ツーリング日和8(第5話)オリーブ公園

 やっぱり小豆島は小さいわ。中山の千枚田から十分ほどで、

「だよね小豆島に来てオリーブは外せないものね」

 オリーブ園と道の駅オリーブ公園が一体になってるぐらいや。さすがに小豆島の象徴の施設やから、これは大きいな。

「魔女宅に実写版なんてあったっけ」
「知らんで」

 どうせ転んだんやろ。たくどうしてヒットアニメの実写版をあない作りたがるんか、コトリは不思議でしょうがあらへん。あんなものハズレが死屍累々と積み重なっとって、成功したんなんか数えるほどやないか。

「そうよね。百歩譲って漫画原作の実写版ならまだ当たりもあるけど」

 テレビやけど仮面ライダーや柔道一直線はそうやった。ほいでも時代がちゃうで。あの頃は漫画原作があるのも知らんで見とったからな。時代が進むにつれて難しくなってるとしか思えん。

 これは色々理由もあるやろうけど、基本は原作漫画の質やと思う。仮面ライダーや柔道一直線の成功が例外的で、アクションものは相性が悪いと思うてる。まだしも相性の良いのはドラマが主体のやつやろ、

「ちはやふるとか花男とかね」

 あれかって漫画の登場人物との差のギャップであれこれ問題が出るもんな。そやけどオリジナル・アニメの実写化は無理がテンコモリもエエとこや。アニメの実写化が難しいのはかつてはアニメでしか出来へん動きもあった。

「今はCGでほぼカバーできるけど・・・」

 ほいでも製作費はCG使えば使うほどウナギ登りになる。ちょっとでもCGケチってロケとかにすれば、

「チープになるし、アニメとの落差が激しくなるもの」

 アニメは作者のイマジネーションをそのまま絵に出来るが、実写で忠実に再現は無理が出る。とくにアニメからなら、原作アニメの動きや背景との差が違和感しか産まん。魔女宅なんか宮崎駿やぞ。

「オリジナル・アニメのファンから顰蹙買って、批判のヤマが押し寄せて皆転ぶだよね。でも、それでも懲りずに作り続けるのは・・・」

 まあな。映画がヒットするかどうかで大きな部分を占めるのは宣伝や。前評判も含めてのプロモーションとしてエエ。実写版は前作アニメがあるから制作発表段階から話題にしやすいのは確実にある。そこだけの費用効果だけでも大きいものな。

「賛否があっても話題として盛り上がってくれれば宣伝としては成功よ」

 ヒットが大きくなるには、公開直後の観客のクチコミ効果は大きいんや。

「ほぼ転ぶのは、まわり回って映画の出来が悪いからよ」

 そうやねん、原作アニメを吹き飛ばすぐらいの傑作やったらエエだけの話や。そんなハードルを乗り越えて成功したんは、そうやな、るろ剣ぐらいか。

「フランス版のシティ・ハンターも良かったよ」

 えらいディープやな。あれかって興行的に成功したかどうかは微妙過ぎるけど、あそこまで突き抜けると楽しめた。監督の原作愛の発露みたいなもんや。日本人やったらあそこまでモロにようやらんと思う。


 実写版魔女宅はこの風車のあたりでロケしたらしいが、ユッキーはなんでホウキもってうんや。ハリー・ポッターとはちゃうで。

「なに言ってるのよ。魔女宅だって空を飛ぶじゃない。ジャンプするからちゃんと撮ってよ」

 こんな小道具貸してくれるんか。風車を背景に撮るとエエやんか。コトリも撮ってもうとこ。

「ところでコトリ、小豆島のオリーブって昔からなの?」

 いいや日本にはあらへんかった。オリーブオイルが初めて日本に持ち込まれたのも安土桃山時代となっとる。宣教師が持ち込んだようや。江戸時代も蘭方医がクスリとして珍重したようやが、長崎経由やから珍品扱いやったぐらいで良いみたいや。

 初めて栽培されたんは幕末や。蘭方医の林洞海がフランスから輸入した苗木を横須賀に植えたとなっとる。ちなみにそれがどうなったかはどこにも書いてあらへんかった。横須賀じゃ寒いから枯れたんちゃうかな。

 本格的に栽培が試みられたんは維新後や。明治十二年に国会事業として神戸オリーブ園で栽培に成功してオリーブオイルの精製にまでたどり着いたとなってるわ。そやけど、それも試験栽培規模で終わったみたいや。

「そんなにオリーブオイルの需要があったの?」

 それもわからん。薬用オリーブ油は薬局に昔からあった気がするけど、

「湿疹とかかゆみ、火傷にも使ったみたいだけど・・・」

 明治の頃は珍重されとったんやろか。とりあえず明治のあの頃は、国産化出来るものならなんでもやろうの風潮は濃かったからな。ワインまで国産化しようとしてたから、オリーブもその一環ぐらいやったかもしれん。

 明治十二年の試みは日本でもオリーブ栽培は可能なことを立証した程度で終わったんやが、明治四十一年に大規模なトライをやっとる。これが小豆島のオリーブ栽培の始まりになるんやが、

「そんなに需要があったの?」

 それが調べたんやがはっきりせん。本格的な栽培計画やから、用途がないとやらへんはずやけど、その用途とされるものが謎々もエエとこやねん。

「北の海で獲れた魚の保存って・・・オイル漬けってこと」

 どう使ったか、どう使うつもりやったのかわからんねん。オイル漬けは欧米ではポピュラーな保存食や。代表的なのはオイルサーディンやが、なんでも漬けられるからな。西洋流の漬物ぐらいかもしれん。

 家庭用に使うぐらいやったらしれてるけど、北洋漁業に対応しようとすれば半端な量ではすまん。だから国産化しようとしたのは話の筋が通るんやが、どうにも使った形跡があらへんねん。

「保存だから缶詰とかは?」

 日本で本格的に缶詰が作られたんは明治十年の北海道開拓使石狩缶詰所となっとる。あのクラーク博士も訪れたことがあるそうや。これもあれこれ試行錯誤があったんやが、最初にヒットしたんがサケ缶や。

「じゃあ、サケのオイル漬け」

 この頃のサケ缶の調理処理がようわからん。そやけどサケ缶は衰えるんや。これは人気が無くなったんやのうて、サケやマスの漁獲量が減ってもてん。そやから明治の後期になったら、それまでは不要やとして捨てられていたカニを缶詰にしとる。

「カニは捨ててたんだ」

 カニは美味いけど保存食には適しとらん。そりゃ、塩漬けするのも、味噌漬けするのも、干物にするのもやりようがあらへん。それにすぐ腐るし味が落ちるのも早い。今かって獲って港に帰ってきたら釜茹でにしてまうのが多いぐらいや。

「釜茹でにしたって根室からじゃ遠すぎるのか」

 そやから地元の人しか食べてへんかったんやろ。これは明治どころか昭和の時代でもそうやった。いや、今でさえ美味しいカニのために、山陰に松葉カニツアーがあるぐらいや。そんなカニに目を付けたのがカニ缶の始まりや。

 カニ缶の製造が本格化したのは明治三十七年頃からみたいやからオリーブ国産化の時期と合うのは合うけど、

「カニ缶って水煮でしょ」

 明治のカニ缶の調理法もはっきりせんとこがある。それでも参考になるのが蟹工船や。この船は獲れたカニを船内で缶詰にしてしまう船やってん。

「今のマグロ漁船を鼻息で吹き飛ばしそうになるぐらい過酷だったんだってね」

 そんな本があるもんな。マグロ漁船との比較はともかく、蟹工船がカニを海水で茹でとってん。つうか今でも基本は同じや。オイル漬けのカニ缶なんか見たことも聞いたこともあらへん。

「そうなるとカニ以外の魚をオリーブ漬けにしようとしたことになるけど・・・」

 オイル漬けの魚の缶詰はイワシがポピュラーで、サバやタラも欧米ではあるみたいやが、

「サバは味噌煮でしょ」

 そうやねんけど、それ以上は不明や。国産オリーブオイルが北海道に送られたかどうかさえようわからん。だいたいやな、オリーブ漬けは西洋ではポピュラーでも日本人にはクセが強すぎるやんか。

 日本人は魚料理に馴染みは深いけど、オリーブオイルの味に熱狂したことはないと思うで、熱狂しとったらもっと普及してるはずやから。これは今でさえそうやから、当時はなおさらやろ。

「オリーブオイルなんて昭和の頃でも殆ど見かけなかったもの」

 そうやと思う。食用油と言えば天ぷら油とサラダ油、これにせいぜいゴマ油で、オリーブオイルなんか大都市のデパートにでも行かんと売っとらへんかったと思うで。とにかく謎が多い国産オリーブオイルやが、結果として栽培に成功して商売になったのは小豆島だけやったらしい。

「そこに黒船が来たのよね」

 昭和三十四年にオリーブオイルの輸入が自由化しとる。さすがに市場規模が小さすぎて国内農業の保護には出来へんかってんやろ。栽培農家は悲鳴を上げたと思うけど、ほとんどの日本人は気にもならへんかった気がするわ。

「わたしもそうだった」

 それでも小豆島のオリーブは踏ん張ろうとしたみたいや。小豆島でオリーブ栽培が最大になったのは輸入自由化から五年後の昭和三十九年やそうや。この時が百三十ヘクタールやったらしい。

「今は?」

 自由化で四十ヘクタール未満に減ったんやけど、なぜか滅びんかってん。よう残ったと思うぐらいや。それだけやない輸入品と競争しながらも、ジワジワ栽培面積を回復して今では百ヘクタールを超えてるようや。

 そうなったのは、健康食品としてオリーブオイルが段々とポピュラーになり、オリーブオイルのマーケットが拡大したからでエエと思う。そりゃ、どこのスーパーでも当たり前のように売っとる時代になったからな。

「国産安心のプレミアが認められたんだろうね」

 たぶんな。そういう試練を潜り抜けた小豆島のオリーブオイルやけど、国産やったらまさにガリバーや。国産だけで言うたら、九割が香川産で、香川産の殆どが小豆島産や。シンプルには日本のオリーブオイルの殆どが小豆島で作られてるんや。

「香川が県の木や県の花にするのもわかるわね」

 香川で一番ポピュラーなんはうどんやが、あれは木にもならんし、花にもならんからな。輸入品との競争は厳しいと思うけど、オリーブオイルの需要の伸び代は、まだまだあるはずやから、当面は安泰ちゃうかな。

「オリーブ茶も売ってるよ」

 美味しいんやろか。それでも変わり種のお土産にはなりそうやな。

「オリーブ化粧品は好みがあるからやめとくけど、オリーブペーストとかベラベッカーとかビスコッティは面白いかも」

 オリーブサイダーまであるんか。この辺を詰め合わせとったら小豆島土産としたら十分やろ。

ツーリング日和8(第4話)ワインディング・ロード

 さてやけど、ここからどうするかや。どうするもこうするも寒霞渓に行くんやが、ポピュラーなんはロープーウェイや。コトリかって乗りたいし、紅葉のシーズンやったら外せんとこやけど、

「バイクでも登れるんだね」

 そういうこっちゃ。目指すは県道二十九号、通称ブルーラインや。三十分ほどで着くはずやねんけど、

「まさか小豆島でワインディングやると思わなかった」

 コトリもや。これはかなりやけど楽しいな。おっとここが寒霞渓か。ここに来たら、

「オシッコ」

 景色もエエけど、ここのトイレも隠れた名所や。とにかく一億円かけて作ったデラックス版や。

「便器は普通だったけど」

 黄金の便器でしたかったら坂出に行け。もっとも黄金の便器でオシッコは出来へんけど。わざわざバイクで寒霞渓に上がって来たのは理由がある。

「トレッキング?」

 今日はパスや。寒霞渓スカイラインを走る。十分もせんうちにあったあった、

「四方指って方に曲がるで」
「らじゃ」

 こりゃ狭いな。ほいでも抜けたらあった、あった。この辺にバイクは止めといたらエエやろ。

「ここって、寒霞渓以上じゃない」

 見晴らしはな。これもちょっとした注意やが、四方指展望台より大観望展望台の方がエエ。インスタとかに上がってるのはこっちやねん。気持ちはわかるわ。

「コトリ、お腹空いた」

 朝早かったもんな。そやけどさすがにこの辺にあらへんねん。そやから銚子渓おさるの国を吹っ飛ばして中山千枚田の方に行くで。二十分ぐらいのはずや。ここで寒霞渓スカイラインは終わりで、県道二十六号を南に下って行くのやが・・・おかしいぞ。

「ちょっとストップ」

 いくらなんでも下りすぎや。どっかで左に曲がるはずやけどなんにも道路案内があらへん。

「通り過ぎてるけど、これってナビの罠じゃない」

 あるあるや。無料ナビは重宝するんやが、時々トンデモな道に誘い込むからな。そやけどバイクなら行けるやろ。つうか、そうでもせんと着かへんやんか。引き返して、

「あれやろ」
「見るからに怪しいよ」

 怪しいのは怪しいけど一車線半ぐらいあるやんか。ほいでもなんも案内あらへんな。とりあえず進むか。

「ちょっとストップ」

 四つ角やけど走って来たのは一車線半、クロスしとるんが二車線。なんも道路案内はなしや。

「直進は怪しげだから右じゃない」

 直進は怪しいのは同意やが、ここはナビを確認や。どうも左やな。なんか目印になるようなもんがあらへんかな。あった、あった。小豆島町中山って住所表示がやっと出てきた。この辺は農村地帯になっとるから小豆島の穀倉地帯ぐらいやろか。そんなに遠くないはずやけど、これは・・・

「ちょっと待った」
「またなの」

 なんちゅうややこしい道や。ナビ見たらやっぱり通り過ぎてるわ。またUターンして、あったあった、こっちからやったら看板見えるやんか。

「これって営業してないんじゃない」

 う~ん。赤茶けたトタン板の壁に色褪せ切った木の看板や。その家が店とはさすがに思えんな。たぶんやけどもうちょっと先に店があるんちゃうか。ナビ的にそうやねん。とにもかくにもあの角を入ろ。

「あっ、ここだ」

 へぇ、やっぱりここや。それにちゃんと営業してるわ。古民家風つうよりタダの古い家やでこれ。まあエエわ、こういうとこで食べるのもツーリングや。メニューは案外あるやんか。

「棚田のおにぎり定食と小豆島オリーブ牛バーガー」
「それに手作りスウィートも付けて」

 そうめん定食も心魅かれたけど棚田に来たらおにぎりやろ。お昼を楽しんだら千枚田やねんけど、このまま直進したら行けるはずや。

「これって完全に農道だよ」

 その通りや。前から軽自動車が来てもアウトや。それにコトリらのバイクでもUターンは厳しいやんか。ひたすら登ったら、

「これは・・・」

 こういう千枚田は減反政策で減ったもんな。さすがに見事に残ってるわ。あんな上まであるけど水だけは豊富なんやろな。

「コトリ、引き返した方が無難じゃない」

 これもその通りやねんけど、ひやぁ、こりゃアドベンチャーや。なんとか集落みたいなとこまで下りて来られたけど、

「ちょっと待った」
「どっちなの」

 わからんからナビ見てるんや。ここは右か。しっかしゴチャゴチャしとるで。ここも止まって確認や。なんか迷路をさまようてるみたいやったけど、

「出たぁ」

 良かったで。これやったら素直に引き返しといたら良かったわ。

「これもツーリングよ。結果オーライ」

 それやったら、途中であれだけ文句垂れるな。

「それもツーリングよ」

 そやな。こうやって迷うのも思い出になるもんな。

「♪ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」

 ロングやないけどワインディング・ロードやったもんな。

「ロングだよ。寒霞渓の登りからワインディングだもの」

 後は南の海岸線まで一本道のはずや。

ツーリング日和8(第3話)醤の郷

 映画村から十分ぐらいで、

「この匂いは醤油だね」

 小豆島の名産品の一つや。こんなとこで醤油醸造が盛んになったのが不思議なとこやけど、まず製塩業が盛んやったそうや。赤穂の次の生産量があったそうで島塩いわれて評判も良かったそうなんや。

 ここのポイントやけど評判がエエっつうのは小豆島の塩を買うた客の評判や。つまりは自給用の塩だけやのうて輸出販売用の塩も作っとってん。当時の塩は貴重品やねんけど、その質と量は塩市場の標準にもされたぐらいやったとなっとる。

 そやけど塩は儲かるとわかったから、瀬戸内沿岸で争って作られるようになっていってん。幕末には十州塩と呼ばれるぐらい作られて、日本の他の産地の製塩業を圧倒してしまったぐらいやねん。

 なんでもそうやけど、仰山作られたら値が下がる。そうなったら薄利多売の大量生産路線もあるけど小豆島では無理があったぐらいやろ。生産量は同じでも値段が下がれば売り上げが落ちる。

「島だから薪の調達にも苦労したみたいってなってるよ」

 そんな時に小豆島の人が目を付けたのが醤油や。これも話は時代がチトずれるから、別に製塩業が行き詰って手を出したもんやないと思う。伝承ではゴッチャにしとるみたいやけど、醤油に商品価値を見たのが正しいと思うとる。

 醤油に目を付けたキッカケは、小豆島が大坂築城の時に石の切り出し産地になったからになっとる。石の切り出し運搬のために大名が役人や人夫を送り込んだんや。その時に小豆島の人の目に留まったんんが醤油となっとる。これは合うてる気がする。

 醤油の歴史はコトリも詳しないとこがあるけど、この時点でも貴重品扱い、珍品扱いだったらしい。味噌は日常品としてあったけど、醤油は珍しかったぐらいや。

「役人が小豆島の人に振舞ったのかもね」

 この時の醤油やけど湯浅のものやとなってるねん。産地からしてそうやと思うけど、この頃の醤油は金山寺味噌の上澄みを採ったものやとされてるねん。だから量も少のうて高価な貴重品やったんやろ。

「それを作ろうと思ったのが凄いよね」

 よほど美味しかったんか、そこに商品価値を見出したんかは不明やけど、たぶん両方やろ。そのために湯浅まで人を派遣して製法の勉強をさせたとなってるわ。

「時代がずれてるってそういう事か」

 人を派遣するのもそうやけど、醤油醸造設備を作るんもゼニがいる。もちろん桶とかの道具もや。そういうものに投資できる財力は製塩業が栄えとう時代やなかったら無理やろ。そやから最初は先行投資みたいなもんやったと思うわ。

「その後に塩の値崩れが来るわけか」

 醤油を作るのも一朝一夕ではいかんもんや。あれこれノウハウを積み上げて商品化するのと、塩の商売が衰えるのがシンクロしたぐらい時代があったんやろな。

「そこまで醤油に入れ込んだのは」

 塩の教訓もあった気がする。塩づくりも簡単やないが、それでも模倣しやすい技術や。だから今度は模倣しにくいものにしたいのはあったかもしれん。この辺は結果論があるけど、醤油を塩に代えての換金商品にするのに成功したぐらいは言える。

「醤油って言うけど、あれって小麦と大豆が必要じゃない。そんなに取れたの」

 取れへん。こっちの方がコトリは感心するけど、江戸時代は商品が大きく動く時代になって来とるんよ。作物かって自給自足で作るだけやのうて、他の所へ売って換金しようとするのもありやってん。

 それでも特産品とか、名産品とされるのは、その土地で作られたものがベースのことが多い。原料ぐらいは自前の発想やな。そやけど小豆島の人は原料は輸入で手に入るのを既に知ってたとしか考えられへん。

「そっか、瀬戸内だから、とくにだからかもね」

 秀吉の頃から天下の産物は大坂に集め市を立てて取引するのを進めとった。これは家康も受け継いどる。そやから大坂には大名の蔵屋敷が建ち並んで、年貢を現金化するのに必死やった。これは米だけでのうて特産品もそうやった。

 そのための輸送船が瀬戸内海を行き来するねんよ。それだけやない、回船業も発達する。これらの船はあちこちで売ったり買ったりしながら商売するんよ。小豆島はそういう船がよう来とったはずや。

「海路を考えるとそうなるよね」

 そこには小麦や小豆を乗せた船もあり、生活のために小豆島の人も買うとったはずやねん。それだけやない、船からいくらでも買えるのも知っとってんやろ。

「小豆島が買うとなれば調達して運んで来る船がいくらでもいるのもね」

 それを知っとったから醤油は作れると判断したんやろし、原料を買って作っても、これが醤油になれば何倍も儲かる事も知っとったはずや。

「商品価値さえあれば買い込んで運んでくれるのもね」

 加工貿易みたいなみたいなもんやけど、それが小豆島なら成立するとわかっとってんやろな。そういう仕組みを学んだんが塩やったんやろ。

「ついでにそれを出来るような資本の蓄積もね」

 当時の陸路の輸送力はプアや。千石船に仮に本当に千石の米を積んだとするやん。これを陸路で駄馬で運ぼうとすればどれだけいるかや。一俵を四斗としたら二千五百俵になるけど、馬でも二俵ずつやから千二百五十頭が必要になるねん。

 そやから人の往来は陸路が多くても、荷物輸送は河川も含めた水路がメインや。瀬戸内海はそのメインルートみたいなとこで、小豆島やったら物流の中に存在しているようなもんやったはずやねん。

「だから素麺も作ったのか」

 そんなとこやと思うけど、あれも一ひねりあるかもしれん。とりあえず目の前の讃岐が天下のうどん県やんか。さらに言うたらうどんはどこでも自前で作れるようなもんや。気候風土の問題もあるけど、

「あえて素麺にしたのかもね」

 素麺はうどんより作るのがはるかに難しい。だから産地も限られとる。それに素麺は保存食品やんか。うどんかって乾麺あるけど、無理に乾麺にせんでも生で食べたらすむもんや。輸出という観点から見れば希少性でも輸送を考えても換金食品として適してるぐらいは言えるで。

「佃煮はイマイチね」

 また誤解されるようなことを。今の小豆島の佃煮は美味い。そやけど商品に付加価値は加えられへんかったと見るわ。言い換えればブランド化や。ブランド化されてこそ商品の価値が上がるのは今も昔も一緒や。それにしてもこんな小さな島に十八も醤油メーカーがあるねんからな。

 ここは現役の醤油蔵が見学できるんや。ほぉ、木桶で仕込んでるんやな。こういうとこは珍しなったもんな。蔵に沁み込んどる醤油の匂いが日本人ならたまらんな。

「これこそ醤油蔵だよ。こうやって作ってこそ本物の醤油だよ」

 例のグルメ漫画の影響やな。あの漫画は全部ウソやとは言わんが、考え方が偏り過ぎてるとこがある。なんでも、かんでも昔ながら至上主義や。そうした方が美味しいのもあるけど、現代技術をボロカスにしすぎやで。

 醸造技術もそうで、こんなもの環境要因の影響が大きすぎるもんや。自然任せやったら、どう頑張っても出来不出来が出てまう。とにかく相手は微生物やからな。

「ワインなんかもそうだものね」

 そやから今の最先端の醸造技術は、最適の発酵条件に人工的にコントロールするのが常識や。たとえばやが、神の悪戯みたいな最高の発酵条件の再現かって、いつも出来るってことや。そう、あの作者が大嫌いなオートメーションの工場システムや。

 原料かって丸大豆に異常にこだわったんも笑えるで。醤油を作るプロから言わせれば、いつの時代の知識やと冷笑しとったわ。あれは昔が丸大豆やっただけの知識でしかあらへんてな。それよりなによりや、中途半端な庶民の味方のフリも鼻に付いたもんな。

 作者御推奨の方法で作ってみい。醤油が一本なんぼになると思うてるねん。これがワインの話やったらまだ譲る。ワインは日本人の欠かせない飲み物やないからな。そやけど目を剥くほど高くなった醤油を庶民をどうせいと言うんや。

「それはある。醤油って基本調味料だものね」

 そりゃマイぐらいの神の味覚があったら変わるやろうけど、あそこまでわかるのがそもそも異常や。神でさえ足元にも及ばんわ。そんなビックリ値段の醤油の味を知らん人間が不幸やとか抜かすんはムカムカするわ。

「それはまあ、漫画の話の設定の部分もあるけど・・・」

 そういうけど、あの中華料理至上主義はなんやねん。中華は美味いけど、あそこまで至上主義をやられたらケッタクソ悪いわ。それでも中華料理礼賛はまだ許せる。殴ったろうか思たんはオーストラリア絶賛や。

 あんなとこの料理が美味いわけないやんか。だいたいやで、オーストラリア料理って聞いたこともあらへん。あそこはイギリスの流刑地から始まって植民地になっとるから、天下のイギリス料理の直系やろうが、

 これも誤解されたら困るから付け加えとくけど、オーストラリアにも美味い料理も美味いレストランもある。そやけどオーストラリアの伝統料理とか、家庭料理みたいなものがどんだけあるねん。

「途中で移住したみたいだから身贔屓が出たのよ」

 それやったらエラそうに和食を語るな。あの漫画も最初は面白かったんよ。コトリも新刊が出るたびに楽しみにしとったからな。そやけど、人気が出るって言うのは作者にとっては必要な事やが、漫画の質には逆効果になりやすい。

 それは無理やりのひたすらの延長や。あの漫画の構成の基本は独立したエピソードの積み重ねや。そういうスタイルの難点は、そのうちネタが尽きて来る。エピソードのネタの質が下がって来ると漫画の質も必然的に下がるんよ。

 漫画の宿命やいうたらそれまでやけど、人気があり続ける限り連載は続くんよ。そやからどんな人気漫画でも最後はグダグダになり、人気も落ち切って人知れず消えてまう。そうやない漫画なんか数えるほどや。

「なんとか最後まで頑張れたのは、こち亀ぐらいかな」

 今日は止まらんわ。あの漫画は社会的主張も織り込んどった。これかって、最初は社会の変化により失われた味ぐらいの位置づけやったけど、ネタの質が下がるほど、それをカバーするためか濃くするどころか、

「鼻血のエピソードね」

 アホかと思うたわ。日本に住んで現実を見てから書きやがれ。安全地帯から遠距離射撃してせせら笑いやがって。

「作者の世代的にそういうのが正義だと信じて疑わないかもね」

 そういうこっちゃ。たかが漫画、されど漫画や。

「どうどうどう。だから人気が無くなったんだよ。さあ醤油ソフトクリームでも食べて落ち着いて」

 こういうミスマッチは微妙な気がするけど、これはこれで美味いな。

ツーリング日和8(第2話)二十四の瞳

「見えて来たね」
「あの岬を回り込んだとこに坂手港があるはずや」

 バイクのとこに下りてスタンバイや。ゲートが開いて順番が来て、

「小豆島、初上陸♪」

 これもフェリーを使うツーリングの醍醐味やな。船から下りたら上陸って感じが嬉しいもん。これだけでもテンションが上がるで。さてやけどここは坂手港や。別に坂手港を選んで上陸したわけやのうて、ニャンコフェリーがここに着くだけの話やけど、

「あそこよね」

 坂手港は南に大角鼻が伸びとるけど、坂手から西に田浦半島もあるねん。港からはすぐ北側や。その半島の先っぽの方に岬の分教場がある。坂手からなら十分程や。

「ここなのね」

 明治三十五年に田浦尋常小学校として建てられて、明治四十三年から苗羽尋常小学校の分教場になって昭和四十六年に廃校や。

「映画が撮られたのは昭和二十八年春から一年間だからまだ現役だったのよね」

 そうや、ここでロケも行われたはずやねん。そやけど原作を書いた壷井栄は地名を一切書いてへんねん。そうやな瀬戸内の島の寒村の岬にある分教場ぐらいしかわからん。

「でもモデルにしている可能性は十分にあるよね」

 壷井栄は小豆島の坂手の生まれやねん。分教場を舞台にした時に、故郷に近い田浦の分教場を思い描くのが自然やろ。フィクションやからどこでもエエねんけど、身近にモデルがあれば使うやろ。

「教え子たちが五年生になり本校に通うことになるけど、これも苗羽小学校のはずよね。壷井栄も苗羽小学校の出身なんじゃない」

 これはそうやない。壷井栄は坂手小学校や。今は苗羽小学校と合併してもたが、壷井栄の子ども時代は町内の別の小学校やってん。そやけど、分教場を舞台にすると言う構想は、田浦に分教場が存在していたからやと思うわ。ここから映画村もすぐや。

「へぇ、もう一つ作ったんだ」

 岬の分教所のロケ撮影もやったと思うけど、ずっとロケやってるわけにはいかんもんな。そりゃ、授業の邪魔になり過ぎる。そやから教室のセットを作ってるんよ。そやから映画で出てくる教室シーンはほとんどこっちやろ。

「木下恵介作品よね」

 木下恵介も名監督や。この時期の名監督、大監督言うたら黒澤明が出て来るけど、二人は同期や。トップ監督としてもてはやされとった。

「興行成績的には木下恵介の方が上だったともされてるものね」

 二十四の瞳が製作された昭和二十八年に黒澤も超大作を手掛けてる。

「黒澤の代表作でもある七人の侍ね」

 この辺は映画の性格にもよるけど、黒澤は当初九十日の製作予定だったんやが、そんなもの無視して延長に次ぐ延長、製作費も追加に次ぐ追加を勝ち取り、延々と一年近くかけて撮ってるねん。

「だけどさぁ、女の園はいつのまに撮ったんだろう」

 ようわからんかった。昭和二十九年に木下は三月に女の園、九月に二十四の瞳を公開しとる。発表順からして先に女の園を撮影しとるはずやが、二十四の瞳の撮影期間は昭和二十八年の春からになっとるねん。

「二本撮りだった?」

 ぐらいしか考えられん。どう考えても撮影期間がダブルからな。こんな事が気になるのは公開後の映画の評価や。当時やったっらキネマ旬報が権威があったんやが、

「これは知らなかった。一位が二十四の瞳で二位が女の園じゃない」

 そして三位が七人の侍や。公開時の評価だけやったら木下が黒澤をダブルスコアで勝ったようなもんやねん。そやけどリメイクが繰り返された二十四の瞳はまだしも、女の園なんて今となったらそんな映画があったと知ってるのはかなりのスノブや。おかげで女の園の情報も殆どあらへんねん。

「それを言えば木下恵介の名もあんまり出てこないもの」

 一方の七人の侍の評価の高さは桁外れや。世界でも指折りの名作にされるし、日本であれだけの映画を産み出させた驚異ともされとる。日本映画界の金字塔とも呼ばれとるし、その後の映画に与えた影響も数知れずとしてもエエ。

「未だに日本を代表する映画監督と言えば黒澤明だものね」

 当時と後世の評価が変わることはようある。でもこれぐらい極端なのは珍しいかもしれん。これを理解するには当時の世相を肌で知らんと無理やろな。当時は日本映画の黄金時代とされる。

「テレビが登場するまで娯楽の王様だったよね」

 駄作も多かったが、珠玉の名作も撮られとる。そやけどまず評価の基準が今とはだいぶ違う。まず前提として、

 文芸作品 〉 娯楽作品

 これが重かった。とくに当時の娯楽作品は安価な駄作が多かったから、そうなったのかもしれん。そやな本とマンガぐらいの差があったと言えばイメージできるかもしれん。娯楽作品と分類されてしまった七人の侍はそれだけで評価の足を引っ張られたぐらいや。

「左翼思想も強い時代だものね」

 左翼と言うか極端な平和主義としても良いかもしれん。まあ、これも第二次大戦の結果が生々しい時代やから無い方が不思議や。七人の侍はアクション時代劇とされるけど、それこそ野武士と侍たちの死闘を描いたものや。

「好戦思想のレッテルを貼られると、当時の文化人たちの評価は下がるものね」

 今かってそういうとこはあるけど、文化人には左寄りの思想をもつのが少なくない。思想やから右でも左でもエエようなもんやけど、当時は右が軍国主義、左が平和主義で、文化人言うたら左しかおらんぐらいやった。そやから右的なものは映画に限らず総スカンにされたぐらいや。

 木下作品はガチの文芸やし、二十四の瞳は反戦思想が込められ取る。ここも誤解せんといてや、反戦思想が悪いわけやない。あくまでも七人の侍が好戦思想と見られた逆の位置づけや。当時の評論家が木下作品に傾いたのはわかるねん。

「二人についた差はなんだろう」

 色んな説や論はあると思う。そやからコトリの感想に過ぎへんけど、木下恵介は時代に応じた映画を撮ったんやと思う。ここもより正確には、木下の撮りたい映画が時代にマッチしていたとした方がエエと思う。

 黒澤は逆や。時代にマッチした映画は根本的に肌に合わへんかった気がするねん。黒澤が尊敬しとったんはジョン・フォードやったんは有名やが、溝口健二や小津安二郎的な世界が好きやなかったんちゃうやろか。

 この違いは二人の海外での評価の差にもつながってると思うわ。受賞歴もそやけど、黒澤作品は世界の映画人が、いつかはあんな映画を撮ってみたいと思わせる夢や憧れみたいな位置づけになっとるからな。

「あれかな、黒澤の目指したものはグローバルスタンダードで、木下の目指したものはガラパゴスだったとか」

 結果としてはそうやろ。そやけど、当時の木下も黒澤もそんな意識はあんまりなかったはずやねん。あるのは、自分は映画をこう撮りたいだけだったはずやねん。そうやって進み続けた結果がこうなってるだけちゃうか。

「芸術にはよくあることだよね」

 絵画なんか多いんちゃうかな。大画家と呼ばれているのも、生きている間の評価は低かったのは多いもんな。芸術言うてもトドの詰まりは商売やんか。出来た作品を客が買ってくれんと暮らしていけん。

「フランダーズの犬の世界だね」

 芸術も先進性は求められる。そやけど進みすぎると誰も理解してくれへんし売れへん。じゃあ時代に迎合しすぎると後世の評価は下がる事もままある。

「与謝野蕪村と松村呉春みたいなもの」

 そんなもん誰がわかるか。松村呉春は円山応挙の弟子や。応挙は生きてる間も超人気画家で円山派と呼ばれるぐらい優秀な弟子も多かった。呉春は応挙の弟子として大成功をおさめた画家ぐらいでエエと思う。

 与謝野蕪村も応挙と同時代でこれまた応挙と同じ京都に住んどってん。蕪村は俳人として今でも誰でも知ってるぐらい有名やし、描いた絵もごっつい価値がある。そやけど、蕪村が生きてる間はその絵はそれこそ二束三文の世界やってん。

 今でも呉春の絵はそこそこの価値があるけど、呉春って画家がこの世に存在したのを知っとるのんは余程の物知りや。蕪村と較べるのさえアホらしい。そやけど生きてる間の評価は真逆やってん。

「死んでも名を残せる人自体が珍しいものね」

 そやな。木下恵介は時代を代表する名監督やった。そやけど黒澤明は時代どころか映画を代表する大監督やった。どっちの作品も当時の客は熱狂したけど、名前が残ったのは黒澤明やったぐらいやろ。

 ユッキーと映画村で在りし日の日本映画黄金時代の資料を見ながら、当時を懐かしく思い出しとった。あの頃は映画の黄金時代ではあったけど、子どもが見に行くのは大変やったし、映画館も真っ暗やったから痴漢も多かったんよ。

「というかすし詰めだったじゃない」

 そやった。マルチスクリーンとか予約制の総入れ替えなんて誰も考えてない時代やった。シートもボロいところが多かったもんな。それでもスクリーンに展開される物語に熱狂しとった。あれもまた古き良き時代の記憶やな。

ツーリング日和8(第1話)ニャンコフェリー

「日の出だね」

 ユッキーと来たのは神戸三宮フェリーターミナル。神戸第三突堤にあって、ジャンボフェリーの発着港や。ここからは高松に行くフェリーと小豆島に行くフェリーが出とって、小豆島に行く方はニャンコフェリーの愛称になってるねん。入場ゲートで係員に、

「どちらですか」
「小豆島や」

 そう言うたらタグをくれて、乗船券をターミナルビルで購入や。そこから指定されたレーンに並んで、係員の指示に従って船内に。六時に出航や。

「姫路まで遠いものね」

小豆島に本州から渡るフェリーは三つある。神戸と姫路と岡山や。姫路からの方が料金も安いし乗船時間も短かなるけど、下道で姫路はチト遠い。

「ここなら家から十分かからないし」

 そういうこっちゃ。その代わり三時間二十分の船旅になる。東京まで新幹線で行くより長いのが珍妙なところや。まあ、フェリーと新幹線、ましてやリニアと較べるのに無理あるけどな。

「そうよバイクが乗らない役立たず」

 用途と目的がちゃうやろ。まあ、ノンビリ行くで。

「そこが良いのじゃない」

 今日は小豆島やねんけど、実はと言う程やないけどコトリもユッキーも小豆島は初めてや。ずっと神戸とその周辺に住んでるようなものやけど行ったことがあらへん。近いからいつでも行けそうなもんやけど、近すぎて何故か行っとらへん。

「フェリー挟むのがね」

 それはある。神戸から三時間二十分やけど。乗船の三十分以上前にターミナルに行かなあかんやんか。そやから片道は実質四時間で往復八時間になるねん。これは姫路回りにしてもあんまり変らへん。そんなとこに日帰りでヒョイと行くのは無理がある。

 そやけど泊りがけで出かけるほど行きたい島かと言われると困るとこもある。これも誤解せんといてや、小豆島はエエとこやねんけど、それやったら他の観光地がどうしても優先されてまう。

「そうなのよね、ついつい後回しになっちゃう」

 このフェリーも利用しにくいとこがある。今日は平日やけど、一日三便や。コトリらが使うてるのが朝便で朝六時出航や。そやけど電車やないから、余裕を見たら朝の五時過ぎぐらいにフェリーターミナルに来たいとこや。

 コトリらはポーアイ住んでるから十分もあれば来れるけど、遠くなればなるほど時間が早くなる。一時間かかるとこやったら、それこそ朝の三時起きや。こんなもん家族旅行に気軽に使えるか。これが昼便になったら夕方着でその日は終わってまう。

「観光なら土日ダイヤね」

 まあな。土日ダイヤやったら土曜の朝の八時半の便で行って、日曜の十五時十五分か十七時四十五分の便で帰れるからな。ファミリーやったら十五時十五分やろ。要は神戸から行くなら週末とか連休の一泊二日限定にになるってことや。

「小豆島って本州からじゃなく高松からの方が行きやすいのよね」

 そうやねん。高松からやったらフェリーで一時間で、一日に十五便もあるねん。人だけやったら高速艇で三十五分や。それやったら高松観光とセットにしたら良さそうなもんやけど、

「高松と小豆島で二泊三日はキツクない?」

 クルマやったら瀬戸大橋から四国に渡り高松から徳島を回って明石大橋から帰ってくるぐらいのルートが思い浮かんでまうやんか。

「それクルマだけじゃなくてバイクもよ」

 そこに高松からの小豆島オプションを入れにくいぐらいや。ゴチャゴチャ言うたけど、小豆島はそこだけ目指しての観光となると後回しにされやすいんよ。言い方悪いけど、小豆島まで行って是非見たい、是非訪れたいとこが思い浮かばんぐらいや。

「淡路は便利だものね」

 それでも今回は小豆島や。ここも歴史の古いとこで神話やったらイザナギ、イザナミが十番目に産み出した島になっとる。日本書紀の応神紀には阿豆枳辞摩の記載があるし、ホンマかウソかわからんけど応神天皇の行幸したともなってるぐらいや。

「古代から人が住み着いていたんだろうね」

 この辺は瀬戸内海やったら淡路に次いで大きな島やし、少ないなりに農作物も取れたんもあるんやと思うわ。それより海路の要衝としての性格もあったんやろ。海路の要衝は今かってフェリーだけやったらそうや。

「春の海、ひねもす、のたりのたりかな」

 春つうより初夏やけど穏やかで気持ちがエエ海や。今かって小豆島には一万三千人ぐらいの人口はおる。

「歴史的にも平和そうな島よね」

 もちろん戦乱の記録はあるけど、激しい争奪戦が繰り返された訳やない。江戸時代かっておおよそ天領やった。これは温度差がテンコモリあるけど、天領の方が栄えたとこが多いんや。税金安かったし、統治は緩かったからな。

「石の島でもある」

 秀吉の大坂城にも、徳川の大坂城にも仰山使われてるものな。歴女の血が騒ぐ程やないけど一度は見ておいて損はないとこや。島自体は小さいから一日もあればだいたい回れるはずや。

「ところでさ。バイク乗りはカブに始まってカブに終わるって当たってると思わない」

 あれやな釣り人が、

『鮒に始まって鮒に終わる』

 これのもじりやろうけど、当たってるとこはあると思うわ。これもクルマとちょうとこやけど、最初に乗るバイクがなにやって事になるねん。いきなり大型乗るやつはおらんやろ。中型かって怖すぎる。乗るのやったら小型や。

 昭和の頃やったら小型のバイクでありふれとったんがカブや。それこそ家にあったり、親戚のおっちゃんが乗ってるとかや。自転車乗れたらカブ乗れるからな。

「乗りやすいし、走りやすいし、おもしろいのよ」

 カブはコチコチの実用バイクやから低速トルクがあるもんな。それにとにかく悪路に強い。つうか開発された頃は悪路の走行を念頭に置いとったし、今でもそのメリットから発展途上国で大人気や。

「とにかく頑丈で壊れにくいし、燃費だって化物」

 カブでバイクに初めて触れてバイクに嵌って行ったのは多かったのは間違いあらへん。もっともスクーターが出てきて様相は変わった部分はあるけど、要するにカブも含めた小型バイクがバイク乗りの原点としてエエやろ。

 バイクが好きになったらカブに感じる不満はスピードやろ。若かったら誰でもそうなるわ。スピードを極めようとしてレーサーまで行くのは少ないとしても、スピードを求めたらより大型のバイクに乗り換えていくわ。

「体力と気合は歳には勝てないのよね」

 これもクルマとちゃうとこや。クルマは極端な話、シートに座ってアクセルを踏めば走ってくれる乗り物や。そやけどバイクはそうやない。止まったら足で支えなあかんし、駐車したら人力での取り回しも必要や。

 大型になるほどデカいし重くなる。バックさせるんも、前に押すのも体力仕事や。若い頃はそれが楽しいんやけど、歳と共に体力が落ちてくると辛くなる。辛くなると、自分の家からバイクを乗り出すのさえ億劫になってまうねんよな。

「だからサイズダウンが起こる」

 バイクは身の丈に合ったものが原則や。自分で取り回せる重量とサイズが大事ってことや。見栄張って大型持っとっても乗らんかったら意味ないねん。もちろん乗らへん選択もあるけど、やっぱり乗りたいやん。

「回り回ってカブに戻る」

 カブになるかどうかはわからんけど、小型に戻るのはおる。もうスピードは求めんようになっとるし、長距離ツーリングも無理になっとる。近所の買い物や、日帰りのちょっとしたツーリングだけやったら小型で十分やもんな。

「大型から小型に変えた人の感想はそんな感じね」

 ああそうや。すぐに口にするのはパワー不足とか、振動がとかや。そんなもん大型に較べたら落ちるに決まっとる。そやけど、

「気楽に乗れるようになった点がすべてよね」

 ヒョイと乗れるからな。ヒョイはサイズもそうやけど、装備もあると思うわ。これもそうせいと勧めてる訳やないから誤解せんといてな。大型に乗るとなると、プロテクターも欲しい。重いし、速度も出るからや。そやけど小型やったっら、大型ほどのフル装備は必ずしもいらん。

 いや、した方がエエのんよ。小型かってそれなりにスピードは出るし、事故かって起こる。だからするべきやけど、どこぞのレースに出るんかってのは、かえって似合わんとこがあるぐらいや。

「若き日の最初にバイクに乗った頃に戻る感じだよね」

 同じやない。乗るのは同じカブやけど、中身は別物や。ほいでもそういうバイク・ライフはあると思うわ。まあそうなるのはバイクだけやあらへん。人の一生では他にもようあることやと思うわ。