渋茶のアカネ:アカネ・イメチェン

    「男が欲しい」
 もとい恋人とか彼氏が欲しいの意味だけど、真剣に考えるべき課題である。たしかに仕事が忙しいから出会いのチャンスは少ないけど、この状態が改善されるわけないじゃないんだ。そうなのよ、忙しくても一時的なものなら、そこだけ我慢してもイイけど、下手すりゃ、死ぬまでこんな感じじゃないの。

 アカネはフォトグラファーになるために頑張って来たし、この仕事も大好き。仕事だって楽しいけど、仕事だけに人生を費やす気はないもの。ましてやまだ二十二歳だよ。まだまだ花も恥じらう乙女のはず。

 そうよそうよ、仕事は大事だけど人生の全てじゃないのよ。そうよ、プライバシーの充実、あれっ、なんか違うな、プラモデルじゃない、プリンターじゃない、えっと、えっと、プラスチック、プライムビデオ・・・性活じゃなかった生活の充実も同じぐらい大事だ。じゃあ、どうすればだけど、手っ取り早く言えばやっぱり、

    「男が欲しい」
 問題はどうやったら入手できるかなんだよな。理想は白馬の王子様が現れること。でも二十二年生きて来てガマガエル一匹現れる兆候もないじゃない。アカネだって女だから、中学や高校でラブラブ・カップルしてる連中を見て羨ましかった。

 でもさ、あの時代はまだそういうカップルって例外的じゃない。そうでない方が多数派だったから、羨ましいだけで、そんなに悔しいと思わなかったんだ。勝負は大学に入ってからと思ってた。

 大学に入るとたしかにラブラブ・カップルは増えてった。引っ付いたの、別れたの、ついに初体験だの話で大盛り上がり。子どもが出来ちゃったから、堕ろすの堕ろさないで大騒ぎとか。産科まで付いて行って、その後で慰めまくるってのもあった。

 わかる、みるみるうちにアカネは少数派になっていったのよ。アカネは間違っても暗くて陰気な女じゃない。コンパも、合コンも良く誘われたし、財布の許す限り参加してた。でもね、ふと気が付くと、途中で消えてく連中がいるのよね。要は目的を果たしたってことだけど、アカネは例外なく三次会、下手すりゃ五次会までいるのよね。

 どうして、どうして、どうして、アカネだけ無視するのよ。声の一つぐらいかけてくれたってイイじゃない。男友達もたくさんいたし、なんだかんだとよく遊んだけど、甘そうな雰囲気の一つなったことすらない。

 大学は二年の秋に中退しちゃってツバサ先生の弟子になったんだけど、オフィス加納でも同じ。オフィスにも男はいるし、独身もいる。今だってそうだけど、オフィスで一番若いのはアカネなのよ。どうしてみんな無視するのよ。

 プロになれて専属契約してからは、芸能人のグラビア撮影の仕事も多いんだ。男性アイドルだって多いんだけど、ツバサ先生から、

    『あの手の人種は、口説いて一発やるだけの連中も多いから気を付けてね。もちろん、割り切って楽しむのもありよ』
 やるかやらないかは置いといても、声ぐらいかかると期待してたんだ。だってそんな経験すらゼロじゃない、初めて口説かれたのがアイドルってのは自慢のタネぐらいになるじゃない。なんなら、やってもイイぐらいに思ってるのに。

 それ以前にツバサ先生のアシスタントやってる時も同様。そりゃ、ツバサ先生と並んでしまえば、どんな女だってくすんで見えるのは認めざるを得ないけど、

    『時々、そんな感じの声がかかりますが、すべてお断りさせて頂いています』
 そうなんだよ、マドカさんには声がかかってるんだ。マドカさんは悔しいぐらい上品で、綺麗で、可愛げがある上に教養まであるお嬢様。ツバサ先生と並んでもアカネみたいに単なる引き立て役で終わらないぐらい。

 もっともあんなに虫も殺さないような顔をしながら、赤坂迎賓館スタジオを辞めた理由が、セクハラされそうになったから、相手を投げ飛ばしたっていうぐらい芯も強い。エエイ、とりあえずマドカさんは置いとく。


 いろいろ考えたけど、アカネはイメチェンすることにした。とりあえず諸悪の根源は、

    『渋茶のアカネ』

 これが定着してしまったことにあると見た。だってさ、だってさ、ツバサ先生は、

    『光の魔術師』

 格好イイじゃん。渋さが売りのサトル先生も、

    『和の美の探求者』

 どうしてオフィス加納の三枚目の看板が『渋茶』なのよ。渋茶からイメージされる女に恋愛感情なんて抱くはずないじゃんか。そこでだ、そこでだよ、他の呼び名を付けてもらうために仕事で頑張った。ちょっと仕事に偏りが出来ちゃったので、ツバサ先生は、

    「うん、まあイイか」

 気づいたみたいだけど、愛に溢れる写真を量産してみたんだ。期待はラブリー・アカネだったんだけど、結果は、

    『渋茶のアカネの愛の溢れる世界』

 クソっと思って、今度は幸せいっぱい路線で量産。これも、ツバサ先生は。

    「はん、ふ~ん」

 期待はハッピー・アカネとか、幸せの伝道者だったんだけど、結果は、

    『渋茶のアカネの幸せ世界』

 どう頑張っても渋茶が取れてくれないのよ。あれこれ傾向を変えてたらドドメは、

    『渋茶のアカネの七色世界』

 アカネはイロモノか! ツバサ先生なんか、

    「う~ん、芸域の広がりが感じられる」
 仕事の成果で呼び名を変えるのは当面無理そうだから、アカネ自身をイメチェンすることにした。カメラマンって肉体労働だから、欲しいアングルのためには寝転がったり、木に登ったりなんて日常茶飯事なのよね。それこそ髪振り乱しての世界。

 だからツバサ先生はほんの薄化粧。下手すりゃスッピン。アカネもそれに見習ってスッピン。ツバサ先生のアシスタントも半端じゃないからね。仕事だけならそれでイイんだけど、ここは絶対変えなきゃいけないって。

 ツバサ先生が薄化粧やスッピンなのは仕事の都合もあるけど、そもそも化粧の必要もないほど元が綺麗なこと。これをアカネが真似しても意味がないだろ。うんと、スッピンでも集まって来るなら問題ないけど、集まって来ないのなら化粧するべし。

 思いっきり気合入れて化粧してみた。効果はあったと思った、オフィスに出勤しただけでスタッフの反応がまるで違ったもの。ほ~ら、アカネも化粧を決めればこれだけ違うと思ったんだ。

 その日の仕事は屋外のロケだったんだけど、かなり暑い日。仕事に入ると写真しか考えなくなっちゃうんだけど、いつものように大奮闘。イイ仕事が出来たと思ってるよ。帰りのロケバスの時だったけど、なにかアシスタンさんが怖がってる気がしたんだよ。おかしいなぁと思いながらもオフィスに帰ったところでツバサ先生にバッタリ。

    「アカネ、ちょっと来い」

 あれ、なにか仕事でしくじったかと思ってたら御手洗に。

    「鏡を見ろ」
    「ぎよぇぇぇ」

 御手洗にこだまするアカネの絶叫。化粧に慣れてない上に、気合を入れ過ぎての厚化粧。それが汗と泥でグショグショになっていて、まるでハロウィンの怪物みたいな形相に。それ以来、

    『渋茶に化粧』

 これだけじゃ、わかりにくいけど、同じような意味で言えば、

    『猫に小判』
    『豚に真珠』

 これぐらい似合っていない意味になっちゃった。ツバサ先生は、

    「男なんて、そのうち湧いて来るよ」

 グスン。『そのうち』なんていつの日よ。来なけりゃどうしてくれるのよ。でも化粧には懲りた。

    『カランカラン』

 ツバサ先生に誘われてバーに。

    「飢えてるな」
    「さすがにお腹いっぱいです」

 バーに来る前に焼肉行ったんだ。そしたらツバサ先生食べる、食べる。ツバサ先生がよく食べるのは知ってるけど、釣られて食べたアカネのお腹はパンパン。

    「男にだよ」

 そっちか。でも飢えてるんじゃないよ、欲しいだけ。その差は・・・あんまり変わらんか。でも聞いてみたい、

    「アカネは綺麗ですか」
    「はん、そう思う奴は少ないだろうな」

 そこまで、はっきり言わなくとも。

    「でも少ないけどいる」

 あんまりフォローになってない気がする。

    「いくらアカネが好き者だって、世界中の男を相手にする気はないだろ」

 誰が好き者だってか。好き者どころかまだやったこともないんだから。

    「一人見つけりゃ、イイじゃないか」
    「でも、一人さえいなかったら」
    「いない時はいないさ。でもゼロということない。焦って飛びついたらロクな目に遭わない」

 そりゃ、そうだよな。DV男とか、浮気しまくり男とか、ギャンブル狂とか、ヒモ専科とか、浪費癖バリバリとか、結婚詐欺はお断りだ。

    「加納先生の旦那さんの顔を見たことあるか」

 写真でなら何度か。

    「どう思った、どう感じた」

 優しそうな人だったけど、あの加納先生の旦那さんにしたら意外だった。悪いけど、もっと格好のイイ人だと思ってた。そしたら加納先生は一枚の写真を取り出してきて、

    「これが及川氏だ」

 うひょょょ、なんとイケメンで格好の良いこと。アイドル顔負けじゃない。若い時はこんなんだったんだ。それにしても良くこんな写真見つけて来たな。

    「加納先生は及川氏と付き合ったおられたんだが、後の旦那さんに再会した時から、すべてを投げ捨てるように恋に走られてる」

 それは及川氏から聞いた。聞いたけどビックリだなぁ。旦那さんはお医者さんだったけど、及川氏だって社長だから医者に目がくらんだ訳じゃないものね。

    「及川氏から聞いたのですが、結婚までも紆余曲目があったとか」
    「それを言うなら『紆余曲折』だ」

 意味が通じるからイイやんか。

    「なんか天使とか菩薩様が出てきて大変だったとか」
    「そこまで聞いてるのかい」

 またもやツバサ先生は一枚の写真を、

    「この仏像は?」
    「菩薩様だよ。亡くなった後にその姿を観音菩薩像に刻んで祀られてるんだ」
    「マジですか」

 この仏像通りの女性が存在するなんて信じられない。

    「アカネはわたしの母校に鶏ガラ・ツバサの写真を探しに行ったよね」
    「あ、はい」
    「あの時に加納先生の特集雑誌を見せてもらったよね」
    「ええ」
    「あの同学年に加納先生に匹敵するほどの人気があった生徒がいてね。同じぐらい特集雑誌が出てた」
    「それはもしかして、野球の応援でチア・リーダーやっていた人ですか」
    「それも見たのかい。左側が天使だよ。お二人とも母校の伝説的な美人だったんだよ」

 なんだ、なんだ、なんなんだ。あの優しい以外に取り柄の無さそうな加納先生の旦那さんに、これだけの美女が群がるとは信じられない。

    「人を愛するのはどこを愛するかだよ。そりゃ、見た目とか、学歴とか職業のスペックにどうしても目が行くのは仕方がないことだ。でもね、本当に見ないといけないのはハートだよ。これはわたしもまだまだ勉強中だけどね」
    「ハートですか?」
    「そうだよ、アカネがたとえ目を剥くぐらいの美人であってもいつかは年老いる」

 加納先生みたいな例外もいるけど、アカネが例外である可能性はゼロだもんな。

    「美しさしか見てない男の愛は続かないよ。昔から言うじゃない、美人は三日で飽きるって。アカネのハートは綺麗だよ。アカネのハートの綺麗さを見抜く男は必ず現れる。それは保証できる」
    「ホントにいるのでしょうか」

 そしたらツバサ先生は朗らかに笑いながら、

    「いるよ。なにせ五千年の保証付きだからね」
 加納先生がどれほど旦那さんを愛していたかのエピソードはオフィスの中に今でもたくさん残ってるものね。加納先生にはきっと見えてたんだと思う。アカネを見抜く男だってきっといるはず。でも、早めに出てきて欲しいな。

渋茶のアカネ:休日のアカネ

 アカネを幹部社員じゃなく専属契約にした理由を聞いたことがあるのだけど、ツバサ先生は、

    「あん、経営やりたいの?」

 アカネには無理だろうって。ごもっともで、幹部社員ってエラそうな肩書付くけど経営もやらなきゃいけなものね。おかげで写真に専念出来て助かってる。もっとも専念しすぎてるみたいで、

    「明日は休みだ、電話も切っとけ」

 だってあんだけの契約料と給料の上に歩合までもらってるんだから、元とるために働かないといけないじゃない、

    「アカネは黒字だ。休まないとまた入院になるぞ」
 はい、休みます。どうも、ちょっと前にやったアイドル・グループの写真集の評判が良かったみたいで、依頼料がまた上がったみたい。貯金も増えて来たから、二本目の加納志織モデルのレンズを狙ってるところ。

 休みと言ってもやることないのだけど、とりあえず午前中は部屋のお掃除。やったら、とりあえずどころのものじゃなく、エライことになっちゃったけど、ちょっとスッキリ気分。お昼はカップラーメンを食べて午後はまったり。


 まったりしてると、及川氏の話がグルグル回ってきた。あの夜に、

    「アカネ君はエレギオンの女神を知ってるかね」

 アカネは歴史も苦手だったから、困ったと思ったんだけど、その話なら知ってる。子どもの時に、

    『愛と悲しみの女神』

 こんなアニメがあったんだ。アカネは熱中したんだけど、原作漫画もあったから読んでた。あれって全部作り話と思ってたんだけど、及川氏によればさらなる原作があるっていうのよね。

    「あれは古代エレギオンに残されていた大叙事詩なんだよ」
    「でもそれも作り話じゃ」
    「長い間、そうと考えられていたが、最近の発掘調査で事実であると確認されつつあるのだよ」
    「まさか、壮大な大城壁が実在したとか」
    「その土台が確認されておる」
    「ではリュースとか、イッサとか、メイスとか・・・」

 漫画に出てきた女神の恋人で、格好良いのよね。まさに男の中の漢でアカネも惚れちゃったぐらい。

    「アングマール戦の石碑も発見されて、すべて存在が確認されておるのじゃ」

 ビックリした、ビックリした。このエレギオンの女神なんだけど、そりゃ美しくて、気高くて、賢いんだけど不老なんだよね。でも寿命が来ると死んじゃうんだけど、女神の魂は他の女性に移り変わって永遠の生を保つってのよね。漫画の設定だから『そんなのもあり』って思ってたけど、

    「アカネ君、世の中にはエレギオン学というのがあってな。日本では港都大が有名だ」
    「エレギオン学ですか」
    「文字通り、古代エレギオンを研究するものなのだが・・・」
 及川氏によるとエレギオン学の卒業生が及川電機に入社してきたそうなの。勉強してきたものと就職場所にえらい差があるけど、考古学で食える人は少なそうだものね。当時の及川氏は社長だったんだけど、そんな変わり種もおもしろうそうだと採用したみたい。

 そこで不思議な話を聞いたそうなんだ。及川氏は、そのエレギオン学の卒業生にエレギオン学の神髄とは何かと聞いたんだって。そしたら返った答えが、

    『永遠の女神を信じることです』

 なんか宗教がかってるというか、禅問答みたいな答えなんだけど、古代エレギオンでは漫画のように魂が移り歩く女神が実在したって言うのよね。そんなアホなと思うけど、それをまず信じることがエレギオン学のスタートっていうから驚き。及川社長もそう思ったそうなんだけど、

    「アカネ君、港都大は三次に渡るエレギオン発掘調査を行っているのだが、そのいずれもが世界を驚かす成果を挙げておるのだ」
    「そうなんですか」
    「その第一次の発掘隊長が小島知江氏、第二次の発掘隊長が立花小鳥氏なのだ」
    「小島氏、立花氏といえばクレイエールの」
    「そうなのだ」

 話がつながってるような、つながっていないような、

    「まさか古代エレギオンの女神が、現代でも実在してるのを信じるのがエレギオン学だというのですか」
    「そうらしい」

 それにしても及川氏がそんなことに、そこまで詳しいのかと聞いたんだけど、

    「あははは、シオリのためだよ。だが、会長になって三年目ぐらいだったかな。シオリはすべてを知ってしまったらしい」
    「加納先生が謎を知られたのですか」
    「以後はその話題を二度としなくなった」

 何があって、何が起ったんだろう。

    「アカネ君、君も知りたいのじゃないのかね」
    「えっ、まあ、そりゃ」
    「君は麻吹先生とシオリが同一人物ではないかと疑っておるのじゃないのかね」
    「えっ、あの、なんというか・・・」

 さすがはタダのジジイではない。

    「私が知っているのはここまでだ。すべての謎はクレイエール・ビル三十階にあると考えておる」
    「そこに何があるのですか」
    「あそこへの出入りは厳重に制限されておる。エレギオンHD社員でさえ出入り禁止だ」

 開かずの間みたいなもんかな。

    「ただシオリは晩年に出入りしていたらしい」
    「加納先生がですか。なかの様子はどうだったのですか」
    「なにも話してくれなかった」
 アカネもググってみたんだけど、出てくる出てくる。エレギオンHDの心臓部ってことになってるけど、中については完璧なミステリー・ゾーン扱い。最新のスーパー・コンピューターがあるって話から、夜な夜な黒魔術やってる話まで出てるぐらい。

 エレギオンHDのトップ・フォーの顔写真も探したんだけど、これが見事なぐらい見つからないんだ。これも書いてあるのはミステリアスな話ばかりで、氷の女帝とか、現代の魔女とか、エレギオンの四女神とかあるけど、これじゃ、サッパリわかんないよ。


 そうこうしているうちに日も暮れてきた。晩御飯何にしよう。メンドクサイからコンビニ弁当でも買ってこようかな・・・ん、ん、ん、これは拙い休日の過ごし方じゃないか。こんなに若くて写真も上手な可愛い女の子が、こんな休日でイイわけないじゃないの。

 やっぱり朝からデートに出かけて、今ごろはアカネを喜ばしてくれる、どんな素敵なディナーを御馳走してくれるか、期待に胸を弾ませて時間じゃなきゃいけないはず。サキ先輩もいってたもんね。カメラばっかりに熱中してるといけないって。

 アカネだって男が欲しい、もといこれじゃ生々しすぎるから恋人が欲しい。どうして誰も寄ってこないんだ。まあ、あんだけ仕事してたら出会う間もないけど、休日でさえこんな調子じゃ、見つかる訳ないやんか。うぇ~ん、誰か世話してくれ、こんな虚しい休日はヤダ。

 贅沢は言わないよ。背が高くて、ハンサムで、ジェントルマンで、アカネのことを世界中で一番大切にしてくれて、掃除も洗濯もやってくて、テーブルには花を飾ってくれて、クリスマスや誕生プレゼントにロッコールの加納志織モデルのセットをポンッと贈ってくれて、えっと、えっと、その程度で我慢するから。

渋茶のアカネ:御礼訪問

 ここがクレイエール・ビルだな。ここはアカネでも知ってるエレギオンHDの本社ビル。そりゃ、世界三大HDの一つだもんね。エレギオン・グループからの仕事も多いから失礼ないようにしとかないと。

 今日は及川氏からカレンダーの件で話がしたいとのこと。かつて及川氏が社長や会長だった頃にカレンダーが出来上がるごとに加納先生とこうやって会食してたみたいで、アカネも同じように呼ばれたで良さそう。

 えっと、えっと、エレベーター・ホールはあそこで、レストランは最上階のイタリアンだったよね。それにしても楽しみ。ここのイタリアンは有名で、ロケーションもイイから一度来てみたかったんだ。店に入って、

    「えっと及川さんの・・・」
    「承っております。渋茶の泉先生ですね。御案内します」

 だから渋茶は余計だ。テーブルに案内されて、

    「本日はお招き頂きありがとうございます」
    「おお、良く来てくれた。アカネ君じゃなかった、アカネ先生と呼ばなきゃいけないないな」
    「アカネでけっこうです」

 これが若い格好のイイ男だったら申し分はないんだけど、そこまでは贅沢か。それにしても噂通りシックで高級感あふれる店だよねぇ。ちなみに今日のアカネはローマでツバサ先生に買ってもらった一式でフル装備。ヒールが辛いけど頑張って歩いてきた。シャンパンがサーブされて、

    「カンパイ」

 うん、料理も美味しい。ローマの時のも美味しかったけど、こっちの方が日本人向きにアレンジされてるのか、もっと美味しい感じさえする。

    「アカネ君の仕事には大変満足しておる。まさにあのカレンダーが甦ったみたいだった」
    「御満足頂けて光栄です」
    「岡本や、岩崎、二谷や岩本と祝杯をあげさせてもらったよ」

 聞くとカメラ・プロジェクトのメンバーで、今でも及川氏と親交のある方々でイイみたい。

    「ところでカメラなのですが」
    「ちゃんと動いてくれたかな」
    「もちろんですが、あれほどのカメラをもらって良いのでしょうか」
    「なんの話かな」
    「アカネ2です。あれは本物のルシエン、それもイメージセンサーが新型に交換されている改造機。レンズだって加納志織モデルではないですか」

 及川氏が悪戯っぽく笑って、

    「あれは確かに私の手元にあったものだが、岡本に売ったんだよ」
    「えっ」
    「岡本も悔しがってな。あれが本物のルシエンであり、さらに改造までされてると気づかなかったみたいだ」
    「そんなことが」
    「そのうえレンズまで見落としてしまったとな」

 そんなことが起るはずがないじゃありませんか、岡本社長がそんな初歩的な見落としをするわけが、

    「そういう話になっとる。棺桶までカネを抱えていっても空しいだろう。カネは使ってこそ生きるものだよ。君は単に岡本から格安の中古カメラを買っただけだよ」
    「そんなぁ」
    「その代りにカレンダーが甦ったのだ。みんな夢が叶ったと喜んでおった」

 ありがたくもらっておこう。

    「それにしても、よく新型センサーが組み込めましたね」
    「うむ、ちょっと悪戯をしていてな」

 聞くとルシエンには製作時にグレード・アップを容易にする設計が盛り込まれたんだって。イメージセンサーと画像処理エンジンをアセンブリー交換することにより、機能アップを可能にするぐらいかな。

    「今でもそうだが、イメージセンサーや画像処理エンジンはいくら最高のものを作っても十年もすれば陳腐化するじゃろ。当時なんてもっと早かった。だからそこを交換することでカメラの寿命を伸ばそうと思ってな」

 新型センサーの規格をルシエンの及川CMOSと交換可能なものにして作ったそうなのよ。

    「画像処理エンジンは?」
    「あれは試作品じゃ」

 及川電機では新型センサー開発と並行するように画像処理エンジンの開発も進められてるみたい。ロッコール・ワン・プロは良いカメラだけど、画像処理エンジン抜きのロー画像専用カメラだから、一般向けとしては無理があるのよね。だから画像処理エンジンを組み込んだものが熱望されてるのだけど、そのための布石で良さそう。

    「それもアセンブリーの規格はルシエン」
    「そうじゃ、それぐらいは決められる立場にあったからな」
    「そうなるとアカネがもらったあのカメラは、ロッコールの次期新型カメラの原型機」
    「原型機というより試作機かな。どうだアカネ君、使ってみた感想は」
    「最高でした」

 及川氏は悪戯を話す少年のように楽しそうです。

    「発売するのですか」
    「それはない。ビジネスとしてやはり無理があるのは二十年前に取締役会で否定されておる。あの時は悔しかったが、経営判断としては正しかったと思っておる」
    「だから取締役会の決定を受け入れられた」
    「そういうことだ。アイツの手腕じゃ無理の判断だ」

 淡々と話されてるけど、悔しかったんだろうな。

    「ところで加納先生とお付き合いは長いですよね」
    「うむ、麻吹先生がバラしたか。もう時効で良いと思っておる」
    「どうしてあきらめられたのですか」
    「勝てる見込みがなかったんだよ」

 聞かせて頂いてビックリした。やはり及川氏が加納先生を口説かれたのは最初のカレンダーの仕事が成功してから。

    「そこに後の旦那さんの山本先生が現れたんだ。シオリの様子があきらかに変わったのが嫌でもわかった」

 あっ、及川氏が『シオリ』って呼んでる。

    「山本先生が現れた途端にシオリの心は根こそぎ持っていかれたよ。どうしようもなかった」
    「それで加納先生は旦那さんと結婚」
    「結果はそうなんだが・・・」

 これも信じられない話だけど、加納先生の結婚は一直線にゴールインみたいな単純な話じゃなかったみたい。

    「強力なライバルがいてな」
    「あの加納先生にライバルですか?」
    「そうじゃ、それも二人じゃ。シオリは女神様と呼ばれるぐらい美しかったが、相手は天使と菩薩様じゃった」

 なんだ、なんだ、そのキャスティングは。宗教戦争かいな、

    「争った末にまず勝ったのは菩薩様じゃ」
    「加納先生じゃないのですか」
    「うむ、しかしすぐに亡くなってしまった」

 その後の展開も想像を絶するのだけど、菩薩様亡き後を女神と天使がシノギを削って争ったっていうから、加納先生の旦那さんってどれだけなのよ。

    「恋に燃えるシオリはドンドン変わって行ったよ」
    「変わる?」
 加納先生が及川氏と恋人関係になったのは三十一歳の時。この時の加納先生は及川氏によると二十代後半の若さに見えたってなってる。それがラブ・バトルを繰り広げられるうちに若返っていかれ、二十代半ば過ぎになっちゃったって言うのよ。

 どういうこと。加納先生が不老だったのは知ってるけど、及川氏の話を信じれば三十一歳ぐらいまでは歳相応に老けていたってことになるじゃない。そりゃ、少しは若く見えたんだろうけど、それぐらいはいくらでもありうることだもの。

 そうなると、そこから若返っただけじゃなく、固定され死ぬまで変わらなかったことになる。及川氏がウソを吐く必要がないもんね。

    「そんなことが・・・」
    「信じられないのは無理もないが、私が加納先生に最後に会った七十五歳の時までまったく変わらなかった」
    「なにか原因があるのですが」
    「シオリもあまりに自分が歳を取らないので不思議に思ったのだ」

 そりゃ、そうだろ。

    「そしたら、シオリだけでないことがわかったのだよ」
    「他にもおられるのですか」
    「うむ、シオリが調べた限りでは確実なのが二人、おそらくそうだろうが一人」
    「三人も!」

 この世には信じられないことが起るっていうけど、不老現象が加納先生も含めて四人もいるってどうなってるんだ。異常体質で納得するにも無理があるやんか。一度、会ってみたいもんだけど、加納先生が知ってるぐらいだから無理だろうな。不老現象は歳を取ってからわかるものだから、まだ生きてる可能性は低いものね。でもひょっとしたら、

    「まだ生きておられる方はおられるのですか」
    「おられる」

 えっ、えっ、

    「どこにおられるのですか」
    「ここだよ」
    「ここって?」
    「エレギオンHDだ」

 どういうこと、どういうこと。

    「エレギオンHDはクレイエールから発展して出来たのは知っているね」

 そうだったんだ。だからクレイエール・ビルにエレギオンHDの本社があるのか。

    「エレギオンHDのトップは女性だ。それもトップ・フォーと呼ばれている四人はすべて女性だ。この四人はエレギオンHDが出来た時からトップであり、立花小鳥副社長はお亡くなりになられたが、残りのお三方は今でも御健在だ」

 女性がトップ、それもトップ・フォーが全部女性って格好イイやん。でも、どう考えても若くて七十代か八十代にはなってるだろうな。

    「今から四年前になるが、ホテル浦島で小山社長と香坂常務にお会いしたことがある」

 それって、ツバサ先生が大暴れした時、

    「まさか、そのお二人が」
    「エレギオンHDのトップ・フォーは異常に若く見えるので有名なんだが、実際にお会いさせて頂いて驚いた。シオリそのものだった」
    「では加納先生が見つけられた三人はエレギオンHDのトップ・フォー」
    「正確には少し違う。三人には香坂常務と結崎専務は入る。もう一人はシオリの同級生であり、旦那さんを争ったライバルでもある、クレイエールの元専務の小島知江氏だ」
    「小島さんは」
    「もう亡くなっておられる」

 頭がこんがらがりそうだけど、加納先生は自分同様に不老である女性として、小島さんと、結崎専務と香坂常務を見つけたでまず良さそう。でも及川氏の話によると小山社長も不老って言うじゃない。

    「亡くなられた立花副社長はどうなのですか」
    「お会いしたことはないが、異常に若く見えたそうだ」
 じゃあ、加納先生以外に五人もいるんだ。それも加納先生以外はクレイエールからエレギオンHDでつながってる。このビルになにかあるのかも。

渋茶のアカネ:カツオ先輩

 わけわかんない世界に放り込まれた気分。このアカネが『先生』なんだよ。もっとも照れくさすぎるからオフィスではなるべく呼んでくれないように頼んでるけど、外に出れば、

    『泉先生』

 もっとも、

    『渋茶先生』

 こう呼ぶのもいる。クソ、いつまでも祟るんだから。イイ加減、もっと華麗な呼び名を付けてくれてもいいのに、渋茶がはまりすぎて、誰も付けてくれないじゃないの。仕事もツバサ先生やサトル先生と横並び。事務所にアカネ用のホワイト・ボードが出来てるのを見てビックリしたもの。それでさ、それでさ、

    「これは受けられますかって」

 こうやって確認されるんだよ。依頼料だって桁違いで、アカネがホントにやってもイイんだろうかってのがズラリだもの。選んでるかって、冗談じゃない、どんな仕事だって引き受けてる。あんだけの給料もらってるんだし、歩合だって嬉しいし。ツバサ先生には、

    「よっ、働き者。給料増えたらカネ目当てに寄ってくる男がいるから注意しとけ」

 こうやって冷やかされてる。専属アシスタントも付くようになった。ツバサ先生に、

    「まだアカネにはそこまで・・・」

 そしたらホワイト・ボードを指でさして、

    「あんだけあるから必要」

 とにかくなんでも引き受けてるから、仕事の数だけだったらツバサ先生はともかく、サトル先生に迫る勢い。それもオフィスの生え抜きを回してくれて、

    「そこまでしてもらうのは・・・」
    「アカネに新人のトレーニングはまだ荷が重い」
 たしかに、三年目でいきなりだものね。まだトレーニングされてる方だったし。


 そういや本物のマスコミの取材が来た。ちょうどブレークした時に二度に渡る入院騒ぎや、姉ちゃんの結婚式、ひいばあちゃんの葬式が重なって無かったみたい。インタビューとかされるんだけどツバサ先生なんて、

    「嬉しいだろ、スターになった気分だろ、それ舞い上がれ、ソレソレソレ・・・」

 こういう時ってさぁ、慢心を戒めてお説教の一つでもしそうなもんだけど、

    「そうならないように鍛えといた」

 そうなんだろうか、よくわかんない。そんなオフォスの中でちょっと暗いのがカツオ先輩。サトル先生の弟子で四年目の先輩。暗いというか顔が引きつってる。

    「ツバサ先生、カツオ先輩が近頃変な気が」
    「あん、あれかい。個展の準備だよ」

 ついにカツオ先輩もそこまで来たんだと思ったけど、

    「サトルの温情だ」
    「えっ」

 ツバサ先生はアカネを連れて自分の部屋に、

    「見てみな」

 カツオ先輩の持ち味は透明感とでも言えばイイのかな、

    「これは・・・ちょっとスッキリしすぎてる感じが」
    「言いにくいのはわかるけど、これじゃスッカラカンだ」

 おかしいな、前に見た時は透明感の中にも情感がこもってる気がしたんだけど。ツバサ先生が言う通りスカスカとしか思えないよ。

    「完全に迷路の中に入り込んやがる。それも、もがけば、もがくほど悪くなってる」
    「アドバイスをしてあげれば・・・」
    「それならサトルがやってる。アイツは優しいからな。でもここまで来たら裏目だ」

 ツバサ先生が言うには、カツオ先輩のテクはもう十分だそう。それはアカネにもわかる。最後の課題はそのテクを活かして自分の世界を切り開くこと。そこでカツオ先輩は悶え苦しんでいるらしい。

    「でも、ここをこうやって、ここをこうすれば・・・」
    「アカネ、あんたの指摘は正しい。その通りにやればこの写真は良くなる。でもそれだけだ。プロはいつもそれを当たり前のように撮らなきゃ意味ないんだ。こっちを見てみな」

 あれ、動画だ。これはもしかして、

    「サキの動画だ」

 映研の時のも良く出来てたけど、段違いに上手くなってる。素人くささが無くなったと言えばイイのかな。

    「カツオのレベルになれば、アドバイスは聞くものじゃない、取り入れるものなんだ。サキは専門学校でのアドバイスを取り入れ、自分のテクとして活かしきっている」

 たしかにそんな感じがするけど、

    「根本がしっかりしているかどうかだ」
    「根本ですか?」
    「そうだ、自分がどう撮りたいかの理想としても良い。これが自分の世界でもある。カツオは完全に見失ってるよ」

 厳しいけどツバサ先生の話はよくわかる。写真はどんな完成型を頭に描き、それに少しでも近づく努力の側面もあるもんな。あれ? ほんじゃアカネの完成型ってなんだろ。

    「アカネのは特別だ。アカネには理想も完成型もない、あえて言えばもっと桁違いに高いところにある。こんな奴を初めて見たよ」

 褒められてるのかな。それよりカツオ先輩だけど。

    「個展で自分を見つけることが出来なかったら、カツオは終りだ」

 数日後にカツオ先輩に誘われて串カツ屋に。なんか嫌なシチュエーションで、サキ先輩の時のことがどうしても思い出されるんだけど。

    「アカネ君、君に会えて良かった気がする。サキも言ってたが、本当のナチュラルってこの世にいるんだと思ったもの。フォトグラファーの世界は、アカネ君やサトル先生、ツバサ先生みたいな化物が切磋琢磨するところだって」
    「アカネなんて、まだまだ駆け出しです」
    「そうだよ、アカネ君でようやく駆け出しの世界なのが、はっきりわかった。ボクが限界までの能力を発揮しても、その駆け出しのレベさえ遥かに遠いよ」

 どうしてサキ先輩も、カツオ先輩もあきらめちゃうの。

    「でも個展に成功すれば」
    「もちろん全力を尽くす。ボクの最後のチャレンジだ」
    「カツオ先輩なら必ず成功します」

 どうやって励ましたら、そうだ、

    「カツオ先輩、限界は自分でそう思うから限界になるって誰か言ってました。常に通過点と思えって」
    「その言葉は正しいが間違っている。世の中には、そうである人と、そうでない人の二種類がいる。アカネ君に取ってはそうだろうけどね」

 聞きたくない、聞きたくない、カツオ先輩はオフォスに入ってからどれだけ可愛がってもらったことか。サキ先輩が優しいお姉さんなら、カツオ先輩は信頼できる兄貴みたいなものなのに。

    「ボクには見えた気がする。自分の進む道が」
    「なにが見えたんですか」

 カツオ先輩はビールを味合うように飲み、

    「とにかく個展が終わってからだ」
 カツオ先輩の個展は開かれた。個展の評価方法は聞いたことがある。加納先生の時からの慣習で、弟子を認めれば師匠が受付をやり、認められなければ黙って去っていき、師弟の縁はそれで終りだって。

 アカネも会場に行ったんだけど、いつも温顔のサトル先生の目が怖ろしく厳しかった。サトル先生もあんな目をするんだと初めて知ったぐらい怖かった。サトル先生は写真を見終わると無言で会場から去って行った。思わず呼び止めようとするアカネの手をツバサ先生は握りしめ、

    「追ってはいけない。アカネも写真を見ればわかるだろう。サトルだって辛いんだ。自分の弟子がモノにならなかったのは全部師匠の責任だからな」
 また一人去っていっちゃった。アカネが入門した時には、あんなに上手に写真を撮っているとしか思えなかったサキ先輩や、カツオ先輩でさえフォトグラファーになれなかった。どれだけ厳しい世界に身を置いているか、また思い知らされた気分。

 カツオ先輩の姿は翌日からオフィスから消えた。なんとかしたかったけど、アカネではどうしたら良いかわかんなかった。サトル先生も、ツバサ先生も、スタッフもまるで最初からカツオ先輩がいなかったかのようにしているのが恨めしかった。薄情過ぎるんじゃない。一ヶ月ほどしてから、

    「おはよう」
    「カ、カツオ先輩、戻って来てくれんたんですね」
    「さすがに心の整理に時間がかかってね。サトル先生にお願いしてプロデュースの方で雇ってもらった。ま、しばらくは裏方の何でも屋だ。今日の仕事はアカネ君のアシスタンだ」
    「よろしくお願いします」
    「それはボクのセリフだよ」

渋茶のアカネ:騙されるもんか

 一ヶ月も休むと、

    『久しぶり』

 こういう感じがするもんだね。

    「おはようございます」
    「やっと元気になったねぇ」

 もうコリゴリだ。

    「そうだそうだ、サトル先生が呼んでたよ。出勤してきたらすぐに顔を見せて欲しいだって」
 ヤバイ、お説教かな。そりゃ、これだけ休めば注意の一つぐらいするだろうし。でも、ちょっと待て、ここは普通の会社じゃない。ここはオフィス加納なんだ。タダの注意ですむわけないだろ。絶対に何か企んでいるはず。

 そもそもサトル先生が呼んでるのが怪しい。こういう時はまず直接の師匠であるツバサ先生だろ。そりゃ、サトル先生は社長だから呼ばれても不思議無さそうだけど、わざわざサトル先生がまず呼んでるのを怪しいと考えないといけないんだ。

 サトル先生は悪ふざけに一番加担しなさそうに見えるんだけど、サトル先生が噛んだ時はそれこそオフィス加納を上げての悪だくみになることがあるのは、よ~く知っている。アカネだってダテに三年も働いてるわけじゃないからね。

 とはいえ行かなきゃならない。今回は手が込んでるな。行かずに逃げちゃう手をまず封じられているようなもんじゃない。とりあえずやられそうなのは、ドアをあけたらドッカン・パターン。

 古典的な黒板消しもあるけど、オフィス加納にはホワイトボードしかないから、バケツはありうる。でもバケツじゃプラスチックでインパクトが欠けるからタライ。それも金タライの線は十分すぎるほどありうる。それぐらいは調達するものね。いや、どこかで使ってたからあるはず。

 さてサトル先生の部屋のドアだけど・・・これは巧妙だ。外からじゃ仕掛けがまったく見えない。どれだけ準備してるんだ。まさかドアノブに電流とか、でもあれは前にやって一人死にかけたから禁じ手になってるはず。

 そうなると・・・わかったぞ、落とし穴だ。上からの攻撃にアカネの注意を向けておいて、足元を狙う作戦に違いない。問題はドアの前なのか、ドアを入ったところかで、落とし穴の幅も問題だな。簡単にはまたげない幅になっているはずだから・・・

    「アカネ、なにしてるんだ」
    「あっ、ツバサ先生、おはようございます。床に落とし穴を仕掛けられていないかと思って」
    「どこの世界にコンクリートの床をぶち抜いて落とし穴を作ったりするものか。わたしも呼ばれてるんだ、入るぞ」

 それでもやりかねないのがオフィス加納だから、ツバサ先生がどこを踏むかよく注意して、同じところを踏んでおこう。それなら罠はないはず。部屋に入るとサトル先生から、

    「退院おめでとう」
    「御迷惑をおかけしました」

 なんとかサトル社長の前まで罠にかからずに来れたぞ、

    「君はオフィス加納を退職してもらう」
    「えっ、どうしてですか。そりゃ一ヶ月も休んだのは悪いと思ってますが、いきなりクビはあんまりです」
    「その上で専属契約を結びたい」

 専属契約ってなんだ。

    「オフィス加納では一人前のプロになった者は幹部社員になってもらうか、プロとして専属契約を結ぶことになっている」

 それは聞いたことがある。

    「君には専属契約が適当であると言うのが判断だ。ぜひオフォス加納と契約を結んでほしい。契約条件だけど・・・」

 専用の部屋が与えられた上で、なにこの契約料とか、この給料。さらに仕事ごとに歩合だって。ここでツバサ先生が、

    「うちではそれしか出せないんだよ。だから他と契約するのも、独立するのもありだ、どれを選ぶかは自由だ」

 なんだよこの急展開は。ちょっと待て、話がおかしすぎる。やっとわかったぞ。今回の罠はアカネを舞い上がらせておいて笑い者にする計画に違いない。あぶない、あぶない、乗せられてしまうところだった。

    「もう、冗談ばっかり、アカネも病み上がりなんですから、からかうのもイイ加減にして下さい」

 そしたらツバサ先生はまじめくさって、

    「これが契約書だ」
    「そんなもの、いくらでも偽造しちゃうじゃないですか、アカネを舐めてもらっては困ります」
    「信じん奴だなぁ、アカネがどんな評価になってるのか知らんのか。これを見ろ」

 ポイと渡されたのが業界誌。なになに、写真界に超新星が現れるってか、その名前は、

    『渋茶のアカネ』

 だから渋茶は余計だ。

    「わかったか」
    「ええ、凄いものですね。ニセの業界誌までデッチ上げるとは」

 そしたらツバサ先生は眉間をピクピクさせながら、

    「お~い、マドカ、他のも持ってこい」

 マドカさんが

    『ドサッ』

 様々な週刊誌が十冊ばかり、

    「アカネの及川電機の仕事の評価だ。わかったか」

 うひゃぁ、こりゃすごいビックリした。

    「こ、これは・・・」
    「わかったか」
    「労作ですね。一ヶ月もこんなんやってたんですか!」

 部屋中が転んでました。ようやく気を取り直したサトル先生が、

    「ここで勉強しすぎているので、容易に信じられないのはわかるが、染まり過ぎだぞ。とにかくサインしてくれ」
    「イヤです。どうせ便所掃除三ヶ月とか、肩もみ半年とか」
    「どこにも書いてないだろ」
    「そりゃ、あぶり出し」

 でもまあ、これだけみんながアカネを担ぐために準備していたのを無にするのも悪い。悪ふざけにあえて乗って、笑い者になるのもオフィス加納。

    「わかりました、サインします」
 さてなにが起るかと思ってたら、そのまま部屋に御案内。その時にアカネは覚悟した。真の仕掛けはこの部屋にあるって。すべては浮かれたアカネが『自分の部屋』に入るための罠だったんだと。まさか吊り天井とか、床がせりあがるとか。

 でも入ってもなんにも起らなかったんだ。その時にアカネは真の恐怖に襲われた。今回の悪ふざけの根の深さに。ここまででも、まだ仕掛け段階なのだと。いったいアカネになにをする気なんだって。


 月末になってアカネはすべてがわかった。その日は給料日で引き落としに行ったのだけど、

    「ひぇぇぇ、ホントだったんだ」
 アカネの絶叫が銀行に轟きましたとさ。これぐらい用心しないとオフィス加納ではなにがあるかわからないんだよ。