恵梨香の幸せ:マンションのボスママ

 康太のマンションは十二階建てだけど、ワン・フロアに二部屋ずつのこじんまりしたもの。一階はエレベーター・ホールとか、郵便受けとか、宅配ボックスがあるので二十二部屋と言いたいけど、最上階は一部屋になってるから二十一部屋。

 周囲は閑静な住宅街。マンションも元は一軒の家が売られてそこに建ったらしい。それぐらいの家が並ぶようなところ。阪急の駅にも近いから恵梨香の通勤にも便利だけど、

「どうしてもっとクリニックに近いところにしなかったの?」

 康太が言うにはあまりに職場に近いと気分転換しにくいからとしてた。長い通勤時間は誰でも嫌だけど、歩いて五分とかじゃ、仕事の気分のままに帰ってしまうぐらいかな。もう一つ理由もあって、

「スクーターのバッテリーの充電も必要だし」

 駅のそばにはスーパーとかもあって買い物にも便利だし、三宮に飲みに行くにしても、遅くなってタクシーを使っても二千円ぐらいで悪くないところぐらいかな。たいがいは終電までには帰るけど、遅くなる時もあるものね。

 マンションって、上の階に行くほど値段が高いのよね。とくに最上階は二倍の広さがあるから飛び抜けてるのだけどうちは二階。別に景色にこだわる訳じゃないけど、

「ああそれか。下の階を気にしなくてイイから」

 マンションって、音は下から上より、上から下の方が伝わりやすい感じがする。足音なんかでもめるパターンは多い物ね。ちなみにお隣さんとの間も階段とエレベーターだから物音はまず伝わらない。

 お隣さんには恵梨香が引っ越した挨拶ぐらいはしておいた。それがキッカケって程じゃないけど、お隣さんとはそれなりに仲良くしてもらってる。話を聞いていると基本は3LDKだから子育て家庭が多いみたい。

 そのせいかマンション内ではいわゆるママ友の交流があるみたい。恵梨香も根が田舎者だから、御近所さんと仲良くしておいた方が良いぐらいと思って、少しだけ付き合ってる感じかな。まあ、恵梨香だってフルタイムで働いてるから昼間はいないから、あくまでもそれなり。

 それでも住んでるとあれこれわかってくる。ママ友の中で問題なのは最上階の家の奥さんで、いわゆるボスママらしい。これは女だけじゃないけどマウンティングしたがる人種で良さそう。

 マウンティングするって言っても、ボスママは専業主婦だから、旦那の稼ぎで住んでるだけと思うのだけど、下の階に住んでる家を見下している感じかな。どこの階、いやどの住居を選ぼうがその家の勝手だけど、ボスママの部屋が一番高いのに優越感を持ってるのよね。

 広い、高いと言っても二十一軒の中の話に過ぎないとしか思えないけど、そこでの優劣を気にするタイプみたい。さらにがあって、

 専業主婦 〉 共働き

 今どき共働きなんか普通と思うけど、旦那の稼ぎじゃ家計が成り立たないから妻もやむなく働いてるぐらいの考え方かな。そこから導かれるのは、

『こんなマンションに無理して住むから』

 こうなるみたい。どう思おうが他人の勝手だけど、その価値観を押し付けようとするのがウザイぐらい。恵梨香の隣の奥さんも昼間はパートに出てるのだけど、それだけであれこれ言われるんだって。ボスママからすれば、二階の共働きの恵梨香のところは最底辺になってるみたい。

 それと子どもの有無もウルサイ。これも理由は不明だけど、子どもがいるだけで勝ち組みたいな感覚なのよね。恵梨香の田舎ならともかく神戸で、

『夫婦は子どもを作って一人前』

 こんなこと言われるとは思わなかったもの。康太はともかく恵梨香は子どもを産むにはエエ歳になってるから、

『急がないと手遅れになりなすよ。オホホホ』

 ほっとけと思うけど、顔合わすたびにチクチクやられるのは鬱陶しい。このボスママだけど旦那は外資系のメーカー勤務らしい。確かにバッグとか服とかはヴィトンとかエルメスだし、アクセサリーもブルガリとかカルチェだよ。

 クルマだってベンツ。これも自慢らしくて、うちのアルトを鼻で嗤ってたもの。恵梨香は免許こそもってるけどペーパーだから康太の趣味に口を挟む気はないけど、あの奥さんだって運転できないはずだけどな。

 そうそう一度お呼ばれしたけどインテリアも見るからに高そう。ただ恵梨香に言わせると、インテリアはともかく普段着をあれだけ着飾らなくてもイイと思うよ。カネ持ってるならどう使おうが勝手だけど、成金趣味にしか見えないもの。


 ただ不思議と言うか、変わっているのがとにかくケチなこと。本当の金持ちが案外ケチと言うか、倹約家と言うか、無駄な贅沢をしないのは知ってるけど、ボスママの場合はケチというよりセコイに入ると思う。

 休日はたいがいは康太と遊んでるのだけど、康太も急病診療所の出務があったり、学会に参加したりがあっていない日があるのよね。そんな時にボスママ主催の昼食会に誘われることがあったけど、行ったらウンザリした。

 近くのファミレスだったのだけど、まず店を貶すのよね。そう、こんな程度の低い店に合わせてやってると口に出す。どこも子育て家庭だから余裕がないし、ちょっとした息抜きに高い店なんか行けないじゃない。それなのに、わざわざ口に出す神経を疑うよ。

 そこから多いのはグルメ自慢。いかに自分が高い店に行ってるかを話してくる。そこで恵梨香に振ってくる。

『あなたもそういう店に行ける日があれば良いのにね』

 悪いけど恵梨香も知ってるよ。ただ趣味は悪いね。だいたいが高いばっかりで、恵梨香の合格点をもらえなかったところばっかり。言っても仕方がないからハイハイって感じで聞き流してる。

 まあそれはケチにもセコイにも入らないのだけど、問題はお勘定。ママ友会だから子連れになるのだけど、これを割り勘にするのよね。それも家族単位でやるんだよ。たとえば五家族あつまって五千円なら一家族千円みたいな計算。

 ボスママはサービス定食みたいなのを取らずに、アラカルトで結構高い物を食べるし、子どもだって四人もいてガツガツ食べてるんだよ。ファミレスだから知れてると言えばそれまでだけど、こっちは恵梨香一人なのに家族単位で割り勘って変と感じたもの。


 それと恵梨香の実家は農家だから、野菜とかを送ってくれることもあるんだ。お隣さんにはお裾分けするのだけど、どこから聞きつけたのかやって来るんだよね。結構な量を送って来るからお裾分けしても良いようなものだけど、

『なに、この野菜』

 実家から送られて来るのは規格外の商品にならなかったもの。だから大小マチマチだし、傷がついたりしてるものばかり。食べる分には問題ないけど、スーパーとかで売ってる小綺麗なものじゃない。

『こんなもの食べられるの』

 そこまで言うならもらわなきゃイイのに、ケチをつけまくった上で、

『我慢してもらってあげる』

 それもゴッソリ持って行こうとするんだよ。困るって言っても、

『うちは子どもが多いから食べる権利がある』

 そんな権利はないはずだけど、シャーシャーと言うからムカツク。これだけでも大概のものだけど、お裾分けしたら、普通はお返しもセットだよ。セットっておかしいかもしれないけど、自分のところにもあればお裾分けをするぐらい。

 別にやらなくても良いけど、そうやって近所づきあいって深まる面はあると思ってる。お隣さんも、

『これは旅行のお土産』

 こんな感じで返してくれる。でもボスママは一切なし。別に欲しいわけじゃないけど、聞きつけてまで押しかけてくる神経と裏表のセコさの気しかしないもの。


 ボスママだけど何回か会ってるうちに、どこかで見たことがある気がするのよね。なかなか思い出せなかったけど、やっと思い出した。あれはまだ康太と付き合うもっと前だった。

 神戸でも老舗のフレンチなんだけど、何周年記念みたいな謝恩企画があったんだ。ランチ限定だったけど、五千円で食べ放題、飲み放題みたいと思えば良いと思う。五千円はランチにしたら高いけど、普段は料理だけでランチでも八千円からだし、ディナーになれば一万五千円ぐらいになる店なのよね。

 食べ放題と言っても、そうだね、アラカルトで食べるぐらいと思ったらよいと思う。レストランってお得なコースメニューとアラカルトの二本立てのところが多いけど、アラカルトでどんなコースを組んでも五千円なのが謝恩企画のココロかな。

 恵梨香も同僚と楽しみにして行ったのだけど、恵梨香たちが席に着いてしばらくしてから、ボスママとその友だちみたいなのが入って来たのよね。そこで恵梨香が目を疑ったのは子連れだったこと。

 いくらランチと言っても老舗のフレンチだよ。そりゃ、お子様連れお断りとは書いてないけど常識だしマナーでしょう。店の人も子どもはご遠慮みたいな話をしたと思うのだけどヒステリックに、

『どこに禁止って書いてあるのよ!』

 店に轟き渡るような声がして結局は入ってきたのよね。店内の空気は気まずいものになってた。恵梨香も同僚と変な人って話してた。ボスママは席に着くと、

『まずシャンパン飲みたい。ドンペリをボトルでね』

 たしかに飲み放題だけど、あくまでも店の指定した銘柄をグラスで提供されるのよね。だいたいだけど、ドンペリをこんな店でボトルで頼んだりしたら、いくらするかわからないぐらいじゃないの。ソムリエが出て説明してたけど、ここでも、

『まったくケチ臭い店だわ』

 どっちがと思った。そこからオーダーが始まったけど、どれだけ注文するかって思うほど。ここもオーダー・テーカーが、

『一皿ずつ召し上がられてから・・・・・・』

 こんな感じで説明してた。ここも本当はそうでなくて、他のお客さんはおおよそのコースでオーダーしてるんだ。前菜、スープ、メイン、デザートって感じでね。そこからさらに欲しければ食べながら追加って感じ。ところがボスママはメニューをすべて読み上げる勢いで注文したんだよね。

『なんてメンドクサイ店なのよ!』

 メンドクサイのはお前だと思ったもの。だいたいだよ、そんなに食べられるのと思ったもの。次はどんな騒ぎが起こるかとウンザリしてたら、料理が来ると子どもが走り回り始めたんだ。たく躾の悪いガキどもだ。

 ガキどもはギャーすか言いながら走り回るだけじゃなく、店員やお客様にもぶつかるし、店内のインテリアにも手を出すしでワンダーランド状態。店員も対応にテンテコマイ。その時にまたもや信じられないものを見ることになる。

 ボスママは大きな袋からタッパーを取り出して料理を詰め込んでるんだよ。皿が空になると店員を呼びつけてオーダー、少し食べるとまたタッパーに。さらにグラスのワインを漏斗まで持ち込んでペットボトルに入れてた。

 こいつら夕食まで持って帰ろうとしてたんだよ。やっと気づいた店員が注意すると、まさにあれは逆上だった。怒鳴りつけるように、

『ドギー・バッグも知らないの』

 それは違うでしょ。ドギー・バッグは決められたコースなり、定食が食べきれなかった時に使うもので、あんたらがやってるのはマナー違反のタカりだよ。いや盗みとしても良いぐらい。店内が騒然としたところでやっと帰りかけたのだけど、会計でまたもや。

『五百円でしょ』

 えっと、

『そう読み間違える書き方をしてる方が悪いから払わない』

 そりゃアラビア数字で書いてあるけど、五百円でこんなフレンチの店で食べられる訳ないじゃないの。そこからサービスが悪すぎる、食べたいものが食べられなかった、嘘八百書いてあるとかギャンギャン騒ぎまくり、やっといなくなった。あれ払ったのかな。そこにオーナー・シェフみたいな人が現れて、

『ご不快な思いをさせて申し訳ありません。本日のお代はとても受け取ることが出来ません』

 こう深々と頭を下げてくれた。お陰でタダにはなったけど、あんな非常識な人間がいるのかとあきれたもの。ありゃ、筋金入りのクレーマーというより、キチガイと思ったもの。あんなのと同じマンションとは困ったものだよ。