ツーリング日和14(第26話)保坂

 朝食を頂いてから宿から駐車場に戻りながら、

「熊川宿の最盛期は江戸時代の前半やろな」
「もっと短いよ、河村瑞賢の西回り航路が確立したのは家綱の時代だよ」

 西回り航路の始まりは加賀藩が年貢米を瀬戸内海経由で大坂に運んだのが始まりだとか。この航路は年を経るほど栄えて、日本海沿岸の諸藩の米も海運で運ばれるようになってしまったらしい。

「そやから琵琶湖の水運も衰えたし、琵琶湖の水運をアテにしていた九里半街道も使われんようになってもたぐらいのはずやもんな」

 西回り航路は後に北前船の隆盛にもなっていくのだけど航海術も発達して、

「小浜どころか敦賀でさえ特急の停車駅から外されてもたからな」

 敦賀も西回り航路が成立する前の一六七一年には、年間二千六百艘も寄港していたみたいだけど百年後に五百艘まで激減したそう。

「塩鯖増やしたぐらいで穴埋め出来るとは思えんからな」

 バイクに乗って今日のツーリングがスタートだ。でも走りだして五分もしないうちにトンネルの前に停まり、

「これは寒風トンネルやねんけど、九里半街道はこの上の寒風峠を越えとってん。標高六百メートルぐらいやど、九里半街道最大の難所としてエエやろ」

 へぇ、トンネルの上の山を越えてたのか。まさか旧道を走るとか、

「無理みたいや。マウンテンバイクで挑んだ動画があったけど、コトリらのバイクじゃ無理そうやった」

 走るつもりで調べてたんかい。寒風トンネルを抜けて三分もしないうちに、

「ちょっとストップ」
「ストップって一本道じゃないの」
「そうやねんけど、寒風峠は無理でも気分ぐらい味わいたいやんか」

 ナビをしばらく確認してから引き返し、

「あそこや。右に入るで」

 ありゃ、センターラインの無い道だ。あんまり嬉しくないよ。それに結構なワインディングだし結構な登りじゃないの。

「これって旧道なの」
「たぶんそうや」

 すぐに登り切ってくれたみたいで、そこからは軽いワインディングある程度の道になてくれてホッとした。相変わらずセンターラインはないけど、すれ違うクルマなんか滅多にないからラッキー。

 それにしても山の中でなんにもないな。なんにもないからクルマも走ってないのはわかるけど、今でもこれだけ何もないのなら、江戸時代はなおさらだったんだろうな。

 そんな道を五分も走っていると前の方に民家が見えてきた。熊川宿を出てからずっと山の中を走って来たようなものだから、人家が見えるとホッとした気分だよ。道は突き当たって三叉路になるみたいだけど、道路案内に左が今津市街、右が朽木となってるな、

「ちょっと停めるで」

 三叉路のところにバイクを停め、コトリさんは興味深そうに周囲を見てるけど、

「ここってそうなの」
「バス停に保坂ってなっとるやんか」

 それから集落の方の道に入って行き、

「あった、あった」
「こっちが本当の旧道だったのか」

 そこには石の道標が立っていて、

『左わかさ道 右京道 左志ゅんれいみち 今津海道 保坂村 安永四年』

 こう刻まれてるじゃない。ここはかつては若狭、朽木、今津に向かう街道が交わるところで交通の要衝だったのか。

「ここには保坂関もあってんよ」
「そうなると越えて来たのは水坂峠ね」

 こうやって街道が交わるところは栄えていそうなものだけど、

「そやからこんなところにドライブインもどきもあるんちゃうか」

 よく経営が成り立つっていると思うような店があるものね。それでもかつて栄えたところとするには無理がありそうだ。

「ここは通過点やったと思うで。今津まで二里しかあらへんからな」
「熊川宿だって二里かせいぜい三里だし、朽木だって二里ぐらいじゃない」

 保坂で泊まるより他のところを目指して行ってしまうところぐらいだったのかな。

「そりゃ、ここになんか特産品でもあって買い付けに來る用事があったらともかくやけど、なんもなさそうやんか」
「三十三か所のお寺もないし」

 それにしても歴史的な謂れとか知らなかったら、何の変哲もない田舎の三叉路だ。

「歴史ウォッチも昔からのものが残ってる方が嬉しいのんは間違いあらへん。そういうことは立派な観光地になっとるとこが多い。そやけど由緒を知っとって、自分だけで楽しむのもおもろいで」
「それをオタクって言うのよ」
「オタクやない歴女や」
「同じでしょうが」

 コトリさんが筋金入りの歴女なのはわかるけど、ユッキーさんの歴史知識だって相当なものじゃない。

「同じにしないでよね」
「そうや、ユッキーは物知りなだけで、正体は温泉小娘や」

 保坂から信長が次に目指したのは朽木だよね

「思うねんけど敦賀からの撤退戦で信長が一番懸念しとったんはこの辺ちゃうか」
「そうだと思うよ。ここを塞がれたら若狭で立ち往生になっちゃうもの」

 そんな風にも考えられるのか。金ヶ崎の退き口は、尻啖え孫市だけじゃなく、金ヶ崎から若狭への撤退がもっとも困難だったとしてるのが多いはず。

「あれも難度は高いで」
「というか、撤退戦と言うだけで難度高いものね」

 だけど醒めて見れば、木の芽峠の先鋒部隊を除けば残りの部隊は悠々と佐柿に逃げ込めそうだものね。そこを整然とやってのけたのは手腕だけど。

「信長の計算やけど・・・」

 浅井離反が四月二十六日だから、二十八日には小谷城を出陣できるとしたぐらいか。浅井軍の動きとして考えられるのは、

 ・敦賀に攻め込む
 ・保坂に出て若狭街道を抑える
 ・動かず信長軍の動向を確認する

 敦賀に浅井軍が現れていない情報は四月三十日でも知っていた可能性はあるかもしれない。そうなるとこの時点の焦点は、信長の撤退路を塞ぐために今津から保坂に出て来ることか。

 だけど小谷と今津の移動にはどんなに急いでも一日はかかるはずと読むのか。二十八日に小谷を出たら三十日には間に合ってしまう計算も出て来るけど、

「浅井かってどこに動くの情報を集めていたはずや。たとえば金ヶ崎の信長が動くか動かへんかや。動かへんのなら朝倉と連合して敦賀決戦もある。そやけど信長はトットと佐柿に引いてもたぐらいは二十九日に知ったやろう」

 なら若狭街道封鎖が良いかと言えば、

「撤退戦の状況が欲しいやんか。期待としては信長が討ち取られるまであるからな」

 なるほど金ヶ崎から佐柿に逃げても、総崩れ状態なら引き続いて若狭で追撃戦の展開も考えられるわけか。信長軍が若狭で壊滅状態になれば敦賀じゃなくて南近江を取りに行くよね。そんな信長軍が壊滅状態になるかならないかの情報は、

「二十九日に手に入るかどうかや。こういうもんは朝倉が正直に報告するかどうか怪しいもんや」

 そこから保坂を目指しても三十日には間に合わない計算が出て来るのか。そんなことまで信長は計算して、

「信長やのうても計算するわ。当時の人間の時間感覚や。そやけど信長かって浅井の動きの情報は不十分やったはずや」
「たとえばね、信長が若狭に動いた時点でひそかに高島郡に兵を動かしとくとか」

 そんな手もありなのか。それを言いだせば全軍じゃなく快速の別動隊を回す可能性もあるはずよね。なら若狭の情報を集まるのを待って、

「そうはいかん。信長かって若狭でいつまでもウロウロしとられへん。戦場でいかに情報を集めるかは勝敗を分けるが、いくら頑張っても限界がある。そういう時には手持ちの情報だけで判断して行動する果断が必要なんや」

 なるほど、金ケ崎の失敗を取り戻すにはまず京都に戻ること。さらには本拠地の岐阜に戻る事がその時の課題になるのか。史実でもそう動いてるものね。

「コトリ、距離と時間もあるけど、浅井もあれを知ってたのかな」
「実戦の経験で学んどった可能性はあるけど・・・」

 なんの話だ。史実ではすんなり保坂を抜けて朽木に進んでるけど、もし浅井が立ち塞がっていたら、熊川宿まで後退してたとか。

「ないと思うわ。そんなんしたら付け込まれるわ」
「だよね。腹を決めて強行突破のみ」

 無謀じゃない。

「とも言えん。信長が率いとる部隊は無傷に近いはずや。そんな部隊が帰師やぞ」
「帰師は遏むること勿れってこと」
「そうや帰師は阻むものやのうて追うものやねん」

 孫子から出た言葉だって。帰師とは外国に戦争に遠征して母国に帰ろうとする軍隊ぐらいの意味で良いみたいだけど、そういう軍隊は母国に帰りたい一心で死に物狂いで戦うから無暗に強いはずだから、

「向こう傷も大きいって意味や」

 保坂で信長軍を迎え撃てばそういう形になるから、浅井も避けた可能性もあるぐらいって話か。

「単純に間に合わへんの判断やったと思うけど」
「浅井の戦略的には湖東を南下して、信長の南近江回廊を脅かしたかったみたいだし」

 それが史実だものね。浅井だって無限の戦力があるわけじゃないから、どこに主力を向けるかはあるだろうし、

「あれこれ集まってくる情報から信長軍の傷は浅うて、早期の反撃は必至と判断したんやろ。京都に戻るだけやったら、若狭街道使わんでも針畑越もあるさかいな」

ツーリング日和14(第25話)若狭の情勢

 亜美さんがたまりかねたのか、

「佐柿は、いや若狭はどうなっていたのですか?」
「それやるんか。長くてつまらんで」
「でも亜美さんの質問だから仕方ないよ。コトリ、出来るだけ手短にね」

 若狭は若狭武田氏が守護だそうだけど、

「内紛いうか親子喧嘩が起こってもて、さらに国人衆が言うこと聞かんようになっとったぐらいに思うたらエエ」

 室町時代と言えば守護大名って覚えたことはあるけど、これは室町幕府創設に手柄のあった家臣を将軍が任命していたぐらいだそう。守護に任命された国で守護の一族は天下り貴族ぐらいに思ったら良いとコトリさんはしてた。

 天下りの貴族連中に対して地生えの豪族が国人になるらしい。室町時代も下るにつれて国人衆が力を付けて戦国時代に突入ぐらいかな。力を付けた国人衆は政治に口を挟んだり、守護のすげ替えまで力を持つようになっていったぐらいだそう。若狭ではとくに四老とされた、

 粟屋越中守
 熊谷直之
 武藤上野介
 逸見駿河守

 がいたんだって。若狭の四大実力者ぐらいで良いと思う。時の守護の武田義統は父である信豊との抗争と、四老が言うことを聞かないのに困り果てて朝倉家に助力を頼んでいる。その結果として起こったのが一五六三年からの国吉城攻撃につながるそうだ。

「朝倉の介入は若狭に危機感をもたらしたでエエと思うねん。そりゃ大国やからな。最前線の粟屋越中守の奮戦はとくに若狭東部の国人衆の支持を集めたぐらいや」

 この辺は国吉城が落ち、椿峠を突破されると滅ぼされるの危機感で良いと思う。これはあくまでも割り切った色分けとしてたけど、朝倉軍の介入により、四老のうち東若狭の粟屋越中守、熊谷直之が反朝倉派、西若狭の武藤上野介、逸見駿河守が親朝倉派になったぐらいに見たらわかりやすいって。ただ朝倉軍の介入も執拗で、

「粟屋越中守は佐柿の領主やけど、椿峠から関峠までも領地やったはずやねん。そやけど一五六三年から一五六七年の間に椿峠以東は朝倉の手に落ちたぐらいは言えると思う」

 朝倉軍の介入が続く中で若狭の守護は武田義統が死んで息子の元明になったんだけど、一五六八年の時についに朝倉軍が若狭の中心部に侵入して小浜の後瀬山城を囲んで、降伏して来た武田元明を一乗谷に連れ去るとこまで行ったそう。ということはついに国吉城も、

「それも確認しとうて佐柿で話を聞いたんや」

 朝倉軍はどうやら椿峠を迂回して若狭に侵入したで良さそうだって。それが坂尻からの越前坂。だけどそれがどこかははっきりしないとこがあるみたいだけど、

「地形を考えると坂尻からやから椿峠の海側の天王山のどこかを越えたとしか考えられん。おそらく朝倉軍が力業で切り開いたと見てる。朝倉が切り開いたから越前坂としたんとちゃうやろか」

 椿峠を回避して佐柿方面に侵入しているのは事実だから他に考えようがないか。侵入した朝倉軍への追撃とかは、

「出来んかったと国吉城籠城記にはなっとるわ。粟屋越中守の手勢言うても地侍二百人に百姓六百人てな記録があるぐらいやから千人前後しかおらんかったで良さそうやねん。そんだけやったら、国吉城や椿峠を守るのは出来ても、城を出ての合戦となると無理やったんちゃうかな」

 粟屋越中守ってそれだけしか軍勢はいなかったんだ。武田元明を一乗谷に連れ去った朝倉は、粟屋越中守や熊谷直之に武田元明の命令として降伏勧告をしてるけど拒否した記録もあるんだって、

「一五六八年と言うのがポイントの年でな、この年に信長が義昭担いで上洛に成功してるんよ」

 ここまでもややこしいのだけど、ここからもっと複雑な話になって、守護の武田元明を朝倉に連れ去られた反朝倉派の粟屋越中守たちは、新将軍の義昭に頼ろうとしたみたいだって。

「義昭も戦国の怪人みたい奴やんか。乗ったとみたい」

 将軍の命で武田元明を若狭に戻して若狭を正常化させるぐらいかな。これで新将軍の権威を高め、若狭を親将軍派にするぐらいの目的でも良いかもしれない。だけど義昭には権威はあっても、権威の裏付けをする軍事力が皆無だから、信長に相談ぐらいはしたはずぐらい。

 信長と義昭の関係は上洛直後は良かったけど、後は悪くなるだけだったのは史実として良いはず。一五七〇年時点でも対立関係が深まっていて、そんな義昭が後ろ盾にしようとしたのが朝倉ぐらいの構図。朝倉が義昭に付く動きを見せれば信長と対立関係になるぐらいかな。

「朝倉は滅ぼすべき敵ぐらいに信長が考えを巡らした時に、若狭が見えて来たんやと思うねん」

 朝倉を叩く、滅ぼすと言っても北近江には浅井がいて通れない。でも、ここで若狭を経由すれば一挙に朝倉に襲いかかれるぐらいの構想か。となると、

「いつからかはわからんが、若狭の国人衆への工作が行われとったはずや。その結果が今津から佐柿への道を開かせたんやろ」

 いかにも戦国時代って展開だけど、若狭に信長が進めば朝倉だって、

「小細工はしとる」

 信長と義昭の対立関係はあっても、信長の実力に義昭は勝てないから大義名分として将軍命令を出させるのか。信長の若狭介入の理由は、

「守護の武田元明を追放し若狭を壟断する武藤上野介を成敗して、若狭を正常化する」

 あれっ、逸見駿河守は?

「寝返ったんやろ」

 信長の若狭での敵は武藤上野介として軍勢を送り込んだって訳か。

「それだけやない気がする。若狭の正常化のためには朝倉が抱えとる守護の武田元明を若狭に連れ戻さんとあかんやろ」

 えっ、それって、

「ある種の欺瞞作戦やが、朝倉にしたら信長はまず武藤上野介を征伐してから、朝倉との武田元明返還交渉があると見てもた気がする」

 いきなり朝倉との全面戦争はないぐらいか。あったとしても今回は若狭の確保で、その次の段階で朝倉と決戦ぐらいかな。結果としては朝倉は乗せられたことになりそう。

「そこやねんけど、さらに朝倉がそう信じる動きを信長は見せたはずや」

 なんだそれ、

「武藤上野介の石山城は高浜の山の方にあるんやけど、信長の先発隊は攻めたはずや」

 な、なんだって! 敦賀だけでじゃなくて、若狭でも合戦があったの?

「考えてみれば自然やんか。大義名分を果たすのもあるし、後方のうるさい敵を排除しとく方が都合エエと思わへんか」

 熊川宿から佐柿へのルートは信長軍にとっても生命線になるから、先発の別動隊が小浜から高浜方面の制圧をした方が良さそうよね。ん、ん、ん、それって、小浜や高浜だけじゃなく、

「当然や、佐柿にも留守部隊置いてるで。補給拠点やし。信長にしても粟屋越中守は初対面やからな。裏切らんように目を光らせとく意味もあったやろ」

 そうなると金ヶ崎の退き口とは佐柿の後方部隊との合流を目指したものだったとか。

「そうしか考えられへんやん。浅井の離反で信長が困ったのはそうやろうけど、絶体絶命の窮地とまで考えてへんかったんちゃうか。少なくとも信長にしたら金ヶ崎から佐柿まで四里退くだけやからな」

 朝倉の追撃の杜撰さを指摘する人も多いけど、

「言い過ぎと思うで、朝倉軍かって木の芽峠から敦賀に下りて来んとなんも出来へんやん。その頃には金ヶ崎とかにおった後方部隊は佐柿に逃げ込んどるから、せいぜい相手できるんは木の芽峠まで進んどった部隊ぐらいやろ」

 加えて、

「回り込もうと思うても、街道逃げる方が早いで。包囲かってそうや、もう田植えのシーズンや」

 そんな追撃状況が朝倉家記にあった、

『人数崩れけれども宗徒の者ども恙なし』

 脱落した雑兵ぐらいは討ち取れても、大将クラスは逃げられてしまったぐらいかも。ここで亜美さんが、

「信長軍が退いた後の粟屋越中守は?」

 これについては、

「金ヶ崎の退き口の後に何があったか覚えてるか?」

 亜美さんは少し考えて、

「もしかして姉川の合戦とか」
「そうや。あれも戦史に残る大決戦やが、あれが六月二十八日やから二か月後の話になる。金ヶ崎の退き口で敦賀まで来た義景は、八千ともされる大軍を北近江に送り込んどる。つまりやが若狭は放置の決定をしたでエエはずや」

 姉川の朝倉軍って、そんなに早く動いていたのか。義景もやるじゃない。

「ああそうや。信長は早期に北近江にリベンジに來ると判断したことになる。援軍としたら余裕で間に合っとるし、浅井朝倉連合軍は奮戦しとる。でも勝ったんは信長や。そこからも朝倉は対信長に目いっぱいになって若狭やっとる余裕はなくなってもたんや」

 なるほど。浅井朝倉連合が不利になって行けば、粟屋越中守も信長派でいても不思議無いか。でも義景の最後はガタガタになっていたはずだけど、

「戦争はな、勝たなあかんねん。勝ってこそ士気も上がるし、求心力も出てくる。そやけど大敗なんてやらかしたら、一遍に士気も求心力も落ちる。長篠で負けた勝頼もそうやったろ」

 シビアだけどそれが戦国時代か、

「金ヶ崎前の若狭の情勢は知っといたらおもろいけど、高校生にはまだ早いかもしれんわ」

 つうかコトリさんのムックが高校生には早すぎるでしょうが。

ツーリング日和14(第24話)金ヶ崎からの撤退

 部屋に戻ってもバカスカ飲んでるのだけど、高校生の亜美さんの教育に良くないよ。でも感心するのは、どれだけ飲んでも崩れる様子がまったくないこと。それどころか何とも言えない品があるって感じ。とにかくどれだけ飲めるのか想像もつかないよ。話は撤退戦の真相みたいなものになっているのだけど、

「すぐに無視すると言うか、知らん顔するのが多いけど、スマホどころか固定電話も、電報も、無線もあらへん時代やねん」

 木の芽峠なんか今でも圏外じゃないかな。信長が浅井の離反を知ったのは間違いけど、どうやって知ったかになるってこと。浅井の重臣の誰かを買収してるとか、小谷城の動きで知ったぐらいになるだろうけど、

「浅井は離反を決めたら何をするかや」

 朝倉の味方だけど、

「そうや、軍勢の小谷城への総動員令や。この動きの報告が信長の判断の決定打になったんやと思うで」

 信長公記にも、

『江北浅井備前手の反覆の由、追々注進候。然共、浅井は歴然御縁者たるの上、剰 江北一円に仰付けらるるの間、不足これあるべからずの条、虚説たるべきと思食候処、方々より事実の注進候。是非に及ばす、の由候て』

 ちょっと長いけど、浅井離反の報告は一つじゃなく続々と届られたと見て良いはず。最初はそんなことはないとしていたけど、最後に、

『是非に及ばす』

 とうこなってる。

「これがいつことかや」

 信長公記は日記形式に近いけど、数日分をまとめて書くのも多いみたい。四月二十五日もそうで、

 四月二十五日・・・手筒山城を落とす
 四月二十六日・・・金ヶ崎開城

 ここは確認できるけど、四月二十六日から四月二十九日の間のどこで信長が浅井の離反を聞いて撤退を決意したかはわからないのよ。

「ここでやけど、敦賀と小谷城の情報伝達を一日と見るんよ・・・」

 隣の国の出来事だけど、近江と敦賀の間は結構な山岳地帯だからそれぐらいかかりそう。

「そやけど信長の敦賀侵攻はその日のうちに伝わったと見とる」

 早朝に信長軍が敦賀に攻め込んだ情報が二十五日の夕には小谷城に伝わり、その夜のうちに離反を決定し、二十六日の朝から軍勢の招集が発動されたぐらいかな。その動きが怪しいと見ての報告が次々と金ヶ崎の信長の元に届き始めたのが、

「二十七日になってからの気がするねん」

 四月二十六日の浅井の動きを信長が四月二十七日の夕方ぐらいから受けて悩むのか。ならば三河物語にあった信長が宵の口に撤退したのは信じて良いとか。

「コトリはそうは思わん。信長は撤退するにあたって何を考えたかや」

 そりゃ、どうやって逃げるかでしょ、

「そうやどうやって見栄張って逃げるかや」

 見栄? 緊急事態じゃない。見栄張ってる場合じゃないじゃない。

「信長がまず一番懸念したんは浅井が刀根越で敦賀に攻め込んでくることちゃうか。そやけど、四月二十六日に軍勢の招集をかけても、それなりに集まって来るのが二十七日、出陣が二十八日、敦賀に攻め込んで来るのを早くても二十九日と読んだ気がする」

 当時の軍勢の集まりってそんなものなのか。

「それやったら四月二十八日はまだ安全や。二十七日の夜に撤退を決めて、二十八日の日の出とともに撤退や。ここも思い出して欲しいんやが金ヶ崎から佐柿まで四里ほどしかあらへんねんよ。普通に歩いて四時間、急いだら三時間で着くやろ」

 日の出は四時四十分ぐらいだから、信長は九時に佐柿についていてもおかしくないのか。それで見栄って。

「撤退する時の作法みたいなもんで、金ヶ崎に持ち込んだ物を全部持って帰るんや。そやな、その後もチリ一つ残さず掃除しといたら理想的や。それをこの急場で秀吉なら宰領できると信長は選んだと思う」

 それはそれで大変だ。この時に信長軍の前線拠点は金ヶ崎城に移っていたはずだから、兵糧とかもかなり持ち込まれていたはず。これを運ぶ人足連中も動揺しているはずだから、これをまとめあげて佐柿に運ぶのだものね。

「秀吉を選んだんは、それが実行できる才覚と、くどくど説明せんでも、信長の真意をわかるはずもあると思うわ」

 木の芽峠の信長軍はどこまで進んでいたんだろう。

「情報は『木目峠を打越し、国中御乱入たるべきの処』しかあらへんねんけど・・・」

 木の芽峠には敦賀側に新保宿、今庄側に二つ屋宿の二つの宿場があって、その中間に木の芽峠の頂上があったのか。ここで『国中御乱入たる』を木の芽峠の頂上を越えると取れば、

「金ヶ崎城から四里ぐらいやから、四時間で連絡出来るやろ。この使者は日の出前の四時に出れるから八時ぐらいに到着したとみたい。もちろんやが、先頭部隊に続く後続部隊は先に連絡を受けて撤退を始めるやん」

 ここでコトリさんが強調したそうなのは、

「木の芽峠は険しい道やろ。つまりは狭い一本道や。朝倉が追撃しようと思うても、信長軍の先頭部隊を潰さん限り前には行けん」

 もっと言えば、木の芽峠を下りて敦賀に入らないと部隊を展開出来ないよな。それだけ時間があれば、

「木の芽峠の下におった連中は余裕で佐柿に行ける」

 信長軍の最後尾になるのは、木の芽峠の先頭部隊と金ヶ崎城で残務処理担当だった秀吉になるのか。

「それとやけど尻啖え孫市やったら、木の芽峠を下りて来た信長軍も朝倉軍も金ヶ崎城を関門みたいに通っとるけど、誰が通るかいな。当時の道はわからんとしても、木の芽峠から気比神宮に行く道ぐらいあるやろし、気比神宮から丹後街道行く道ぐらいあったはずや」
「そうなのよね。金ヶ崎城って敦賀の北東の端っこにある城だから、南側から朝倉軍が攻め寄せたら秀吉は袋のハゲネズミよ」

 言われてみれば。だったら秀吉が殿軍で奮戦した話は、

「あれもわからん。金ヶ崎城の撤退作業が長引いて結果的に殿軍になった可能性がまず一つや」
「もう一つは殿軍やる事で功名手柄を狙ったのかもよ」

 家康と一緒だった説は、

「なんとも言えん。さすがに先頭部隊が下りてくる頃には、朝倉軍の追撃部隊も食らいつき始めとったんちゃうか。そやからある程度乱戦にもなるさかい、佐柿に行くまでに家康も巻き込まれて一緒やった可能性ぐらいはある」

 えっと、信長軍の先頭部隊が仮に九時に撤退を開始して、敦賀に下りて来たのが十三時とするじゃない。そこから佐柿まで四時間としたら十七時ぐらいになるけど。

「さすがにもうちょっとかかったんと思うで。そやけど日の入りが十九時ぐらいやから、それまでには佐柿に着いたはずや」

 それまでは押して引いての繰り返し、

「それはあったやろ。そやけど朝倉軍が追い切れんかったんは確かや」

 これは朝倉家記と言って、朝倉側からみた金ヶ崎の退き口の結果だそうだけど、

『人数崩れけれども宗徒の者ども恙なし』

 さすがに逃げ崩れそうな状態にはなったみたいだけど『しゅうと』の者ってなんだ。信長軍にどっかの宗教軍団でも混じっていたのか。

「それはね『むねと』って読むのよ。宗徒の者って集団で主要な人、この場合は大将ぐらいの意味になるけど、大将を守る雑兵部隊はある程度崩せたけど、大将は無事だったと書いてあるぐらい」
「ああそうや。信長軍の被害は諸説あるけど、コトリが注目するのは名のある武将が誰も死んでへん事や。ほんまに苦戦したんやったら一人や二人は死ぬやろし、戦果やからアピールするのが戦争の側面や」

 そうなると尻啖え孫市にあった、

『殿軍である藤吉郎・孫市の部隊が西へ、西へと退却してゆく途中にも、首のない織田方の雑兵の死体が散乱し、はやくも屍臭をはなっていた』

 こうはならないよね。

「屍臭を放ち始めるまでにはそれなりの時間が必要じゃない。そんなに早くから朝倉軍が敦賀に出て戦っていたとは思えないもの」
「そもそもやで、そんな状態になっとるいうことは、秀吉より前に朝倉軍がおるってことになるやんか。挟み撃ちなり、包囲されて生きて帰れるかい」

 司馬遼太郎が撤退戦の厳しさを演出しようとしたウソなのか。

「脚色だけど無理あるよ」
「ホンマに金ヶ崎に来たのか疑うで」

 金ヶ崎に来たのなら佐柿ぐらいまでは行くはずよね。

ツーリング日和14(第23話)宿場町の歴史

 これだけ大きな宿場町となると、

「わからんかった」
「小浜は有名だけど」

 そこまでは無いにしても、

「調べた範囲で言うたら、一日に四百人ぐらい泊っとった記録はあるそうや」

 それは多いはず。

「それにここは水運と陸運の中継ポイントみたいなとこじゃない。馬だって一日千頭なんて話も残っているそうよ」

 それは盛り過ぎじゃ、

「そういうけど今津も・・・」

 多い時は一年に二十万頭って記録があるのか。

「一日平均で五百五十頭ぐらいやけど、今津からの年貢米は若狭や丹後の分も多かったさかい、多い時やったらホンマにあったかもしれん」

 とにかくそれだけいれば、

「あったらあったで話に残りそうなもんやけど」
「巡礼客を呼び込むアピールにもなりそうだけど」

 あれかな小浜にあったから、次は今津みたいな感じだったとか。

「今津に明治の頃はあったんは間違いあらへん。そやけど江戸時代は微妙なのよ」

 へぇ、今津って加賀藩の飛び地だったんだ。だけど加賀藩って色街の許可がなかなか下りないので有名だったそう。でも東の廓とか、

「あれもやっとこさやったらしい」

 なら、えっと、えっと、今津から竹生島に行ったら、次の長命寺は、

「遊ぶなら近江八幡やな。あそこは京都祇園の一流どころを集めて栄えとったとなっとる」

 小浜の次が近江八幡だったのか。

「でもわからんで」
「熊川宿にも旅籠はあったからね」

 そっちね。だけど飯盛女が有名なところは今でも話が残ってるそう。熊川宿の場合は規模こそ大きいけど、そっちで売っていた訳じゃないぐらいみたい。その辺は、

「あれかもしれん」
「馬糞臭いじゃない」

 荷物の行き来が多いのは宿場町が栄える条件だろうけど、馬の数に比例してウンコも増えるものね。どこの宿場町だって馬ぐらいは通るだろうけど、流通の要みたいなところだから、

「飯盛女で集めんでも、なんぼでも客が来るやろし」
「客かって、こんな臭いところより小浜なり、近江八幡で遊びたいんじゃない」

 こんな下らない話をしてたんだけど亜美さんが、

「小浜の行商人は熊川宿を利用したのでしょうか」

 小浜から京都まで十八里らしいけど、小浜から熊川宿まで四里ぐらいになるらしい。そうなると残りは十四里になるけど、もう少し進む可能性はあるだろうって。それを言えば巡礼客もそうのはずだけど、

「これは当時じゃないとわからへんねんけど、竹生島まで今津から舟やんか」
「今みたいな定期客船じゃないのよね」

 竹生島は聖地で僧侶や神官しか住めないところで、今でも民家は一軒もないそう。そうなると舟で渡っても泊まれないから、

「昔は泊まれたらしいねん。明治の頃の天田愚庵の巡礼日記には、宿坊で休憩して本堂で通夜したってなってるねん。さらに今津から湖上三里、竹生島から長明寺が船路十里ってなっとるから、今津から竹生島を経由して近江八幡まで一日で行くのは無理やったと見たい」

 湖上三里ってどれぐらいだと思ったけど、陸の上でも水の上でも里は一緒だから三時間と考えて良いみたい。竹生島から長命寺まで十時間もかかるのなら、一日じゃ難しいよな。それに水路の弱点は天候の影響が大きいこと。

 だから昔は竹生島に泊るのがポピュラーの気がする。だったら小浜からなら一気に今津になりそうなものだけど、

「この辺は当時の人の感覚がわからんのやが」
「巡礼も物見遊山だから」

 いわゆる小浜観光をしたかもしれないって。小浜からは半日ぐらいで余裕で熊川宿に着くから、午前中に小浜観光をしてから熊川宿に向かった可能性か。そうでも理由を付けないと熊川宿に泊る理由が出てこないよな。それはそうと家康は得法寺に泊ったんだろうな。

「腰掛けの松があったやんか」

 おいおいあれが根拠かよ。そうそう家康もかなりの部隊を率いていたはずよね。

「ここら辺は想像や」

 家康が参戦してるのは間違いないけど、どれほどの軍勢だったかの記録が皆無に近いそう。姉川で五千ぐらいの説もあるけど、金ヶ崎にそれだけの軍勢を率いて来たのかも不明で良さそう。

「わからんけど少ない印象はあるねん」

 これもわからないとしか言いようがないのだけど、家康は木の芽峠の攻略に入っていたとは見られている。三河物語だそうだけど。

『信長も大事とおぼしめして、家康をあとに捨て置き給ひて、沙汰無しに、宵の口に引き取りたまひしを、夜明けて、木下藤吉、御案内者を申し立てて、退かされれ給ふ。金ヶ崎の退き口と申して、信長のおんために、大事の退き口也。このときの藤吉は、後の太閤也』

 これを素直に取ると、金ヶ崎城にいた信長が撤退を決めた時に、金ヶ崎城の軍議に来れる場所にいなくて、さらに敵地に踏み込んだ場所にいたとしか考えられないのよね。だから朝倉の追撃軍とも戦ったで筋が通るけど、

「五千もおったら逆襲して踏み潰せるんちゃうか」

 家康軍も苦しい立場だけど、本国が遠い分だけ結束力は強かったのは同意だ。家康が率いる部隊は強いのが定評だから、これだけの人数の部隊が逆襲も強力のはずだものね。

「姉川の時も強かったみたいやもんな」

 撤退戦は事情が違うだろうから同じに出来ないだろうけど、追撃する朝倉軍もそんなにいたかの問題も出てくるのか。

「それにやけど、京都からどないして帰ったかの問題も出て来る」

 ここもはっきりしないとこが多いみたいだけど、浅井軍は南下してきて京都と岐阜の交通を遮断しようとしたのはわかってる。遮断される前に駆け抜けたのかもしれないけど、とにもかくにもどうやって家康が三河に帰ったかの記録はないそう。

「とにかく無事に帰れたんは間違いあらへん」

 軍勢は多いほど動きが鈍くなるから家康軍は千とか二千ぐらいじゃんかったかとコトリさんは見ているよう。ホント歴史って欠けているピースが多いと思うよ。

「だからおもろいし、なんぼでも歴史小説が出て来るんやんか」

 たしかにね。作者によって戦国の英雄像はだいぶ変わるものね。

「戦国どころか、第二次大戦でもちゃうで」

 ああなるのは史観だって。要するに歴史を解釈する時の基本スタンスみたいなもの。史実と抜けてるところを埋め合わせる時に、一定の思想ファクターをかけて想像していくみたいな感じ。

「史観を持つのは悪いこっちゃないけど、そこに政治的イデオロギーがすぐに入り込むから胡散臭くなるのも歴史やねん」
「大戦前の皇国史観も相当なものだったけど、戦後の自虐史観と言うか、行き過ぎたマルクス的な史観というか」

 そんな時代があったらしいのは知っている。

「非武装中立万事解決主義もなぁ」

 コトリさんに言わせると、

「コトリかって戦争は大嫌いや。そやけどな、平和は天から降って来るもんやあらへん。自分で勝ち取り、守り抜くもんや。世の中の物事に話し合いは大事やけど、それで解決できるんはちょっとしかあらへんねん」

 もめ事の解決交渉で最後にものを言うのは力って身も蓋もないけど、

「あんまり言わんとこ。政治はコリゴリや」
「わたしも」

ツーリング日和14(第22話)観光

 今日のツーリングはやっぱり異様だ。だってだよ、敦賀の丹後街道の始まりの石碑で一休み、関峠で大休止、椿峠の手前の坂尻でまたまた大休止、佐柿に至っては城跡登山と郷土史研究家との話で二時間も座り込み。

 お昼の時も話し込み、九里半街道のところも大休止で、熊川宿もベッタリ動く気配もなくなっている。並べるだけならあちこち行っている様にも見えるけど、距離にしたらたったの五十キロぐらいしか走ってないんだよ。

「十二里か、頑張ったら歩ける距離やな」
「そんな険しいところはなかったから余裕よ」

 あのね、昔の旅人と較べてどうするの。

「これはやな、昔の人の移動時間とか、移動感覚を体験してもらおうと思てや」
「今の人の距離感と違うでしょ」

 そんなものバイクで走ってわかるか! ところで気になっているのが今日の宿。亜美さんのフィールドワークのお手伝いだから今日一日で終わらせるかと思ってたのだけど、この調子なら京都まで行きそうだ。そうなるとどこかに泊りになるのだけど、

「熊川宿を見とかなあかんから・・・まずは宿場館が定番やな」
「近いからでしょ」

 まだまだ熊川宿から神輿があがりそうな気配がないのよね。コトリさんはツーリングとなると綿密な計画を立てる人のはずだから、そういう点では心配はしていないのだけど、欠点は今日の予定を言わないこと。

「旅はサプライズよ」

 あのねぇ、ユッキーさんもユッキーさんで、どこに行くのかも聞いてないのが平気なのが不思議すぎるのよね。

「だいたいわかるじゃない」

 それはそうだけど、本当に聞いてないみたいで、宿の前でいつも、

「へぇ、ここなんだ」

 こんな感じのリアクションを平気でするんだもの。とにかく付いて行くしかないけど、

「亜美さん、熊川宿は」
「初めてです」

 ちょっと遠いと言うか、高校生にはこういうところは面白くないかも。よく不満も言わずに我慢してるよ。

「そんなことないです。全然違った世界が見えてきて楽しいです」

 なら良かった。宿場館はオヤツを食べたところの向かいぐらいだけど、大昔の小学校の木造校舎みたいだな。真剣にそうかと思っていたら、ここはまだ熊川が自治体として独立していた頃の村役場だそう。

「どうでも良いけど若狭町ってなんなのよ」
「広すぎやで」

 福井県の嶺南地方って、東から敦賀市、美浜町、若狭町、小浜市、おおい町、高浜町で全部なのよね。若狭町なんか北は三方五湖で南は熊川宿まであるんだもの。

「歴史だけ言うたら・・・」

 丹後街道から九里半街道に入った交差点があったけど、あそこの少し北側の谷間に堤ってとこがあるんだって。ほとんど田んぼばっかりの田舎だけど、鎌倉時代に若狭守護が館を置いていて若狭の中心だった時期があったそう。

 だからなんだって話なんだけど、いつもことながら良く知ってるよね。どれだけ下調べしてツーリングに来てるのか思うもの。それはともかく宿場館の中は妙に面白い。村役場時代の雰囲気が残されていて、村長室とか、収入役室みたいなレトロな部屋札がかかってるもの。

 建物自体も古びてはいうけど、これはなんと個人が寄付したもので、村から立身出世して都会の商社の社長になった人が建てたとか。だから妙に立派と言うか、チープさが無い感じ。だから残ったんだろうな。

 展示物は、そうだね、あちこちにある民俗資料館みたいなものだね。雑多なものがこれでもかと展示してあった。

「白石神社も見とこ」

 宿場館のすぐ近くに鳥居があるけど、そこからの参道が長かった。鄙びた神社だけど、

「宿場館に写真があったやろ。あんな山車が出る祭りをするそうや」

 京都の祇園祭のミニチュア版みたいな感じだった。やっぱり京都の影響が大きいみたい。

「得法寺も外せんな」

 これも白石神社の鳥居から近いところ。それなりに立派な寺ではあるけど、

「あったあった」
「コトリ、これなの」
「そうそうや」

 なにやら大きな枯れ木があるけど、

「徳川家康公、腰掛けの松や」

 ありゃ、そんなものがあったのか。なんたらが腰掛けたととか、馬を繋いだとか、そうそうだ弁慶の足跡ってのも多いはず。いつもホンマかいなと思っちゃう。

「まだ時間あるな。熊川番所も回っとくで」

 これはちょっと遠くて十分ぐらいかかったかな。ここまで来ると中ノ町じゃなく上ノ町になるみたいだけど、復元がちゃんとされているのが嬉しいかな。この番所の前身が熊川奉行所で、さらに前身が熊川陣屋らしいけど、それを聞くと格下げのなれの果てみたいで可哀想になっちゃった。

「まだ時間あるな。あれおもしろそうやんか」
「コトリも好きだねぇ」

 連れていかれたのはなんと忍者道場。忍者と言えば伊賀と甲賀だけど若狭なんかに有名な忍者でもいたのかな。

「亜美さんが退屈そうやん」
「忍者体験はレポートに出せるはず」

 出せるか! 尻啖え孫市に忍者なんか、

「出とったやんか」

 そうだった。それもくノ一だった。でもってユリも一緒にやらされた。それも忍者のコスプレまでしてだよ。そこまでやるかと思ったけど、大乗り気も良いところだもの。着替えも終わって、

「よろしくお願いします」

 この体験コースだけど真面目なものだった。呼吸法から始まって、忍者屋敷の仕掛けの解説もあって、抜刀体験まであった。刀ってあんなに抜きにくいもんだと思ったもの。最後は手裏剣体験があって、

「投げにくいもんやな」
「こんなの当たらないよ」

 とか言いながらノリノリでやってたよ。さてどうするんだと思っていたら、再び中ノ町に戻り、見るからに歴史がありそうな立派な家の前に立ち、

「ここや」
「おもしろうそうじゃない」

 ここに泊るの!

「江戸時代の宿泊体験もどきや」
「亜美さんの良い勉強になるよ」

 あのねぇ、亜美さんにかこつけて、自分たちの趣味やってるだけじゃない。

「失礼な。歴史オタクはコトリでわたしじゃない」

 どうだか、

「ユッキーーは温泉趣味やからな」

 そうだった。こんなところなんだと思いながらお風呂を頂いたら夕食だ。

「じゃじゃ~ん、特別に頼んどいた」
「やったぁ、鯖寿司と焼鯖寿司じゃないの」

 それも二本ずつ。そう言えばあれだけ鯖寿司の話をしながらまだだったものね。

「これって小浜酒造だから、わかさを作っているところね」
「これも一升瓶にしてもうてる」

 やると思った。