匂いを感じれる場所やったかもしれん」

 朽木は歴史も古いはずだし、江戸時代も城下町みたいなものだし、鯖街道の宿場町でもあったはず。だけど歴史的な見どころとしてはこれぐらいしかないみたい。まあ鯖街道、若狭街道って言ったって小浜から京都まで十八里しかないから、途中でどこかで一泊したら着いちゃうから朽木にはあんまり泊まらなかったのかも。

「参勤交代ルートでもあらへんかったみたいやし」

 熊川宿も立派だったけど、東海道や中山道の宿場町だったら定番のようにある本陣や脇本陣はなかったんだって。小浜藩ぐらいなら使いそうなものだけど、

「敦賀まで領地やさかい刀根越で木之元に出て、中山道なり東海道で行ったんちゃうか。今津に出ても遠回りになるだけやからな」

 なるほどね。ついでだからと訪れたのが丸八百貨店。昭和八年に開業した三階建ての建物で国の登録有形文化財となっています。

「なんか懐かしい感じがする。戦前だって大きなデパートは大都市にあったけど、地方都市にはこれぐらいのなんちゃって百貨店がわりとあったのよ」

 あのぉ、まるで見て来たような物言いじゃない、てか見てるのか。

「そやったな。その中には地方の百貨店グループに成長したり、地方スーパーになったのもあったけど、全国チェーンのスーパーの進出で潰れたところも多数やったもんな」
「潰れたところは無くなってるし、生き残ったところも建て直したり、移転してるからね」

 朽木の丸八百貨店も商店としては生き残れなかったみたいで、今はカフェとし営業してる。それでもかつての朽木には、これぐらいの百貨店が出来るぐらいには活力があったぐらいには言えるのかな。カフェでコーヒーを飲みながら、

「信長は朽木に泊ったのかな」
「泊まってへんと思うで。ここまで来たらもあるし、やっぱり裏切りは怖いやろ」