ミサトの旅:撮影快調

 撮影は序盤が終り中盤に。今日も『今日の訂正台本』をミサトは読んでる。ここまでくればハッキリするけど滝川監督が撮影前に話してた、

 『写真小町と呼ばれる美少女が撮った写真を巡って、不思議な話が展開する』

 これではなくなったと思う。だって舞台は高校写真部、ミサトはそこの部長役。若手の役者はいつのまにか、すべて制服姿だし、岩鉄さんは顧問役だ。コハクちゃんも生き残っていて写真部の副部長役。

 この制服だけど、どこかで見たことがあると思ったら西宮学院高校のもの。どうしてそうなのかの理由も単純で、舞台になる高校のロケに西宮学院高が使われているから。全部セット組んでたら予算がいくらあっても足りないだろうし、西宮学院高校の生徒をエキストラに使ったシーンのロケも結構あったものね。

 それと、これを滝川マジックと呼ぶのかもしれないけど、みんなその役になり切ってる感じがする。逆に言えばなり切れない者、合わない者はすべて切り捨てられたのかもしれない。もちろん、ミサトが未だに残っている理由は不明。

 ただなりきり感は強烈で、撮影現場に入るとガチガチの高校生になってるし、部室のシーンになると写真部員そのもの。岩鉄さんなんて、どうみたって顧問だよ。それでもって、その写真部は写真甲子園を目指してるんだよ。

 日常シーンみたいなものがあって、副部長役のコハクちゃんが相談にきて、部長役のミサトが答える時も、台本通りのセリフなのに、本当に相談に来て、本気で答えてるとしか思えないのよね。

 顧問役の岩鉄さんは地が地だから強面で、存在するだけで迫力がある。基本は無口だけど、要所要所でポロッ漏らすセリフが重いって感じ。細かい事に口出しせずに部員の自主性を重んじるけど、ここぞって時に支えてくれる頼もしい存在。

 映画の中でも部長役のミサトがあれこれ困っていると、さりげなくアドバイスしてくれたり、時に人情味の厚いところを醸し出してくれてシビレそう。すべて台本通りなのだけど、そうとしか感じられないんだよ。

 高校の写真部が舞台となると、どうしたって摩耶学園時代と比較してしまうのよね。まずだけどエミ先輩たちと優勝した時とは違うと思う。あの設定なら野川部長役や、エミ先輩役、さらには麻吹先生役や、新田先生役が必要だけど、どう見たっていないもの。

 だからミサトの部長時代に近いとは思う。その証拠に前年度優勝校になってるんだ。部室に優勝旗が飾ってあるし、そこで優勝旗を北海道にみんなで返還しに行くと気勢を上げるシーンもあったもの。


 コハクちゃんもイイ演技してると思う。部長役のミサトの女房役って感じかな。女同士で女房はおかしかもしれないけど、野球だってキャッチャーを女房役って言うものね。副部長役として、ミサトのトレーニングに不満を上げそうになる部員をまとめ上げてる感じがするもの。

 今日の撮影はコハクちゃんとガチで対決した。ミサトのトレーニングに選手が不満を感じて、副部長役のコハクちゃんと言い争うんだよ。台本通りなんだけど激しかったな。コハクちゃんの顔が怖かったもの。

 副部長役のコハクちゃんが、ここで頑張らないと写真部が空中分解してしまうから、なんとしてもミサトを説得しようって気迫がビンビン伝わってきた。同時にミサトを思う心も。ミサトはミサトで、このトレーニングを続けないと写真甲子園は夢となるって頑張るんだよね。

 あれって十五分ぐらいあった気がする。まさに二人の心と気迫のぶつかり合いだった。実は二人とも途中でヒートアップしすぎて、台本のセリフが飛んだり、アドリブが入ったりしたけど、滝川監督は一発でOKにしてた。

 コハクちゃんとの大激論の後の岩鉄さんもイイ味だしてたよ。二人をそっと抱きしめる感じかな。そりゃ、クサイと言えばクサイけど、あれだけ荒れまくった流れをすっと静めてくれたもの。さすがは大物俳優だ。あんな顧問の先生がいたらあの時も変わっていた気がする。


 そんな撮影現場だから、強烈な、なり切り感と合わせて、現実の世界をやってるような感じさえするのよね。現実世界では当たり前だけど、その日に起る事は、その日になってみないとわからないじゃない。

 平凡に終わると思ってたら、トンデモない事件に巻き込まれたり、そこまで行かなくとも、思いがけない事が起ったりするもの。たとえば麻吹先生から突然電話がかかって来て、問答無用で呼び出されてオフィス加納に監禁されるとか。

 麻吹先生のムチャ振りはさておき、どうもだけど、滝川監督が演者に求めているのは、予想していなかった事への本気のリアクションを狙ってるとも見えなくもない。理屈はそうかもしれないけど、実際にそういう演出をしてヒットを連発させてるのに驚くしかないよ。


 それとミサトは映画の撮影現場って、もっと和気藹藹してるって思ってた。撮影現場自体は監督さんによって変わるだろうけど、撮影後は一緒にご飯食べたり、お酒を飲んだりみたいな感じ。

 かつて世界の巨匠とまで呼ばれた大監督は、撮影現場では鬼のように厳しかったそうだけど、撮影が終わると連日連夜の大宴会をやってたって聞いたことがある。そうやってコミュニケーションを取ったり、リラックスした雰囲気で演技指導をしたりとか。

 ところが滝川監督は撮影が終わればトットと帰っちゃうんだよね。これも、わかるところはあって、そうでもしないと『明日の台本』が間に合わないものね。でも、撮影中でさえ当初の頃はともかく、今じゃ、演技指導しか口にせず、無駄口さえほとんどなくなってるんだよ。

 さらにだけど、役者同士のコミュニケーションを取るのもあんまりお好みじゃなさそう。今回だって、泊まり込みの役者さんもいるけど、ホテルは見事にバラバラ。あれってわざとそうしてるって。

 岩鉄さんは即興劇に近い手法じゃないかとしてた。即興劇とは台本を用意せずに、出演者がセリフや動作を自分で作り出しながら演じる劇なんだ。ただ台本は無くとも、話のフォーカスを決めておいて、出演者が一つの劇を作りあげる感じだってさ。

 滝川映画には台本はあるけど、今ならスタジオ入り前にポンと手渡されるんだよ。そのくせ長いセリフがあるから、役者さんたちはヒーヒー言うんだけど、あれをこなすには、作中人物になり切らないと無理なのはわかる。

 ここがわかりにくいと思うけど、なり切ると言っても、架空の人物になってるのじゃなく、そういう役名の自分が演じてるんだ。だから台本も後になるほど、自分の言葉にしか思えなくなってる。

 セリフ通りなのに、まるで自分がその場で思い浮かんだ言葉を話しているような感覚なんだよ。どう言えば良いのかなぁ、芝居と現実の境目が曖昧になっていく感じ。ミサトは高校生役だけど、本当に学校に通い、そこで写真部やってるとしか感じないようになってきてる。撮影が済めば、学校から家に帰る感覚。

 そこに監督は存在するけど、監督の目を気にして演技してる感覚が乏しいのよね。まるで無関係の人みたい。映画を撮ってると言うより、滝川監督の作り上げた世界の中で、暮らしているって感覚に確実になってしまってる。


 これって普通の映画や演劇の『役になり切る』とは別次元だと思う。その辺は滝川監督以外に経験がないから自信が無いけど、ある種のトランス状態にされてると思うのよね。だから映画を撮ってると言うより、滝川監督の作った世界に住んでる感じがする。

 だから演じてるのではなく、住んでいる様子を、知らないうちに撮られてるぐらいの感覚が近いと思うんだ。滝川監督は世界の造物主として、その世界を動かしてる感じかな。造物主と言えばキリスト教なら神だけど、そんな感じさえする。

 滝川演出とは、出演者をトランス状態にして自分の作った世界に送り込み、そこでの暮らしを自由自在に誘導しながら、映画にして行くぐらい。この状態を維持するには、他の監督のようなコミュニケーションは不要で、逆に邪魔になるんだと思う。

 撮影序盤にお払い箱になった役者たちは、滝川監督が求めるトランス状態になれない、もしくは作った演技を捨てきれない人だったで良さそう。そういう役者では監督の世界にそもそも立ち入ることさえ出来ないぐらいかな。

 こうやって書くと簡単そうだけど、つくづく怖ろしい手腕の監督と思うよ。それと滝川演出では、本当の素の自分がさらけ出される気がするのよね。岩鉄さんが、撮影が始まった頃に、役に自然になれるって言ってたけど、こういう意味だってわかった。

 滝川映画って派手なセットとか、凝ったCGは殆ど使わないけど、見る者を映像世界に引きずり込むって言われてるのよね。ミサトも見た時はそうだったもの。その秘密の一つが、演じる者の自然な表情だと思う。

 あれって、自然と言うより、出演者が本当にそう感じ、そう思ってる地の感情から、ほとばしるものになってるからだと思う。いやはや大変なマジックだよ。