新宮心筋炎訴訟・参考にされなかった意見書

この訴訟がどうなったかは、

そのうえで平成11年3月15日●●大学医学部教授「意見書」を読みます。
鑑定結果
  1. 本症例は、急激かつ非定形的な進行を見せた極めて特異な劇症型症状である。
  2. ○○意見書には、次のとおり欠落した観点が多くあり、妥当でない。


                   
    1. ○○意見書は、本患児の症例をポンプ失調型と断定しているが、誤りである。
    2. ○○意見書は、本患児に頻脈のないこと、肝臓の腫大のないこと、下腿の浮腫のないこと、心停止一時間ほど前の胸部エックス線写真で心拡大等異常所見のないこと、心停止直前の心電図検査でT波の逆転のないことその他重要な所見をいずれも看過している。


  3. 本患児に対する新宮市立市民病院での医療処置には、過誤は存在しなかったものと思料する。
以下はこの鑑定結果に対する説明です。順番に追いかけます。


本症例は、急激かつ非定形的な進行を見せた極めて特異な劇症型症状である
このケースの特徴をまとめています。

  1. 本症例においては、患者が急性の心不全にて死亡したということは明らかであるが、これが心筋炎によるもの、しかもウイルス性の心筋炎であるとの確証はない。

    しかしながら、少なくともここではっきりと言えることは、本症例は、極めて急激にその症状が進行したものであり、かつ非定型的な進行を見せた特異な劇症型症状であるということである。

  2. すなわち、心筋炎を含む心疾患について、一般的な水準における臨床医師が判断材料とすべき所見は様々であるが、まずは、「眼瞼・下腿・四肢の浮腫」「頻脈・呼吸数の異常」「聴診による心音(ギャロップという特異な心音が認められる)」「肝臓の腫大の有無」などを総合的に勘案して診断する。

    もちろんこれらのいずれかひとつが該当すれば直ちに心疾患を疑うというわけではなく、前記眼瞼浮腫などは、心臓に限らず花粉アレルギー、強い咳を伴う上気道炎、百日咳、うつ伏せ寝、皮膚炎その他に現れる所見であるから、その他の要素が否定的に働けば心疾患の疑いも否定されるのが一般である。

    そして、以上の所見を基に心疾患を疑うべき状況が存すれば、心電図・心エコー等の検査を行うことになる。

    なお、特に心筋炎の場合、心拡大・頻脈・T波の平低下や逆転(心電図において「T波」と呼ばれる一種の波形が、通常とは逆転した波形を示す。後述○○意見書も93%の症例にT波の逆転が見られると記載している:同意見書5頁、文献4−301頁)は、いずれも必須である。

  3. ところが、別紙「本症例の経過」に見るように、本患児の心拍には少なくとも死亡当日の午前6時の段階でいまだ何らの頻脈がなく(むしろ徐々に心拍数は減少し、落ち着きつつあった)、心停止の直前(10時ころ)に突然頻脈が始まっていること、同じく本患児の心臓は心停止の1時間ほど前に撮影した胸部レントゲン写真でも顕著な心拡大が見られなかったことなどから、本症例の心不全症状は11月16日の午前10時直前に急激に進行したと見ることができる。

    さらに、他方で肝臓の腫大の認められないこと、下腿の浮腫が最後まで存在しなかったこと、心停止直前の心電図にもT波の逆転が一切見られないことなどから、本症例は、医師が通常予想しうる一般的なタイプの心筋炎とは異なる、非定型的で極めて特異なタイプの劇症型心筋炎であったと考えられる。


  4. 後に検討する○○意見書は、心筋炎を3つのタイプに類型化し、本症例をそのうちのポンプ失調型と判断しているが、誤りであろう。
    

この意見書では「心筋炎を含む心疾患について、一般的な水準における臨床医師が判断材料とすべき所見」として、

  1. 眼瞼・下腿・四肢の浮腫
  2. 頻脈・呼吸数の異常
  3. 聴診による心音(ギャロップという特異な心音が認められる)
  4. 肝臓の腫大の有無
これらの症状を中心に総合的に判断するとしています。訴訟でなぜか天王山となった眼瞼浮腫についても、
    眼瞼浮腫などは、心臓に限らず花粉アレルギー、強い咳を伴う上気道炎、百日咳、うつ伏せ寝、皮膚炎その他に現れる所見であるから、その他の要素が否定的に働けば心疾患の疑いも否定されるのが一般である
眼瞼浮腫は決定的要素ではなく、むしろ補足的要素に過ぎないとしています。それでも心筋炎を疑ったときに必須とされる所見とそれに対するこのケースの所見は、
  1. 心拡大


      本患児の心臓は心停止の1時間ほど前に撮影した胸部レントゲン写真でも顕著な心拡大が見られなかった


  2. 頻脈


      本患児の心拍には少なくとも死亡当日の午前6時の段階でいまだ何らの頻脈がなく(むしろ徐々に心拍数は減少し、落ち着きつつあった)、心停止の直前(10時ころ)に突然頻脈が始まっている


  3. T波の平低下や逆転(93%の症例にT波の逆転が見られる)


      心停止直前の心電図にもT波の逆転が一切見られないこと
このように心筋炎を疑う必須の所見のいづれもがなく、さらに
  • 肝臓の腫大の認められないこと
  • 下腿の浮腫が最後まで存在しなかったこと
これらの所見から
    ポンプ失調型の心筋炎ではなく、非定型的で極めて特異なタイプの劇症型心筋炎であったと考えられる
事実関係を的確に拾った冷静な分析だと感じます。判決文の事実認定はポンプ失調型の心筋炎を見逃し脱水との診断を下し、脱水補正のために大量の補液を行ったが故に心停止に至ったとの結論を採用していますが、事実認定の前提とも言うべきポンプ失調型の心筋炎の診断が成立する症状・所見がないことを指摘していると考えます。


○○意見書には、次のとおり欠落した観点が多くあり、妥当でない

 前記のとおり、○○意見書は、本患児を急性ウイルス性心筋炎のうちポンプ失調(PF)型と断定してその前提の下に診察医の予見時期について意見を述べているが、これは誤りである。

 実際、本症例において容態が急変する直前の午前9時ころ撮影の胸部エックス線写真において顕著な心拡大が認められず、また午前10時36分に施行した心電図検査においてもT波の逆転など持続的心筋炎を思わせる所見が認められていない。○○意見書はこれらに関する観点を全く欠いている。

 そもそも、○○意見書は、「本患児が急性ウイルス性心筋炎のうちポンプ失調(PF)型」の心筋炎で死亡したことを前提にして時間をさかのぼり、いくつもある本患児の症状より、上記心筋炎の症状に当てはまる症状をピックアップして診断可能性を論じるものであるが、現場で直接診療する臨床医は、真の病名不明の中で多くの選択肢の中から真の病名を探求していく作業を行うのであって、同意見書によるような時間をさかのぼる診察は現実にはありえない。診察時のリアルタイムを想定した検討をなさねば、鑑定としても意味がないのである。

 しかも、急性ウイルス性心筋炎の症例は非常に稀であり、○○大学医学部付属病院においても、病院に送られてくる当該心筋炎は年間1〜2例程度である。しかも、私が医療に従事してから36年程度になるが、本症例のような非定型的な特異な心筋炎の症例は一度も診療したことがない。

 かかる症例について○○意見書は、時間的制約もなく、文献を駆使し、一般医療水準を上回る立場からも判断して診療課程を分析して判断しているものであって、まさに机上の診療、俗に言う「結果論」である。

 地域医療現場において臨床にあたる医師の法的責任を論ずるものとするなら、○○意見書は全く不適切なものといわざるを得ない。

ポンプ失調型心筋炎であるとするには、

  1. 容態が急変する直前の午前9時ころ撮影の胸部エックス線写真において顕著な心拡大が認めらない
  2. 午前10時36分に施行した心電図検査においてもT波の逆転など持続的心筋炎を思わせる所見が認められていない
二審判決文においては、死亡前日の受診時於て心電図さえ行なえば異常が見つかり、心筋炎の診断につながったとの事実認定を行なっていますが、受診翌日の「10時36分」でも「T波の逆転など持続的心筋炎を思わせる所見が認められていない」との指摘です。「10時36分」がどんな時間かと言えば、

    10:20 痙攣硬直、呼吸停止、意識不明、心停止に陥り、人工呼吸、心マッサージの処置を受けた
    13:10 心筋炎に起因する急性心不全により死亡

こういう時間帯です。それでも心電図には心筋炎の徴候を現す所見は無かったとの指摘です。反論している意見書への指摘は手厳しく、

    ○○意見書は、「本患児が急性ウイルス性心筋炎のうちポンプ失調(PF)型」の心筋炎で死亡したことを前提にして時間をさかのぼり、いくつもある本患児の症状より、上記心筋炎の症状に当てはまる症状をピックアップして診断可能性を論じるものである
さらに
    同意見書によるような時間をさかのぼる診察は現実にはありえない。診察時のリアルタイムを想定した検討をなさねば、鑑定としても意味がないのである
私はこの意見に同意します。さらに詳しい反論は続きます。
     本患児が感冒症状、自家中毒症状を呈していたことは明らかである。脱水症状についても、後記のとおり本患児の容態が急変した11月16日の採血の結果(Hb:ヘモグロビン15.5、Ht:へマクトリット47.6)より、その時点においていまだ脱水症状が存したことが明らかとなっている。
 そして、○○意見書のように「ポンプ失調型の急性ウイルス性心筋炎が11月5日発症した」と判断すると、これまで説明してきた以下の所見についての説明が不可能となる。

  1. 心肥大の不存在(心停止直前の胸部レントゲン写真で顕著な心拡大が認められない)
  2. 肝臓腫大の不存在
  3. 下腿浮腫の不存在(心疾患の場合、全身性浮腫に先だって眼瞼ばかりでなく血管抵抗の減弱しやすい下腿部にも浮腫が発生する)
  4. 頻脈の不存在


       特に午前6時の脈拍84、呼吸数24はまったくの正常値であり、しかも改善傾向にある(ちなみに、2〜6歳の幼児の正常な脈拍数は70〜115、呼吸数は20〜30とされている)。ところが同日10時の容態悪化の際の医師の診療緑によると心拍140、心電図の記録によると167となっており、この4時間ほどの間に急激な症状悪化が生じたことが認められる。このような所見はあきらかに○○意見書の言うポンプ失調型の急性ウイルス性心筋炎にはあたらない。


  5. CPK値について


       CPK値については、B病院においても新宮市立市民病院においても、前記のとおり本患児死亡後にその数値を把握する結果となっている。したがってその数値がいずれも溶血等の影響により高めに出ている可能性が高いものであるが、いずれにしても500〜600の数値(○○意見書の記述参照)が24時間後には4694(新宮市立市民病院検査結果)と急激に上昇している。これは極めて急激な上昇であり、上記4.の所見と重ね合わせると、本患児の場合には極めて短時間に急激に症状が進行したことがわかる。これは、明らかに○○意見書の言うポンプ失調型では説明できない。さらに前記のとおり本患児が脱水症状にあったことは確かであって、また11月15日のB病院及び新宮市立市民病院での検尿で排尿し、翌16日午前6時にも排尿していることからすれば、15日午後11時から12時のころが初期診断の「脱水症」を修正すべき時期であったとする○○意見書には全く同意できない。担当医が実施した輸液量は控えめといって差し支えない量であり、○○意見書が言う、論文が警告を発しているとの大量の輸液には到底あたらない。この輸液によりポンプ失調型の急性ウイルス性心筋炎が急激に進行したということは全く考えられないものであり、本患児の急激な症状進行と輸液治療とを結びつけることは妥当でない。

少しだけ問題になったCPKですが、

    B病院においても新宮市立市民病院においても、前記のとおり本患児死亡後にその数値を把握する結果となっている
知らなかった数値は診断の参考にしようがない上に、
    担当医が実施した輸液量は控えめといって差し支えない量であり、○○意見書が言う、論文が警告を発しているとの大量の輸液には到底あたらない
ここでの輸液量は神の鑑定によれば、

点滴による輸液は15日の午後9時から開始され、翌16日の午後10時まで1時間当たり100mlのペースで計1100ml

午後9時から2〜3時間つまり200〜300ml輸液した時点で、

    15日午後11時から12時のころが初期診断の「脱水症」を修正すべき時期であったとする○○意見書には全く同意できない
同意です。そのうえで、

○○意見書を要約すると、

  1. 担当医師は「眼瞼浮腫」を心筋炎を示す所見と考えなかった。
  2. 初診時こ胸部レントゲン検査・心電図検査・心エコー検査を実施すべきであったのにしなかった。
  3. 脱水症状との判断を訂正すべき症状が出ているのに訂正しなかった。
  4. その結果心筋炎に対する治療を行わなかった。
 そして、これらを改めておれば本患児の救命の可能性が十分あったとしている。

 その処置が認められている時間帯は、初診時(15日午後7時20分)から症状の急激な悪化(16日午前10時)までの間、深夜早朝の14時間40分、○○意見書が脱水症状を訂正すべきであったとする午後11時〜12時からすると10〜11時間ということになる。

 しかし、現実にリアルタイムでの当時の状況を検討すると多くの所見(頻脈なし・肺臓腫大なし・下腿浮腫なしほか)が明らかに心疾患に該当しない状況を示しているのであるから、眼瞼浮腫・排尿量のみから判断することは妥当でない。

 以上から、○○意見書はその前提に誤りがあり、妥当でない。

本患児に対する新宮市立市民病院での医療処置には、過誤は存在しなかったものと思料する
これらをまとめての結論ですが、長いですが引用します。

新宮市立市民病院での治療における過誤の有無について、及び本症例における救命可能性について

 本症例のように、極めて非定型的で急激に症状が進行する場合の診断・治療は、極めて困難であるといえる。

 本症例において、もし心疾患を疑うべきヒントがあったとすれば、それは確かに唯一、○○意見書の言う眼瞼浮腫の存在であった。実際、新宮市立市民病院の担当医師も、眼瞼浮腫の存在から一旦は心疾患の可能性を認識している。しかし、心疾患を疑わせる材料は単にこの眼瞼浮腫の存在だけである。逆に心疾患を否定する材料はあまりに多いのである。

 すなわち、心臓については聴診の結果正常で心雑音なし、頻脈なし、多呼吸なし、肝臓の腫脹なし、下腿浮腫なしなどである。これでは、前記のとおり眼瞼浮腫が心疾患のみに結びつくものでないことからすると、一旦認識した心疾患の可能性を自ら否定せざるを得ないのもやむをえない所見である。

 本症例において、新宮市立市民病院での初診時に、直ちに心電図検査・心エコー検査を行っておれば、心筋炎の存在をその段階で発見し得たはずとの見解は、臨床医療の実際を無視するものであって意味がない。臨床医療においては日常的に大量の患者を1人の医師が処置し続けている。かようなすべての患者に一様に、しかも直ちに心電図・心エコー検査をもれなく実施することば言うまでもなく不可能である。現実には一定の蓋然性を持って緊急性ある心疾患の恐れありと認められる場合にのみ、直ちに心電図・心エコー検査が行われることになる。

 本患児は前記のとおり所見としては、単なる感冒症状・脱水症状のみしか現れておらず、しかも心疾患を否定する材料(前記下腿浮腫の不存在・肝臓肥大の不存在・脈動に異常なしなど)の方が優勢なため、いかなる見解にたってもこの段階でこれを緊急性ある心疾患の虞れあるものと判断することは不可能であった。したがって、この段階で心筋炎の診断をなし得なかったことはもちろん、直ちに心電図・心エコー検査を行わなかったことも、決して責められるべきではないものと思われる。実際、担当医師は、翌日には胸部エックス線と血液生化学検査を実施するよう、当初の段階でそれぞれ指示しており、その方針は極めてセオリーに従った相当なものである。

 また、その後の治療方針においても、現実に血液検査によるHb値・Ht値から患児が脱水症状にあったことは明らかなのであるから、輸液による経過観察というもので、この段階では一般的水準の医師であれば誰でもが選択する方針であろう。

 輸液の量もやや控えめという程度の量であって、心臓に負担をかけるという程度では到底ない。

 そして輸液経過観察中においても、心拍は当初より落ち着き気味であり、呼吸数にも何ら異常が認められなかった点、排尿についても、15日20時ころに排尿し(検尿時)、翌16日午前6時にまた排尿(100cc)があることからすれば、やはり緊急性ある心疾患を疑う余地はなかった。○○医師は、輸液を開始して2時間程度経った段階で排尿がなければ、当初の脱水との診断を改めるべきと述べるが、脱水症状の場合、本件で主治医が施行した輸液の程度であれば、数時間にわたって排尿がないことは通例であり、あまりに極論を述べるものといわざるを得ない。

 一方、仮に初診時あるいは深夜の段階で急遽心電図・心エコー検査を行っていたとしても、繰り返し述べているように何らの頻脈なく、呼吸数の異常なく、下腿浮腫・肝臓腫大なく、さらに死亡直前の胸部レントゲン検査で顕著な心拡大が認められない本症例において、早期より心筋炎を示す所見が現れた可能性は低いといわざるを得ない。

 そして、前記のとおり本症例が極めて短時間のうちに急激に進行した劇症型の症状であること、甚だ非定型的で特異なタイプであることからも、その救命可能性は極めて低いものと同様に考えざるを得ないのである。

 以上から、本症例の特異性・困難性に鑑みれば、患児死亡という結果は極めて残念ではあるものの、回避できなかったものといわざるを得ない。よって、診断・治療における過誤は、これを認めることができないものと鑑定する。

非常に論理性に富む明快な意見書です。これだけの意見書でありながら、残念ながら裁判官の心証に殆んど響かなかったのは結果が示しています。あえて響いたと思われるところは、CPKが注意義務違反にならなかった事と、入院後の16日午前0時ごろの「見逃し」が事実認定されなかった事ぐらいかと思います。

入院後の見逃しは注意義務違反として強く事実認定されなかった代わりに、入院時の外来診察の見逃しは厳しく事実認定されています。民事裁判は得てしてこういうもののであり、高度な専門分野に対してその素人が裁く関係上、どこかで思い込みが入り込んでしまうと、そこから抜け出すのは非常に困難になる一つの象徴と考えます。それが心証主義の限界と言えます。

民事訴訟では被告・原告が双方の主張に沿った証拠とか根拠を主張し、それによる裁判官の心証の獲得合戦の側面があります。原告側の主張は、

  1. ポンプ失調による心筋炎であった
  2. 新宮市民病院の受診時に見逃され、脱水補正への輸液のために心機能低下が助長され死亡した
  3. 受診時に心筋炎である証拠に眼瞼浮腫があった
被告側はこの意見書にあるように、心筋炎以外を考える幾多の所見があり、これを診断するのは到底無理であったです。被告原告の双方の主張を聞いた裁判官の心証は被告の主張に大きく傾き、一つの判決が残されたと言うことです。

判決内容の批判は可能ですが、判決結果を尊重するのも法治主義の一つのルールです。人間は過ちを犯す生き物ですが、これを繰り返さないようにする不断の努力が必要です。そういう意味での大きな教訓になる判決と私は思っています。