ツーリング日和21(第9話)小説家としての始まり

 三木屋の由来はもう良いけど、気になったことがある。出石の蕎麦屋の時には瞬さんは、

『秋野さん』

 こう呼ばれてた。だけど三木屋では、

『秋野先生』

 だったのよね。これって出石の蕎麦屋の時はエリートビジネスマン時代に行ってて、三木屋は作家で行ってたの?

「ああそれか。出石のお蕎麦屋さんはその通りだよ。三木屋の方は妻が亡くなって、会社も退職して一段落が着いた頃に小説を書こうと思ったんだ」

 なるほど、なるほど、

「ところが小説って書いてみたら大変な作業だったんだよね」

 だと思う。マナミなんて夏休みの読書感想文は大の苦手だったし、校外学習とやらで、行くたびに感想文を書かされるのは罰ゲームとしか思えなかったもの。

「気持ちだけはわかるよ。あんなのを書かされて張り切る子どもなんて少ないと思うもの」

 と言いながら少ない方の張り切る子どもが瞬さんだったのか。とはいえ、だからと言っても小説家を目指したわけじゃなく、エリートビジネスマンになったのだけど、いきなりポカンと時間が出来てしまったようなものだから書いてみたくなったのか。

「あくまでも子どもの頃の漠然とした将来の夢の一つに小説家があったぐらいかな」

 瞬さんには遺産があったから、急いで再就職しないと生活に困るって状態には遠いどころか、そのまま遊んで暮らせたぐらいだものね。遊んでは言い過ぎかもしれないけど、慎ましく暮らしたらぐらいなら余裕で出来たはずだ。

 だけど根が働き者なのかもしれない。そこまでは言い過ぎかもしれないけど、時間が出来たから子どもの頃の夢に手を出したぐらいだろうな。小説なんか書いたことないけど、集中して取り組める時間がないと書けるものじゃないぐらいはなんとなくわかる。

「だけどね、長編一本書こうと思ったらトンデモなく長いのだよ。それこそ書いても、書いてもゴールは果てしなくって感じだよ」

 作文の基本は起承転結とか序破急とか習ったけど、長編小説となるとそんな単純なものじゃないらしい。だってだよ、長編小説である目安って十万字以上って言うから腰抜かした。原稿用紙にしたら三百枚以上だよ。読むだけでも気が狂いそうなぐらいあるもの。

 書くとなるとさらに大変なのは当たり前で、起承転結とか、序破急でまとめられたエピソードを幾つも幾つも考えだし、それを全体の中で大きな起承転結とか、序破急にまとめ上げて行くとか、なんとか、聞いてるだけで眩暈がしそうだ。

 この辺は小説家の流儀によって変わると瞬さんは言ってるけど、とにかく初めて書く小説じゃない。試行錯誤なんてレベルじゃなく、それこそ書いては消し、書き直してはまた消すみたいな状態になってしまったらしい。

「マーガレット・ミッチェルにはなれませんでした」

 あはははは。マーガレット・ミッチェルは風と共に去りぬを書いたアメリカの小説家だけど、彼女の作品はこれだけだそうなんだ。ここは一作しか書けなかったとも言えなくもないけど、瞬さんが狙っていたのは一作目から大ヒットだったで良さそう。

「あくまでも願望ですよ」

 それぐらいの気合で取り組んだぐらいだろう。とはいえ気合だけで書けたら誰も苦労しない訳で、

「それでね、行き詰ってしまって城崎に行ったんだ」

 ひょっとして、

「そのひょっとしてだよ。志賀直哉にあやかろうってね」

 そこから小説家デビュー、

「そんな簡単に出来たら誰も苦労しないよ」

 だよね。城崎の三木屋に泊まっただけで小説家になれるなら、マナミだってなれるもの。瞬さんも悪戦苦闘の末にボツの山だけ築いて、尻尾を巻くように逃げ帰ったのか。

「なんか気分転換と称して外湯めぐりばっかりしてました」

 処女作はそれで挫折したぐらいで良さそう。そんな時に出会ったのがモンキーだったのか。瞬さんはモンキーでツーリングをしながら、その時の思い出とか感想みたいなものをSNSに投稿していたらしい。

「あれはラッキーだったとしか言いようがありません」

 そんな瞬さんの投稿があるバイク雑誌の編集者の目に留まったそう。見込まれた瞬さんは連載コーナーみたいなところを任されたぐらいだ。そこでも人気が出て、コーナーの作品が書籍化され、

「それがスマッシュヒットぐらいしてくれて・・・」

 コーナーの作品はエッセイ集みたいなものだけど、それだったらと長編のツーリング小説を書いたらこれもヒット。そこから今に至るみたいな感じか。城崎と三木屋は?

「小説が売れるようになってから、一本書き上げるたびに自分への御褒美として泊りに来ていた時期がありました」

 城崎の三木屋は処女作こそ挫折した苦い思い出の地ではあるけど、

「そうですね、後から思えば自分の方向性を見つけた地ぐらいの感じでしょうか」

 こんなものわかんないけど、あの時の処女作が書き上がっていたら小説家の瞬さんはいなかったかもしれない気がする。これも瞬さんに聞いたのだけど、小説を書くのと小説家としてデビューするのは途轍もないハードルがありそうなんだ。

「あれですよ。作詞作曲できる人はいても、それが売れる人は少ないとの同じです」

 小説家も昔は書き上げた原稿を出版社の編集者に持ち込むなんてのが多かったそうだけど、今はそういうルートは殆どなくなってるらしい。仲間と同人誌を作って書くのはまだあるそうだけど、

「今なら懸賞小説が多いのじゃないでしょうか」

 そこで大賞なりを取って書籍化されるコースぐらいみたいだ。ただし応募作品は数千どころか万単位になることもあるみたいで、そこで大賞を取るのは考えただけで難しいよね。

「そうなんですよ。そう言いながらボクも応募する気でしたけどね」

 さらにって程じゃないけど、大賞を取って書籍化されても売れるとは限らないのよね。

「歌手で言えばやっとCDデビューできたぐらいです」

 大賞を取ったって小説家として無名も良いところのド新人ってことか。本が売れるかどうかは作品の質のはずだけど、質が良くたって売れる訳じゃないのは歌に似てるかもしれない。デビュー作が売れないと、

「それで消えてしまった人は毎年量産されています」

 小説家と出版社の関係は、歌手と事務所の関係に似ているみたいで、

「そんな感じです。事務所が力を入れて売り出してもヒットしない時はヒットしません。たとえヒットしても、その次がダメだったら・・・」

 歌手でも一発屋っているものね。デビュー作は売れても二作目以降は知らないって歌手は決して少なくない。小説家であれ、歌手であれ、人気商売だから、次から次へと客の関心を集める作品を発表し続けないと生きていけないシビアな世界だよね。

「その代わりに売れれば大きな報酬を得られます」

 そういう世界の特性だね。売れるものはすべてをかっさらえるもの。そこに平等とかの発想はゼロみたいなもの。売れることがすべての基準みたいな世界になってるはず。そりゃ、売れてる人は華やかだけど、その後ろには、

「あははは、死屍累々って感じです。同じ程度の才能があっても、売れる売れないの差はまさに紙一重です」

 瞬さんがラッキーだったと言うのがわかる気がする。バイク雑誌の編集者の目に留まったのも偶然の産物だもの。もし目に留まらなかったら、

「今でもSNSに投稿してましたよ」

 それでも最後の最後は実力だ。それがなければここまでの成功を収めるものか。