梅雨空のように暗い気持

病院にも医師の必要定員があります。これさえ充足できていない病院はあります。充足どころか欠員が多すぎて診療報酬の削減を受けているところもあります。また定員通りでも、労働基準法に則った勤務など夢の世界である事は勤務医なら常識です。医師の労働の過重感は定員を埋めただけではなんら解消しないということです。

大雑把な概算ですが患者が医療に要求している仕事量と、それに応える医師の実働人数に大きなギャップがあるような気がします。あくまでも印象ですが、医師に求めている患者一人当たりの仕事量は、アメリカ並みのものを要求されているような気がします。アメリカの医療と言ってもピンキリですが、ピンの仕事量を要求しているような雰囲気なんです。ピンのアメリカの医療は世界最高水準ですし、非常に懇切丁寧と聞いています。ただしそれに相応しい費用が必要です。その費用を負担できる人間は限られ、そうでない人間はまともに医療も受けられないのもアメリカ医療です。

日本の医療は誰でも公平にが大原則です。様々な制度で文字通り誰でもそれなりの水準の医療を受けられるようになっています。これを誰でも公平にアメリカのピンの医療を受けれるようにとするならば、当然ですが巨額の費用と人員が必要です。それでも驚く無かれ、日本の医療はある程度近い水準までそれさえも達成しています。ただしそれでも満足はしていないようです。完全にアメリカのピンにせよと言うのが今の医療への要求です。

人の願望はある段階を満たせばさらに膨らむのはマズロー欲求段階説を持ち出すまでも無く、自然の流れですが、それを予算を削減しながら達成せよと言うところに矛盾があります。厚生労働省が何度も力説する「医師は足りている」ですが、この根拠は人口当たりの医師数をすべての根拠にしています。この数は先進国中で最低水準であるのは統計上明らかです。最低水準の数で世界最高水準のアメリカのピンの医療をせよは物理的に不可能です。また誰でも公平の日本では、ピンのアメリカ医療を求める数が、アメリカとは比べ物にならないぐらい多いのも容易に推測がつきます。

何が言いたいかですが、医師一人当たりに求められている仕事量はおそらく先進国でダントツであろう事です。ダントツの仕事量を最低水準の医師数で「足りている」と断言する辺りに医師は絶望感を深くしています。医師は悲鳴をあげています。しかしそれでも働き足りないとされますし、働き足りないところは精神論で補えとの主張が溢れます。ただしどう考えても、ピンのアメリカ医療を全国民に等しく供給するほどの人員と設備が日本にあるとは思えません。

厚生労働省が現在の医師の数で「十分に足りている」と断言するのなら、同時に「足りていても提供できるのはこの程度」との説明が必要ではないかと考えています。ところが現在は「足りている」の言葉のイメージが先行し、足りているなら更に充実した医療を要求できるの悪循環があるように思います。そのツケは長年医師が背負ってきました。しかしもう背負いきれないほどのものになっています。背負いきれなくなると、無理している医師は擦り切れていきます。

人間は気力が低下すると意欲も急速に衰えます。意欲が落ちればプライドも低下します。プライドとは「オレは医者なんだから、苦しくともこの地域の医療を支えて当然」の意識です。プライドが低下すると自分がいなくなってその地域の医療が困ることと、自分の体調を天秤にかける事になります。そんな事はかつては絶対に天秤にかけるような事柄ではなかったはずなんですが、なんの抵抗も無くかけるようになります。さらにかけると自分が重くなっていきます。

私は医療崩壊の本をまだ読む機会に恵まれていませんが、医療の崩壊が進んで失われていくもので、もっとも重要なものの一つに医師のプライドがあると思っています。「オレは医者だから・・・」という意識は伝統と伝承によって築かれています。どうやって築かれたかがわからないぐらい前から存在し、医師たるものは備え付けて当然の心構えであると何の不思議も無く思っています。ただしこれが一旦失われれば、一朝一夕では回復しないものである事だけはわかります。

ひとたび医師の意識が打算に傾いてしまえば、瞬く間に打算でしか働かない医師が日本中に溢れます。サラリーマンの方には申し訳ありませんが、サラリーマン医師と揶揄されても平気な医師が普通となります。そこまで行く事は既に間違いない先例があります。その先例の通りに日本の医療は突き進んでいます。そこまで落ちて再建に苦悩する先例さえ明らかにあると言うのにです。

憂慮しても何も明るい材料が先に見えませんね、加速する悪材料はいくらでも数えられると言うのに。