恵梨香の幸せ:マンションのボスママ

 康太のマンションは十二階建てだけど、ワン・フロアに二部屋ずつのこじんまりしたもの。一階はエレベーター・ホールとか、郵便受けとか、宅配ボックスがあるので二十二部屋と言いたいけど、最上階は一部屋になってるから二十一部屋。

 周囲は閑静な住宅街。マンションも元は一軒の家が売られてそこに建ったらしい。それぐらいの家が並ぶようなところ。阪急の駅にも近いから恵梨香の通勤にも便利だけど、

「どうしてもっとクリニックに近いところにしなかったの?」

 康太が言うにはあまりに職場に近いと気分転換しにくいからとしてた。長い通勤時間は誰でも嫌だけど、歩いて五分とかじゃ、仕事の気分のままに帰ってしまうぐらいかな。もう一つ理由もあって、

「スクーターのバッテリーの充電も必要だし」

 駅のそばにはスーパーとかもあって買い物にも便利だし、三宮に飲みに行くにしても、遅くなってタクシーを使っても二千円ぐらいで悪くないところぐらいかな。たいがいは終電までには帰るけど、遅くなる時もあるものね。

 マンションって、上の階に行くほど値段が高いのよね。とくに最上階は二倍の広さがあるから飛び抜けてるのだけどうちは二階。別に景色にこだわる訳じゃないけど、

「ああそれか。下の階を気にしなくてイイから」

 マンションって、音は下から上より、上から下の方が伝わりやすい感じがする。足音なんかでもめるパターンは多い物ね。ちなみにお隣さんとの間も階段とエレベーターだから物音はまず伝わらない。

 お隣さんには恵梨香が引っ越した挨拶ぐらいはしておいた。それがキッカケって程じゃないけど、お隣さんとはそれなりに仲良くしてもらってる。話を聞いていると基本は3LDKだから子育て家庭が多いみたい。

 そのせいかマンション内ではいわゆるママ友の交流があるみたい。恵梨香も根が田舎者だから、御近所さんと仲良くしておいた方が良いぐらいと思って、少しだけ付き合ってる感じかな。まあ、恵梨香だってフルタイムで働いてるから昼間はいないから、あくまでもそれなり。

 それでも住んでるとあれこれわかってくる。ママ友の中で問題なのは最上階の家の奥さんで、いわゆるボスママらしい。これは女だけじゃないけどマウンティングしたがる人種で良さそう。

 マウンティングするって言っても、ボスママは専業主婦だから、旦那の稼ぎで住んでるだけと思うのだけど、下の階に住んでる家を見下している感じかな。どこの階、いやどの住居を選ぼうがその家の勝手だけど、ボスママの部屋が一番高いのに優越感を持ってるのよね。

 広い、高いと言っても二十一軒の中の話に過ぎないとしか思えないけど、そこでの優劣を気にするタイプみたい。さらにがあって、

 専業主婦 〉 共働き

 今どき共働きなんか普通と思うけど、旦那の稼ぎじゃ家計が成り立たないから妻もやむなく働いてるぐらいの考え方かな。そこから導かれるのは、

『こんなマンションに無理して住むから』

 こうなるみたい。どう思おうが他人の勝手だけど、その価値観を押し付けようとするのがウザイぐらい。恵梨香の隣の奥さんも昼間はパートに出てるのだけど、それだけであれこれ言われるんだって。ボスママからすれば、二階の共働きの恵梨香のところは最底辺になってるみたい。

 それと子どもの有無もウルサイ。これも理由は不明だけど、子どもがいるだけで勝ち組みたいな感覚なのよね。恵梨香の田舎ならともかく神戸で、

『夫婦は子どもを作って一人前』

 こんなこと言われるとは思わなかったもの。康太はともかく恵梨香は子どもを産むにはエエ歳になってるから、

『急がないと手遅れになりなすよ。オホホホ』

 ほっとけと思うけど、顔合わすたびにチクチクやられるのは鬱陶しい。このボスママだけど旦那は外資系のメーカー勤務らしい。確かにバッグとか服とかはヴィトンとかエルメスだし、アクセサリーもブルガリとかカルチェだよ。

 クルマだってベンツ。これも自慢らしくて、うちのアルトを鼻で嗤ってたもの。恵梨香は免許こそもってるけどペーパーだから康太の趣味に口を挟む気はないけど、あの奥さんだって運転できないはずだけどな。

 そうそう一度お呼ばれしたけどインテリアも見るからに高そう。ただ恵梨香に言わせると、インテリアはともかく普段着をあれだけ着飾らなくてもイイと思うよ。カネ持ってるならどう使おうが勝手だけど、成金趣味にしか見えないもの。


 ただ不思議と言うか、変わっているのがとにかくケチなこと。本当の金持ちが案外ケチと言うか、倹約家と言うか、無駄な贅沢をしないのは知ってるけど、ボスママの場合はケチというよりセコイに入ると思う。

 休日はたいがいは康太と遊んでるのだけど、康太も急病診療所の出務があったり、学会に参加したりがあっていない日があるのよね。そんな時にボスママ主催の昼食会に誘われることがあったけど、行ったらウンザリした。

 近くのファミレスだったのだけど、まず店を貶すのよね。そう、こんな程度の低い店に合わせてやってると口に出す。どこも子育て家庭だから余裕がないし、ちょっとした息抜きに高い店なんか行けないじゃない。それなのに、わざわざ口に出す神経を疑うよ。

 そこから多いのはグルメ自慢。いかに自分が高い店に行ってるかを話してくる。そこで恵梨香に振ってくる。

『あなたもそういう店に行ける日があれば良いのにね』

 悪いけど恵梨香も知ってるよ。ただ趣味は悪いね。だいたいが高いばっかりで、恵梨香の合格点をもらえなかったところばっかり。言っても仕方がないからハイハイって感じで聞き流してる。

 まあそれはケチにもセコイにも入らないのだけど、問題はお勘定。ママ友会だから子連れになるのだけど、これを割り勘にするのよね。それも家族単位でやるんだよ。たとえば五家族あつまって五千円なら一家族千円みたいな計算。

 ボスママはサービス定食みたいなのを取らずに、アラカルトで結構高い物を食べるし、子どもだって四人もいてガツガツ食べてるんだよ。ファミレスだから知れてると言えばそれまでだけど、こっちは恵梨香一人なのに家族単位で割り勘って変と感じたもの。


 それと恵梨香の実家は農家だから、野菜とかを送ってくれることもあるんだ。お隣さんにはお裾分けするのだけど、どこから聞きつけたのかやって来るんだよね。結構な量を送って来るからお裾分けしても良いようなものだけど、

『なに、この野菜』

 実家から送られて来るのは規格外の商品にならなかったもの。だから大小マチマチだし、傷がついたりしてるものばかり。食べる分には問題ないけど、スーパーとかで売ってる小綺麗なものじゃない。

『こんなもの食べられるの』

 そこまで言うならもらわなきゃイイのに、ケチをつけまくった上で、

『我慢してもらってあげる』

 それもゴッソリ持って行こうとするんだよ。困るって言っても、

『うちは子どもが多いから食べる権利がある』

 そんな権利はないはずだけど、シャーシャーと言うからムカツク。これだけでも大概のものだけど、お裾分けしたら、普通はお返しもセットだよ。セットっておかしいかもしれないけど、自分のところにもあればお裾分けをするぐらい。

 別にやらなくても良いけど、そうやって近所づきあいって深まる面はあると思ってる。お隣さんも、

『これは旅行のお土産』

 こんな感じで返してくれる。でもボスママは一切なし。別に欲しいわけじゃないけど、聞きつけてまで押しかけてくる神経と裏表のセコさの気しかしないもの。


 ボスママだけど何回か会ってるうちに、どこかで見たことがある気がするのよね。なかなか思い出せなかったけど、やっと思い出した。あれはまだ康太と付き合うもっと前だった。

 神戸でも老舗のフレンチなんだけど、何周年記念みたいな謝恩企画があったんだ。ランチ限定だったけど、五千円で食べ放題、飲み放題みたいと思えば良いと思う。五千円はランチにしたら高いけど、普段は料理だけでランチでも八千円からだし、ディナーになれば一万五千円ぐらいになる店なのよね。

 食べ放題と言っても、そうだね、アラカルトで食べるぐらいと思ったらよいと思う。レストランってお得なコースメニューとアラカルトの二本立てのところが多いけど、アラカルトでどんなコースを組んでも五千円なのが謝恩企画のココロかな。

 恵梨香も同僚と楽しみにして行ったのだけど、恵梨香たちが席に着いてしばらくしてから、ボスママとその友だちみたいなのが入って来たのよね。そこで恵梨香が目を疑ったのは子連れだったこと。

 いくらランチと言っても老舗のフレンチだよ。そりゃ、お子様連れお断りとは書いてないけど常識だしマナーでしょう。店の人も子どもはご遠慮みたいな話をしたと思うのだけどヒステリックに、

『どこに禁止って書いてあるのよ!』

 店に轟き渡るような声がして結局は入ってきたのよね。店内の空気は気まずいものになってた。恵梨香も同僚と変な人って話してた。ボスママは席に着くと、

『まずシャンパン飲みたい。ドンペリをボトルでね』

 たしかに飲み放題だけど、あくまでも店の指定した銘柄をグラスで提供されるのよね。だいたいだけど、ドンペリをこんな店でボトルで頼んだりしたら、いくらするかわからないぐらいじゃないの。ソムリエが出て説明してたけど、ここでも、

『まったくケチ臭い店だわ』

 どっちがと思った。そこからオーダーが始まったけど、どれだけ注文するかって思うほど。ここもオーダー・テーカーが、

『一皿ずつ召し上がられてから・・・・・・』

 こんな感じで説明してた。ここも本当はそうでなくて、他のお客さんはおおよそのコースでオーダーしてるんだ。前菜、スープ、メイン、デザートって感じでね。そこからさらに欲しければ食べながら追加って感じ。ところがボスママはメニューをすべて読み上げる勢いで注文したんだよね。

『なんてメンドクサイ店なのよ!』

 メンドクサイのはお前だと思ったもの。だいたいだよ、そんなに食べられるのと思ったもの。次はどんな騒ぎが起こるかとウンザリしてたら、料理が来ると子どもが走り回り始めたんだ。たく躾の悪いガキどもだ。

 ガキどもはギャーすか言いながら走り回るだけじゃなく、店員やお客様にもぶつかるし、店内のインテリアにも手を出すしでワンダーランド状態。店員も対応にテンテコマイ。その時にまたもや信じられないものを見ることになる。

 ボスママは大きな袋からタッパーを取り出して料理を詰め込んでるんだよ。皿が空になると店員を呼びつけてオーダー、少し食べるとまたタッパーに。さらにグラスのワインを漏斗まで持ち込んでペットボトルに入れてた。

 こいつら夕食まで持って帰ろうとしてたんだよ。やっと気づいた店員が注意すると、まさにあれは逆上だった。怒鳴りつけるように、

『ドギー・バッグも知らないの』

 それは違うでしょ。ドギー・バッグは決められたコースなり、定食が食べきれなかった時に使うもので、あんたらがやってるのはマナー違反のタカりだよ。いや盗みとしても良いぐらい。店内が騒然としたところでやっと帰りかけたのだけど、会計でまたもや。

『五百円でしょ』

 えっと、

『そう読み間違える書き方をしてる方が悪いから払わない』

 そりゃアラビア数字で書いてあるけど、五百円でこんなフレンチの店で食べられる訳ないじゃないの。そこからサービスが悪すぎる、食べたいものが食べられなかった、嘘八百書いてあるとかギャンギャン騒ぎまくり、やっといなくなった。あれ払ったのかな。そこにオーナー・シェフみたいな人が現れて、

『ご不快な思いをさせて申し訳ありません。本日のお代はとても受け取ることが出来ません』

 こう深々と頭を下げてくれた。お陰でタダにはなったけど、あんな非常識な人間がいるのかとあきれたもの。ありゃ、筋金入りのクレーマーというより、キチガイと思ったもの。あんなのと同じマンションとは困ったものだよ。

恵梨香の幸せ:結婚式の主賓

 康太の親戚、クリニックとクリアしてホッとしていたら、康太に電話。

「・・・やっぱりそうなるよな。嫁さんに相談してみる」

 聞くと康太の可愛がってた後輩の結婚式。医者の結婚式って教授とか院長とかの錚々たるのが主賓として招かれるのだけど、後輩も既に開業していて面倒そうなのは呼ばないみたい。その代わりと言ったら変だけど康太が主賓として呼ばれるみたい。

 康太一人で行っても良さそうなものだけど、後輩の結婚相手は女医さん。この女医さん側の主賓が夫婦で出席するみたいで、バランス上、康太も夫婦で出席して欲しいぐらいの要請で良さそう。

 とにかく康太と恵梨香の結婚はプロポーズの夜に結ばれて翌日に赤い紙を区役所に提出したスピード婚。だから、そんなに知ってる人もいないから、まだ康太は独身として出席するのもありだけど、それもどうだろうの相談だったらしい。

 主賓と言っても挨拶するのは康太だし、恵梨香は座ってメシ食ってれば済むような仕事だけど、どうも康太は恵梨香を出席させるのに気が向いてなさそう。

「とくに水本先生がね」

 水本先生とは新婦だけど、まず水本先生自身のキャラもクセが相当強いそう。さらに水本先生の親戚はいわゆる高学歴のエリート一族らしい。水本先生も医者と言うか水本病院の娘で康太に言わせると、

「佐田先生も水本先生をわざわざ・・・・・・」

 康太も良く知らないとしてたけど、後輩の佐田先生と水本先生が付き合ってたのは知ってたそうだけど、佐田先生が途中から逃げ腰になり、水本先生から逃げるために開業したって話もあったぐらいだって。

「それでも結婚になったんでしょ」
「まあ、そうなんだけど、あの二人もなんだかんだと長いし、長い分だけ歳も取ってるし」

 良く聞くと水本先生は恵梨香の一つ下で、さらに新郎の佐田先生の二つ上らしい。姉さん女房が悪いわけじゃないけど、いくら女医でも行き遅れの土俵際に見えないこともない。女医だから独身のままでも良いようなものだけど、たぶん結婚願望があるんだろうなぁ。

「色々噂もあったし」

 噂があるのは水本先生の方で、他の医者との結婚話もあったらしい。他にも付き合ってた医者も何人かいたらしいけど、それらの元恋人は他の女性と結婚してるんだって。どうもあれこれ選んでいるうちに誰もいなくなって、佐田先生を強引にゲットした感じでもあるのかな。

「水本先生の御一族も口出しが多いみたいだし」

 佐田先生以外の候補がゴールまで至らなかった原因の一つにそれもあるとか、ないとか、

「やっぱり本人だと思うけど」

 どんだけ!

「でも座ってるだけでしょ。主賓夫婦に余興させたりしないだろうし」
「まあ、そうなんだけど」

 とりあえず新婦も新婦側親族もややこしそうな人たちで、康太が独身であると偽って出席したことがバレたら、なにか後で文句を付けられる可能性があるのだけはわかった。だったら恵梨香が出席すれば済む話じゃないの。

「悪いな、恵梨香。もし式とか披露宴で気になるような事があっても我慢してくれ。言わなければならない時はボクが言うから」

 まあ少々の嫌味や悪口なら初婚の時に言われ続けてるから大丈夫と思うって言って、いざ会場へ。へぇ、梅田のヒルトンか。さすがにリッチだな。結婚式はチャペル式。新郎の佐田先生は優しそうな感じだけど、新婦の水本先生は美人だけどキツそう。

 そこから親族のみの集合写真を撮ってから、披露宴会場に移動。ほぅ、こりゃ豪華だよ。主賓席は一番前だよな。もっとも丸テーブルだから主賓しか座ってないわけじゃなくて、挨拶してるのは康太の知り合いと言うか医者だろうな。

「神保の妻の恵梨香です」

 こんな感じで挨拶しといた。司会者から主賓の挨拶の紹介があってまずは新郎側の康太からだった。無難だけど、新郎の佐田先生の勤務医時代のエピソードを巧みに織り込んで、時に笑いあり、最後にホロっとさせる内容だった。良く出来てると思うよ。

 対する新婦側だけど、いくら新婦を持ち上げると言っても、あれはやり過ぎだろう。あれじゃ、新郎の佐田先生が可哀想じゃない。だってさ、夫婦別姓にするのは良いとして、籍としては新婦の嫁入りじゃない。あれじゃ、婿養子に聞こえちゃうよ。

 そこから乾杯の音頭になって会食が始まったんだけど、嫌でも新婦側の親族の声が聞こえてくるんだよね。

『とりあえず医者だから合格点にしないといけないけど・・・・・・』
『もうちょっと、なんとかならなかったのかね・・・・・・』
『水本の一族としては・・・・・・』

 なるほどプライドばっかり高い嫌な連中だってことか。そしたら、

『神保先生の再婚相手って、プッ』
『蓼食う虫も好き好きでしょうが・・・・・・アハッ』
『よほどお困りだったとか・・・・・・ウフッ』

 ありゃ、恵梨香までターゲットにされてるよ。まあ恵梨香は慣れてるから我慢できるけど、披露宴からやるもんじゃないだろ。クソ元婚家だって、もうちょっと常識あったぞ。この新郎側の陰口、悪口は宴が進むにつれて酔いも回って大きくなって行ったんだよね。

 誰かたしなめるのはいないのかな。というか、門出からこれじゃ、先が思いやられるよ。この日ぐらいは我慢するものだろ。やがて友人の挨拶になったけど、あちゃこれもだよ、新郎側は無難なものだけど、新婦側友人はなんなのよ。完全に新郎の佐田先生を見下してるじゃない。

 あれって女医仲間だろうけど、ちょっと酷くない。それをニコニコしながら聞いている新婦も新婦だよね。恵梨香も後輩とかの結婚式に出たことあるけど、こんな気まずい空気なのは初めてだよ。

 あれこれ聞いてると佐田先生の御親族は普通と言うか、サラリーマンとか自営業の人が多いみたい。佐田先生の家もごく普通のサラリーマンみたいで、奨学金ももらって医者になったで良さそう。どういうのかな、佐田家の中の出世頭みたいな感じで良い気がする。

 一族って言うほど由緒があったりプライドの高い家じゃないみたいだけど、親戚の中に医者がいて嬉しいぐらいかな。恵梨香の家も似たようなところがあるから気分はわかる。自慢して回るほどじゃないけど、ちょっと誇らしいぐらいだよ。

 それなのに新婦の水本家は佐田家の期待の星を見下しているのが丸わかり。だから佐田家の親族の人の表情も硬いし不愉快そうな気分が伝わってくるのよね。主賓席の康太の友だちの医者連中もそうみたい。

「康太、ちょっとこれって」
「そうだな。でも、恵梨香は黙っていてね」

 康太はそっと恵梨香の手を握ってくれたけど、そこから怒りが伝わってくる感じがしたもの。新郎の佐田先生の表情も暗くなってる気がする。ここで、ふと思い出したのが不幸な結婚式の話。

 よく聞くのは新郎や新婦に恨みを持つ友人が、スライド・ショーでスキャンダルを暴露して式を壊してしまうお話。でも、それはほとんど作り話ってなってた。手作り式ならまだしも可能でも、ちゃんとしたところでは会場の人が事前にチェックするから無理なんだって。そりゃそうよね。持ち込まれたDVDの試写ぐらいするし、BGMの著作権の問題もウルサイし。

 後は元カレとか元カノの乱入。これは実際にあるかもしれない。ただ実際のところは乱入しても式場の人が手早く連れ出しちゃうらしい。色んな事情で式を妨害しようよする人は一定数で存在するから式場側もある程度準備してるぐらいかな。

 式はキャンドル・サービスが行われたりの定番で進むのだけど、新婦側親族の悪口・陰口はますます大きくなるのだけど、新郎側親族もなにかあれこれ話し合ってるみたい。切れ切れにしか聞こえないのだけど、

『これは・・・』
『ええ、もう良いと思いますよ・・・』
『やはりでしょ・・・』

 そのうち主賓の康太のところに佐田先生が来て耳打ちして康太は、

「ボクはそれで了解します」

 式次第は進んで新婦から両親への手紙になったけど、読み上げかけた新婦の水本先生から佐田先生はマイクを奪うように取り上げ、

「手紙は結構です。それとお集まり頂いた御来賓、両家親族の皆様、この結婚は破談にさせて頂きます」

 なんだ、なんだ、会場は騒然となり、新婦の両親が詰め寄ったけど、佐田先生が何かを手渡すと顔色が真っ青に変わるのがわかったのよ。

「こ、これは」
「なんてこと」

 新郎の両親は新婦を引きずるように控室に連れて行き、大混乱の中で披露宴は終了。狐につままれたように恵梨香も式場を後にして帰ることになったんだ。帰りの康太の表情も硬かったからマンションに帰ってから事情を聞いた。

「佐田先生も限界だったって事だよ」

 佐田先生が水本先生を愛していたのはホントだったで良さそう。ただ水本先生の方の浮気もあったらしいけど、

「あれが複雑なんだよ」

 水本先生には三つ上の実兄がいるのだけど、強度のブラコンだって。それだけじゃなく実兄も強度のシスコンらしいけど、

「まさか」
「そのまさかなんだ」

 水本先生も兄妹の関係は良くないのはわかってたみたいで、他の男と結婚を目指したらしい。でも最後はどうしても実兄との関係を切れなかったらしい。何度か結婚話が出て潰れたのも、それが原因で良さそう。水本先生の兄妹の関係は医局では公然の秘密レベルになってたらしいけど、

「それでも佐田先生は水本先生を救いたかったんだ」

 そこまでって思ったけど、

「とにかく長いからね。最後は自分しかいないと思い詰めてたよ」

 佐田先生も偉いよな。言ったら悪いけど兄妹で関係してる女なんて気持ち悪くて選ばないよ。それでも惚れたからには救いたいなんて思うなんて。康太の言う『長い』はあの二人にとって重かったんだろうね。きっと楽しいこと、嬉しかったこともあったはず。そんな全部を考えても結婚の条件は実兄との関係の清算だけど、最後に水本先生の御両親に見せた写真は、

「あれも佐田先生は呑み込もうとしてたんだよ」
「どういうこと」

 信じられないけど結婚式前夜の兄妹のモロ写真だって。そんなものがどうして手に入ったかだけど、佐田先生の伯父さんが興信所やってて、徹底マークしてたみたい。これを見せられた佐田先生は動揺しまくりだったみたいけど、

「ボクも新郎控室に呼ばれて、この式が終わるまでに判断するって言われたよ」

 そこまで耐えた佐田先生だったけど、あの披露宴の新婦側親族の態度に切れたんだろうな。言い方悪いと思うけど、キズモノどころでない水本先生を嫁にして救ってやろうの気が萎えても不思議ないもの。

「それもあったけど、最後は恵梨香だよ」
「えっ、なんにもしてないよ」

 結婚式の新郎側の来賓招待には苦労したんだって。水本先生の話は公然の秘密で、教授以下が逃げてしまったらしい。そりゃ、あんまり関わり合いになりたくないものね。水本先生の親族が小うるさいのは知っている佐田先生は困った挙句に康太に相談したんだよ。

 康太は佐田先生のために釣り合いの取れる来賓が来てくれるように駆けずり回ってるんだ。何度も何度も頼み込み、頭を下げて、それこそ康太の顔を立てて来てくれてるぐらいだって。

 主賓の挨拶だって、来賓には康太より格上の人がいたけど、嫌がられたから快諾して引き受けてるのよね。そこまでお膳立てしてくれた康太の奥さんである恵梨香への悪口に最後は切れたで良さそう。

「恵梨香への悪口なんて聞きなれてるのに」
「ボクへのメンツが立たないと思ったんだろう」

 最後のトドメは水本先生の、

『神保先生も趣味悪いよね』

 これだったらしい。おそらくお世話になった先輩の顔に思いっきり泥を塗られた気分になったんだと思う。恵梨香が出席してなかったら、いや恵梨香以外を康太が選んでいたら結果は変わっていたかも、

「たぶん同じだろう。あそこまで行くとある種の病気だよ。結婚したからと言って変わるとは思えないもの。佐田先生にとっては良かったと思ってる」

 かもしれない。兄妹だって男と女。どうしても離れられない関係になってるとしか言いようがないもの。そういう組み合わせの星の下に生まれて来たんだろうな。

「どうなるの」
「どうにもならないだろう」

 せめて佐田先生に幸あらんことを。

恵梨香の幸せ:院長夫人の役目

 そうそう食器も買い足してる。つうか、康太は離婚の時にすべて食器を置いてきてるのよ。一人暮らしになってそろえてるけど、必要最小限で、主力は恵梨香の持ってきた食器。これもあんまり良いのじゃないのが多くて、

「恵梨香の好きな食器をそろえたら良いよ。今のはたいしたものないし」

 これも基本は食洗器対応のものにしてるけど、あれこれ買わせてもらった。やっぱり夫婦茶碗とか使ってみたいじゃない。この歳でも恵梨香はそうなの。食器にも康太の好みはあるのはあって、とにかく酒器は豪華、つうかバカラ。

 もっともあるのは、ワインを飲むときに使うゴブレットと、ジンを飲むときのオールド・ファッション・グラス、日本酒を飲むときのショット・グラスの三個だけ。そうなのよ、康太は家ではビールを飲まないんだ。洋食にはワインだし、和食には日本酒、中華には紹興酒で飲み分けてるんだよ。

「康太、相談があるのだけど」
「なんだい」
「もうちょっとマシなものにしましょうよ」

 恵梨香だって飲むのだけど、あんなものよく見つけて来たと思うほどの安酒。ワインも日本酒も紙パックの一番安いやつだし、紹興酒も似たようなもの。康太の稼ぎだよ。恵梨香の稼ぎだってもっとマシなお酒飲んでたよ。

「そんなに変わらないと思うけど、恵梨香の好みで買ってくれる」

 そしたら康太は感極まったように、

「まるで店で飲むぐらい美味しい!」

 そうじゃなくて、今まで飲んでたのが不味すぎただけ。あんなものよく飲んでたものだ。だって料理酒より安いんだもの。

「康太、電子レンジ買い変えても良い?」
「もちろん」

 これもビックリしたけど、キッチンに電子レンジすらなかったんだ。だから恵梨香のマンションから持ち込んだけど、その代わりにあったのが、でっかいオーブン・トースター。とにかく大きくて、焼き皿が二枚入るぐらい。あそこまでになるとトースターじゃなくて、オーブン・レンジだよ。そのせいかポップアップ・トースターも買ってたものね。

 康太はそれでグラタン焼いたり、ロースト・ビーフ焼いたりしてたけど、恵梨香は前からスチーム付きのオーブンレンジが欲しかったから買い換えた。鍋もルクルーゼでそろえさせてもらった。そのぶん張り切って作ってるつもり。

 他にも実は欲しいものがあるんだよ。これは恵梨香の昔からの夢みたいなものだけど、ワインセラーが欲しかったんだ。でもあまりにも贅沢じゃない。置くところにも困るのもあったけど、子どもがいないのなら今の3LDKなら置けるはず。

「なるほど! どうせだったら」

 康太が言うには、康太はどちらかと言うとワイン好き、恵梨香はどちらかと言うと日本酒好き。

「どっちも入るのが店屋さんにあるじゃないか」

 どひゃって感じで康太が提案したのが、上四段が十本ずつワインが並べられ、一番下に一升瓶がゴッソリ並べられるショーケース。恵梨香のテンションは上がりっぱなしになっちゃった。今は頑張って棚を埋める努力をしてる。


 康太が恵梨香を愛してくれて、そりゃもう大事にしてくれてるのは日々痛感してる。でもどうしたって引け目がある。実家だって農家だし、短大卒だし、バツイチ。さらに若くもない。

 さらに言えばダイエットとトレーニングでかなりマシになったとはいえ、元がビヤ樽狸なのは変わりようがない。そう、どこをどう見ても医者の嫁に相応しそうなお嬢様育ちには見えないってこと。

 とりあえず親戚付き合いは叔母さんところをクリアしてOK状態。問題は康太のクリニック。顔を出す必要もないと言えばそれまでだけど、何かあった時に職員が恵梨香の顔も知らないと拙いのじゃないかと康太に言われたのよね。康太のクリニックは夏に納涼会、年末に忘年会をするのが恒例だけど、顔を出してくれないかって。

 忘年会に行ったのだけど、会場は東天閣。そう異人館風の中華のお店。さすがに緊張したよ。全部で二十人近くいるけど、全部女性ばっかり。これも行ってみて気が付いたのだけど、クリニックで男は康太だけなのよね。

 康太の隣に座ったけど、みんなチラチラ見てた。これは恵梨香でもそうすると思うけど、やっぱり釣り合い悪いよね。康太が再婚していることは知ってるはずだけど、連れてこられたのが恵梨香じゃガッカリしてるはず。

 康太は気にする風もなく恵梨香を紹介してくれて、続いて恵梨香も挨拶することになったんだ。

「このたび御縁があって、神保先生の妻になった浜崎恵梨香と申します。これからは宜しくお願いします」

 これぐらいの無難な挨拶をして会食開始。康太はあれこれと気を遣ってくれるけど、どうにも居づらい感じ。それにしても静かな忘年会だな。クリニックに勤める人ってこんな感じなのかと思っていたぐらい。

 ここは奥様だけど、新入りみたいなものだから座持ちをやった方が良いと思ってビールのお酌に回ったんだ。挨拶してビールを注いで、返杯もらう例のやつ。恵梨香は注いでもらえるようにグラスを飲み干したのだけど。

「奥様は飲めるのですか」
「少しぐらいは」
「先生の相手が出来るぐらい?」
「えぇ、まあ、それなりに」

 そこから座が急に和やかになり、

「受付の田中です。奥様、お注ぎします」
「看護師の吉岡です。宜しくお願いします」

 聞いてみると元嫁はお酒があんまり飲めなかったんだって。それだけでなく、ワッと騒ぐのが好きじゃなかったみたいで、座が乱れるのを嫌って露骨に顔をしかめてたらしいのよ。元嫁は毎回出席していた訳じゃないけど、出席したらみんな気を遣って大変だったんだって。

 恵梨香は後妻になるけど、医者の妻だから似たようなものじゃないかって警戒してたで良さそう。恵梨香は静かに飲むのも嫌いじゃないけど、宴会はワッと騒ぎたい方かな。だってお通夜みたいな宴会なんてつまらないし。そしたら、

「管理栄養士の隅田です。奥様は紹興酒とか飲まれますか?」

 ここは奥様の力で、

「康太、紹興酒の十年物頼んでもイイ」
「どうせやったら、二十年物を飲もうよ」

 そしたら、

「やったぁ」
「話がわかる」

 こんな感じになって盛り上がり、ワインもシャンパンもバンバン注文しちゃった。どうも、康太の奥様だろうから、やっぱりどこかのお嬢様だろうと考えて、みんな緊張してたみたい。それが美人じゃないのはともかく、いわゆる庶民の娘と聞いて安心したみたい。庶民と言うか、ぶっちゃけ農家の娘だけどね。帰りに、

「ちょっとやり過ぎちゃったかな」
「顔合わせが成功したから安いもんだよ」

 康太に聞いたのだけど、やっぱり中は大変みたい。どうしたって数集まれば変なのも混じるし、女同士だからと言いたくないけど、内部でもめ事も定期的に起こるらしい。それは恵梨香の会社でも起こるけど、人事異動でかき混ぜるのが出来ないから、もめだしたら行くとこまで行っちゃう事が多いみたい。

 康太は医者だし、院長だから、とにかく安易に発言できないぐらいで良さそう。下手に誰かを贔屓にでもしようものなら、院長のお墨付みたいになって火に油を注ぐ結果になるそう。何度も揉めた末に、

「今のメンバーは、わりと落ち着いてるよ。これだって、いつまで続くかわからないけど」
「恵梨香が入った方が良いのかな」
「やめた方が良いと思う」

 小さなクリニックでも医療機関となると専門職の塊なのよね。簡単には看護師、栄養士、保育士がいて、さらに受付の事務担当がいる。揉め事はしばしば職種間抗争になるみたいで、これこそ無資格の恵梨香が噛むと余計に揉める可能性があるんだって。

「もし何かやりたいのなら、折々ぐらいに差し入れもって行くぐらいで十分だよ。そううだな、理解のある出来た奥様ぐらいで」

 康太の言いたいのは、院内の人間関係のバランスはちょっとしたことで崩れるから、恵梨香はそれに無暗に関わらないのが吉ぐらいの考え方。

「奥様の意向も大きいからね」

 これもふと思った。元嫁は口を出したことがあるかもって。たいした口は出してないかもしれないけど、宴会で元嫁が不興を感じ、口を挟んだ人が辞めたりすれば尾鰭が付くぐらい。だから、あれだけ最初は警戒されたのかも。

 結婚して初めて医者と言うか、院長の妻って重いと感じたよ。それだけの地位と発言力があるって思われてるんだ。今日だって、誰かが恵梨香に喧嘩を売るような事態になってたりしたら、そのまま辞職騒動まで発展した可能性があったかもしれないもの。

「その通り。だから誰もが恵梨香の機嫌を損ねないようにする。恵梨香の役割は誰にも分け隔てなく愛想よくすること。今日の恵梨香は満点だったよ」

恵梨香の幸せ:康太の好き嫌い

 康太にも食べ物の好き嫌いはある。だけど妙に影響が大きいのはお袋さんの気がする。そりゃ、母親が子供に大きな影響を及ぼすのは当たり前だけど、あんまり良い方になってない気がしてならないのよね。

 お袋さんは頭の良い人だった。だってだよ薬剤師の資格をもってるんだもの。今だって薬剤師になるのは大変だけど、当時ならなおさらとしか言いようがないじゃない。だから口も立つのはわかるけど、康太は周囲がバカに見えるタイプじゃないかとしてた。

 夫婦喧嘩も元嫁との嫁姑戦争の時もそうだけど、とにかく出てくる言葉にトゲがあるんだって。よく綿に針を包むようにって言うけど、その針に毒が塗られてる感じっていうから、どれだけと思うよ。

 そういう話し方は喧嘩の時だけでなくて、普段からそうだと康太はしてた。まずとにかく褒めない人だったで良さそう。たとえば康太がテストで九十点を取って来ても、九十点を褒めるのじゃなくて、減点された十点を責め立てると言えば良いのかな。じゃあ満点を取れば褒められるかと言えば、

「あははは、こうやって満点が取れるはずなのに、今まで取れていないのはボクが悪いと言って責められたよ」

 康太は子どもの時は絵が上手かったらしい。上手いどころか表彰状を四枚も取ってるし、金賞だってあるって言うからビックリ。ああいう表彰状って、朝礼の時とかに渡されるのよね。子ども心に晴れがましいし、恵梨香も一枚ぐらい欲しかったもの。康太も胸張ってお袋さんに報告したそうだけど、

「あれ。勉強もあれぐらい集中してたら、成績は上がってるはずだって言われただけ」

 テストで満点取れない分を責め立てられ、満点取ったら今まで取れていない事を責め立てられ、テスト以外の分野で成績を挙げたら勉強が手抜きだと責めたてられ・・・そういうお袋さんの話し方は年とともにエスカレートしたらしく、最終的にはどんな話から始まっても、最後はお説教になったそう。これでよくグレなかったもの。

「嫌われてたの?」
「そうじゃないから、メンドウだった」

 学生になっても長期休暇の時は早く帰って来いだったし、帰れば帰ればでゆっくり寛げって言われたそう。康太もお袋さんと話をしたそうだけど、相も変わらず綿に毒針を含んだもので定番の説教モードに突入。

「帰って一時間もしたら嫌になった」

 つまりはお袋さん自身は康太に説教するのが康太のためになってると思い込んでたみたい。それがどれだけ康太に嫌がられてたかの自覚なんてどこにもなく、むしろ喜ばれてるとか、好かれてると考えてたで良さそう。


 康太の食べ物の好き嫌いの中に健康思想が混じり込んだものはトコトン嫌いってのがある。ここはごく簡単に、

『不味くても体に良いから食べろ』

 こうしても良いと思う。お袋さんの料理の腕は悪くなかったみたいだけど、ある時期から健康思想が入り込んだで良さそう。康太は酸味が苦手。酸味というより、お酢が好きじゃない。とくに酢の味が前面に立つものは嫌いで、酢物もやカルパッチョも好きじゃない。

「鮨は好きだよ」

 これもお袋さんがお酢の健康法にはまった時期があったみたいで、それこそ酢を使った料理のオンパレード攻撃をされたで良さそう。その反動で今は嫌いぐらい。出されれば食べるけど、自分からは絶対にオーダーしないもの。

 実は魚もあまり好きじゃない。いや、あれははっきり言うと嫌いで良いと思う。とくに嫌いなのが煮魚。煮凝りなんて見るのも嫌で良さそう。これもお肉が体に良くない健康法の反動みたい。

 康太の子どもの頃は新鮮な魚を手に入れるのは容易じゃなかったで良さそう。魚料理も鮮度が良ければ刺身にも出来るけど、少し古くなると焼き魚になり、さらに煮魚になるところがある。

 それと子どもは魚の骨が苦手。魚好きが食べると骨格標本みたいになるけど、ヘタクソが食べると身がいっぱい残るのよね。普段の料理には小骨が多い魚が使われることが多いから、それだけで康太はウンザリしてたみたい。

「言われたの」
「そりゃ、もう」

 康太は小汚く食べるのを徹底的に注意と言うか、例の綿に毒針でやられ続けて、すっかり魚が嫌いになったで良さそう。とくに魚の生臭さは徹底的に嫌いになり、その生臭さを消すために使われるショウガの臭いまで大嫌いになったんだって。

 それと酢物も同じだけど偏食矯正もされたんだって。要するに好きになるまで延々と食べさせられたってこと。結果として矯正にはならずにダメ押しになったぐらい。

「だから焼き魚も煮魚も外でしか食べなかった」

 そうなのよね。結婚前もよく和食屋さんに行ってたし、そこでは普通に焼き魚も煮魚も食べてたもの。贅沢かもしれないけど、刺身に出来るほど新鮮な魚じゃないとダメってこと。

 お袋さんの特徴として健康思想も周期的に移り変わるらしい。これも康太に言わせると、自分が食い飽きたからだろうってしてるけど、どうも康太は苦手の物をわざと選んだかのように集中攻撃されたらしい。

 そのうち味付けまで健康思想が入り込んだみたいで、康太がその料理に期待していた味がしなくなったらしい。それが美味しくなればともかく、康太にとっては吐き出したくなるほど不味く感じたで良さそう。

「恵梨香、これだけは言っておく。何があっても玄米は出すな」

 玄米は恵梨香も食べたことが無いけど、上手に炊けば美味しいとは聞いたことがある。康太はお袋さんに食べさせられて、この世にこれほど不味いものがあるとしか感じなかったって。

「玄米が本当に美味しいのなら、だれがわざわざ白米にして食べるものか!」

 誰にだって好き嫌いはあると思うし、むしろなんでも大好きの方が珍しいと思うのよね。康太の場合はあんまり好きなじゃないものを押し付けられてダメを押されまくったぐらいかな。

「まあね。食べなきゃ若死にするの呪いをかけられまくったよ」

 だから康太に食事を勧める時に、

『体に良いかから』

 これはNGワードみたいなもの。思想で飯食ってるんじゃないって感じかな。まあその辺は恵梨香にもわかる部分はある。どこかの番組で、

『これを一日にこれだけ食べると体に良い』

 こんなのがあったけど、毎週毎週紹介される体に良いものを全部食べてたら、食事が大変なことになっちゃうもの。そんなに難しく考えなくとも美味しいものをバランスよく食べれば良いだけなのは恵梨香も同じ意見だよ。


 そうそう元嫁にもダメを押された料理もあるんだよ。元嫁も料理は下手じゃなかったみたいだけど、必ず汁物を付けるんだって。和食なら味噌汁、洋食ならスープ、中華なら中華スープかな。それ自体は取り合わせとして問題ないと思うのだけど、とにかく量が多かったみたい、

「小型のドンブリぐらいあった」

 さらにどの汁物も、いわゆる具沢山だったみたいで、

「信じられるか。箸が立つんだよ」

 康太にとって汁物はあくまでも汁を飲むものであって、量もカップスープぐらいかな。クリームスープにクルトンが乗っかってるぐらいのイメージで良いかもしれない。具沢山もたまには変わり種で良いかもしれないけど、連日連夜繰り広げられて見るのも嫌になったそう。

「どうしたの」
「また喧嘩さ」

 どうしても受け付けなくなった康太は、最終的に汁だけ飲んで具には手を付けなかったんだって。それを元嫁が怒って一週間ぐらい口を利かなくなくなったらしい。


 なんかいつもいつも思うのだけど、人の組み合わせは大きいよ。お袋さんの場合は選びようがないけど、よく康太も耐えたものとしか思えないもの。元嫁は康太が選んでるけど、相手との本当の意味での相性なんて結婚してみたいとわかるはずないものね。

 康太は結果として生まれ育った家庭も、結婚後の家庭も居心地が悪かった気がしてならないのよね。食べ物もそう。結婚前に恵梨香とあれだけ食事に行ったのも、恵梨香が何を好み、何が嫌いかを調べてた気がしてる。

 そりゃ、まったく好みが一緒だとは言えないけど、お互いの嗜好がかなり近いのは間違いないもの。余裕で合わせられる範囲と言えば良いのかな。恵梨香ももちろん注意してるけど、康太は恵梨香の作るものを喜んで食べてくれるんだよ。たぶん注意点は決め打ちしないことで良いと思う。康太が絶対に食べられないものは、

「タイの子の焼いたの」

 これぐらいで、あとはゲテモノ系かな。ゲテモノは恵梨香も好きじゃないから出さないし、康太は嫌いなものでも量さえ少なければ文句も言わずに食べてくれるもの。それだけじゃないよ、

「恵梨香の作るご飯は美味しいね」

 そりゃ、もう、どこぞのシェフが作ったかのように褒めてくれるんだもの。たまに手を抜いて宅配ピザも使う時だって、

「たまには恵梨香も手を抜かないと。それにさすがの恵梨香だってピザまで焼けないから嬉しいよ」

 う~ん、手を抜く日が我ながら多いと反省してるけど、あれだけ褒められると作るのだって意欲が湧くじゃない。実は夕食だって、

「ボクは遅いから、無理して待ってくれなくても良いよ」

 康太の夕食は八時半ぐらいになるから最初は辛かった。ちなみに元嫁時代は子どももいたから康太は一人で食べてたって。でもこれだけは譲らない。たとえもっと遅くなっても夕食は必ず一緒に食べる。二度手間が面倒なのもあるけど、やっぱり一緒に食べたいもの。

恵梨香の幸せ:お袋さん

 親戚付き合いは叔母さんだけなのだけど、これは康太が親父さんが亡くなる頃からそうだったみたい。

「お袋がな・・・」

 お袋さんは神戸から嫁に来た人なんだけど、まず嫁姑戦争を起こしたで良さそう。戦線はすぐに拡大して嫁小姑戦争、つまりは叔母さんともやらかしたらしい。これはかなり壮絶だったそう。

 嫁姑戦争というか嫁イビリは恵梨香も経験したし。ああいうものは姑に原因があることが多いと思うし、康太もお袋さんからクソ姑、クソ舅、クソ小姑を吹き込まれて、そう思ってたらしい。

 でも真相はかなり違ったんじゃないかと今は考えてるみたい。まずだけど嫁姑戦争が起こる原因の一つに姑が大姑からイジメを受けたのはあるはず。つまり自分がイジメられたから、今度は嫁をイジメるみたいな順送りみたいなもの。

 ところが大姑さんは姑が嫁ぐ二十年ぐらい前に亡くなってるんだって。さらに大舅との同居経験もなし。つまりは姑さんに嫁イビリの経験はないのよね。今と違ってお袋さんの頃の嫁姑戦争は台所の支配権争いみたいなもののはず。そう、誰が一家の主婦であるかみたいな感じかな。

 お袋さんが嫁いだ頃は姑もまだ若いわけで、そうはホイホイと主導権を渡さないと思うのよね。お袋さんだって、いきなり一家の主婦が出来るかと言えば心もとなく思われても仕方がないと思うのよ。

 そういう状態でお袋さんは、当時としてはあり得ない感覚で姑に喧嘩を売ったんじゃないかと康太は考えてるのよね。この考えが強くなったのは康太の結婚式の時だそう。結婚式って出席者のバランスが必要になるのだけど、康太の父方の親戚は叔母さんしかいないようなものだから、母方の叔母さんの家もアテにして集めたそうなんだ。

「ドタキャン喰らったよ」

 叔母さんは四姉妹だけど、次女の家からだってさ。お袋さんと次女の叔母さんが大喧嘩して欠席、それもドタキャンはビックリしたそう。さらにお袋さんは残りの二人の妹とも不和になり、

「ボクも家を出てたから詳しくないけど、派手な姉妹戦争をやってたらしい」

 これも昔から仲が悪かったわけじゃなく、康太も欠席した叔母さんや従姉妹を良く知っていて、一緒に旅行に行ったこともあるそうなんだ。だから康太も結婚式に呼んだし、まさかドタキャンされると思わなかったぐらい。

 これも今から思えばらしいけど、康太と叔母さんたちの仲は悪くないんのだよね。別に喧嘩する原因もないし。だから一度は招待を受けたけど、そこにお袋さんが口を挟んでドタキャンになったんじゃないかって。

 関係者の多くが亡くなっているか、口も利かない仲になってるから確かめようがないとしてたけど、どうもお袋さんは嫁いでから親戚一同に喧嘩を売りまくっていたんじゃないかとしてた。自分の妹にさえそうだものね。

 姉妹だって不仲になることあるけど、四人もいるのに全員と喧嘩してるのはやりすぎぐらいの見方かな。そうなるとお袋さんが嫁イビリの象徴みたいなエピソードとして話していた事件も見方が変わって来るって。

 お袋さんが結婚した頃の親父さんは大学院生で、給料どころか学費を納めている状態だったんだって。そこで嫁イビリとして姑さんは生活費を渡さなかったから、康太のパンツ代にも困って実家からの仕送りで凌いだらしい。

 だけどだよ、康太のパンツ代にも困るのなら他の生活費はどうなんだになるのよね。だってさ、嫁姑戦争になっても、姑は嫁こそ憎いけど息子や孫は可愛がるものじゃない。ましてや康太は男で跡取りだし。

「医者になってから知ったようなものだけど・・・」

 親父さんは大学院生で大学病院からは無給だけど、医者としては無給じゃないと康太は言ってた。この辺も恵梨香にはわかりづらいところだけど、

「院生の扱いは昔もボクの知っている頃も、そんなに変わっていないはずだよ」

 これもワケワカメの世界になるけど大学院生と言っても勉強とか研究ばかりしてるわけじゃなく、医者として大学病院で無給で働かされるそう。

「う~ん、ボクは院生をやらなかったから知らないけど、医者として働く傍らで研究するぐらいかな」

 だったら無給だと思ったけどアルバイトをするんだって。このアルバイトがビックリするようなもので、時給が世間の常識を超え過ぎてて、まさしく桁が違うもの。康太でさえ時給一万円ならやりたくないってさ。どんだけと思ったもの。

「時給やバイト相場は昔より値下がりしてるけど・・・・」

 他の病院の当直バイトみたいなのがあって、土日を泊れば十五万円とか病院によっては二十万円とか、それ以上もあるそう。これも医者の世界のわからないところで、他の病院の当直代はバカみたいに高いのに、

「自分の勤務する病院の当直代は安いよ」

 康太も聞いただけの話だそうだけど、かつては当直代が出ないとか、一晩五百円なんてのもあったらしいんだ。さすがに今はそこまで酷くないそうだけど、だいたいで言えばバイトの当直代の十分の一ぐらいじゃないかって。

 親父さんも院生をやりながらバイトをしてたはずで、リッチまでいかなくても、それなりに収入はあったはずと康太は言ってた。月に二回土日当直バイトすれば三十万から四十万円ぐらい収入があるはずだもの。そうなると康太のパンツ代のエピソードは、

「親父の収入は婆ちゃんに回ってお袋に行く経路だったと考えてる」

 姑が絶ったのはお袋さんの小遣いだろうって。これも売り言葉に買い言葉の末のもので、なおかつ親父さんには言わなかったものに違いないって。だって親父さんが知っていたら仲裁に入るなり、バイト代の一部をお袋さんに回せば済む話だものね。だらら実家から小遣い支援を受けてまでお袋さんは徹底抗戦したエピソードだろうって。

「あの話もな」

 これは親父さんの晩年に聞いた話だそうだけど、もうちょっとお袋さんが姑と上手に折り合いを付けて欲しかったとボヤイてたそう。お袋さんはマザコンと切って捨てたらしい。そういうケースでマザコンはままあるけど、ちょっと違う感触もありそう。

 康太が言うには姑は良姑ではなかったかもしれないけどクソ姑ではなかったんじゃないかって。当時の感覚なら普通の姑で、嫁が適当にハイハイと立ててあげれば丸く収まってた可能性があるぐらいかな。


 親父さんの話も聞いたけど、とにかく医者だから田舎の名士だったとして良いと思う。かなりの社交家で人望も厚かったみたいで、葬式は自宅でやったけど参列者は五百人を超えたって言うから結構なもの。

 親戚付き合いも親父さんが元気な頃は盛んだったみたいで、康太が母方の叔母さんたちや従兄妹を良く知っているのもそのせい。今でも康太が故郷で自己紹介する時に親父さんの名前を出せば一発で通るぐらいっていうものね。

 どうもだけど親父さんと付き合うのは親戚にしても、近所の人にしても楽しかったで良さそう。だけどこれは康太もお袋さんが死んでから聞いたそうだけど、お袋さんの近所での評判も良くなかったらしい。

 田舎的には名士である親父さんの顔を立てるのが優先されて、お袋さんの悪評はあえて耳に入れなかったんだと思う。じゃあ夫婦仲はって聞いたら、

「離婚しないのが不思議だった」

 中学から高校時代には頻繁に夫婦喧嘩が勃発したんだって。これも罵声が出たり物が飛び交うような陽性なものじゃなくて、ひたすら陰々滅々とした口論が何時間も続いたそう。これもコースがあって、始まりは最近の出来事から始まるけど、最後は決まって新婚時代の嫁イビリの恨み節に雪崩れ込んでたそう。

 夫婦喧嘩が始まると家の空気は悪くなるし、康太は一人っ子だから逃げ場がないのよね。だいたい夕食時から始めることが多かったそうで、とにかく早くメシを終わって自分の部屋に逃げ込んでたらしい。

「家から早く出たかったよ」
「もし離婚になったら、どちらについて行く気だったの?」
「新しいお母さんが来ると思ってた」

 こりゃ、醒めてるよ。お袋さんは最後は親父さんにまで喧嘩を売ってたぐらいに見えそう。親父さんも離婚を考えていたかもしれないけど、時代だし田舎だから世間体を考えて踏み切れなかったのかもしれないね。

「恵梨香なら親父と上手く行ってたよ」

 それはわからないけど、康太が見合いで元嫁を選んだ理由もそうだっかもしれない。見合いだったら親も認めてる相手だから嫁姑戦争を防げるぐらいかな。もっとも、あっという間に勃発したみたいで意味なかったって言ってた。

「まあお袋がいなくて良かったよ」

 それは恵梨香もそう思う。いくら康太を愛していても、康太の母親はしょせんは他人だから、そんな人に折り合いを付けれる自信はないものね。