恵梨香の幸せ:誘拐事件

 アナフィラキシー事件の後だけど旦那さんの怒りは、あれぐらいで収まらなかったんだ。だからだと思うけど、旦那さんは自分の実家と完全に縁切りしちゃったんだ。そんなもの出来るかと思ったのだけど、入婿になって姓を奥さん側に変え、さらに養子縁組もしたって。だからだと思うけど表札も変えてたもの。

 ただ舅や姑みたいなタイプの人間は、そこまでされても応えないみたい。結果的に息子さんは後遺症もなく回復したから、シュークリームを食べさせたのは正解ぐらいに思い込んだって言うから怖すぎる。奥さんに聞いたら、

『感謝しなさい』

 こんな電話やメイルが嵐のように舞い込むから、着信拒否にしたそう。そしたらノコノコ訪れて来たっていうのよね。奥さんは部屋に入れる気なんかまったく無いからインターホン越しの応対だったそうだけど、

『悪気はなかったのよ』
『誤解よ、誤解』
『たいした事なかったんでしょ』
『孫に会いに来ただけ』

 奥さんは断固として部屋に入れなかったそう。なんとか追い返したんだけど、また来たんだよね。もちろん旦那さんのいない平日の昼間を狙ってね。その日の恵梨香は有休消化を命じられて家に居た。

 恵梨香は廊下側の窓を開けて様子を窺ってたんだ。前のような押し問答があった後に、そのうち入れろ入れろと騒ぎだし、ドアをドンドン叩き出したんだよ。そこからの罵詈雑言が凄かった。

『このアバズレ、中に入れろ。どうせ男を引っ張り込んでるんだろう』
『息子を誑かした淫乱女め、タダでは置かんぞ』
『とにかく孫を渡せ、あれはお前のものじゃない、うちのものだ。このドロボー猫が、大人しく返さないと訴えるぞ』
『出てこないなら火を着けて、炙り出してやる』

 とにかくデカい声で喚き倒してた。さらにだけど、

『ガン、ガン、ガン』

 何事かと思って恵梨香も見に行った。どこのマンションも似たようなものだけど、共用廊下側の窓には面格子が取り付けてあるんだ。ここはアルミの縦格子の華奢そうなのだけど、それをスレッジハンマーでぶっ叩き出したんだよ。あんなもの持参で来てたんだ。

 奥さんの悲鳴も聞こえたけど、どう聞いてパニック状態。そりゃ、そうなるよ。見ている恵梨香も何が起こっているかわからなくなって呆然としてたもの。そこに恵梨香の姿を見つけた舅さんから、

『他人は引っ込んどれ』

 この怒声に我に返った恵梨香は部屋に戻り一一〇番通報。パトカーが来て、警官が部屋の前に到着してきた時にはまさに修羅場。面格子は壊され、さらに窓を叩き割り舅は部屋に侵入し、たぶん奥さんを突き飛ばして息子さんを奪いドアから廊下に出ていた。

 恵梨香が見たのは泣きわめく孫を抱いた舅と、その足元を倒れながらも必死につかんでいる奥さん。その奥さんを足蹴にして引き離そうする舅姑。警官はまず息子さんを保護しようとしたけど、

『うちの孫に手を出すな』

 こう怒鳴りながら大暴れ。警官もやっとのことで取り押さえ、器物破損、住居不法侵入、暴行、誘拐で現行犯逮捕だって。誘拐も未遂じゃなくて成立していると見なされたと聞いたよ。たしかに完全に息子さんは舅の手の移ってたものね。

 警察署での事情聴取も凄かったみたいで、嫁に虐待されてる孫を救出しようとしたのが何故悪い、それを邪魔した警察を訴えてやるって頑張ったから、そのまま拘留になったそう。そりゃ、そうなるよね。

 旦那さんも奥さんからの急報を聞いて駆けつけたけど、惨状を見てわなわな震えてた。怒ったんだろうな。奥さんは廊下でも足蹴にされたけど、息子さんを奪われるときに猛烈な殴る蹴るもあって顔はボコボコ、骨折もあって入院だものね。


 舅姑が犯した罪はどれも現行犯逮捕で奥さんへの傷害だけでも立派過ぎるけど、やはり誘拐が重いと思う。これの処分についてポイントになるのが、

・自首
・被害者の解放
・被害者側との示談

 これになるんだって。まずだけど自首は現行犯逮捕だから成立しないし、被害者を解放したのも警官だから、これも成立しない。舅姑も拘置所で弁護士に諭されてヤバイと思ったのか、旦那さんに謝罪と示談を申し込んだそうだけど、旦那さんは鼻で嗤って断ったらしい。

 それとあのハンマーも良くないそう。あれだけのハンマーを持参してたから計画性ありってされて、罪がより重くなるぐらいかな。康太も起訴猶予じゃ済まないと見てたし、執行猶予が付くのも難しいのじゃないかとしてた。だって情状酌量の余地が少なすぎるというか、実の息子に厳重な処罰を要求されてるもの。康太は、

「可哀想だけど実刑になった方が良いと思うよ」

 康太に言われて気が付いたのだけど、もしあの日の誘拐が成功していたらどうなってたかなのよね。実家に連行された息子さんは、無理やりシュークリームとかケーキとかを食べさせられるしかないもの。

「そうなると、またアナフィラキシー・ショック」
「確実にそうなるし、エピペンもない。今度は助からないよ」

 康太は殺人罪にはならないだろうけど、過失でなくて故意とされる可能性が高いから半端な刑じゃ済まないだろうって。

「誘拐ってどれぐらいの実刑があるの」
「今回は未成年が対象になるから三か月以上、七年以下ってなってる。でも奥さんへの傷害も加わるから・・・」

 誘拐への懲役ってそんなものなんだ。それでも康太は大きいとしてた。この時期の子どもの成長は早いから、数年しただけで舅姑に抵抗できる体力が付くってさ。

「そうそう、お隣さんは近いうちに引っ越しするそうよ」
「息子の命には代えられないものな」

 恵梨香の初婚の時のクソ元婚家の連中もクズと思ったけど、世の中には想像を超えるクズ、いやキチガイが存在するのは良く分かった。世の中、わからないことがまだまだ多いよ。