始皇帝の祖母の墓

えらいものが出てくるものです。陵墓の大きさは南北550m、東西310m。北側の深さ15mの地点に東西140m、南北113mの墓道と東西29m、南北28mの墓室を持つ十字形の大型古墳だそうです。けっこう立派な副葬品も見つかっており、始皇帝の祖母に当たる夏太后のものと推定されているそうです。

見つかって何が不思議と言われそうですが、中国と日本では前時代の支配者の遺物に対する姿勢がかなり異なるからです。中国と日本というより日本の姿勢が世界と異なっていると言う方がより正確な表現かもしれません。

古代より世界各地で文明は栄え、王朝が栄華を極めています。栄華を極めた王朝はその盛りに壮麗な建築物を残したされます。その記録はしばしば古文書に残っていますが、あまりの壮麗さ、壮大さに長い間「あれは誇張である」と見なされていたり、「現代技術でも不可能である」との見解で架空であると断定されていたものが多数あります。

誇張や架空とされる根拠は一にも二にも残っていないのが最大の原因です。栄華を極めた古代王朝も滅亡し、新たな王朝が築かれます。新たな王朝は政権交代時に前王朝の遺物を徹底的に破壊するのが通例でした。破壊した上に新王朝の権威を見せつけるために新たな建築物を作るのがありふれた慣習になります。

だから日本のように奈良の大仏法隆寺出雲大社などが当たり前のように残っている事自体が世界常識では奇跡的なんです。世界各地でも残っているものはありますが、ほとんどは破壊し切れなかったり、焼け残った石造建築物の廃墟がほとんであり、次代の支配者がたまたま気に入って再利用したものが例外的に残っているに過ぎないのです。

今回は中国の秦の時代の話なのでそこに話を絞ると、秦王朝は楚の項羽によって滅亡しています。史記によれば秦の都である咸陽に乱入した項羽は略奪の限りを尽くし、秦が建てた建築物のすべてを焼き尽くしたとされます。秦の歴代の陵墓もまたその対象になったと記録されています。

当時の陵墓には莫大な金銀財宝が副葬品として埋葬されており、これを暴いて軍資金にするのはごくごくありふれた光景であったのです。一番目に付く始皇帝稜なんか真っ先に襲われたでしょうし、たの陵墓もまた蟻にたかられた砂糖の様に根こそぎ略奪を受けたはずです。受けたはずと言うより「受けた」と記録されています。ところが近年の発掘研究では項羽の略奪は陵墓の地上部分に限定されていたようで、地下部分にはほとんど手を出していない形跡がうかがえるのです。

なぜ項羽が地下部分に手を出さなかったかは歴史の謎になりますが、まだまだ祖霊信仰が厚い時代であったので、祟りを恐れて手を出さなかったのか、陵墓の地上部分だけで莫大な戦利品が獲得でき、手間のかかる地下部分の発掘まで興味が湧かなかったかは項羽に聞いてみないと分かりません。

強いて推測すると阿房宮に代表される秦王朝の建造物は本当に壮大だったようです。始皇帝稜を始めとする陵墓の上に建てられていた宮殿も半端なものじゃなかったようです。陵墓略奪は当然宮殿部分から始まるのですが、地下を掘り返そうと思えば地上部分を撤去する必要があったと考えます。

盗掘ではなく略奪ですので、手段が荒っぽいのは当然で、宮殿部分も慎重に撤去という手段を選ばず「焼き払ってしまえ」になったのは容易に想像されます。ところがごっつい建物なので燃え始めると手がつけられないぐらいの大火事となり、燃え尽きるまで相当な時間がかかり、燃え尽きた後も余燼が長期間にわたってくすぶって近づけなかった可能性があります。

項羽は関中盆地を占領しましたが、この地はあまり好まず、あっさり根拠地であった彭城に帰ってしまいます。そのため鎮火してからのんびり発掘作業をやっている時間がなかった可能性があります。また地上部分だけでも抱えきれないぐらいの戦利品があったので、これ以上の戦利品があるかどうかわからない発掘作業は放棄した可能性もあります。一方でこの時点で当時の誰もが項羽は地下部分まで略奪したはずだと信じ、後世の誰もが掘り返す意欲が出てこなかったのだと考えられます。

近年の研究ではどうやら始皇帝稜の地下部分は未盗掘で残っている可能性がかなり高いと考えられています。これが発掘されたらどえらい物が出てきそうで、考古学ファンでもあり、歴史ファンでもある私はその日をひたすら楽しみにしています。