日曜閑話67

前から気になっていたテーマがありまして、江戸期には米がどれだけ取れて、本当に農民は滅多に米が食べれなかったかです。この辺は諸説が今は百花撩乱の様にあります。つうのも江戸期の全国的な統計データが乏しく、あるのは断片的な資料ばかりだからと思っています。ある資料を重視すればAの説が立ち、ある資料に基づけばBの説が唱えられる感じでしょうか。日本と言っても将軍家以下三百諸侯がおり、狭いと言っても鹿児島から青森(蝦夷地と沖縄はとりあえず除きます)まで気候風土は様々です。諸説が基づく資料は間違いとは思っていませんが様々な断片の一つの様子を表しているのに過ぎず、それを全国に拡大すれば無理が出るのだろうぐらいに考えています。今日の手法はなるべく全国平均的な見方で推論を展開してみようと思っています。


年貢の行方

江戸期の大名経済の基本は米を年貢(税金)として徴収するのが基本です。米以外もあったでしょうが、米が中心であったとして良いでしょう。江戸期の人口も諸説ありますが仮に3000万人としてみます。江戸期の想定は化政期ぐらいを念頭に置いています。年貢として米を徴収した大名は米をどうしたかです。別に難しい話ではなく、

  1. 自分で食った
  2. 売って換金した
さて売ると言っても買う相手が必要です。それは誰かになりますが食料を自給できない人になると考えます。いわゆる町人です。町人も米を食うために買う人と米を酒・味噌・酢・味醂などの加工品にする業者がいます。つまり年貢の最終的な購買者は、
  1. 町人が食うために買う
  2. 業者が加工品製造のために買う
これ以外に米が消費されるところはないかと見ます。さて人口ですが武士7%、町人14%説を取ると武士が200万人、町人が400万人になります。これもまた1石とは1人が1年間に食べる米の量とされていますが、仮にこの1石説を取るとどうなるかです。単純計算ですが600万石の消費になります。ここで年貢の総額がどうであったかです。江戸期の総石高は実高で3000万石であった説があります。年貢は実高に対して課されるので、ここから五公五民で年貢を取り立てれば1500万石になります。

ただ江戸期、それも後期に五公五民の年貢を取り立てられたかについては疑問があります。八代将軍吉宗享保の改革により傾いていた幕府財政の建て直しに成功していますが、このカギになったのが年貢率の向上であったとされます。吉宗の前には家康の頃には七公三民であったとされる年貢率が3割を切る状態であったとされます。吉宗は苦心惨憺してこれを3割8分9厘まで「一時的」に引き上げたとなっています。年貢率をあげて年貢は増えたのですが負担に耐えかねた百姓一揆が頻発したのは記録にも残されています。どうも年貢率は年数が経てば下がる傾向があり、これは将軍家だけではなく諸藩も同じような傾向があったと考えています。もちろん島津藩の様に強権で八公二民みたいな凄い税率を保持しているところもありましたが、実態的には四公六民ぐらいが精一杯じゃなかろうかです。

そうなると年貢の総額は1200万石ぐらいじゃないかの推測が出てきます。ここで武士200万人、町人400万の1人当たりの年間米消費量のシミュレーションを立ててみます。

年間米消費量 武士消費量 町人消費量 業者購入量
1.0石/人 200万石 400万石 400万石
1.5石/人 300万石 600万石 300万石
2.0石/人 400万石 800万石 無し
1.0石/人では米が余りすぎる感じがします。業者の需要として大きすぎる感じです。では2.0石/人では業者に回る米が無くなります。地主階級からの米の販売があるにしろ「食うだけの分」だけ年貢を取っていたは無理があります。ですから武士町人の米の年間食べている量は1.5石ではなかったかと推測します。これについての傍証として扶持米があります。武士の給与として時に出てくる「○○俵△人扶持」って奴です。この扶持料の目安が男が1日5合、女が3合であったとされます。平均すると1日4合になり1年で1460合(≒ 1.5石)になります。

この1.5石ですが一つ注意が必要です。3000万石もそうなんですが白米ではありません。あくまでも玄米ベースです。江戸後期には町人も白米を食べるようになっていたとされます。玄米を白米に精米すればどうなるかですが、1/6は糠になります。つまり5/6に量が減ります。そうなると年間の白米消費量は1.25石/人になります。1日あたりにすると3.4合/人になります。当時の米は文字通り主食であり、一汁一菜の食事とは具無し味噌汁に香の物が付くぐらいであったとされます。3.4合ぐらいなら平均的に食べていても不思議はないと考えます。


3.4合の検証

江戸期の貨幣制度と「かけそば」換算をやった時に参照した江戸庶民の生活があります。ここには文政年間漫録が引用されています。つまりは化政期のお話です。文政年間漫録には野菜の行商人の生活が描写され、そこを中心に文政期の物価をあれこれ考察されています。そこに書かれている庶民の一家の年間収入は30両ぐらいと推測できます。化政期には白米を庶民も食べていたとされています。文政年間漫録の家族構成は夫婦と老父と幼児二人と推定されるので、

  • 旦那は白米4合(玄米換算で5合)
  • 妻と老父は白米2.5合(玄米換算で3合)
  • 幼児は2人で白米2.5合(玄米換算で3合)
これぐらいと考えます。1日にして白米9合。これを1升と丸めるとで年間にして3650合(≒ 3.6石)ぐらいになります。では白米の小売値はどうかです。玄米1石が1両で米問屋に売られたとすると、この米は米屋が買い精米する事になります。精米も専門の業者が存在していたようです。玄米1石1両が米問屋・米屋・精米所を通るうちに1.3両になると考えます。玄米から白米にすると5/6に目減りしますから小売値は1.5両ぐらいになると考えます。1.5両は7500文になりますから1升にすると75文になります。文政期の米の値段は
    米1升半〜2升 ≒ 100文
この計算でほぼ合っていそうです。3.6石は5.4両ですが江戸庶民の生活には大坂の大工職人の飯米費も書かれています。大坂の大工職人も年間支出が銀1貫514匁となっており金貨換算でやはり30両ぐらいになります。大坂の大工職人の飯米費は23%となっていますから年間にして7両です。江戸の野菜行商人との差は家族構成の差と考えるのが妥当と思います。何が言いたいかですが町人平均が玄米1.5石/人であってもこれは購入可能であり、さらに大工職人や野菜行商人クラスであっても可能であったと言うことです。


3000万石の検算

3000万石の収穫があれば農民に1800万石は残るはずですが、一番の問題は本当に3000万石も米が取れていたかです。隠し田説も含めて検証してみます。江戸期のデータはほとんどないので明治のデータを近似値的に参考にします。明治期のデータも現代のように厳密なものではなく推測値を多分に含んだものであるのは注意してもらいます。参考データは全国農産表と農林省累年統計表からです。老眼には非常に読み取りにくいデータでしたが、収穫量は明治9年から作付面積は明治11年から集まりました。グラフにしてみます。

人口は明治9年で3550万人ぐらいで明治44年には5000万人に達しています。それに伴い米の作付面積が拡大し、米の生産量が増えています。ここで注目したいのは作付面積です。グラフでは折れ線で表していますが、ほぼ漸増のラインを示しています。藩籍奉還が行われたのが明治2年廃藩置県が行われたのは明治4年、地租改正が行われたのは明治6年です。隠し田等があれば明治9年以前に見つかった、もしくは持ち主が申告して自分の私有財産にしたと見ます。以後にも不自然な作付面積の増大は見られません。

米の収穫量は豊作・不作の波があるのですがほぼ作付面積の増大に伴って増えていると見れそうです。まあ、よく見ると作付面積の増大より米の収穫量の増大ペースの方が早そうですが、これの原因として単位面積当たりの米の収穫量の増大があります。これもグラフにしてみると、

反収とは田1反あたりの米の収穫量です。ちなみに「1町 = 10反」になります。反収も豊作・不作の変動因子があるにせよ時代が下るにつれて向上しています。統計に残る明治11年ぐらいはまでは1.2石/反ぐらいが精一杯であったものが、明治20年ごろには1.5石/反ぐらいに増え、明治の末には1.75石/反ぐらいに達しています。この明治期のデータから推測すると
  1. 江戸期の反収は1〜1.2石程度がせいぜいだろう
  2. 作付面積は2400万町歩ぐらいが精一杯だろう
そうなると江戸期の米の収穫高は2400万石〜2900万石ぐらいが推定されます。中を取って2600万石ぐらいじゃないかとも考えます。


仮説の再検証

今日の江戸期と想定している化政期の人口も3000万人から3200万人で説が分かれます。そこでもう少しデータがはっきりしていて一番古い公式データである明治9年のデータで考えてみます。農産物の収穫量・米の消費量は江戸期とそんなに大差はないだろうの仮定です。上で試算した時には300万石から計算しましたが、米の収穫量が少なくなると様相が変わってきます。計算の便宜のためにある程度数字を丸めますが、

  1. 人口は3500万人


    • 武士が250万人(≒7%)
    • 町人が500万人(≒14%)
    • 農民が2750万人


  2. 米の取れ高が2600万石
  3. 年貢が1100万石(≒ 四公六民)
  4. 武士・町人は1.5石/人の米を食う
実はこれでシミュレートすると武士と町人が食べる量だけで1125万石となり足りなくなります。足りない分はやはり地主階級が売っていたとみるべきと考えます。酒・味噌・酢・味醂などの加工食品にどれだけの米が必要であったかのデータが無いのですが、元禄11年(1698年)に江戸幕府勘定奉行が行った全国の酒造石高の調査で、酒造米高だけで90万9337石なんて記録があるそうです。そうなると化政期ならモロモロ合わせて200〜300万石あったと見て良いかもしれません。武士・町民・業者で1400万石消費すると考えると残りは1200万石になります。これを農民一人あたりで割ると
    0.44石/人
農民は種もみも残しておく必要があるので、今日は0.4石/人ぐらいが平均的な農民の米の消費量でなかったかと仮定します。武士・町人に較べると1/4程度になります。確かに米を食う回数は減ります。


ヒエ・アワ伝説

今回明治9年のデータを使ったのは米が食えない農民に対する定番の、

    米が食えないからアワやヒエを食べていた
これが本当にそうだったかです。ここも検証のための前提が必要なのですが「当時の人間は米1.5石/人程度の食料を必要とした」です。なおかつ栄養価の比較がややこしいので「麦でもヒエでもアワでも量が同じなら栄養も同じ」と強引に仮定します。実は米以外の穀物の統計データもあります。
明治9年 明治10年 明治11年 明治12年 明治13年 明治15年
大麦(石) 5035709 5031724 4564276 4952337 5839255 5787685
小麦(石) 1645111 1765633 1788808 1925337 2268602 2391025
裸麦(石) 2205252 2823142 3038424 3011761 4120459 4291087
粟(石) 1318112 1408462 1436557 1946952 1748804 1666499
黍(石) 134354 170834 164042 184936 192161 175241
稗(石) 828023 997357 875918 1081068 996415 1010748
大豆(石) 1807872 1882331 1641083 2279021 2335872 2332755
蕎麦(石) 447805 527391 571986 731591 689951 684456
蜀黍(石) 168295 94122 81501 89931 89099 80962
玉蜀黍(斤) 111140960 22761163 22793775 29286041 34913700 29514745
甘藷(斤) 1239876294 3734046901 1381015777 1663744396 1638797258 1924073557
馬鈴薯(斤) 27280755 37504277 53958781 54472604 56863797 76244241
これをまとめ直します
明治9年 明治11年 明治12年 明治13年 明治15年
麦類(石) 888万6072 939万1508 988万9435 122万28316 124万69797
雑穀類(石) 47万04461 47万71087 631万3499 60万52302 59万50661
その他(斤) 13億7829万8009 14億5776万8333 17億4750万3041 17億305万74755 20億2983万2543
さらにこれを丸めて
  • 麦類 900万石
  • 雑穀類 50万石
  • その他 14億斤
こう考える事にします。さてこのうち小麦や大豆は味噌や豆腐の原料になります。甘藷だって芋焼酎の原料になります。とくに味噌の消費量は膨大だったとも考えられるので、麦は500万石、雑穀類は40万石、その他は10億斤ぐらいが農民の「主食」になったと仮定します。そうなると農民1人あたりの年間平均は、
  1. 米 0.4石
  2. 麦類 0.3石
  3. 雑穀類 0.01石
  4. その他 36斤(≒ 22kg)
かき集めても1.0石/人にはチト遠そうです。これを補うために南瓜とかは非常によく食べられていたの話はあります。もちろん定番の芋の蔓とかもあります。言うまでもなく大根や茄子や胡瓜や人参、牛蒡やキノコや山芋類は当然の事として総動員されていたのは説明の必要もないでしょう。ただなんですが定番中の定番の稗や粟や黍はさほど取れていた訳では無そうです。そりゃそうで、そんなものをわざわざ栽培する土地があれば米や芋を作るだろうからです。それと麦類も量としては米とあんまり変わらないぐらいしかありません。

米が食えないから麦飯なんて話がありますが、現在の麦飯は「米7:麦3」ぐらいだと聞いた事があります。江戸期の地方の麦飯は「米3:麦7」であったの記述もありましたが、麦自体もこの程度の生産量ですから米を節約するために麦を増やしても麦自体が先に無くなるだけの話に見えてしまいます。稗や粟や黍は食いたくとも最初から少ないのも明治の統計から確認できます。


銀舎利伝説

これも伝説の一つですが、

    農民は滅多に米など食べられず、祭りなどのハレの日に年に数回しか食べられなかった
上で検証した通り農民は米以外もフル動員して1石/人程度の食料を確保していたと見ます。米より麦の方が栄養価は高かったはずですから、合わせ技で米換算で1.2石/人ぐらいになるかもしれません。この1.2石/人ですが、これぐらいになれば武士や町人とほぼ等しくなるとも考えられます。つうのも武士や町人は白米であるために米は1.25石/人になるからです。一方の農民は精米なんてしようものならただでも乏しい食料が目減りしますから、玄米で食べていたと考えます。玄米麦飯(プラスアルファ)の世界です。

ここでポイントは食料の配分からして農民は絶対に米を食べていたです。量としては武士や町人の1/3程度ですが米は間違いなく常食にしていたです。そうしなければ到底食い物が足りません。ただし常食にしていたのは白米でなく玄米であったぐらいでしょうか。「玄米食は実は美味しいんだ」と主張される方は現在でもおられますが、玄米が本当に白米に並ぶほど美味しければ白米食がこれだけ広がるわけがありません。かなり昔に母が玄米食に凝った時期があり、里帰りの時に食べさせられましたが正直なところ「実に不味かった」が感想です。

当時の農民だって基本的に同じであったと考えます。ただ白米にして食べると食い物が足りなくなるので普段は玄米食、それも麦などとの合わせ飯で我慢していたと推測します。そうやって我慢していた白米を食べる時がハレの日であったぐらいです。白米に精米し、白米だけの御飯を食べるのが非常に贅沢な行為とされていたです。農民が米を滅多に食べられなかったは少し勘違いされている部分があり実相的には、

    農民は白米だけを食べる時が年に数回しかなかった
白米の御飯は銀舎利と美称されますが、やはりそれぐらい貴重で美味しいものであったとされたと同時に、普段の玄米使用食を「米を食べている」とは言わなかったのだと考えています。


明治期の統計の信憑性

明治の統計がどれほどの信頼性が置けるかの指摘はあると思います。明治1〜昭和28年農林省累年統計表の農作物の部の前書きによれば

作物の生産高調査は明治3年に始まるが制度として確立したのは明治16年である。調査方法を年代的にみると表式調査、申告調査、標本調査の三つの調査法で代表させることができる。
表式調査は昭和15年まで行われてきたものである。これは調査項目と報告様式を規定するだけでその調査方法を特に定めていない調査である。
しかるに昭和12年以降の統制経済の進行、殊に昭和16年産米より実施された食料供出制度のもとでは、このような簡単な表式調査では時代の要求に即応し得なくなった。そこで昭和16年から新しく申告調査が生まれたのである。これは農家に申告の義務を課し、夏冬年2回のセンサスによる属人調査である。ところが、戦後経済の混乱、供出制度の強化の結果、農家はしばしば虚偽の申告をするようになった。のみならず、地方の機関を通ずる調査さえも、またその各々の地方の利害によって動かされ易くなってきた。かくて申告調査も時代の推移と共に崩壊していったのである。

今回用いた明治10年前後の調査は未確立期の統計となります。また調査方法も表式調査で平たく言えば

    どれだけ取れたか記入して提出せよ
こういう状態であったようです。明治初期の農民にとって実際の取れ高を正直に申告すれば「増税される」の心理があっても不思議有りません。そうやって江戸300年暮らしてきたのですから、そう反応しない方が不自然です。ここから過少申告説が出てきます。「統計よりもっと取れていたはず」の率直な疑問です。そこで過少申告のシミュレーションをやってみます。シミュレーションの前提はここまでのムックからの仮定として、
  1. 化政期の人口を3200万人とする


    • 武士・町人は700万人(武士7%、町人14%)
    • 農民は2500万人


  2. 作付面積を2400万反とし表高の取れ高を2600万石とする(反収は1.08石)
ここで地租改正についてwikipediaより

政府は当初、検地が農民からの反発を受けることを懸念し、農民からの自己申告主義を採った。すなわち、農民自らが地押丈量を行い、面積・収量を算出し、地方庁は地方官心得書の検査例に基づいて点検し、これを経て地方庁が地券(改正地券)を発行する形を取った。しかしこの方法では、全国一律公平の租税を徴収する目的は達しがたく、また、1874年(明治7年)の改租結果から、目標の租税額が確保できそうにないことが明らかとなった。また、政府高官間の政争の産物である「大蔵省分割問題」も影を落としていた(内務省設置による測量機構と税額算定機構の分離)。

このため政府は、1875年(明治8年)に内務省及び大蔵省の両省間に地租改正事務局を設置し、これを中心として改租を強力に進めるよう方針転換した(明治8年太政官達第38号)。この中で、府県庁は地租改正事務局があらかじめ見当をつけた平均反収を絶対的な査定条件とし、申告額がこれに達しない場合は、農民が自らの労力と費用をかけて算定した地価を否定し強圧的に変更させたことから、伊勢暴動をはじめとした大規模な暴動が各地で頻発した(地租改正反対一揆)。これを受けて政府は、1877年(明治10年)1月に、地租を100分の3から100分の2.5に減額することを決定した。

その後政府の強硬姿勢は、1878年明治11年)頃まで続いたが、税収の見込みがつくようになると徐々に緩和されていき、1880年明治13年)に耕地宅地の改正作業が完了した。この地租改正は約7年にわたる大事業であった。

これも取りようなのですが、地租改正には面積要件と収量(反収)要件があった事がわかります。面積と反収の両方について農民が過少申告していた可能性も残りますが、面積については比較的正確なんじゃなかろうかと考えています。過少申告を行うのなら反収だろうです。これも推測にすぎませんが、なにか前提が無いと話が進みませんから面積(作付面積)についてはかなり正しいと考える事にします。そういう前提で計算すると

申告率 取れ高(万石) 反収(石) 農民平均(石/人)
10割 2600 1.08 0.62
9割 2889 1.20 0.74
8割 3250 1.35 0.88
7割 3714 1.55 1.07
6割 4333 1.81 1.31
5割 5200 2.17 1.66
武士町人並に米を主食にするには申告率を6割以下にする必要があります。6割としてもその時の取れ高は4300万石、反収は1.8石になります。そんな事が可能かどうかになります。反収の歴史的推移を可能な限り追ってみました。 農水省の作物統計調査からなのですが、このデータは水稲であり、また10aを1反、1石を150kgで換算しています。
これをどう見るかです。まず調査方法も昭和16年に申告調査になった後、昭和22年から標本調査に変わり現在に至るです。素直な感想として調査方法の変更により極端な反収の変化はなさそうな気がします。データの連続性は保たれているです。また過少申告を行うにしても地租がありますから、あんまり極端な過少申告をやれば税務当局に怪しまれます。当時の行政府が税収確保に懸命になるのは当然ですから、半分近くを過少申告にしてしまうのは相当無理がありそうな気がします。行政府が幕藩から明治政府に変わっても基本的に同じです。 反収は現在で3石ぐらい、2石に達するのは大正の半ばぐらいです。一定の過少申告があったとしても9割から8割程度じゃないでしょうか。7割でもかなり厳しい感じがします。正直なところ江戸期では豊作で反収が1.2石、並作で1.1石、不作で1.0石ぐらいじゃないかと見ます。飢饉となれば1.0石を大きく切ったのだと思いますが、せいぜいそれぐらいです。そこから考えると農民が伏せていたのは全体の1割程度で300万石程度じゃなかろうかです。ただそうなれば農民の米の消費量は0.7石/人程度に増えます。武士・町人の半分程度です。半分と言っても武士・町人は白米で食べ、農民が玄米で食べていれば武士・町人が1.25石/人、農民は変わらず0.7石/人ですからもう少し近づいて半分以上にはなります。足りない分は麦でかなり補えそうになります。麦やその他雑穀類の統計も同じぐらいの過少申告が行われていたとすればそれなりに帳尻が合う気もします。

戦後経済の混乱、供出制度の強化の結果、農家はしばしば虚偽の申告をするようになった

これが具体的にどの年を指し、どの程度であったかですが、

反収
昭和16年 1.79
昭和17年 2.19
昭和18年 2.09
昭和19年 2.03
昭和20年 1.39
昭和21年 2.24
終戦直後の昭和20年で良さそうだと考えます。この年の反収はわずかに1.39石です。前後の年が2石を越えているのに比べ非常に低い値になっています。実際のところも昭和20年は不作であったとされます。どの程度の不作かは推測するしかないのですが、仮に反収が1.8石程度であったとすれば例年からさらに2割ぐらいの過少申告になります。今回のムックで本当に判ったのは江戸期の米の生産量とか、農民が本当に米を食べていたかどうかについての説が百花撩乱状態になることです。少し試算前提を変えれば状況は大きく変わるぐらいのところです。真実はそれこそ闇の中みたいです。