恵梨香の幸せ:アナフィラキシー騒動

 その日は日曜日だったのだけど、康太と一緒に買い物に出かけて、地下駐車場からエレベーターで二階の廊下に出た時だった。物凄い悲鳴みたいな声がお隣さんから上がったんだ。

『人殺し!』

 恵梨香も康太も驚いたけど、声が聞こえたお隣さんに。そこには口の周りにカスタード・クリームを着けて赤いというより、どす黒くなって痙攣している子どもを抱きかかえている奥さんと、横に立ち尽くすお姑さん。

「恵梨香、救急車を。それと奥さん、エピペンは?」

 そしたら奥さんは恐ろしい声で、

「このクソババアが踏み潰しやがった」

 康太は子どもの上着を脱がせて、胸に耳を当ててから心臓マッサージを始めたんだ。救急隊につながった恵梨香だけど、どんな状態か聞いてくるのよね。死にそうぐらいにしか言えないけど、

「恵梨香、電話を耳に当ててくれ」

 助かった。心マッサージをする康太の耳にスマホを当てがったら、

「アナフィラキシー・ショックによる心肺停止。エピペンが無いから持って上がってきてくれ。酸素と子ども用のアンビュもだ。病院の手配はしておく」

 さらに康太は恵梨香に電話をかけさせ、

「川中先生、神保だ。子どものアナフィラキシーによるCPR。救急隊が到着次第エピペン投与する。心マしながら送る。準備宜しく」

 恵梨香には救急車が到着するまでの時間が無限に感じたよ。お姑さんは、

「大げさな」

 こう言い放った瞬間に奥さんに殴り掛かられてたし、それを止めようとした恵梨香でこっちも修羅場。いつもは穏やかで気の弱そうな奥様が鬼の形相で、

「息子が死んだら殺してやる」

 救急隊が到着すると康太は、

「エピペン。早くしろ、死ぬぞ」

 救急隊員が康太の勢いに負けたのか取り出したら、いきなりふんだくった。

「それは・・・」
「責任はすべて持つ」

 いきなりズボンの上からブチュ。そして呆気に取られる救急隊員に、

「なにしてる、アンビュで酸素1リットル。急げ、あとは時間との戦いだ」

 奥さんと二人で救急車に乗り込んで行っちゃった。後ろから姑さんが、

「私は悪くないのよ・・・」

 なに寝言抜かしてると思ったよ。やがて康太は帰って来たけど、

「助かった?」
「命だけはな。後はわからん。あの場ではあれ以上はどうしようもなかった」

 怖いのは低酸素脳症だって。なにかって聞いたら酸素が脳に回らなくなって、脳がダメになっちゃうことで良いみたい。


 後日お隣さん夫婦がお礼に来たんだよ。部屋に招き入れたんだけど、康太を見ると拝み倒しそうな勢いで頭を下げられたのに驚いた。

「息子の命の恩人です」

 それこそ九死に一生を得たぐらい危なかったらしい。康太の心マッサージが少しでも遅かったら、エピペン投与が少しで遅かったら、搬送が少しでも遅かったら・・・・・・どうなったかわからなかったって。

「神保先生があの場にいらっしゃらなかったら、息子は死んでました」

 あれこれ検査はしたみたいだけど、今のところ後遺症もなさそうと聞いてホッとした。康太はニッコリ微笑んで、

「息子さんが無事回復されてなによりです」

 奥さんの目がウルウルしてたもの。ああいうのを心からの感謝と言うのかもしれない。

「これは気持ちだけですが」

 菓子折りと一緒に差し出された封筒は謝礼とか。それもかなり分厚い感じがする。康太はどうするのかと思ったら素直に受け取って、

「息子さんの回復祝いです」

 そうやって菓子折りだけもらって封筒は返しちゃった。かなり押し問答はあったけど、

「では口止め料も込みという事で」

 康太が医者ってバレたから、くれぐれも内密にして欲しいと、わざと笑いに持って行って押し返してた。うん、それで良いと思う。さすがは康太だ惚れ直した。


 そこから、あの日になにがあったか聞かせてもらった。聞いてるだけで背筋が凍りつくような話だったよ。あの日は日曜日だったけど、旦那さんは休日出勤で留守だったんだって。

 そこにアポ無しでお姑さん来襲。奥さんも手ぶらだから油断してたって言ってた。ちなみにこの姑さんだけど、息子の家には押しかけるけど、奥さんのやること、為すことにケチをつけて回るだけでなにもしないそう。

 さらに必ず居座って昼食を作らせるそう。それも感謝されるならともかく、味が濃いとか、薄いとか、なんだかんだと文句を付けまくるけど結局全部食べるらしい。神戸にもそんなステレオ・タイプの姑が存在するのに恵梨香は感心したぐらい。そして唯一やるのが、

『孫は見ておくから』

 奥さんは気にはなったけど、洗濯物を干しに行ったそうなんだ。これも、洗濯機が止まってすぐに行かないと姑さんのイヤミ爆弾が炸裂するそう。

 奥さんがベランダに出た頃を見計らって、姑さんは隠し持っていたシュークリームを孫に食べさせようとしたらしい。箱ごと持って来たら奥さんに取り上げられるかららしいけど、そこまで執念を燃やすのが怖いよ。

 息子さんは勝手にものを食べたらいけないって、躾けられていたから嫌がったんだって。その辺はまだ小さいけど、それなりに痛い目に遭ってるのもあると思う。そしたら姑さんは押さえつけて口にねじ込んだって言うから、もうキチガイか認知症とでも言いようがない気がする。

 その騒ぎを聞きつけて奥さんが駆け付けた時には、息子さんはショック症状を起こしかけていたで良さそう。慌てて息子さんの口からシュークリームを吐き出させようとして、そうはさまいとする姑さんともみ合いになったって言うから、どんだけと思ったよ。

 息子さんの状態がタダ事ではないのも奥さんはすぐにわかったみたいで、エピペンを取り出そうとしたら、姑さんはそれを先回りして取り上げ、

『こんなものに頼るから孫のアレルギーが治らないのよ』

 奥さんの目の前で踏み潰しやがったんだよ。そこで奥さんが、

『人殺し!』

 この悲鳴を挙げて康太と恵梨香が駆け付けたことになる。救急車が出て行った後の姑さんの言葉も酷かった。

『せっかくアレルギーを治してあげようとしたのに』
『救急車なんか呼んで、私への当てつけよ』
『お父さんに言いつけて叱ってもらうよ』

 恵梨香にまで当たってきたから、

「見ててもお孫さんの状態がわからなかったのですか」

 こう怒鳴りつけたらブンスカ文句を垂れながら、留守番もせずに帰りやがったんだ。ドアのカギが開いたままなのもあるけど、お隣の子どもさんは二人で、娘さんもいるんだよ。奥さんも動転してたけど、あれでも姑さんだから娘さんぐらいはなんとかしてくれると考えたはずだよ。

 放っておけないじゃない。あれだけの騒ぎだから、娘さんもビクビクして泣いてたもの。だから恵梨香が留守番して、ご飯も作って、ついでに掃除と片付けもしたし、洗濯物も取り込んで畳んでおいた。まったく娘は可愛くないのかね。

 休日出勤してた旦那さんは奥さんからの急報で病院に駆けつけたんだよね。集中治療室で生死を彷徨う息子さんを見ながらの説明を聞いて絶句したそう。息子さんも気になるけど、家に娘さんが残されてるのも気になって、とりあえず見に帰って来たんだよ。

 旦那さんも姑さんがいるから、家の事や娘さんの事はちゃんとしてくれてるはずと思っていたみたい。自分の親だものね。ところが家に帰って唖然としてた。だって部屋にいるのは恵梨香と康太と娘さんだもの。

「母は?」
「なにか怒って帰られました」

 恵梨香も腹立ててたから、姑さんが何を言ってたかの録音も聞かせてあげたらプルプル震えてた。それでも丁重にお礼を言ってくれて、旦那さんの実家じゃなく、奥さんの実家に娘さんを預けに行くと言ってた。

 そこから息子さんの容体が安定するまで付ききりだったんだって。生きた心地もしなかったって言ってた。息子さんの容体が落ち着いた時点で旦那さんは実家に行ったそうだけど、あの姑さんは平然と、

『ああやってアレルギーは治って行くのよ。感謝しなさい』

 お舅さんもお舅さんで、

『だいたいお前が、アレルギーだ、アレルギーだと甘やかすのがいかん』

 まるで良いことをしたみたいに話すのを聞いて、旦那さんは完全に切れたで良さそう。そりゃ、切れるよね。殆ど息子さんを殺されそうになったんだもの。バンとテーブルを叩いて、

『ぶち殺したいのはヤマヤマだが、ここで殺人を犯せば息子と娘が可哀想だ。その代わりに二度とうちの敷居をまたぐな。もう親でもなければ子でもない。孫の顔を二度と見れると思うな。お前らの葬式にも出ん』

 舅さんと姑さんは、それでもグチャグチャ言ったらしいけど、二人に往復ビンタを食らわせて、

『これ以上口を開くなら、この場で殺す』

 旦那さんもちょっとやり過ぎの部分があるとは思うけど、あのままじゃ、あの姑さんならまたやらかしそうだものな。恵梨香も一部始終を見てたけど、何が悪かったかさえ理解していない気がするもの。だってだよ、真っ青を越えて、土気色になりかけてた息子さんに康太が心マッサージを始めた時も、

『私の孫に手を出すな。他人は出ていけ』

 こうやって怒鳴ってたぐらいだった。でも、これで一件落着かな。

恵梨香の幸せ:アレルギーのお話

 お隣さんの息子さんが強度の卵アレルギーなんだ。それこそ少しでも入ると全身が真っ赤になるだけでなく、呼吸困難まで起こすと言うから重症と思う。だから食事には気を付けてるし、なんだっけ緊急用の注射まで持ってるんだって。

 お隣さんは姑さんと別居なんだけど、実家と近いみたいで、姑さんがよく訪ねてくるそう。それもアポなしで突然だって。いくら姑さんだっていきなり来られたら迷惑だけど、

『息子の家に親が来て何が悪い』

 それとこの姑さん、孫がアレルギーなのが不満だそうで、

『甘やかすからだ!』

 アレルギーはそうではないと言っても聞く耳をもたないみたい。それどころか、

『食べれば治っていく』

 どうもアレルギーと偏食をごっちゃにして理解しているみたいだって。それもまだ甘すぎる見方で、

『可愛い孫がプリンやケーキを食べられないのは可哀想』

 だからいくら言ってもケーキやプリンを買ってきて食べさそうとするから、隣の奥さんも姑さんが来た時にはピリピリしてるんだって。そりゃ、下手すれば死んじゃうかもしれないし。

「卵アレルギーがあるのに卵を食べさせて治そうなんてムチャクチャよね」
「一般的な理解としてそれで良いと思う」

 なんか引っかかる言い方が気になったけど、アレルギー治療の一つとして減感作療法ってのがあるんだって。要は少しづつ与えていってアレルギーを治そうとする治療だそうだけど、

「あれはスギとダニしか保険適応がないよ」

 投与法は皮下注射が多いそうだけど、食物で行った結果は良くなかったそう。だったら食物アレルギーには治療法がないかと聞いたら、

「SOTIがある」
「ソチ?」
「ああ略語だけど・・・」

 これは重度のアレルギー患者に行われるもので良いらしい。これはそれこそ食べさせてアレルギーを治すらしいけど、

「だったら姑さんの言ってる事は正しいとか」
「次元が違うよ」

 卵一個で六十グラムぐらいだけど、ソチで始めるのはミリグラム単位だって。これも実際に食べさせて調べるそうだけど、どれぐらいの量でアレルギー反応が起こるかをまず確認して、その一割ぐらいから始めるんだって。

「たとえば二百ミリグラムで反応するなら二十ミリグラムからスタートってこと」

 これも十ミリグラムから反応する患者もいるそうで、そうなればスタートは一ミリグラムぐらいになることもあるそう。確かに次元が違うよ。目標は卵一個分を食べれるようにするそうだけど、

「出来るの?」
「ああラッシュ・ソチなら二週間程度で可能な事が多い」

 ただアレルギーが治ったわけじゃないんだって。卵が食べれる状態を維持するための療法が必要で、これも、

「それか。そもそも、そんな短期間で食べれるようになる機序もよくわかっていないし、維持療法もどれだけ必要かも研究中だよ」

 維持療法は卵なら週に二回以上、卵を一個食べることだそうだけど、怠ると食べられなくなるそう。

「この辺は急速法から緩徐法に切り替えて効果が見られるともされて、その時の免疫寛容機序の違いが・・・」

 恵梨香の理解を超えた・・・維持療法と言っても卵なんて日常的に食べる食品だから、そのうちアレルギーを気にせずに食べれるようになる患者もいるそう。恵梨香的には治ったぐらいに受け取っても良いと思う。

 一方でソチ自体も上手く行かない患者もいるし、食べれるようになっても、維持療法が上手く行かず逆戻りになるケースもあるらしい。

「お手軽なものじゃないよ。入院治療が必須」

 そもそも最初の反応を起こす量を調べるのも下手すりゃ命がけだって。さらに徐々に量を増やす時だって強烈なアレルギー反応を起こすこともあるみたいで、

「専門施設でも死亡者が出てるよ」

 維持療法中もそうで、アレルギーを起こして亡くなった患者もいるそう。康太も食物アレルギーの患者も治療するけど、重症なのは病院で専門にやっているところに紹介してるらしい。それぐらいアレルギーは手強いし、医者でも一つ間違うと患者の生死に直結すると見て良さそう。

 それでも子どもの食物アレルギーは、殆どの場合は成長とともに解消するのが多いんだって。少しでも早く解消するには食べれる範囲は食べた方が良いともしてた。この辺は患者のアレルギーの強さによるさじ加減が必要で良さそう。

「検査とかでわからないの」
「無駄じゃないけど参考程度だよ」

 康太が言うには初期の頃のアレルギー検査はホントにアテにならなかったそう。さすがに精度はあがってるそうだけど、検査でアレルギーと出てるものでも食べてる時があるんだって。

 それとアレルギーの強さも検査で出るけど、それでどれぐらい食べれるかの判断も出来ないそうなんだ。さらに検査で一度反応すると、なかなか消えないらしくて、検査で陰性になったら食べるみたいな使い方も出来ないそう。なるほど、だからあくまでも参考なんだ。

「なにかややこしいね」
「ああ医者だってアレルギーのすべてを理解しているのはいないと思うよ」

 アレルギーって言葉は一般的にも使われるけど、医者が理解するクラスになると、盲人が象を触るって言われるぐらいだって。これは盲人が象のあちこちを触りながら、象ってどんな生き物なのかを想像しながら議論している喩えらしい。

 恵梨香にも恵梨香の親戚にもアレルギー持ちはいないから実感ないけど、甘い病気じゃないことだけは理解した。

恵梨香の幸せ:不倫問答

 さてだけどイヤミ攻撃が静かになった派遣の女だけど、康太から妙な手紙を見せられた。とりあえず封筒から妙で郵送じゃないんだよ。

「これで百万円寄越せって」

 なんちゅう女だよ。こんな件で康太に迷惑かけるのは許せないと思ったよ。どう落とし前を付けてやろうかと会社に行ったら、派遣の女に是非相談したいことがあるからって昼食に誘われた。そこで妙に勝ち誇った顔で、

「これからは私の言うことに従ってもらいます」

 は~ん、そういうことか。この派遣の女は聞いたこともない新興宗教の勧誘と、それに関連するマルチまがいをやろうとしたんだよ。その手の商法は恵梨香の友だちのお母さんが引っ掛かってエライ目に遭わされたのを知ってるから大嫌いだったんだ。だから、

『ここでは私の目の黒いうちは絶対に許しません』

 信教の自由とか抜かしやがったけど、マルチ系の手法は友だちからよく聞いてたからガンガンに論破した。それでもキーキーうるさいから、

『もし勧誘されたら私にすべて報告して下さい』

 上司と相談して、こう朝礼で大声で宣言して抑え込んでやった。あれの意趣返しか。アホらし、そんなものが通用する訳ないじゃない。

「貴女が何を言いたいのかサッパリわかりません」
「後悔するわよ」

 昼食から会社に戻るとすぐに上司に報告。次の日には派遣の女はいなくなったよ。康太も顛末が気になってたみたいで、

「まずだけど探したんじゃないと思うよ。たまたま居合わせたと見るべきだね」

 派遣の女が持っていたのは恵梨香と康太がラブホから連れ立って出てきたところの写真。あれは二人の週末のハッピー・タイムのバリエーションの一つ。二人暮らしの夫婦でラブホを使うのも変と思われるかもしれないけど気分転換ぐらいかな。康太も妙にはまってくれてるところもある。

 だってお風呂が広いから一緒に入れるし、シーツも洗わなくて済むし、ビデオだって見放題じゃない。それにラブホって、アレ専用みたいなものだから利用するってだけで興奮するのよね。あんまり他人に自慢できるような趣味じゃないけど、夫婦だからラブホに入って何をしようが文句を言われる筋合いはない。

「居合わせたったってことは」
「だからお互いさまって思ったのだろう」

 撮られているのは唐櫃のラブホ街。あんなところに居るのは利用者、それもクルマを使わないと無理。

「やっぱり不倫」
「貢いでたんだろうね」

 他人の事は言えないけど派遣の女は美人じゃない。恵梨香にイヤミ攻撃をした時にも顔は触れなかったぐらい。そういう容姿に自信がない女が不倫したときに男の心をつなぎとめるのに貢ぐのはありがちなケース。派遣の女の稼ぎは時給は千五百円ぐらいのはずだから月給は二十五万円ぐらいで、手取りは二十万円ぐらいになるはず。

「食事代やホテル代も持っていたとすると月二~三回として五万円ぐらいだろ。それ以外に貢ぐカネは十万円ぐらいだったんじゃないのかな」

 そこまでして不倫したいかと思わないでもないけど、不倫は禁断の蜜の味なのは恵梨香も良く知っているからやりかねないのよね。さらに言えば貢ぐカネ以外にもプレゼントとかもしていない方が不自然だろう。それもかなり高価なものになるのが世の習い。

 康太が言うにはマルチ商法の稼ぎも重要だったはずだって。恵梨香へのイヤミ攻撃もマルチ商法を職場でスムーズに展開するための手法で、マウンティングして弱らせて引きずり込むつもりじゃなかったかとしてる。

「興信所を使っていないのも確実だ」

 興信所なら恵梨香と康太が夫婦であるぐらいは調べ出すものね。でもどうやって康太を特定したかになるけど。

「子どもが受診してたのじゃないかな」

 康太は病児保育をやってるから、派遣の女が利用していたっておかしくないか。康太が夫であるのは職場には伏せているから、医者である康太とホテルで一緒となると不倫と確信したんだろうって。

「でも恵梨香だよ」
「恵梨香は可愛いし、ボクは満足してるけど・・・」

 イイよ。世間一般で恵梨香がどう思われてるかはよく知ってるもの。イヤミ攻撃の時に恵梨香は貧乏人認定されてるけど、その理由が派遣の女同様に男に貢いでいると勝手に結論したんだろうな。

「危機だったんじゃないか」
「遊ばれてるって事にもなるよね」

 貢ぐカネにしろ、プレゼント代にしろヒート・アップするのは避けられないのよね。相手の男が少しでも冷たい素振りを見せれば必死になってすがりつくのが不倫でもある。言っちゃ悪いけど派遣の女を相手にするぐらいだから計算づくである可能性も高い。そうなった時にカネがないからあきらめる選択枝はないから、家計にも手を出していた可能性もあるし、消費者金融とかに手を出しているのかもしれない。

「じゃあ、一度で済ます気はなかった」
「恵梨香はともかくボクは医者だろ。カネ蔓と思って小躍りしたかもしれないよ」

 派遣の女はあっさりクビになったけど、派遣会社はどうしたのだろう。証拠付きの強請り行為だから派遣会社も解雇されてもおかしくないよね。その話が旦那さんに知れたら、

「バレないかもしれないけど・・・」

 恵梨香も上司に相談されたけど実害は出ていないから告訴まではしない事にしてる。派遣会社も不祥事だけど、警察沙汰にしないとなると旦那さんに解雇理由まで知られない可能性もある。でも収入がなくなると不倫は維持できなくなるから、

「また他の派遣会社に潜り込むとか」
「子どもが可哀想だよ」

 康太も他人の事は言えないと寂しく笑ってたけど、子どもにとって両親は仲良くして欲しいもの。夫婦喧嘩だって見たくないし、ましてや不倫に血道を挙げている親なんて見たくも知りたくもない。さらにそれが原因となる離婚もね。

 派遣の女の子どもの歳は知らないけど、思春期に差し掛かっていたら汚物同然に見られたって当然だと思う。それだけじゃなく、そんな母親の血が自分にも流れていると思うと忌まわしく感じるものね。


 でもね、でもね、男と女だから不倫に走ってしまう事もあるのは恵梨香も経験者だからわかる部分はある。不倫が良いことだと言う気はないけど、許されざるが故に熱中してしまうのも。

「ボクはやられた方だけど、不倫って不思議な関係だよね」

 不倫もバリエーションが多いけど、自らの家庭は壊したくないのがベースにあるのは同意。恵梨香もあの不倫上司の家庭を壊し再婚しようとは思わなかったもの。壊しかけそうになっていたのは認めるけど壊すのが目的じゃなかったものね。

 不倫から略奪愛になるケースもあるけど、それだって最初から略奪愛が目的でなく、こじれまくった末の結果論みたいなものの気がする。最初から略奪愛が目的のとはちょっと違う気がするのよね。

「足りないものをどうしても埋めたくなる心理かな」

 夫婦になって子どもが出来ると、女は母親になってしまう側面が強くなるのじゃないかと康太はしてた。役割としてそうなるのは仕方がないと思うけど、母親だけじゃなく女として見て欲しい欲望かな。ここで夫まで妻を母親と見てしまうと、

「そこをどうしても満たしたい欲望を抑えられるかどうかだろう」

 母親として家庭を守りたい側面と、女として満たされない欲望のせめぎあいが生じるぐらいかもね。もちろん全員じゃない。女だって母親であるのに満足するのもいるだろうし、アレ自体が好きじゃないのもいる。その気が芽生えたって家庭や家族を守るのが優先されて踏みとどまる者だって多いはず。

 それでも一線を越えてしまう時はある。不毛と思っても行ってしまうのが男と女としか言いようがない部分かもしれない。恵梨香もそうだったからエラそうに言えないところがあるもの。

 だけど不倫には大きな代償が伴うのよね。バレたら守りたいはずの家庭を壊しちゃうもの。だったら行きずりの逢瀬に終わらせれば良いようなものだけど、そうさせてくれないのも不倫と思ってる。

 恵梨香も危ないところまで進んでたけど、不倫は重ねれば重ねるほど禁断の蜜の味を啜ってしまうのはわかる。満たすためにはあらゆるブレーキが吹っ飛んでいく感じとして良いよ。プレイが激しくなるのはもちろんだけど、

「優先度が逆転して、手段が目的化してしまうんだろうな」

 不倫でも本来優先されるのは家庭のはずだけど、女を満たす欲望がドンドン強くなり、等価値になるというか、

「みたいだね。欠かせない生活の一部になるみたいだね。だから罪悪感もなくなるんだろうな。そう、アンタが満たしていないのが悪いみたいなロジックだ。もちろん女だけでなく男も同様だけど」

 それって元嫁の。いや恵梨香もそれに近かった気がする。禁断の蜜の味がいつしかすべてを支配してしまう感じなのも経験した。

「これで懲りて終止符を打てるかな」
「そう考えてくれたらね」

 恵梨香が終止符を打てたのはラッキーだったかもしれない。妊娠、不倫上司の異動が重なってくれたからだもの。恵梨香も禁断の蜜の味に酔ってたけど、さすがに妊娠で醒めた部分はあるのよね。

 不倫上司が奥さんと別れてまで恵梨香と再婚するとは思えないし、そうなればシングル・マザーになるしかないじゃない。そっちを考え出したら、そこまで不倫上司を愛してないって思っちゃったぐらいかな。

「最後は男と女の組み合わせ?」
「どうしても、そう思ってしまうんだよね」

 結婚ってホントに難しい気がする。誰だって結婚するときには幸せになれる相手と思って選んでるんだよ。でもそうなれるかどうかはまさに運次第。

「そこまで悲観的に思いたくないけど、お互いバツイチで失敗の経験者だものな」

 済んでしまえばあれほど不倫に熱中していた理由がわからなくなっちゃうんだよね。たぶんだけど元嫁もそう思っている気はしてる。世の夫婦の中で不倫をしている比率なんて調べようもないだろうけど、三組に一組以上が離婚するのが現実。

 離婚理由でトップは性格の不一致ってなってるそう。でも本当の意味の性格の不一致もあるだろうけど、世間体とか離婚後の生活を考えてそうしている部分も多い気がする。不倫だって一度限りとか、数度で終わって秘密にしているケースもあって不思議はないと思うもの。それを考えると世の中の不倫比率は、

「恵梨香に出会えて良かったよ」

 それは恵梨香のセリフ。この巡りあわせに出会うために生まれてきたんだ。

恵梨香の幸せ:派遣の女

 恵梨香のやってる業務は窓口業務。ATMになってから預金や引き出し、振り込み業務は減ったけど、金融自由化になってるから保険や投資信託、公共債などの提案や販売もやってるぐらいのイメージで良いと思う。

 恵梨香はこれでも主任だから、事務チーフとして窓口や営業担当者が受け付けた案件の進捗状況の確認や事務処理が適切にされてるかを見たり、後輩職員の指導・育成も担当になってる。

 銀行って九時から始まるイメージが強いけど、当たり前だけどその前から窓口準備が始まる。外勤ならメイルとかチェックして、訪問会社の始業時刻に合わせて出動する。それと三時で終わるからラクそうに見えるかもしれないけど、その後にその日の精算があるのよね。例の一円まで合わせるってやつ。

 早く終わってくれる日もあるけど、トラブルが重なると康太より帰る時間が遅くなることがあるのよね。この辺は仕方がないと思ってる。

 恵梨香の結婚は上司に報告したけど、夫が医者であることは伏せてもらってた。上司は不思議そうな顔をしたけど何か事情があるぐらいで納得してくれた。ただ結婚自体は伏せるのは無理だという事で自営業ぐらいにしてもらってる。同僚や後輩になんの自営業かも聞かれたけど、

『察して』

 このサインで納得させた。恵梨香の歳で結婚したのは話題にはなったけど、恵梨香を妻にするような夫だから、ま、大したことのない相手ぐらいでそのうち終わった感じかな。


 銀行と信用金庫ってどう違うかって康太にも聞かれたけど、まず理念が違うんだ。銀行は会社として営利企業だけど、信用金庫は地域の繁栄のための共同組織で利益第一主義ではないとなってる。

 理念は外からわかりにくいけど、とりあえず営業範囲が違うのよね。銀行は誰でも利用できるけど、信用金庫は営業地域が指定されてて、企業融資も中小企業が対象なんだよ。ここも重なる部分があるにせよ、銀行が大企業中心に融資しているのに対し、信用金庫は銀行が相手にしないような個人事業主や中小企業相手の地域密着型で融資しているぐらい。

 だから金融機関と言っても銀行よりずっと小さいし、恵梨香が勤めてるのは支店の上に恵梨香の信用金庫の中でも一番小さいところで、窓口担当が全部で四人なんだよ。

 そこに産休育休に入るのが出て一人お休み。後の二人は一年目と、少々回らない二年目。さすがの恵梨香もアップアップになっちゃったんだ。だから派遣社員が入って来た。

 この派遣の女だけど仕事はまあまあだけど、理由はわからないけど恵梨香に張り合おうとするんだよ。それも仕事じゃなく、仕事以外のこと。歳も近いからマウントを取りたいぐらいかもしれないけど、恵梨香は正社員で主任で、相手は派遣だから意味がわかんない。


 まず絡まれたのが服とか、アクセサリー。と言っても仕事中は制服だし、そんな派手なアクセサリーをつけれるものじゃない。通勤の時の服だって、飲みに行くとかなら気を遣うけど、そうじゃなければそれなりだものね。なのに、

「浜崎主任は質素ですね」
「生活が苦しいのですか」

 こんなのを言うんだよね。恵梨香だって女だから綺麗な服やアクセサリーに憧れるよ。それと今ならかなりそろえるのも出来る。康太は恵梨香が必要なものなら、なんでも買って良いと言ってくれてるもの。

 そもそもだけど独身時代とは小遣いの額が違う。給料の半分ぐらいは自由に使える小遣いになってるもの。それ以外だって余裕綽々ぐらいある。でもね、つまらない見栄にカネ使うのはもったいないじゃない。

 康太が恵梨香を信用してるから家計を任されてるの。そう恵梨香なら無駄遣いはするはずもないって。もちろん恵梨香は康太の考え方も知ってるし、どこにカネを使いたいかも知ってるつもり。だから、

「そうなのよ、結婚しても生活に余裕が無くて。でも、貧しいながらも楽しい我が家してます」

 服とかアクセサリーを貶されても気にもならないってこと。やりたいなら、どうぞで我関せずぐらい。そこをいくら突いても恵梨香が堪えないのがわかったら今度は。

「浜崎主任は短大卒なんですね」

 派遣の女はそれなりに名の通った四大卒。恵梨香は短大だし、恵梨香の母校は今では吸収されてなくなってるぐらいの学校。でもね学歴は就職する時に有利だし、初期の出世でも有利に働くかもしれないけど、社会人は実力主義なんだよね。

 まあ財務省みたいなところは学閥まであるそうだから、学歴が最後まで出世に関係するかもしれないけど、恵梨香の信用金庫じゃ関係ないものね。まあ、それでもがあって、恵梨香の信用金庫でも幹部に出世できるのはやはり四大卒かな。

 そっちの出世を目指すなら学歴は重要かもしれないけど、恵梨香は幹部への出世は興味がないよ。金融機関に限らずだけど、出世レースは上に行くほどシビアで、椅子取り合戦に負ければ肩叩きや、左遷が待ってるのよね。逆に恵梨香ぐらいの地位なら、現場の必要戦力だから定年まで居座れるもの。

「ええ名もない短大卒ですから、主任止まりです。でも主人は短大卒で主任なのに感心してくれています」

 短大卒で主任止まりで満足していると言われたら、恵梨香の学歴でからむのは限界があると見て、

「旦那さんは?」
「主人がやってる商売に学歴はあんまり関係ないもので。似た者夫婦です」

 康太の学歴自慢をしてもアホらしいからこれでオシマイ。そうなると次は、

「それにしてもご立派なスタイルで」

 イヤミって本人が気にしているところをネチネチ言う物だけど、これが効果があるのは言われた方が言って欲しくない時なんだ。恵梨香だってダテにビヤ樽狸やってた訳じゃないから、言われたって、まあそうだろうなぐらいしか感じないもの。

 それに今の恵梨香にはスタイルのコンプレックスは無い・・・・・・まで言わないけど、恵梨香は康太に選ばれてるんだ。恵梨香の関心は康太にどう思われてるかだけで、それ以外の人にどう思われようが、どう言われようが関心がない。

 康太は心の底から恵梨香を愛してくれてるし、大事にしてくれる。それを言葉にも出すし、態度にも出してくれる。康太は今よりもっと酷いビヤ樽狸の時から恵梨香を愛してくれてるんだよ。派遣の女に言われたぐらいじゃ、蚊に刺された程のショックもないってこと。

「もって生まれたものですからね。それでも主人には気に入ってもらって幸せです」

 するとスタイルがらみでさらに絡んで来やがった。

「ひょっとして処女で今の旦那様と」

 あのねぇ、恵梨香は間違っても男が群がる女じゃないけど、これでもバツイチ。アレだって不倫でビッチを極めるぐらい鍛え上げられてるの。これだけは少々の女でも負けない自信がある。

 それに康太とのアレの相性も抜群。抜群過ぎてこのビッチの恵梨香がまるで小娘のように喜ばされ蕩けさせられてるの。悪いけど、普通に夫婦やってる派遣の女が感じてるのとはレベルが違うよ。

「主人には満足してもらってますし、私も満足させてもらってます。処女じゃなかったのが心残りです」

 何を言われても暖簾にノロケ、糠にノロケで流しといた。康太の女の趣味が歪んでると受け取られるかもしれないけど、ビヤ樽狸好きの男ってデブ好きにニア・イコールだよ。それぐらいは知ってるだろうし、康太に関係ない事だし。

 それと聞き様によっては、派遣の女のイヤミをすべて肯定しているようなもので、貧乏だし、短大卒だし、ビヤ樽狸だものね。これぐらいイヤミは言いたい人が少なくないから、これで満足して、勝手にマウントした気分になってくれて、仕事をしてくれたら現場主任的にはOKかな。

恵梨香の幸せ:すき焼きグルメ便

 ボスママの被害は恵梨香はまだ少ないのよね。平日の昼間はいないし、子どももいないから。でもお隣の奥様はゲッソリしてた。ボスママだって一人でいてくれたらまだしもなんだけど、なんだかんだとママ友の集まりに入り込んで来るんだって。

 ああいう人種って自分が嫌がられてるの自意識がないで良さそう。むしろ好かれてるぐらいに思ってるとしか見えないもの。そうそう、こんなこともあったそう。ある時に子どもの誕生パーティをやろうとなったんだって。

 たまたま誕生日が近い三人がいて、どうせなら合同でやろうって感じかな。お菓子やジュースを持ち寄って、三人分だからちょっと豪華なケーキも買って、千円ぐらいのプレゼント交換みたいなスタイル。そこにボスママが首を突っ込んできて、

『うちの子も誕生日が近いから参加させて』

 断ろうとしたそうだけど、

『どうして、それって仲間外れにするイジメじゃない』

 そこまで言われて参加してもらったそう。ボスママは四人を連れて参加したけど、

『あれっ、お菓子とかジュースとかいるの。知らなかったゴメンナサイ』

 念押ししてもこれだって。まあお菓子ぐらいと思ったそうだけど、ボスママと四人の子どもは猛烈に食べる食べるで、帰りにお土産用にしていた分まで食べちゃったんだって。ケーキだって半分以上食べたんだよね。ケーキ代も、

『今日は持ち合わせがないから・・・・・・』

 払ってないそう。プレゼント交換の時も一騒動で、四人でグルグル回しながら当たるのをやったみたいだけど、決まった瞬間にボスママの子どもが他の子のを無理やり取りあげ、

『こっちにする』

 取られた子どもは泣き出したけど、

『子ども同士の事だから・・・・・・』

 涼しい顔で帰ったそう。騒ぎはまだ続きがあって、ボスママが持ってきたプレゼントは百均どころか、子ども用の雑誌のオマケみたいなもので、もらった子どもは泣き出したそう。そりゃそうよね。

 これだけでもキチガイみたいなものだけど、ボスママの子どもの誕生日は半年も違うんだよ。たんに同学年だっただけ。結局、ちゃちいオマケ一つで、お菓子とケーキを食い漁り、プレゼントを持って帰ったことになる。

 金額にしたらたいした事ないかもしれないけど、子どもが楽しみにしていたお誕生会をぶち壊し、不快な思いだけ残して去って行ってるんだよ。恵梨香はフレンチの事件を思い出したけど常習犯であるのを裏付けたぐらい。

 マンションでやらかしてるボスママの振る舞いは金額的にはたいしたことがないセコケチだから、その点は訴えるとか何とかにならないけど、後に残る不快感はおカネに換えられないものがあるで良いと思う。

 うちは賃貸だからいつでも引っ越しできるけど、分譲で買ってる人は迷惑な隣人として付き合わざるを得ないぐらいになってるぐらいかな。お隣の奥さんも含めて撃退法をあれこれ考えてるみたいだけど、ボスママは厚顔無知の蛙の面にションベンだし、なにかあるとヒステリックに、

『それって仲間外れにするイジメでしょ』

 これをギャンギャン喚きたてるからお手上げみたい。こんなことを康太に相談するのも悪いと思ったけど、

「ああボクも言われたよ」

 康太の歳で独身なんてホモじゃないかとか、軽しか乗れない貧乏人とかだって。とくにホモ疑惑はかなり言い触らされたみたい。これは恵梨香が来て打ち消されたものの、

『よくまあ、あんなのに頑張れますわねぇ。オホホホ』

 やっぱりね。恵梨香もあったものね、

『旦那さんが変わった趣味をお持ちで良かったですね』

 ああいう息を吐くように悪口が出る人は、目の前に当人さえいなければ、誰にも伝わらないと思い込んでる良いと思う。たとえば康太に恵梨香の悪口を言っても、恵梨香から康太に伝わるはずがないぐらい。そんなことあるはずないじゃないの。ちなみに恵梨香の悪口は、

『豚まんブス』

 恵梨香はビヤ樽狸の自覚はあるし、さんざんブスって言われてるから、あっそうぐらいだけど、康太も耳にしてるらしくて、口には出さないけど怒ってるのが丸わかり。康太も恵梨香が美人とするには程遠いのはわかってるけど、恵梨香を貶されるとマジで怒るのよ。

 普段の康太は温厚の権化みたいな人だけど、怒る時は怒る人なんだよ。怒ると言っても怒鳴ったり、殴りかかったりはしないけど、顔色が変わるのよね。とくに恵梨香がらみの時はそうで、隣にいたら怒りがビンビン伝わってくるもの。

 そこまでビヤ樽狸の恵梨香を想ってくれるのは嬉しくて仕方がないけど、とにかく康太の前で恵梨香の悪口はタブーみたいなもの。逆鱗に触れるとしても良いかもしれない。とは言うものの康太がいくら恵梨香のために怒ってくれても、あの鬱陶しいボスママの存在は変わらないのよね。

「康太、引っ越そうか」
「その手もあるけど、なにかアホらしくない」

 まあね。三十六計逃げるにしかずだけど、なんとなくアホらしいと言うか、尻尾巻いて逃げるみたいで悔しい気はする。なんだかんだと言っても恵梨香への被害は少ないから、しばらくは様子を見てたんだけど、増長はますます募るばっかりだった。


 恵梨香も康太も美味しい物を食べるのに目がないから、グルメ便みたいなのを利用してるんだ。宅配便の人もこの辺の担当らしくて自然と顔見知りになってた。その日は康太の希望で松坂牛のすき焼き。グルメ便だから一式セットになってて恵梨香も楽しみにしてた。

 その日の午前中は康太と買い物に出かけてたんだけど、玄関のところで宅配便の人とバッタリ出会ったんだよね。そしたら、

「お届け物はお宅の人にお渡ししてます」

 こう言われて恵梨香も康太も『???』。二人暮らしだし、今日は誰も家に来てないもの。宅配の人によると、宅配ボックスに入れようとしたら声をかけられて、自分ところのものだから、そのまま持って行ったらしい。

 誰だって話になって聞いてみるとボスママが怪しいとなったんだ。宅配の人も責任問題だから、一緒に十二階に。そこで康太が、

「ひょっとして、うちへの宅配便を間違って受け取りませんでしたか?」

 出てきたのは旦那だけど、そんなものは知らぬ存ぜずだったのだけど、玄関の廊下に見慣れたグルメ便の箱が見えたんだよ。宅配の人にも見えたらしくて、いきなり上がり込んで確認しちゃったんだ。すっごい怒鳴り声が上がったけど、

「これです。間違いありません」

 伝票貼ってあるものね。そしたら旦那は、

「勝手に他人の家に上がり込んで泥棒扱いとは許さん」

 こうやって騒ぎ始めたんだよね。恵梨香も康太もポカーンと見てた。さらに宅配の人に殴りかかったものだから、康太も慌てて止めに入ったんだ。そしたら奥からボスママが顔を出してきて、

「こんな高い物をあんたのところみたいな貧乏人が買えるわけがない」
「これを食べれるのはうちが相応しいから、もらってやったんだ。感謝しろ」

 もうワケワカメの雑言を金切り声で喚きたててきた。挙句に旦那が恵梨香たちを強引にドアの外に押し出して、

「そういうことだ。もらったものだから、これで話は終わりだ」
「そうよ、あんたのところみたいな豚まんブスには不要よ。豚のエサでも食べときなさい」

 康太の顔色が変わっていた。今まで見たことがないぐらい怒ってた。でも声だけは平静そうに、

「穏便に終わらせるのは無理みたいだな」

 その足で交番に行き被害届を出した。宅配の人の証言もあるし、康太はあのやり取りを録音してたんだよ。すぐに警察官も行ってくれた。そしたら真昼間からすき焼きやってやがった。

 こうなると警察官も無難に収める手段がないと判断し応援を要請。パトカーが来て夫婦とも連行されちゃった。警察署でも、

『あれは貰ったものだ』

 こう頑張ったそうだけど、通用するはずもなく認めたみたい。ここで問題になるのは被害届。このままでは送検になるんだよね。警察も最後の情けと思ったんだろうけど、被害届の取り下げの打診があったんだ。康太が下すものかと思ったけど、あっさり下しちゃったんだよ。

「あれでイイの」
「自分の手は汚したくない。逆恨みされてもアホらしいし」

 どういう事って思ったけど、結局ボスママ夫妻は送検されて起訴猶予になっていた。そう、被害は宅配会社にもあるから、そっちからも出されてたんだよね。宅配会社の方は従業員の診断書付の暴行届まで出してるし、絶対に引き下げないものね。

 送検されると検察官は起訴か不起訴かを決めるのだけど、不起訴でも三段階あるんだってさ、

・嫌疑なし
・嫌疑不十分
・起訴猶予

 嫌疑なしは単純には無実だけど、嫌疑不十分なら疑う余地は残されても犯罪を立証できるだけの証拠がないぐらいの扱いだって、

 起訴猶予となるとかなり違って、犯罪は証明できるけど被害者との和議が成立してるとか、社会的制裁を既に受けてるとか、本人が深く反省してるから起訴は許してあげるぐらいの感じだって。よくある初犯であるし反省してるからってやつで良いと思う。

「でもそれじゃあ、実質的にあの夫婦にお咎めなしで済んじゃうの」

 康太は苦笑いしながら、

「今から社会的制裁を食らうよ。それも含めての起訴猶予だよ」

 何が起こるのかと思ったら、ボスママ旦那は会社を懲戒免職にされてた。窃盗だけでなく暴行の起訴猶予だからそうなるのか。いや、窃盗だけでもやっぱり懲戒免職だろうな。それにしてもすき焼きグルメ便で職を失うって哀れだな。それからしばらくしてボスママ一家は引っ越していった。ローンも払えないものな。

「康太はどこまで計算してたの」
「うんまあ・・・」

 グルメ便を旦那さんが頭を下げて返してくれたら、それで終わろうと思ってたみたい。ところが強引に隠蔽しようとしただけでなく、恵梨香まで侮辱されて切れたってさ。だから自分のところの被害届は下げたけど、宅配会社への口添えはするどころか、逆に焚きつけたって。

「おいおい、それは言い過ぎだよ。そこまで頼んで来たあの夫婦の要請を知らん顔しただけ。うちには関係ないし、未だにグルメ便の弁償してもらってないし」

 すき焼きグルメ便だけど、宅配会社からお詫びで送られてきた。それが何故か四人前になってる上に、うちが頼んだものよりさらにグレードが上がってた。美味しかったな。