恵梨香の幸せ:披露宴

 隆行と言うか浜崎の家がやろうとしているのが披露宴。正式の披露宴じゃないけど、親族に婿である康太を紹介する宴会って感じかな。結婚前に両家の親族が顔合わせでお食事会の拡大豪華版としても良いかもしれない。

 これをお稲荷さんの祭りの日にぶつけるプランなんだよ。会場は浜崎の実家で親戚と御近所さんを集めてするのが基本計画。要はしょぼくれた神事しか出来ない〆平のお稲荷さんの祭りへの当てつけ。

 だから準備は鳴り物入りぐらいの勢いで行われてるらしい。招待状は〆平の家を除く守旧派にも送られたのだけど、

「どういう意味?」
「踏み絵だよ」

 守旧派も内実は様々で、爺さん、婆さんはゴチゴチのが多いけど、息子世代や孫世代になると反感を持ってるところも多いのよね。それの切り崩しを狙ってるぐらいかな。それだけの規模の宴会になると予算もかかるけど、

「披露宴風にしてるのがミソだよ」

 お稲荷さんの花代をお祝儀としてアテにしてるらしい。さらに、

「神保さんにも悪いけど」
「そういうことか」

 要は結納金代わりに援助してくれらしい。康太に話したら快諾してくれた。浜崎の実家は立派とは言えないけど、農家だから広いのよね。古い家の作りって部屋を障子で仕切ってあるだけだから、外せば広間になるのよね。

 庭も農作業に使うから広くて、座敷に上がれない人のためにテントを張って、テーブルと椅子を置くらしい。

「来るかな」
「来なけりゃ、終わりだよ」

 自分のところの祭りを蔑ろにされて、なおかつその宴会の主旨が恵梨香の再婚相手の紹介だものね。黙って指をくわえて見てたら、祭りへの不参加も、恵梨香の再婚も黙認した事になっちゃうのよね。祭りは〆平の権威の象徴みたいなものだし、恵梨香は今の苦境を切り抜ける最後の切り札みたいなもの。勝手に切り札にされてるのが迷惑だけど。


 準備が整って康太と恵梨香の故郷に。ホントに久しぶりで、〆平との離婚騒動で逃げ出して以来だもの。さすがに懐かしくて、ちょっとウルっときちゃった。康太も興味深そうに、

「ここが恵梨香の生まれ育ったところか」

 実家に到着したのは宴会の前日。定番の、

「恵梨香さんとの結婚をお許し下さい」

 こんな感じで康太は頭を下げたんだけど。親父は、

「こちらこそ、娘をお願いします」

 もう恵梨香が再婚するなんて無いと思ってたから、涙を流して喜んでくれた。お母ちゃんも泣いてたよ。翌日の宴会の準備に近所の奥さん連中が勢ぞろいって感じで詰めかけてたのだけど、やはり興味は恵梨香のお婿さん。

 これも田舎だからそうなるのだけど、明日の宴会では近所の奥さん連中は裏方になるから、康太に直接話を聞くなら今日になるのよね。康太も愛想よく話してた。

「お仕事は?」
「神戸で自営業やらせて頂いてます」
「恵梨香さんのお仕事はどうするの?」
「結婚後も働いてもらいます」

 こんな感じ。翌日も朝早くから宴会の準備のために近所の奥さんたちも詰めかけていたのだけど、そこに団体さんでやって来やがった。庭から怒鳴り上げる感じで、

「恵梨香は〆平の嫁だ。結婚など許されるか!」
「恵梨香を誑かした馬の骨はどいつだ」
「余所者は引っ込んどれ」

 そりゃ口々に大声で罵ってた。康太は縁側に出てきて、

「初めまして。神戸で開業医をしている神保康太です。以後、お見知り置きを」

 これで終わった。〆平の連中は、

「お、お医者様だって・・・」

 尻尾を巻いて帰って行ってくれた。この辺に説明がいるのだけど、医者は都会でもそれなりに敬意を払われる職業だけど、恵梨香の故郷では異常なぐらい尊敬されるのよね。恵梨香の親父なんか、

「相手はお医者様って本当なのか?」

 十回ぐらい念を押されたぐらい。お母ちゃんなんて腰抜かしてしばらく立てなかったらしい。なんでそこまで医者が尊敬されるのかだけど、尊敬というより祟られないようにしてるぐらいが真相と言うか、キッカケらしいのは聞いたことがある。

 なんでも大正の頃に伝染病が流行してバタバタと死人が出た時に村人が三拝九拝の末に医者が来てくれたそうなんだ。その医者はそれこそ身命を投げうって治療にあたったそう。康太に聞いたら、

「スペイン風邪じゃないか」

 康太に言わせると、当時じゃ有効な治療法なんてなく自然治癒を待つだけのはずだとしてるけど、そこまで当時の人間にわかるはずがないものね。今だって怪しいところもあるぐらいだし。

 それはともかく当時の医療は自費診療。健康保険なんて無い時代だから、カネがないと受診も治療も出来ないのよね。だけどその医者は私財を投げうってまで治療にあたったんだって。

 その医者はカネの有る無しに関係なく診療したそうで村人には感謝されたんだけど、カネのある有力者の反感を買う事になったそうなんだ。要はカネを払える自分たちを優先しろの要求ぐらい。

 有効な治療法がある時代じゃないから、医者がどんなに頑張っても死者が出るけど、結果的に後回しにした有力者の家族が死んだそう。これに怒った有力者がその医者を村から叩きだしちゃったんだよ。

 これも康太に言わせると偶然だとしてたけど、医者がいなくなった後に医者追い出しに加担した有力者の人間が次々に亡くなったそう。先頭に立った家なんて死滅したって話になってるんだ。

 田舎だから医者を追い出した祟りと信じられて祠まで立てられ、これは今でも八幡さんの境内に残ってるぐらい。さらに言えば、それ以来、村に医者が居着くことがなくなり、その医者を追い出してしまった事をずっと後悔したんだって。この辺も康太に言わせると、

「今も医者は足りないって言われてるけど、昔は格段に少なかったから、その時に医者が来ただけでも驚くけど」

 歳月が経って祟りと後悔が一体化して変質し、なぜか医者への異常な尊敬というか畏敬になったぐらいで良さそう。これだって世代で温度差があるのだけど、とくに古い考えの人ほど強いのが今回の作戦のミソなんだ。そう、守旧派の連中のほうが医者への尊敬がより強いってこと。

 康太が医者だって鳴り物入りで帰る手もあったけど、隆行たちと相談して小細工を施したんだ。まず、康太が医者であるのを知っているのは親父とお母ちゃんと隆行だけにした。その状態でクルマで帰ったのだけど、例の赤いアルト。服も康太の定番のデニムの上から下まで青。

 親父への結婚申し込みもその格好でしてもらい、さらに近所の奥さん連中の時も同様。近所の奥さん連中と康太を話をさせたのもポイントで、これで〆平の家まで康太が何を話したかまで筒抜けになるのが田舎だよ。

 軽自動車でやってきて、服だって大したことがない。自営業の上に恵梨香も働くと聞いて、康太を格下の人間であると思い込んでくれた。庭に回らせたのもポイントで、玄関の前にはわざと荷物を積んでおいたんだ。

 後は〆平の連中が康太の悪口を言うのは確実だから、言うだけ言わしといて、縁側から庭を見下ろすような位置関係で康太の職業を聞いてもらう作戦。水戸黄門風だけど、恵梨香の田舎では効果抜群なのよね。

『お医者様を頭ごなしに侮辱した』
『失礼にも程がある』

 そりゃ、あれだけの人数の前でやらかしたから、あっという間に悪評が村中に走りまくることになる。この辺は話にすぐに尾鰭が付いて、

『お医者様の嫁を奪い取ろうとした不届き者』
『村の恥さらし』

 宴会は披露宴に限りなく近いスタイルになって大変だったよ。康太は紋付き袴で恵梨香なんか白無垢着せられて、金屏風の前の高砂席みたいなところに座らされたものね。座敷は親戚連中が座ったんだけど、誰もが康太が医者だと知ってコチコチ。

 浜崎の家ってお世辞にも上品じゃなくて、この手の宴会となると飲めや歌えの乱痴気騒ぎになるのだけど、みんな借りてきた猫みたいに大人しくて笑ってた。康太は、

「浜崎の家ってこんなに静かなの」
「まあ、今日はね」

 とりあえず誤魔化しといた。庭は親族以外のお客さん用だったけど、次々に押し寄せてきて大変だった。招待状の返事は保留のところが多かったのだけど、恵梨香の結婚相手が医者と分かり〆平の連中が恥かいて帰ったと聞いて、

『こりゃ、挨拶だけはしておかないと』

 お祝儀持って押し寄せて来たってこと。康太も恵梨香もずっと挨拶のし通しで参ったけけど、みんなに祝福してくれて嬉しかったのも本音。幼馴染にも再会できて嬉しかったし。康太には少しウソを吐いて協力してもらったんだ。恵梨香は再婚だから、初婚の相手が再婚の時に文句を言いに来る風習があると言っておいたんだ。

「それって、うわなり討ちみたいなもの?」

 うわなり討ちってなんだと聞いたら、うわなりとは『後妻』のことで、先妻を離縁して後妻を迎えた時に、先妻が台所を襲う風習だってさ。先妻は台所のすべてを叩き潰そうとするし、後妻は防ごうとする喧嘩みたいなもので、女だけでやるのが特徴ぐらい。

「最後にボクが医者と言えば本当に終わるの?」
「えっと、えっと、そうなる」

 康太はある種の儀式みたいなものと理解してくれたみたいで助かった。だからクルマはともかく服装や、職業をボヤかすのにも協力してくれた。もちろん後で全部話して謝っておいた。康太は、

「そういうことか」

 でも最後まで、どうして医者であるで〆平の連中が尻尾を巻いて逃げて帰ったのかは理解できなかったみたい。しょうがないよね、それこそ、そういう風習が恵梨香の田舎ではあるしか言いようがないもの。帰りにアルトにテンコモリの玉ねぎをもらったけど、

「恵梨香、ありがたいけど多すぎないか」
「玉ねぎ料理なら任せといて」

 結果として恵梨香は康太の嫁、いやそれ以上にお医者様の嫁として村中から認められ、〆平も文句を言えなくなったぐらいかな。いくら〆平でも医者の妻になった恵梨香に手を出したりすれば、ホントに村八分にされかねないのが恵梨香の故郷なんだ。

 語弊はあるかもしれないけど、恵梨香は故郷では活け神様と結婚したようなもので、活け神様の嫁を出した浜崎の家は、神様の親戚みたいな扱いにされるってこと。これも伝承とか伝説に過ぎないと思うけど、大正時代に医者を追い出して以来、村人で医者と結婚したのさえ一人もいないってなってるぐらいだもの。

 とにかく、これからは故郷に大手を振って帰れるようになったってこと。田舎の長い宴会になったのは康太に悪いと思ったけど。

「花嫁姿の恵梨香を見られて幸せだったよ」

 恵梨香はどうせならウエディング・ドレスを着たかったけど、あの雰囲気じゃ無理だものね。故郷からの帰りにそんなことを話したら、神戸に帰ってからチャペルでウエディング・ドレスで二人だけの式を挙げてくれた。指輪ももらって、

「やっぱりちゃんとやらないとね」

 その夜に、初夜気分で二人で燃え上がったよ。もう何度昇天したか数えきれないぐらいだった。康太の妻になった実感が嬉しくて、嬉しくて。さすがに恵梨香は康太を活け神様とは思わないけど、違った意味で神様かもしれないと思ったもの。

恵梨香の幸せ:祭りの準備

 恵梨香の故郷にもお祭りがあるのだけど、秋は鎮守の八幡さんで、だんじりも繰り出す賑やかなもので恵梨香も子どもの時は楽しみにしてた。それ以外に春にもある。この春祭りが少々どころでなく問題。

 お稲荷さんなんだけど、〆平家の先祖が勧進したらしくて、今でも氏子総代として仕切ってるんだよね。〆平家が仕切るから、江戸時代の亡霊のような家意識剥き出しの序列関係で祭りをやるんだよ。

 ここも説明がいるのだけど、恵梨香の故郷は田舎で農村だけど、全体で言えば非農家の方が多いのよね。農家と言っても機械化で人手は昔みたいにいらないし、一町歩ぐらいあったところで、それじゃ四人家族程度が暮らすのにカツカツぐらいしか収入がないってこと。

 田畑は家ごと長男が継ぐと次男以下は農業なんてしないってことなんだ。恵梨香の下の弟の隆明もそう。だから村から出るのも多いけど、洲本ぐらいで仕事が見つかれば通ってる家も多いんだよね。それ以外にもバブル期に土地が安いから引っ越して来た家もある。

 さすがにバブル期以外にこんな田舎に引っ越して来た家はないと思うけど、すでに子の世代になってるんだよね。それなのに〆平を筆頭とする守旧派の頭の中では、

 旧庄屋 → 旧本百姓 →→→ 旧水呑百姓 →畑作農家 →→ 余所者

 この序列で祭りをやるんだよ。具体的には旧水呑百姓以下の家が使用人というより下男や下女のようにコキ使われるってこと。とにかく口は出すと言うか、なにをやっても文句を付けるだけで、

『仕上がりが悪い』
『提灯の並びが気に食わない』
『掃除がなってない』

 こんな感じ。準備もこんな感じだけど、祭り本番も〆平のお稲荷さんを参らせてやるの態度があからさま。田舎の事だし、お稲荷さんの祟りもあったら嫌だから付き合ってはいたのだけど、内心では殆どの人がウンザリしてた。だから義理でお参りしたら、トットと帰るのが春祭りだった。

 お稲荷さんの春祭りも婆ちゃんに聞くと、婆ちゃんの子どもの頃はもっと賑やかだったんだって、なんと言うか、当時の〆平の当主は、わざわざ〆平のお稲荷さんに参ってもらってありがとうって感じで、子どもにはお菓子も配られるのが楽しみだったと話してたもの。

 その後はよくわからないけど、とにかくクソ元舅が氏子総代になってからは悪くなる一方だって言ってた。まず起こしたのがダンジリ事件。春祭りにもダンジリ奉納があったんだけど、

『水引や高覧掛けがみすぼらしい』

 淡路のダンジリって布団屋台なんだけど、水引にしろ、高覧掛けにしろすぐに一千万円単位になってしまうもの。そんなに簡単に買い換えられるものじゃないのよね。それより何よりダンジリを維持するだけで大変だし、ダンジリにも誇りを持ってるんだよ。

『あんなみすぼらしいダンジリを奉納させてやるのだから、奉納料を出せ』

 これを言われた青年団が怒って、怒って、ダンジリ奉納がなくなった。次に起こしたのが花代問題。花代って祭りの奉賛金の事だけど、秋祭りの八幡さんなら、放っておいても祭りの参加料として集まるし、別に金額も決まってないのよね。

 これをクソ元舅は全戸強制にしたんだよ。一口いくらってシステム。それもどこそこの家は何口って決めてね。一応表向きの理由として、台風でお稲荷さんの屋根が傷み雨漏りするから修理が必要になってた。不満はあったけど修理のためなら仕方がないで渋々従ったぐらいかな。みんな陰でお年貢って呼んでたらしい。

 ところが五年前の台風でまた屋根が傷んだだよ。そしたらクソ元舅は花代を二倍に値上げしやがった。おかしいじゃないかの声があがったんだって。だって、花代強制徴収になってからずっと払っているのに、どうして修理代が足りないんだって。

 かなり不満の声があがったらしいけど、お稲荷さんの祟りも怖いし、今までの付き合いもあるから、払ったそうなんだ。でもね、お稲荷さんの屋根のブルーシートはそのままで、去年も花代をさらに二倍にしたんだって。

『どうなってるんだ!』

 この声があがったけど、

『修理代の値上がりのため』

 これで押し切られそうになったみたいだけど、そこで発覚したのがクソ元夫の花代使い込み。どうしてバレたかって、笑っちゃいけないけど、花代の祝儀袋抱えてパチンコやってるのを見つかってるんだ。この時にクソ元姉小姑夫婦も一緒にやっているのが見つかってる。これに対してだよ、例のカビの生えたような上から目線で、

『注意はしたし、本人も反省した。この件はこれで終わり』

 さすがに腹を立てたのも多かった。直接文句を言っても剣もホロロの対応しかしないから、もう春祭りには協力しないの声が溢れたぐらい。そしたら今年も花代を値上げしやがったんだ。さすがに村でも公然と不満の声があがって、

『去年の使い込みはすべて〆平の家の陰謀』
『祭りを私物化してる』

 さらに、

『今までだって怪しいものだ』
『ずっと使い込みをやってたに違いない』

 この辺は〆平の家の経済事情が田舎の事で筒抜け同然なんだよな。それとあれだけ花代を取りながら、お稲荷さんの屋根には未だにブルーシートのままなんだもの。話はさらに田舎なりに広がって、

『〆平の家が落ち込んでるのはお稲荷さんを蔑ろにしたからや』
『花代を懐に入れた祟りや』
『関わったら、こっちにも災難が来るで』

 神社って地域の氏神で神社ごとにテリトリーを持ってるんだよね。神道は大らかと言うか、大雑把なところがあって、テリトリーに住む住民すべてを氏子にしてる。だから統計上では日本国民すべてが神社の氏子、つまり信者として報告されてるんだって。

 ここでだけど、恵梨香の村なら氏神は八幡さんになり、八幡さんの氏子なんだよ。じゃあ、お稲荷さんはどうかと言えば、〆平の氏神で〆平が氏子で〆平は八幡さんの氏子じゃないのよね。

 もっともそれは角を立てれば程度の話であって、いくら故郷が田舎と言っても八幡さんもお稲荷さんも大事してて、気分的には両方の氏子と言うか、村にある二つの神社のお祭りに参加しているぐらいが正しいと思う。お寺さんは墓や仏壇の関係でウルサイけど、神社は祭りぐらいしか関係しないからね。でも花代問題が出てから、

『うちは八幡さんの氏子で、お稲荷さんは無関係』

 こう言って花代を断る家が増えてるんだって。それだけじゃなく、祭りの準備への参加も拒否が増えてるんだって。花代を集めるのも今までは、旧水呑百姓以下の家を顎で使っていたんだよ。それが集まらなくなったから、自分で行ったんだって。〆平の人間はとにかく見下す意識だけは高いから、

『つべこべ言わずに払え。払わなかったらタダでは済まさんぞ』

 こんな調子だけど、口喧嘩の末に塩まかれて追い出されたところもあるそう。だからお稲荷さんのお祭りの準備も進んでなさそう。いわゆる守旧派は〆平の家だけじゃないけど、恵梨香の家みたいなところを顎で使いまくって、文句しか言わない感じ。まるで恵梨香が〆平の嫁の時みたいなもの。

 そんな使用人が減ってしまって困ってるはずだけど、だからと言って自分では動かないんだって。減っても今までの義理があるから協力していた家もあったそうだけど、数が減ったら今までみたいに準備が進まないじゃない。なのに、

『遅い』
『やる気があるのか』

 こうやって今までと同じように文句並べるばかりだから、最後まで義理立てして協力して手伝ってた家まで怒って帰ったって。

「祭りはどうなるの」
「神事だけにするとか、しないとか」

 実はこれも村人の反感を買ってるところだけど、どちらの神社も神主さんは不在なのよね。田舎の小さな神社だから、どこでもそんなものだろうけど、祭りの時に他から呼んでるんだ。

 ところがお稲荷さんの方は神主を呼ぶのを四年前から辞めちゃってるのよね。代わりにクソ舅が祝詞を読むんだけど、その頃にクソ小姑シスターズが相次いで転がり込んで来たから、神主さんのバイト料をケチったと見られてるんだ。神事の倹約は、

『あんな事をするから〆平の家は・・・・・・』
『お狐様は怖いぞ』
『ほら見た事か』

 しきたりとか、慣習を破ると祟りが起こると発想するのが田舎者のデフォだけど、その結果が目に見えて〆平の家に起こってるとも見えるわけで、村内の声として、

『やっぱり』

 こうなってるぐらい。一連の春祭りにまつわる騒動で、守旧派とそれ以外が対立構図になったと言うか、守旧派が村内で浮き上がった状態になってるで良さそう。もう、付き合いきれんのマグマが噴出した状態で良いみたい。

「姉ちゃん、そやからトドメを刺してしまおうの話になってるんだ」
「村八分とか?」
「姉ちゃんも古いな」

 村八分って葬式と火事以外の交流を絶ってしまうものだけど、そうじゃなくて、守旧派の面子のために残されていた慣習的な役割から引きずり降ろしてしまおうぐらいだって。要は対等の付き合いにするってこと。

「その起爆剤に姉ちゃんになってもらう」

恵梨香の幸せ:元婚家

 そうそう元婚家の名字は、

『〆平』

 これを『しめひら』と読む。珍しい名字だと思う。江戸時代には苗字帯刀を許されていたってのを自慢してたよな。恵梨香にしたら、それがどうしたぐらいにしか思わなかったけど、とにかくイヤミの材料に使われまくったから、恵梨香は苗字帯刀を聞くだけで嫌な気分になるぐらい。

 恵梨香にも弟がいて上が隆行、下が隆明。家は隆行が継いでくれている。仲は良くて、恵梨香のところにも従兄妹を連れて遊び来ることもあるんだよ。隆行にあのクソ元婚家がどうなってるかを確認してみた。とりあえずクソ元舅姑、クソ元夫は健在だった。ただそれだけじゃなく増えてるんだ。

 増えてるって言ってもクソ元夫が再婚して子どもが出来た訳じゃない。あのクソ元夫には妹がいるんだよな。恵梨香も良く知ってるけど、それこそのクソ姑のクソ娘って感じのクソ小姑。時々帰って来て恵梨香をこき使い、嫌味どころか罵倒してくれたよ。

 まずクソ姉小姑だけど明石の会社の社長の息子と結婚してる。恵梨香が嫁いだ頃には旦那は三代目社長になってて、恵梨香に社長夫人風を吹かせまくってくれたよ。だけど旦那の会社は倒産、負債を抱えて破産して行くところがなくなって転がり込んで来たぐらい。このクソ姉小姑夫婦なんだけど、子どもが四人もいるんだよ。

 クソ妹小姑は神戸の方に嫁いでいたのだけど、これが出来婚なんだよね。まあ、それは良いとしても、結婚してからも不倫騒動を何度も引き起こし、最後は親子鑑定まで行ったらしい。

 この結果が衝撃的。子どもは三人いるけど、旦那の子どもはゼロで、全部父親が違うってなんなのよ。どんだけ尻が軽いと言うか、股が緩いと言うか。家から叩きだされて実家に逃げ込んだぐらいかな。


 結局のところ十三人の大家族になってるのだけど、一遍に生活が苦しくなったらしい。そりゃ、無駄飯食いを十人も抱え込んだらそうなるよな。それに元婚家がいくら広いと言っても、中高生が七人もいれば狭くなる。

 元婚家の収入はだいたいわかる。田んぼは一町歩だから四百万円ぐらい。それじゃ食えないから、クソ元姑とクソ元夫は地元の農協に勤めてた。農協って給料が良さそうな印象があるけど良いのは全農とか連合会だけで普通の農協は安いのよね。それでもクソが二人で八百万円ぐらいあったはず。

 恵梨香は毎日毎日、孫産め、男産め、早く産め、仕事辞めろ攻撃にさらされ続けたけど、仕事が続けられたのは恵梨香の給料目当て、全部没収されたけど三百五十万円ぐらいあったんだ。だから恵梨香のいた頃は家族四人で千五百万円ぐらい年収があったはずだよ。

 今はクソ舅は定年退職して年金暮らしであれが百万円足らずぐらいのはず。そうなると今は九百万円程度になると言いたいけど、九百万円でも中身が変わってるはず。兼業でも農家だから米は自給出来るけど、四人と十三人では田んぼからの現金収入が違うのよね。

 一町歩の田んぼから米は四十石(百俵)取れて一石が十万円、一俵が四万円になる計算なの。人ってどれほど米を食べるかだけど、今の平均は一日一合程度でおおよそ年に四百合になる。つまりは一俵ってこと。

 恵梨香の頃は農家だから米の消費量は平均の倍ぐらいで、四人で年間八俵ぐらいだった。つまり残りの九十二俵をカネにしてたから三百七十万円ぐらいだったはず。

 今は現金収入が落ち込んでいるうえに、食べ盛りが七人もいるから一人当たり四合、つまり四俵ぐらいでも不思議ないと思う。そうなると年間五十俵ほどいるから、田んぼからの現金収入は半減して二百万円ぐらいになっていてもおかしくない。

 それでも兼業でも農家だから野菜もかなり自給できるから、慎ましく暮らせばなんとかなるはずだけど、とにかく見栄張りの家だから余計な出費が多いのよね。さらにそういう環境で育っているクソの集団だから、カネ使いがかなり荒い。

 隆行から聞いたけどクソ元夫もパチンカスだったけど、クソ姉小姑夫婦もそうみたい。とくにクソ元姉小姑夫婦はやることないから、入りびたり状態みたい。余裕が乏しいところにパチンカスやられたら余計に苦しくなるのは当たり前。

 それでも現金収入が七百万円あるからなんとかなってたみたいだけど、クソ元夫が遊ぶカネ欲しさに農協商品の横流しをやらかした。発覚して刑事告訴は弁償することでなんとか免れたみたいだけど、懲戒免職で退職金もパー。この時にクソ元舅の退職金も吹っ飛んだって話なのよね。これでついに現金収入三百万円の十三人家族が出現したことになる。

 これだって食費以外の三百万円とも言えるけど、田んぼの二百万円だって農機具の維持費や、肥料や除草薬代がかかるから全部じゃない。もちろん光熱費、水道代、クルマの維持費・・・だいたいだけど、三百万円って言っても、十三人で割ったら一人当たり月二万円しかないからね。


 苦しければ働きゃイイのに、誰も働かないのよね。クソ元舅は歳だし年金もらってるし、農業担当と見れるけど、クソ元夫も農業担当じゃね。だけどあれだけの犯罪行為をやらかせばどこも雇わないよ。さらに言えば農協勤務時代も何様かってぐらいエラそうにしてて、散々の悪評だったし。

 何様かと言えばクソ元姉小姑夫婦もそうみたいで、会社を倒産させてるのに社長夫妻の気分のまんまらしくて、パートなんて論外で正規の従業員もNOらしい。望んでいるのは雇われの経営者って話だけど、誰が会社を倒産させるような人間を使う物かってお話だよ。

 クソ元妹小姑もずっと有閑マダムやってたから働く気なんてゼロ。つうか、クソ元小姑は実家に帰ったからには、優雅に暮らせるぐらいにしか考えてないで良さそう。これも噂だけど次の男を物色してるとか。どんだけよ。そんなに男が欲しければ泡風呂にでも行けば良いのに。

 七人の子どもだけど、中学生が三人で高校生が四人。中学生がせめて高校までは理解するとして、高校生の四人は高卒で働くなんて全然考えてないらしい。大学進学するのだって、奨学金もらって国公立に入り、バイトで学費や生活費を稼ごうとするならまだしも、そんな学力も意欲も無いんだよね。

 目指しているのは東京の私立大、それもFランだって言うんだからアホだ。要は東京で学生しながら遊びたいだけ。ぼっちゃん、お嬢ちゃん気分が抜ける気配もないぐらいかな。あの親にしてあの子ありの見本みたいなもの。月二万円で行けるわけないだろ。


 それでもカネがなくなって来てるのはわかったみたいなのと、大家族だから家事に悲鳴が上がってるらしい。そりゃ食事の準備だけで食い盛り七人を含む十三人分だし、洗濯だって十三人分。

 クソ姑がクソ小姑を使おうとしても、子どもの時から家事なんてほとんどやってないし、小姑二人も結婚してからも家事なんてやってないのよね。さらにいえば、子どもも同上。そんなクソ連中が集まって立てた解決策が、

『恵梨香を呼び戻す』

 恵梨香は信用金庫勤めだから四百五十万円ぐらいあるのよね。恵梨香が嫁に戻れば、現金収入が一挙に増えるし、そのうえ家事奴隷が出来て文句なしぐらいだってさ。恵梨香がまだ独身であるぐらいは確認したみたいで、

『もう一度、もらってやるから喜べ』

 こんな感じで実家に申し入れがあったみたいだけど、隆行が言うにはあれは通告だって言ってたよ。ついでに言えば恵梨香の実家からもタカる気もミエミエだってさ。ホント、キチガイ集団の妄想には付いていけないよね。

 でもさぁ、考えてみると恵梨香ばっかり被害に遭って、ずっと逃げ回ってるっておかしいじゃない。恵梨香だって、たまには実家に帰りたいし、友だちにも会いたい。このままじゃ、ずっと帰れないのよね。

 隆行も元婚家の横柄さにウンザリしてるし、そう思ってる人も故郷では今や多数派になってるのよ。いくら田舎だって、いつまでも江戸時代の亡霊に付き合える人間は絶滅危惧種になってるってこと。


 康太は結婚の挨拶に行きたがってるのよね。神戸に来てもらっても良いのだけど、先に籍入れてるから、順番が逆になってしまってるのを気にしてるぐらい。康太は都会生活が長いけど、元はそれなりの田舎の人だから、

『ウソは良くないけど、表向きは恵梨香を妻に欲しいって申し込む形にしようと思うのだけど』

 入籍日なんて確認しないだろうから、まだ未婚にして恵梨香の両親に挨拶をして、そこから入籍結婚したことにしようってさ。その方が田舎的には角が立たないんじゃないかって。だからまだ隆行にも再婚したことを伝えてないのだけど、

「姉ちゃん、ちょっと考えてることがあるんだけど・・・・・・」

 そこから隆行と作戦を練り始めた。

恵梨香の幸せ:恵梨香の実家

 恵梨香も聞いただけの話だけど江戸時代の百姓も身分差があったんだって。まず上に来るのが本百姓。自分の土地を持っていて家屋敷があるタイプだけど、年貢を納めてるぐらいかな。

 これに対して水呑百姓は自分の土地を持たない小作人で良いと思う。年貢は免除となってるそうだけど、年貢と小作料を地主に納めてる事になる。だから水呑百姓は村内の地位も低くて発言権もないぐらいだったそう。

 恵梨香の家は水呑百姓、対して元婚家は元庄屋の地主。世が世ならまともに口が利けない事になるぐらいになるらしい。とはいえ今は時代が違うのよね。庄屋も明治維新で無くなってるし、地主階級も戦後の農地改革で解体されてる。

 戦後の農地改革は徹底してて、一町歩以上は国にすべて買い取られ、実際に耕作してる小作人に売り渡されてる。終戦後のインフレは凄かったから、ほとんど二束三文だったらしい。

 この時に恵梨香の家も自作農になってるし、元婚家の田んぼだって一町歩しかない。だから対等のはずだけど、とにかく田舎だから江戸時代の亡霊のような身分意識が残っている人もいる。その筆頭が元婚家だよ。

 恵梨香の実家も農業だけど、農地改革の時に手に入れた土地は水の利が悪かったんだって。里山の中腹まで言わないけど一段高いところにあって、ほんの湧き水みたいなものをアテにしてたらしい。だから江戸時代はそれこそ川から水汲んで運んだことも、しばしばあったの苦労話が残ってるぐらい。

 高台はかなり広いのだけど水がそんな状態だものだから、三反ぐらいの田んぼが精いっぱいで、後は雑木林になってたそう。農地改革の時だけど、田んぼも手に入れたのだけど、ついでみたいに周囲の雑木林もドサクサで手に入れたって話も残ってる。

 稲作どころか農業するには無理がある土地みたいだったから、旧地主もどうでも良かったぐらいかな。恵梨香のひい爺さんは、開き直って米をやめて玉ねぎ畑にしたんだよ。淡路の玉ねぎは特産品だけど、特徴は甘くて苦みが少ないこと。

 糖度は普通の玉ねぎで五度程度。これだけでイチゴ並だけど、淡路の玉ねぎは十度ぐらいあるのよね。苦みはピルビン酸だけど、これも淡路産は低いんだ。恵梨香の実家の玉ねぎだけど、糖度はさらに高くて二十度近くになり、ピルビン酸は半分以下。ここまで行けば野菜というより果物に近いぐらい。

 恵梨香の爺さんは、これの売り込みに走り回ったみたい。玉ねぎって普通に作れば一町歩で百万円ぐらいにしかならないのよね。爺さんは今で言うブランド化を目指した上で、契約農家になろうとしたで良いと思う。

 これが成功して浜崎甘玉がブランドになり、一流レストランや一流料亭の御用達になれた。さらに周囲の雑木林も開墾して玉ねぎ畑を広げてプチだけど玉ねぎ長者になれたぐらいかな。だから恵梨香も玉ねぎの味にはウルサイの。

 もっともプチ長者と言っても農業は天候にも左右されるし、玉ねぎの病気が流行したり、浜崎甘玉のライバルも出てきてプチ長者では今はなくなってるけど、なんとか専業農家でそれなりぐらいの家になってるよ。

 でもね、古い考えの人は百姓とは米を作る人ってあるのよね。畑で野菜を作る人を一段下に見るぐらいかな。どっち作ってもおカネに換えるのだから同じと思うのだけど、百姓は米を作ってこそ一人前みたいなカビの生えたような考えの人。

 米はたしかに面積当たりの収入は玉ねぎより高いけど、日本人の米離れもあって米価は下がってるのよね。今なら一町歩で四百万円ぐらいかな。淡路の米が取り立てて不味いわけじゃないけど、ブランド化もしてないから、もっと安いかもしれない。ただ恵梨香の田舎では未だに、

『稲作農家 〉 畑作農家』

 この意識が強い人が頑張ってて、そこに、

『旧本百姓 〉 旧水呑百姓』

 これが乗っかる感じ。その筆頭が元婚家。だから恵梨香の実家の村の発言権は小さいのよね。とは言う物の村は明治の市町村合併の時に無くなり、その後も昭和の大合併、さらに平成の大合併で南あわじ市の片隅に過ぎないのよ。ただ旧村意識はバリバリ残ってて旧村の町内会の上に連合自治会みたいなものがあるの。

 町内会長なんて都市部に行けば厄介仕事に過ぎないのだけど、恵梨香のところでは町内会長が村会議員で、連合自治会長が村長みたいなものかな。そこを旧意識の連中が独占してるよ。

 もっとも、しょせんは町内会長ぐらいのものだから、実質的な権限と言ってもお祭りとかの伝統行事の仕切りぐらいのもの。だから実害はないのだけど、普段から上から目線でやな感じ。事あるごとに旧村時代の序列を押し付けてふんぞり返るんだもの。

 村内事情的には旧意識の人はドンドン減ってるの。そりゃそうよね。ただ田舎で角を立てるのは宜しくないから、旧意識の人を適当に祀り上げて波風を立てないようにしてるぐらいで良いと思う。


 そういう村での恵梨香の初婚は一つの事件になるんだ。離婚なんて三組に一組以上起こるもので、一・四九秒に一組離婚してるってぐらいなんだよね。離婚したからって自慢にならないけど、都会だったら『そうなのか』程度で終わる話。

 もっともこういうものは、田舎に行くほど保守的になるけど、恵梨香の田舎でも離婚はあるし再婚だってある。まあ、都会に比べれば色々言われるけど、それぐらいにはなってるよ。

 ただ江戸時代で時計が止まってるような元婚家にしたら、嫁が逃げ出すなんて前代未聞の大不祥事みたな受け取り方になってくるんだ。それもだよ、水呑百姓の畑作農家の家なんて格下どころじゃない家から迎えた嫁だものね。頭っから、

『嫁になれたのに感謝してるに決まってる』

 これを1ミリグラムも疑わないぐらい。だからどんな仕打ちもやり放題で、それを耐えるのが嫁の役割と決めつけてるぐらいだったよ。どう言えば良いのかな、世が世ならば当主が気まぐれで手を付けた下女みたいなもので、今の世だから戸籍上は妻にしてやってるかな。それでも足りないか、まるで献上奴隷みたいなもの。

 それが離婚騒動になったから、元婚家にしたら心外どころか奴隷の反乱ぐらいに受け取ったで良いと思う。親父が最初に談判に行ったけど、いきなり言われたのが、

『恵梨香を連れてこい』

 そこから、どうやったらあんな躾の悪い娘が出来上がるのだと怒鳴りまくられ、素性が悪すぎる、しょせんは水呑の家が、畑作風情がの定番の話が続いて、

『タダで済むと思うな。覚悟しとけ』

 親父もあれこれ言ったみたいだけど、聞く耳もたずの剣もホロロ状態だったんだよね。これじゃ、話にならないと思った親父は弁護士を立てたけど、

『離婚なんて認めるわけがない。この話はこれで終わり』

 そう言い放って恵梨香を強引に連れ去ろうとして一騒動になったぐらい。弁護士さんも呆れてた。さらに旧村内に、

『恵梨香を見つけたら連れて来い』

 これを回覧板でやらかした。そう、旧婚家にとって恵梨香は嫁じゃなく所有物って扱いで、まるで飼い犬に逃げられたぐらい。

『今なら一族総出で土下座したら、恵梨香の罪を許すのも考えてやる』

 こんな電話がジャンジャンかかってきたものね。弁護士さんも手を焼いたみたいで、やっと離婚条件に話が進んでも、

『我が家の名誉を傷つけた慰謝料を払え』

 これをガンガン主張しまくって往生したんだよ。もちろん連日のように恵梨香の実家に押し寄せてきて、

『恵梨香を渡せ』

 あの頃は恵梨香の親戚が常に詰めていて、これに対抗してたぐらい。だって、無断で家の中に乱入しそうな勢いと言うか、実際に乱入してきて、恵梨香は裏口から逃げたもの。ただ、乱入事件はさすがに問題になり、弁護士さんが法的対抗処置をしてくれて、それでかなり大人しくなってくれたぐらいかな。刑事告訴を見せたのが効いたと言ってたっけ。

 ようやく離婚して恵梨香もホッとしたのだけど甘かった。元婚家にしたら弁護士がウルサイから書類にサインをしたぐらいの意識しかなかったのよね。復縁攻勢と言えばロミオ・メイルだけど、そんな甘い物じゃなく、

『離婚届にサインはしてやった。エエ加減に反省して戻って来い。恵梨香が謝罪すれば戻してやる』

 おいおいと思ったけど、十か条どころでない誓約書みたいなものが内容証明付きで送られてきて、それに署名・捺印して戻れって書いてあったもの。内容は、ありゃ、奴隷契約書みたいなものだったのよね。

 恵梨香は故郷から逃げることにした。勤め先の理解と同情もあったから、阪神間の支店に異動となって、あれから故郷には戻ってない。それと友だちにも住所や連絡先を教えてない。

 と言うのも恵梨香は元婚家からは懸賞付きの指名手配扱いで、一度友だちの友だち経由でバレてマンションまで押しかけられてるのよね。あの時は警察呼んで追っ払ったけど、あれからは実家にしか教えていない。

 離婚の時に接近禁止も約束させてるのだけど、屁とも思ってないし、さすがにこれだけ年月が経てば自然消滅みたいな状態になってるぐらい。恵梨香だってたまには故郷に帰りたいけど、帰ったら大騒動を覚悟しないとならないのよね。

恵梨香の幸せ:誘拐事件

 アナフィラキシー事件の後だけど旦那さんの怒りは、あれぐらいで収まらなかったんだ。だからだと思うけど、旦那さんは自分の実家と完全に縁切りしちゃったんだ。そんなもの出来るかと思ったのだけど、入婿になって姓を奥さん側に変え、さらに養子縁組もしたって。だからだと思うけど表札も変えてたもの。

 ただ舅や姑みたいなタイプの人間は、そこまでされても応えないみたい。結果的に息子さんは後遺症もなく回復したから、シュークリームを食べさせたのは正解ぐらいに思い込んだって言うから怖すぎる。奥さんに聞いたら、

『感謝しなさい』

 こんな電話やメイルが嵐のように舞い込むから、着信拒否にしたそう。そしたらノコノコ訪れて来たっていうのよね。奥さんは部屋に入れる気なんかまったく無いからインターホン越しの応対だったそうだけど、

『悪気はなかったのよ』
『誤解よ、誤解』
『たいした事なかったんでしょ』
『孫に会いに来ただけ』

 奥さんは断固として部屋に入れなかったそう。なんとか追い返したんだけど、また来たんだよね。もちろん旦那さんのいない平日の昼間を狙ってね。その日の恵梨香は有休消化を命じられて家に居た。

 恵梨香は廊下側の窓を開けて様子を窺ってたんだ。前のような押し問答があった後に、そのうち入れろ入れろと騒ぎだし、ドアをドンドン叩き出したんだよ。そこからの罵詈雑言が凄かった。

『このアバズレ、中に入れろ。どうせ男を引っ張り込んでるんだろう』
『息子を誑かした淫乱女め、タダでは置かんぞ』
『とにかく孫を渡せ、あれはお前のものじゃない、うちのものだ。このドロボー猫が、大人しく返さないと訴えるぞ』
『出てこないなら火を着けて、炙り出してやる』

 とにかくデカい声で喚き倒してた。さらにだけど、

『ガン、ガン、ガン』

 何事かと思って恵梨香も見に行った。どこのマンションも似たようなものだけど、共用廊下側の窓には面格子が取り付けてあるんだ。ここはアルミの縦格子の華奢そうなのだけど、それをスレッジハンマーでぶっ叩き出したんだよ。あんなもの持参で来てたんだ。

 奥さんの悲鳴も聞こえたけど、どう聞いてパニック状態。そりゃ、そうなるよ。見ている恵梨香も何が起こっているかわからなくなって呆然としてたもの。そこに恵梨香の姿を見つけた舅さんから、

『他人は引っ込んどれ』

 この怒声に我に返った恵梨香は部屋に戻り一一〇番通報。パトカーが来て、警官が部屋の前に到着してきた時にはまさに修羅場。面格子は壊され、さらに窓を叩き割り舅は部屋に侵入し、たぶん奥さんを突き飛ばして息子さんを奪いドアから廊下に出ていた。

 恵梨香が見たのは泣きわめく孫を抱いた舅と、その足元を倒れながらも必死につかんでいる奥さん。その奥さんを足蹴にして引き離そうする舅姑。警官はまず息子さんを保護しようとしたけど、

『うちの孫に手を出すな』

 こう怒鳴りながら大暴れ。警官もやっとのことで取り押さえ、器物破損、住居不法侵入、暴行、誘拐で現行犯逮捕だって。誘拐も未遂じゃなくて成立していると見なされたと聞いたよ。たしかに完全に息子さんは舅の手の移ってたものね。

 警察署での事情聴取も凄かったみたいで、嫁に虐待されてる孫を救出しようとしたのが何故悪い、それを邪魔した警察を訴えてやるって頑張ったから、そのまま拘留になったそう。そりゃ、そうなるよね。

 旦那さんも奥さんからの急報を聞いて駆けつけたけど、惨状を見てわなわな震えてた。怒ったんだろうな。奥さんは廊下でも足蹴にされたけど、息子さんを奪われるときに猛烈な殴る蹴るもあって顔はボコボコ、骨折もあって入院だものね。


 舅姑が犯した罪はどれも現行犯逮捕で奥さんへの傷害だけでも立派過ぎるけど、やはり誘拐が重いと思う。これの処分についてポイントになるのが、

・自首
・被害者の解放
・被害者側との示談

 これになるんだって。まずだけど自首は現行犯逮捕だから成立しないし、被害者を解放したのも警官だから、これも成立しない。舅姑も拘置所で弁護士に諭されてヤバイと思ったのか、旦那さんに謝罪と示談を申し込んだそうだけど、旦那さんは鼻で嗤って断ったらしい。

 それとあのハンマーも良くないそう。あれだけのハンマーを持参してたから計画性ありってされて、罪がより重くなるぐらいかな。康太も起訴猶予じゃ済まないと見てたし、執行猶予が付くのも難しいのじゃないかとしてた。だって情状酌量の余地が少なすぎるというか、実の息子に厳重な処罰を要求されてるもの。康太は、

「可哀想だけど実刑になった方が良いと思うよ」

 康太に言われて気が付いたのだけど、もしあの日の誘拐が成功していたらどうなってたかなのよね。実家に連行された息子さんは、無理やりシュークリームとかケーキとかを食べさせられるしかないもの。

「そうなると、またアナフィラキシー・ショック」
「確実にそうなるし、エピペンもない。今度は助からないよ」

 康太は殺人罪にはならないだろうけど、過失でなくて故意とされる可能性が高いから半端な刑じゃ済まないだろうって。

「誘拐ってどれぐらいの実刑があるの」
「今回は未成年が対象になるから三か月以上、七年以下ってなってる。でも奥さんへの傷害も加わるから・・・」

 誘拐への懲役ってそんなものなんだ。それでも康太は大きいとしてた。この時期の子どもの成長は早いから、数年しただけで舅姑に抵抗できる体力が付くってさ。

「そうそう、お隣さんは近いうちに引っ越しするそうよ」
「息子の命には代えられないものな」

 恵梨香の初婚の時のクソ元婚家の連中もクズと思ったけど、世の中には想像を超えるクズ、いやキチガイが存在するのは良く分かった。世の中、わからないことがまだまだ多いよ。