銚子備忘録

何回かに分けて書いてあるのを備忘録としてまとめておこうと言うだけの企画です。銚子市立総合病院の問題は病院自体の問題もありますが、サイドストーリーとも言える政争も濃厚に絡んでいまして、面白いのですが経過はそれなりに複雑です。そこら辺を可能な限り手際よく(これがすぐに脱線するのですが・・・)調べなおしてみようと思います。


歴代市長

歴代市長がどうなっているのか情報がなかなか無かったのですが、どうやら

氏名 任期
島田 8期
大内 2期
佐藤 2期
大川 2期
野平 1期
岡野 3年でリコール
野平 現職


平氏が大川氏を選挙戦で破って当選されたのか、それとも大川氏引退に伴う後継を争って選ばれたのかは残念ながら不明です。野平氏の市政については批判者もおられるようですが、これも詳細は存じません。この野平氏が第一次市政時代に残した功績が大学誘致になります。


千葉科学大

銚子の大学誘致は野平氏が構想したのではなく、歴代市長が選挙公約に掲げるぐらいのものであったとされます。少なくとも昭和40年代から50年代にかけて具体的な大学側からの打診もあったとされます。言ってみれば銚子市の長年の見果てぬ夢だったようです。大学誘致の伝統は現在でも連綿として続いているようで、平成22年3月11日付銚子市立病院再生事業計画の「銚子市立病院再生基本方針」にもこう書かれています。

将来の安定した医療資源確保のための教育の充実

  • 市立高校の理系進学科の充実
  • 看護大学の設置
  • 医科大学院大学の新設

看護大学と医科大学院大学か・・・現在の構想はともかく、野平氏が前に市長選に当選したのが2002年7月ですが、大学誘致に関して積極的かつ具体的に行動されます。この辺の動きをまとめておくと、

Date 動き
2002年7月 市長に当選
2002年9月27日 加計学園(岡山)に大学誘致を正式に要請
2002年10月 加計学園銚子市内に大学設置準備室を設置
2003年1月 町内会連合協議会が大学誘致の要望書提出
2003年1月28日 銚子商店街連合会が「大学設置協力市民会議」を設立
2003年11月27日 文部科学省から大学設置が認可
2004年4月6日 千葉科学大学開学


平氏市長就任から大学誘致設立まで実に手際よく進んでいるのがわかります。おそらく銚子市の長年の悲願でもあったので歓迎ムードで盛り上がっていたんじゃないかと思われます。ところがこの第1次野平市政は大学誘致を実現させながら傾く事になります。他にもあったらしいの情報もありますが、確認できるものとして、
  1. 公約の大学誘致のために84億円が市民負担となった
  2. おそらく財政再建のための調整手当廃止を巡って議会や職員労組と紛糾
  3. 市立病院問題でなんらかの問題を起こしていた
この84億円がよく分からないところがあるのですが、野平氏が手際よく大学を誘致できた背景に、岡山県副知事時代に築いた加計学園とのコネクションがあったらしいぐらいは推測できます。そうでなけりゃ、誘致する大学をわざわざ岡山から引っ張り出さないでしょうし、ましてや就任2ヶ月で正式に要請に赴かないとも考えるのが妥当です。

また加計学園もあれだけ積極的に誘致に乗ったのもアヤは十分にありそうに感じます。つまり野平氏が市長選に立候補する時点と言うか前から話は出来上がっていた可能性は、状況証拠から非常に濃いと考えられます。別にコネを活かして誘致しても問題は無いのですが、誘致条件も事前に話がついていた可能性を考えます。それが84億円ではなかったのかと言う事です。

そんなこんなで二期目を目指す野平氏に逆風が吹く展開となります。


2006年7月市長選挙

市長選挙の結果は、

    岡野俊昭氏:13235
    野平匡邦氏:12756
    石上允康氏:9041
当選した岡野氏だけではなく落選した石上氏もかなりの支持を集めているのが確認できます。簡単には市を三分した選挙戦が展開されたとしても良いでしょう。政治がらみで書いておけば、石上氏は2002年の市長選挙では野平氏の後援会幹部でしたから、岡野氏の当然の背景には野平派の分裂も影響したと見る事は出来ます。なにせ票差は500票ですから微妙な接戦です。


岡野市政

岡野氏が直面したのは病院問題です。病院問題以外にも課題はあったと思うのですが、結局は病院問題で揺れ動く市政になります。当時の銚子市立総合病院がどうなっていたのかの確固たるソースが無いのですが、記憶ではお決まりのパターンであったと思います。地方病院からの医師の減少とそれに伴う病院経緯の悪化です。おそらく野平氏時代にもあったと思うのですが、岡野市政になってから顕在化したと考えています。

多くの地方公立病院で抱えている問題なのですが、岡野氏はどういう経緯かわかりませんが閉院の決断を行います。ネット医師世論では「英断」の評価も高かったのですが閉院路線を驀進する事になります。ここも簡単に経緯を記すと、

Date 動き
2006年7月 市長当選
2008年7月 病院閉鎖を表明
2008年8月22日 臨時議会で議決
2008年9月31日 病院閉鎖


岡野氏も市長選の時は病院建て直しみたいな公約であったとされます。当選後のいつ頃から閉院に動き出したかの情報はありませんが、少なくとも2008年7月時点に電撃発表と言う事はないと思います。当たり前の事ですが、病院を閉鎖するとなれば当然のように起こる反対運動も計算に入れないといけませんし、その上での市議会の多数派工作も欠かせません。

公式に表明しても閉院できると判断できたのが2008年7月時点と考える方が妥当で、それでもシジミと豚肉の買収騒動があったりして市議会の議決は1票差と言う僅差のものになっています。1票差でも可決は可決ですから、後は反対運動が起こっても粛々と閉院が行われるかと思えば、ここからスッタモンダの大騒ぎに発展していきます。


市長リコール

市議会の閉院決議後に反対運動が激化したのは周知の通りですが、反対運動に真っ先に転んだのは閉院推進の市長であったらしいのが笑いを誘います。表にまとめた通り、8月末の市議会で決議された後に翌月の9月末日に病院は閉院しています。その閉院した2008年10月号「広報ちょうし」にこうあります。

病院の診療再開に向けて

千葉県の協力を得て、有識者などによる「銚子市病院事業あり方検討委員会」を早急に立ち上げ、公設民営(指定管理者)など病院運営の主体や再開する診療科目、病床数などについて協議・決定し、公募により早期に診療を再開できるよう、現在、取り組みを進めています。

たった1ヶ月の間に岡野氏も病院再開論者に変貌を遂げられているのが良くわかります。これは言葉の上でだけではなく、最終的に伊藤恒敏東北大大学院教授を委員長に迎えての市立病院指定管理者選定委員会まで作り上げています。

岡野氏が本気で再開を考えていたのか、それとも反対運動の熱気のガス抜きのために、こういう姿勢を取られていたのかは本人にでも聞いてみない事には真意は不明です。ただガス抜きのためなら明らかに失敗で、結果は御存知の通りリコール成立、出直し市長選挙に雪崩れ込む事になります。


第二次野平市政

リコールを受けての市長選挙の結果です。投票は2009年5月17日に行なわれていますが、

氏名 票数 グループ分け 病院再建手法
野平匡邦氏 15289 前々市長 全国規模で病院を運営する医療団体(公設民営?)
岡野俊昭氏 7969 前市長 公設民営
茂木薫氏 4256 リコール派 公設公営
石上允康氏 3151 リコール派 公設公営
松井稔氏 2709 リコール派 独立行政法人
高瀬博史氏 1314 無所属 不明


この結果には魂消た銚子市民以外の方は多かったと思います。なんと前市長の野平氏が圧勝です。部外者にとっては何の事やらミカンやらの展開でしたが、銚子市民の選択ですから文句のつけようもありません。やはり大学誘致の84億円の遺産は大きかったのでしょうか。

病院問題がリコールの焦点であったのだけは間違いありませんから、第二次野平市政も病院再開問題に取り組む事になります。まず着手したのは前市長の遺物となってしまった市立病院指定管理者選定委員会の御取り潰しです。手際としては拙かったですが、あっさり消滅させて、代わって作り出したのが

平氏がどこからか選びだした6人の委員が中心になって病院再開へ動き出す事になります。でもって順調かと言えば、第一次野平市政の大学誘致ほどにはスムーズには進みません。新生病院の構想はあれこれ立てられますが、病院に絶対に必要な医師募集がニッチもサッチもいかない状態になります。もともとこの問題で病院が閉鎖されたわけですから、難題なのは間違いありません。

それでも病院再開には前進して行きます。なんとかかんとか医師を「1人」見つけ出す事についに成功します。2010年2月23日に医療法人・銚子市立病院再生機構(それにしても凄い名前の医療法人だ!)なるものが創設され、初代理事長として笠井源吾氏が就任されます。笠井氏の略歴は2010年1月号「広報ちょうし」にありますが、

日本医科大学卒業後、内科医として、国立横須賀病院循環器科医長、済生会波崎済生病院院長、済生会神栖済生会病院院長などを歴任。平成20年10月には、神栖済生会病院名誉院長の称号を授与され、昨年4月からは、神栖済生会病院および済生会波崎診療所の顧問を務めています。

錚々たる経歴ではありますが71歳になられています。理事長職ならともかく、現役医師として一線で働くのはどうかの懸念はありましたが、笠井氏1人の常勤医(他に非常勤医はいる模様)で5月1日からついに病院が再開(外来部門のみ)されます。強引な印象はありますが、市長は公約の最低限を果たした事になります。


新たな展開

私も知らなかったのですが病院再開の功労者であった笠井氏は既に解任されていました。光をめざして様の銚子市立病院私物化の一歩となる笠井医師解任劇とTV朝日「スクランブル」の提灯持ち報道によりますと、

8月12日銚子市立病院はプレスリリース(報道発表)を行い、突然の病院トップの交代を発表した。

医師不足で経営困難におちいった波崎済世会病院の再建を手がけ、その手腕を銚子市立病院の再建に生かすべく昨年の12月1日に銚子市の特別参与に就任し、病院長として5月に病院の再開を果たしたばかりの笠井源吾氏を院長職から解任し、かわりに白濱龍興副委員長をその後任にあてるというものだ。

2月の理事長就任から半年、5月の病院再開からわずか3ヶ月の事です。それも辞職ではなく「解任」となっています。ご高齢による健康問題でも発生したのならともかく「解任」とは穏やかでありません。解任の経緯も記されており、

笠井氏本人への事前の相談もなく、また本人が知らされていない状況のなかで、市立病院の経営にあたる医療法人の理事会が8月6日に開かれ、田中肇事務局長の突然の動議提出により同氏の解任が決まったというのである。

この事実の裏付けを取ろうと銚子市及び市立総合病院のサイトをググってみましたが残念ながら確認は出来ませんでした。幾人か名前が挙がっているのですが、とりあえず田中肇事務局長が狂言回しをされたようにも見えます。この方は銚子市立病院再生準備機構の6人の委員の中におられる方で、昭和21年10月13日生まれで東京都中央区在住となっています。経歴は、

Date 経歴
1970年4月 タナカゴルフ・田中不動産専務取締役
1978年11月 タナカゴルフ取締役社長
1987年1月 タナカゴルフをタナカインターナショナルに社名変更
2002年7月 世界ビリヤード協会経済促進委員会委員長
2003年1月 日本コンテンツネットワーク CEO


もう1人名前が出てくる白濱龍興副委員長ですが、

白濱龍興SHIRAHAMA Tatsuoki 1966年千葉大医学部卒業、1971年自衛隊中央病院に内科医師として勤務、内科部長を経て、1992年ー1995年防衛庁本庁に行政職に。その間自衛隊の始めてのPKO(UNTACカンボジア)やルワンダ難民救援隊派遣、及び国内災害の阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件等を経験。1998−2006年自衛隊中央病院長、その間スマトラ沖巨大地震イラク人道復興支援業務等の医療支援に関与、2006年自衛隊退職後、NPO国際緊急医療・衛生支援機構(イームスジャパン)設立、今日に至る。

最初に調べた時に自衛隊中央病院勤務とあったので防衛医大出身かと思えば、千葉大から自衛隊に防衛医官として勤務した経歴をお持ちのようです。ここは考えてみれば防衛医大は1973年設立なっていますから、そういう経歴もあっても良いかとおもわれます。経歴の最後のイームスジャパンの役員名簿を確認すると、

理事長 白濱龍興 翠会和光病院 副院長

こうなっていますから銚子市立総合病院の方は非常勤かもしれません。「かもしれません」ではいけませんから翠会和光病院のページを見ても、勤務医師の名前が公表されておらず確認が困難です。ただ平成22年7月10日付広報紙「和光病院だより」には、

医療安全委員会 副院長 白濱龍興

こうなっていますから7月時点ぐらいではまだ和光病院の副院長職にあったのだけは確認できます。8月の笠井氏解任の後に和光病院を辞職して銚子市立総合病院の院長に就任されたのでしょうか、それとも非常勤として院長職を務められているのでしょうか。ちなみに白濱氏も1966年卒業ですから68歳ぐらいのはずです。


これぐらい経過をまとめておけば、新たな展開があった時に対応しやすくなると思います。それにしても色んな事がおこる病院です。


補足情報

たぶん銚子市沿革からなんですが歴代市長は、

Date 氏名 補足
1933 川村芳次 官選初代
1945 大里庄治郎 官選2代
1946 加瀬道之助 公選初代
1951 嶋田隆 公選2代〜8代
1978 大内恭平 公選9代〜10代
1986 佐藤幹彦 公選11代〜12代
1994 大川政武 公選13代〜14代
2002 野平匡邦 公選15代
2006 岡野俊昭 公選16代
2009 野平匡邦 公選17代


ついでですから医療に関係ありそうな事をピックアップしておきます。

Date 事柄
1940 市立診療所設置
1957 市立精神病院完成
1959 精神薄弱児通園施設市立わかば学園開設
1963 精神衛生都市を宣言
1969 銚子市小児言語指導センター開設
1970 銚子市養護老人ホーム長崎園新築移転
1972 銚子市社会福祉事業団発足
1984 市立病院新病棟診療開始(市立総合病院に改称)
1990 市立総合病院精神神経科新病棟完成
1993 銚子市老人憩いの家・地域福祉センター(こも浦荘)完成
1994 銚子市立総合病院開設10周年記念式典挙行
1996 芦崎高齢者いこいセンター完成
2003 銚子市福祉作業所のぞみ及び共同作業所しおさい複合施設銚子市ワークセンター完成
2006 銚子市保健福祉センターすこやかなまなびの城開館
2008 市立総合病院閉鎖、小児急病診療所・銚子市精神科診療所開設
2009 市立総合病院外来のみ再開、銚子市精神科診療所が銚子こころクリニックとして移転


こうやって見ると銚子市立総合病院は1984年からですから、出来てから26年になります。それと市立総合病院より市立精神病院の方が先に建設され、これに関連したのか精神衛生都市宣言も行われています。銚子こころクリニックに千葉大精神科があれだけ肩入れしたのは、この辺の歴史的経緯を踏まえているのかもしれません。