ツーリング日和8(第2話)二十四の瞳

「見えて来たね」
「あの岬を回り込んだとこに坂手港があるはずや」

 バイクのとこに下りてスタンバイや。ゲートが開いて順番が来て、

「小豆島、初上陸♪」

 これもフェリーを使うツーリングの醍醐味やな。船から下りたら上陸って感じが嬉しいもん。これだけでもテンションが上がるで。さてやけどここは坂手港や。別に坂手港を選んで上陸したわけやのうて、ニャンコフェリーがここに着くだけの話やけど、

「あそこよね」

 坂手港は南に大角鼻が伸びとるけど、坂手から西に田浦半島もあるねん。港からはすぐ北側や。その半島の先っぽの方に岬の分教場がある。坂手からなら十分程や。

「ここなのね」

 明治三十五年に田浦尋常小学校として建てられて、明治四十三年から苗羽尋常小学校の分教場になって昭和四十六年に廃校や。

「映画が撮られたのは昭和二十八年春から一年間だからまだ現役だったのよね」

 そうや、ここでロケも行われたはずやねん。そやけど原作を書いた壷井栄は地名を一切書いてへんねん。そうやな瀬戸内の島の寒村の岬にある分教場ぐらいしかわからん。

「でもモデルにしている可能性は十分にあるよね」

 壷井栄は小豆島の坂手の生まれやねん。分教場を舞台にした時に、故郷に近い田浦の分教場を思い描くのが自然やろ。フィクションやからどこでもエエねんけど、身近にモデルがあれば使うやろ。

「教え子たちが五年生になり本校に通うことになるけど、これも苗羽小学校のはずよね。壷井栄も苗羽小学校の出身なんじゃない」

 これはそうやない。壷井栄は坂手小学校や。今は苗羽小学校と合併してもたが、壷井栄の子ども時代は町内の別の小学校やってん。そやけど、分教場を舞台にすると言う構想は、田浦に分教場が存在していたからやと思うわ。ここから映画村もすぐや。

「へぇ、もう一つ作ったんだ」

 岬の分教所のロケ撮影もやったと思うけど、ずっとロケやってるわけにはいかんもんな。そりゃ、授業の邪魔になり過ぎる。そやから教室のセットを作ってるんよ。そやから映画で出てくる教室シーンはほとんどこっちやろ。

「木下恵介作品よね」

 木下恵介も名監督や。この時期の名監督、大監督言うたら黒澤明が出て来るけど、二人は同期や。トップ監督としてもてはやされとった。

「興行成績的には木下恵介の方が上だったともされてるものね」

 二十四の瞳が製作された昭和二十八年に黒澤も超大作を手掛けてる。

「黒澤の代表作でもある七人の侍ね」

 この辺は映画の性格にもよるけど、黒澤は当初九十日の製作予定だったんやが、そんなもの無視して延長に次ぐ延長、製作費も追加に次ぐ追加を勝ち取り、延々と一年近くかけて撮ってるねん。

「だけどさぁ、女の園はいつのまに撮ったんだろう」

 ようわからんかった。昭和二十九年に木下は三月に女の園、九月に二十四の瞳を公開しとる。発表順からして先に女の園を撮影しとるはずやが、二十四の瞳の撮影期間は昭和二十八年の春からになっとるねん。

「二本撮りだった?」

 ぐらいしか考えられん。どう考えても撮影期間がダブルからな。こんな事が気になるのは公開後の映画の評価や。当時やったっらキネマ旬報が権威があったんやが、

「これは知らなかった。一位が二十四の瞳で二位が女の園じゃない」

 そして三位が七人の侍や。公開時の評価だけやったら木下が黒澤をダブルスコアで勝ったようなもんやねん。そやけどリメイクが繰り返された二十四の瞳はまだしも、女の園なんて今となったらそんな映画があったと知ってるのはかなりのスノブや。おかげで女の園の情報も殆どあらへんねん。

「それを言えば木下恵介の名もあんまり出てこないもの」

 一方の七人の侍の評価の高さは桁外れや。世界でも指折りの名作にされるし、日本であれだけの映画を産み出させた驚異ともされとる。日本映画界の金字塔とも呼ばれとるし、その後の映画に与えた影響も数知れずとしてもエエ。

「未だに日本を代表する映画監督と言えば黒澤明だものね」

 当時と後世の評価が変わることはようある。でもこれぐらい極端なのは珍しいかもしれん。これを理解するには当時の世相を肌で知らんと無理やろな。当時は日本映画の黄金時代とされる。

「テレビが登場するまで娯楽の王様だったよね」

 駄作も多かったが、珠玉の名作も撮られとる。そやけどまず評価の基準が今とはだいぶ違う。まず前提として、

 文芸作品 〉 娯楽作品

 これが重かった。とくに当時の娯楽作品は安価な駄作が多かったから、そうなったのかもしれん。そやな本とマンガぐらいの差があったと言えばイメージできるかもしれん。娯楽作品と分類されてしまった七人の侍はそれだけで評価の足を引っ張られたぐらいや。

「左翼思想も強い時代だものね」

 左翼と言うか極端な平和主義としても良いかもしれん。まあ、これも第二次大戦の結果が生々しい時代やから無い方が不思議や。七人の侍はアクション時代劇とされるけど、それこそ野武士と侍たちの死闘を描いたものや。

「好戦思想のレッテルを貼られると、当時の文化人たちの評価は下がるものね」

 今かってそういうとこはあるけど、文化人には左寄りの思想をもつのが少なくない。思想やから右でも左でもエエようなもんやけど、当時は右が軍国主義、左が平和主義で、文化人言うたら左しかおらんぐらいやった。そやから右的なものは映画に限らず総スカンにされたぐらいや。

 木下作品はガチの文芸やし、二十四の瞳は反戦思想が込められ取る。ここも誤解せんといてや、反戦思想が悪いわけやない。あくまでも七人の侍が好戦思想と見られた逆の位置づけや。当時の評論家が木下作品に傾いたのはわかるねん。

「二人についた差はなんだろう」

 色んな説や論はあると思う。そやからコトリの感想に過ぎへんけど、木下恵介は時代に応じた映画を撮ったんやと思う。ここもより正確には、木下の撮りたい映画が時代にマッチしていたとした方がエエと思う。

 黒澤は逆や。時代にマッチした映画は根本的に肌に合わへんかった気がするねん。黒澤が尊敬しとったんはジョン・フォードやったんは有名やが、溝口健二や小津安二郎的な世界が好きやなかったんちゃうやろか。

 この違いは二人の海外での評価の差にもつながってると思うわ。受賞歴もそやけど、黒澤作品は世界の映画人が、いつかはあんな映画を撮ってみたいと思わせる夢や憧れみたいな位置づけになっとるからな。

「あれかな、黒澤の目指したものはグローバルスタンダードで、木下の目指したものはガラパゴスだったとか」

 結果としてはそうやろ。そやけど、当時の木下も黒澤もそんな意識はあんまりなかったはずやねん。あるのは、自分は映画をこう撮りたいだけだったはずやねん。そうやって進み続けた結果がこうなってるだけちゃうか。

「芸術にはよくあることだよね」

 絵画なんか多いんちゃうかな。大画家と呼ばれているのも、生きている間の評価は低かったのは多いもんな。芸術言うてもトドの詰まりは商売やんか。出来た作品を客が買ってくれんと暮らしていけん。

「フランダーズの犬の世界だね」

 芸術も先進性は求められる。そやけど進みすぎると誰も理解してくれへんし売れへん。じゃあ時代に迎合しすぎると後世の評価は下がる事もままある。

「与謝野蕪村と松村呉春みたいなもの」

 そんなもん誰がわかるか。松村呉春は円山応挙の弟子や。応挙は生きてる間も超人気画家で円山派と呼ばれるぐらい優秀な弟子も多かった。呉春は応挙の弟子として大成功をおさめた画家ぐらいでエエと思う。

 与謝野蕪村も応挙と同時代でこれまた応挙と同じ京都に住んどってん。蕪村は俳人として今でも誰でも知ってるぐらい有名やし、描いた絵もごっつい価値がある。そやけど、蕪村が生きてる間はその絵はそれこそ二束三文の世界やってん。

 今でも呉春の絵はそこそこの価値があるけど、呉春って画家がこの世に存在したのを知っとるのんは余程の物知りや。蕪村と較べるのさえアホらしい。そやけど生きてる間の評価は真逆やってん。

「死んでも名を残せる人自体が珍しいものね」

 そやな。木下恵介は時代を代表する名監督やった。そやけど黒澤明は時代どころか映画を代表する大監督やった。どっちの作品も当時の客は熱狂したけど、名前が残ったのは黒澤明やったぐらいやろ。

 ユッキーと映画村で在りし日の日本映画黄金時代の資料を見ながら、当時を懐かしく思い出しとった。あの頃は映画の黄金時代ではあったけど、子どもが見に行くのは大変やったし、映画館も真っ暗やったから痴漢も多かったんよ。

「というかすし詰めだったじゃない」

 そやった。マルチスクリーンとか予約制の総入れ替えなんて誰も考えてない時代やった。シートもボロいところが多かったもんな。それでもスクリーンに展開される物語に熱狂しとった。あれもまた古き良き時代の記憶やな。