格差社会

格差社会についての小泉首相の答弁が微妙に変化しています。当初は「データの見方で格差は無い」が「格差は出てきてもある程度仕方がない」にです。首相曰く「能力のあり努力した者が報われる社会は認められる」という事です。

基本的には正論です。努力しても報われない差の無い社会であれば、誰も努力しません。働いても、働かなくても報酬が同じであれば、大多数の人間はなるべく働かない方に加担します。人間はそれほど勤勉な生き物ではありません。

資本主義の活力の源泉は、努力して報われる欲望に人々が邁進するところにあります。すなわち競争原理です。小泉構造改革の基本理念もそこにあり、行き過ぎた規制により競争原理が損なわれ、資本主義の活力が低下していると考え、競争原理がより働く社会を作れば経済が活性化するではないかと考えています。

ここで誤解してはいけないのは競争原理の結果、成功者と失敗者は確実に存在し、その結果は差として現れます。差がつくことが後に続く者へのモチベーションになります。自分も成功者になるんだと言うモチベーションです。差がつく事を否定したら資本主義での競争原理は成り立ちません。

資本主義自体は野放しにすれば優勝劣敗、弱肉強食の獰猛性の本性が剥き出しになる特性があります。野放しなった資本主義での競争の行き着く果ては独占です。つまり競争相手全員の息の根を止めて競争が存在しなくなるまで続きます。特性として共存共栄的な思想は無く、妥協と取引の休戦状態はあっても、スキあれば相手を倒そうとします。

資本主義も初期の頃はそういう様相を呈した時代もありました。それが何を生み出したかですが、富を独占する少数派のブルジョワジー階級と、貧困に喘ぐ多数派のプロレタリアート階級の成立です。そういう社会情勢を見て生み出された思想が共産主義といえると考えます。多数派のプロレタリアート階級が少数派のブルジョワジー階級による支配を打倒して、プロレタリアートのための公平な社会が出来るという思想であるとすれば乱暴すぎるでしょうか。

ただし世界は現在のところマルクスが予想した共産主義革命の方向には動いていません。ただし共産主義的発想を資本主義が否定したかと言えば、実相はそうでなく、共産主義的思想を巧みに取り込んで社会の安定化を図っていると言えます。

どうやって社会の安定化を図ったかと言えば、資本主義では構造的に富と権力の寡占状態が起こるので、これを巧みに分散させて格差の少ない、なおかつ連続的になだらかな格差しか生じない社会の構成を計ったのです。日本では非常にうまく運用されたと言えなくはありません。

日本でも資本主義であるので格差は基本的にあります。ただし上下の差と言っても、腰が抜けるほどの大富豪、たとえば家に飛行場があるとか、18ホールのゴルフ場があるとか、ベルサイユ宮殿のようなお屋敷を持っているわけではないのです。貧しいと言っても見渡す限りの貧民窟が拡がっているわけでもなかったのです。

小泉改革路線の「格差」で問題なのは、どれほどの格差を容認した社会を構想しているかです。資本主義の本質は獰猛です。タガを緩めれば競争原理は緩めた以上に加熱します。加熱すれば経済は統計上活性化するでしょうが、その分だけ富の集中化が行なわれます。富の集中化は持つものと持たざる者の二極化を促進し、なおかつ固定化まで作用します。

二極化社会が進むと持たざる者の反乱が確実に起こります。つまり競争原理を促進させる事は経済を活性化させますが、社会不安を醸し出す事と裏腹であると言う事です。そのさじ加減が為政者の務めであると言えます。

格差社会が流行語にまでなると言うのは危険な前兆であると私は考えます。しかし小泉竹中ラインはこれを前兆とは感じてないようです。むしろまだ足らないの認識が強いように思います。えてして為政者は統計上の数字にのみ囚われて生活の実相が見えてないことが多いです。社会的混乱が起こって初めて気づく事も珍しくありません。

格差社会が流行語になっている事の危険性に気がつく政治家が現れてくれる事を祈ります。