シノブの恋:新婚の愛梨

 愛梨と伊集院さんは結婚式を挙げたよ。シノブも呼ばれたけど、愛梨は綺麗だったな。それにホントに嬉しそうだった。新婚旅行から帰って来て、しばらくしてから愛梨に会ったんだ。せいぜい冷やかしてやるつもり。

 愛梨で気になってたのは、本当に恋人すら作った事がない点。異性の友だちさえ殆どいなくて、伊集院さんしかいなかったんじゃないかと思うほど。そうなると三十四歳までバージンだったことになるけど、まさかね。

    「うん、その、えっと、あの・・・初めて」

 ひぇぇぇ、まさかのまさかだった。あの愛梨が顔を真っ赤にしてた。でもさぁ、婚約してたし、婚約してから交際期間もあるじゃない。普通は最後まで行くよね。

    「なんか手を握って見つめ合うだけで満足しちゃって」

 中学生カップルだって、そこからキスぐらいまではやりそうなものだけど、なんとそこまでだって。こりゃ、コトリ先輩並のじれったい付き合いじゃない。そうなると、

    「ひょっとして式の時がファースト・キスだったとか」
    「うん。すっごい緊張してガチガチだった」

 シオリさんが星野君と結婚した時もファースト・キスを式まで取っていたけど、あれはあくまでも二代目の宿主だったから。シノブがまだバージンなのもそう。単に自分の男を少しでも喜ばせたいだけのもの。そうなると気になって来るのが、

    「スグルも愛梨と一緒でファースト・キッスだって。だから絶対に式の時にしようって」

 げげげ、伊集院さんも童貞だったんだ。そうなると初夜は、

    「それがね、あんな大変なものだと思わなかった」

 神崎工業の御令嬢と、日本の宝と言って良いぐらいの天才研究者の結婚式だから、そりゃ、盛大なものだったのだけど、さすがに式の夜は二人ともクタクタだったみたい。それでもって臨んだそうだけど、

    「スグルがね、途中からハネ・ムーンに行ってからにしようって、言ってくれたの」

 要はダメだったってこと。ハネ・ムーンに行ってからも毎晩頑張ったそうなんだけど、どうしてもダメで、

    「七日目の夜に二人で必死に頑張ったの。愛梨も死ぬ気で受け入れた」
    「痛かった?」
    「あんなに痛いものと思わなかった」

 七晩目でも愛梨はガチガチに緊張してたみたいだけど、なんとかちゃんと結ばれたぐらいかな。シーツがえらいことになったみたいだけど、

    「よくわかんないけど、スグルがすっごく感動してくれたんだ」

 そりゃ、するだろ。キスは初めてかどうかなんて信用するしかないけど、そんだけ痛がって、シーツにしっかり証拠を示せば、もう疑いようがないものね。でも、それだけ痛い目に遭えば、

    「懲りた?」
    「どうして懲りるの。スグルが愛梨を望んでるんだよ。痛いぐらいは気にもならないわ。受け入れられないぐらいなら愛梨は死を選ぶ」

 死を選ぶほど大層なものじゃないと思うけど、痛いのを我慢して受け入れ続けたみたい。

    「今は」
    「だいぶ慣れた」

 ここまで初心な処女と童貞のカップルじゃ、感じるまで時間がかかると思ったけど、このままじゃ、冷かしにならないから、

    「少しは感じた」

 そしたら愛梨は耳まで真っ赤にして、

    「妙なことが起ったの」

 愛梨が言うには体の芯から妙な感覚が湧き出して来たっていうのよね。

    「それって、自分でやった時の感覚に似てた?」
    「自分でって、何するの?」

 これも仰天しそうだったけど、愛梨はセルフでやったこともないそうなのよ。

    「その妙な感覚がドンドン強くなってきて、変になりそうだったの」
    「で、どうなったの」
    「これを感じ過ぎると、とっても恥しい姿を見られちゃうんじゃないかって、怖かったのよ」

 あのね。男とやってる時点で、どんな姿になってるかわかってるの。恥しいもクソもないでしょうが。でも言わんとするところはわからないでもないけど。

    「それでそれで」

 もう茹でダコのように真っ赤な愛梨は、

    「がんばったのよ。がんばる姿を見られるのも恥ずかしかったけど、その先のは、きっと死ぬほど恥しいに違いないって・・・」

 もしそうなったら、伊集院さんに軽蔑されると思い込んでたって言うから呆れた。

    「で、どうなったの」
    「その妙な感覚は、日が経つごとに大きくなっちゃうのよ。愛梨のプライドにかけて、なんとか凌いでたんだけど、あの時はもうどうしようも・・・」

 どうもだけど、感じ始めて三日目ぐらいには臨界点を越えてたで良さそう。でも愛梨は死に物狂いでもう二晩耐えてるんだよね。いくら知らないとはいえ、そこまで耐えるかよ。愛する旦那相手だよ、普通は大喜びでイッちゃうよ。

    「愛梨の体をなにか凄いものが通り抜けて行ったのよ。愛梨はこれで終わってしまったって涙が出たわ。絶対、スグルに嫌われたと思ったのよ。そしたらスグルは優しいの、そうなってしまった愛梨を心から喜んでくれたの」
 こら泣くな。そんなもの喜ぶに決まってるでしょう。イクのは女の喜びでもあるけど、男も女をイカせると満足するのは常識だろうが。そうやってお互いに楽しいところが一致するから、アレするのは面白いし熱中できるんじゃない。


 それにしても愛梨はウブなんてレベルじゃないね。いくらバージンだって、あの歳だよ。あそこまで知識が無いのが不思議過ぎる。中学生どころか、小学生並じゃないか。下手すりゃ小学生の方が知ってるぐらいだよ。

 どこをどう間違ったら、あんな女に育つのが今でも理解できないもの。どこぞのロイヤル・ファミリーの本物のお姫様でも、もうちょっと知ってるぞ。ありゃ、どうみても特別天然記念物級だよ。

 それとだけど、とにかく思い込んだら脇目も振らず命懸けなんだよな。プロポーズの時もいきなり突撃だし、結婚したらしたで、旦那ラブ以外はなんにも考えないのよね。イクのだって自分が気持ちイイかどうかなんて二の次で、

    「あの時に愛梨はわかったの。愛梨がああなるのをスグルはとっても喜ぶって。だから、スグルのために、必ずああならないといけないと努力してる」

 愛梨の関心は愛する旦那が喜ぶかどうかしかないのよね。

    「思うんだけど、一回であれだけ喜んでくれるのなら、もっと回数が増えた方が喜んでくれるはず。愛梨は必ずそうなってみせる。それがどんなに辛くて苦しくとも」

 勝手に体験してくれ。でもこの調子じゃ、次に会ったら連発の話を聞かされるよ。いや、それだけなく意識が吹っ飛ぶのも時間の問題だろうし。

    「それとアレって、夫婦なら毎晩やって普通だよね」

 お勝手にどうぞ。夫婦だから誰も文句言わないけど、結婚式以来ほぼ毎晩で良さそう。それとだよ、そこまでやってるのに、

    「脱がされる時って慣れないものね。ガチガチに緊張しちゃって、いつも震えちゃうのよ。みんなそうだよね」

 そんなわけないだろうが。これじゃあ、愛梨夫婦に倦怠期は当分来そうに無いよね。だってだよ、

    「スグルがね、愛梨と結婚出来て、こんなに幸せなことはないって、毎日言ってくれるの。こんな愛梨にだよ、もう毎日が夢のよう」

 これを目を真っ赤にしながら嗚咽しながらだよ。

    「スグルを幸せにするために愛梨は生まれて来たんだってわかったのよ。そのためにはなんだってする。だって愛梨をこんなに幸せにしてくれてるもの」

 それにしても、あの愛梨がここまで尽くし型とは意外だった。尽くし型って言っても半端じゃないのよ。かならず伊集院さんより早く帰り、三つ指ついて出迎えるって聞いて、シノブの目がシロクロしそうになったもの。いつの時代の話だよ、

    「でもね、でもね、どうしても早く帰れない日があって、これで離婚されると覚悟したのよ」

 されるわけないだろうが、

    「そしたら、スグルは気にもしないのよ。これだけの大失敗をした愛梨を叱りもしないのよ。こんなにやさしい旦那様だって感動しちゃって、もう大泣き。愛梨は世界一の幸せ者よ」
 たったこれだけのことで、感動されて大泣きされた方が、かえって困惑しそうな気がするよ。どこからどう見て、どう聞いたって、ごくごく普通の夫婦生活の一風景じゃない。そんなことで離婚騒動なんて考える方がおかしすぎる。

 朝だってそうみたいで、毎晩それだけ燃えあがっても、必ず伊集院さんより早く起きて、シャワー浴びて、完璧に身支度を整えて、朝食も準備万端整えて、伊集院さんが起きて来るのを、これもまた三つ指ついて待ってるんだってさ。

    「それがね、ある朝、致命的な大失態を犯してしまったのよ」

 なにが致命的よ、単に寝過ごしただけじゃない、

    「その上だよ、スグルが朝食の準備をしてくれてたんだよ。それを見た瞬間に目の前が真っ暗になったもの。もうどんなお詫びをしても許してくれるはずないじゃない」

 どこをどう考えたら、そう思い込むんだよ。

    「愛梨は茫然と立ち尽くしていたの。この世の終りを迎えた時ってこんな感じだと思ったわ」

 そんなもの誰も考えないよ。

    「そしたらね、
    『毎朝、愛梨に用意してもらってるから、これからは交代にしよう』
    これを聞いた時に驚きの余り気が遠くなったのよ。こんなに優しい人がこの世に存在するなんて今でも信じられない」
    「じゃあ、朝食準備は交代制になったの」

 この時の愛梨の目が怖かった。

    「愛梨を見くびらないでくれる。あんな不幸な目にスグルを遭わせるなんて二度とするものか。スグルを幸せにするのが、愛梨の喜び、愛梨の生きることのすべてなのよ」
 おいおい、たかが朝食の準備だぞ。早く起きた方が準備すりゃイイだけじゃないか、そりゃ、好き合ってたから結婚したんだけど、いくら新婚でも、よくここまで舞い上がられるもんだよ。

 一事が万事、すべてこの調子で夫婦生活やってるで良さそう。話の内容はグダグダのノロケなんだけど、それでいて近寄りがたいぐらいの気品はそのままだし、凛としたプライドの高さも変わらないのよ。

 そんな愛梨にここまで一心不乱に旦那ラブされたら、どんな男だってメロメロになるんじゃないかな。難点は、ちょっとどころやなく過剰すぎるところで、そこだけ心配しとく。だってさ、もし伊集院さんがちょっとでも不機嫌そうな顔をしたら、愛梨は首吊りかねないものね。

 それと家に誘われたけどやめといた。伊集院さんと顔合わすのは躊躇いがあるのが一番だけど、本音はどれだけ見せつけられるかわかったもんじゃないってところ。今日は御馳走様でした。なんかこっちが冷かされた気分。

シノブの恋:馬の女神の神髄

    「メンドイやんか」
    「だから競技じゃなく模範演技だけ」
    「馬はどうするんや。甲陵にはクラブのレンタル馬なんておらへんやん」
    「メイウインドを使います」

 予想通りコトリ先輩は渋る渋る。愛梨の希望は会長杯と同じコースを走って欲しいだもんね。

    「あんまり甲陵倶楽部には関わりたくないんや」
    「でも正会員でしょ」
    「あそこはガタガタうるさいとこやし」

 コトリ先輩はたとえロイヤル・ファミリーとの謁見であっても完璧な礼儀作法を振舞えるんだけど、そういう堅苦しい会は好みじゃない。だから皇室主催の園遊会さえ出たことがないぐらい。

    「神崎愛梨にそこまでやったらんでもエエやん。敗れた恋敵やんか」
    「今は友だちです」

 実はシノブもコトリ先輩の本当の本気を見てみたい。団体戦の時もかなり気合を入れてたけどユッキー社長に言わせると、

    『馬が馬だし。それに借り物だから大事に扱わないといけないし』

 今度の模範演技も借り物なのは変わらないけど、メイウインドに乗るとどれだけ違うかは興味あるもの。渋りまくるコトリ先輩だったけど、そこにユッキー社長が口を挟んでくれて、

    「コトリ、シノブちゃんのお願いだよ」
    「それはわかっとるけど」
    「これだけシノブちゃんが頼んでるんだよ」

 顔中が渋面になって、

    「今回はこんなんばっかりやないか。団体戦の時も無理やり出場させられたし」
    「そう言わないの。小林社長も喜んでくれたじゃない」
    「まあ、そうやけど」

 そこから三時間ぐらいかかって、

    「そこまで言うんやったら、一回だけやで」

 甲陵倶楽部の準備が整って愛梨がメイウインドを曳いて出て来たんだけど、コトリ先輩はいきなりヒラリと跨り、

    「サッサと済ますで」
    「コトリ先輩、ヘルメット」
    「いらん。見たいんやろ。コトリの本当の馬術を」

 言うなりいきなり駆け出したのにビックリ。そのまま障害コースに。あれはギャロップ。あんなスピードで飛んだらと思ったら、スピードをまったく落とすことなく次の障害へ。なんか障害が異様に低く見える。いや、障害が低いんじゃなくて、コトリ先輩のジャンプが高いんだ。

    「あれがコトリだよ」
    「なんてスピードとジャンプの高さ、切れ味・・・」
    「あれが出来なきゃ、魔王の餌食だったんだよ」

 あっという間に戻ってきて、ヒョイと飛び降り、

    「エエ馬や。コトリが乗った中でも指折りやと思うで」

 手綱を愛梨に渡すと。

    「済んだ済んだ。帰ろ」

 コトリ先輩が古代エレギオンで馬の女神とも呼ばれていたのは知ってたけど、騎馬隊を作り上げただけではなく、馬術もダントツだったんだ。ダントツなんてもんじゃない、あれこそ女神の馬術。愛梨も、

    「あんな走りされたら、障害馬術が根底から変わってしまう」

 そしたらユッキー社長が、

    「コトリはどんな馬でも即座に乗りこなし、その最高の能力を引き出すことが出来るの。メイウインドはイイ馬だけど、あそこまで走らすことは出来るってこと。愛梨さんも精進しなさい」
    「あ、はい」
    「オリンピック、期待してるわ」

 帰りのクルマの中で、

    「コトリのあんな走りは二度と見れないかもしれない」
    「どういうことですか」

 あそこまで全速力で走らせるとアングマール戦の悪夢が甦るからだって。だからあれだけ乗馬クラブに行くのを渋ったんだ。それにしても、あれだけの速度で走らせても、魔王は追い迫って来たっていうから驚き。

    「馬の差が大きくてね」

 エレギオンの馬より、アングマールが北方騎馬民族から調達した馬の方が大きかったんだって。次座の女神の馬はエレギオン随一だったそうだけど、

    「クソエロ魔王の馬はとくにデッカくて、化物じみてたよ。よく乗りこなせるもんだと敵ながら感心するぐらい。その馬はデカイだけじゃなく、とにかく早くてさ。コトリが武装外して全速力で逃げても追いつけるぐらいだったんだよ」

 平坦地の直線勝負じゃ敵わないから、生き延びるためには、荒れ地に逃げ込み、あの曲芸のような馬術を使わなければならなかったんだ。

    「でもわたしも一度ぐらい見たかったんだ」
    「見たことないのですか」
    「誰もいないんじゃないかな。魔王も死んじゃったし」

 コトリ先輩があそこまで走らせると、誰も付いていける者はなく、唯一見れたのは魔王だけじゃないかとしてた。つまり味方でさえ見ることが出来なかったで良いみたい。

    「あれは女神の力を使ってるのですか」
    「使ってたら、あんなもんじゃ済まないよ。魔王との直接対決の時には女神の力がかなり封じられてしまってたからね」
 馬の女神が駆使するのは、生き延びるために編み出された実戦馬術そのもの。エライもの見せられた。それにしても人相手には女神の力ってホントに使わないんだね。使ってたら、団体戦も楽勝だったのに。

シノブの恋:これも結末

    『カランカラン』
    「ハルカお待たせ」
    「遅いぞ愛梨」

 シノブが待ち合わせしてた相手は神崎愛梨。会長杯で戦ってから、すっかり仲が良くなっちゃって、今はお友だち。そんな愛梨から伊集院さんとの本当の関係を聞きだしたんだ。

    「中学の婚約話の時は完全に怒りまくってた」

 そりゃそうだよね。中学三年生に、いきなり見ず知らずの男と婚約しろなんて言われたら怒るわよね。

    「だってさ、転校までさせられたんだよ」

 愛梨は小学校からずっと海星。そのままエレベーターで海星高校、さらに海星大学に進学するはずだったのに、いきなり県立校を受験させられたんだって。理由は婚約予定者と同じ高校が良いからだってさ。学校が同じになったらその婚約予定者の顔を見ることになるんだけど、

    「さすがに興味はあったよ」
    「で、感想は?」
    「最悪」

 わかる、わかる。顔もスタイルも並以下。運動が出来るわけでも、楽器が弾けるわけでもないし、クラスの人気者でもない。勉強こそ出来るものの、後はオタクの暗さをプンプン漂わせたんだって。あはは、今と一緒か。

    「そういうタイプは、あの年代じゃ人気ないもんね」
    「そうなのよ。どうして、あんなのと思ったもの」

 こんな男と婚約させられて、結婚までさせられるのは真っ平と思った愛梨は、婚約話をぶち壊すために、まず家で高慢なワガママ姫を演じたんだってさ。中学生までの愛梨はどんなんだって聞いたら、

    「そりゃ、お金持ちのお上品な、心優しいお嬢様だったのよ」

 愛梨曰く、やってみると妙に嵌っちゃって、家だけでなく学校でもそのキャラで押し通したらしい。

    「だいたい、男ってそういうキャラ嫌うじゃない」

 愛梨は大学進学の時もゴネまくったそうなのよ。親は港都大を勧めたそうだけど、愛梨が強引に進学したのは、

    「ルプレヒト・カール・ユニベルシテエト・ハイデルベルク」
    「それってドイツの」
    「日本にいたくなかったんだ」

 通称ハイデルベルグ大学と呼ばれるけど、ドイツ最古の伝統を誇る名門校。よく入れたものだ。

    「そこで馬に熱中しちゃったのよ」

 愛梨は子どもの時から甲陵倶楽部で乗馬を習ってたんだけど、本格的になったのがドイツ留学時代で良さそう。もっとも馬術でドイツ留学がしたくて、ドイツ語の勉強はしてたみたいだけど。

    「伊集院さんとは」
    「馬つながりでね」

 卒業して帰国してから、市内の乗馬クラブの親善試合に頼まれて出場した時に再会。

    「あははは、六年ぶりでしょ。お互い誰だったかをすっかり忘れちゃっててさ」
    「今度の感想は」
    「悪くないぐらいかな」

 そこから恋愛関係に進んだかだけど、

    「ただの異性のお友だち」
    「じゃあ、婚約話の再燃は?」
    「あれはね・・・」

 日本に帰った愛梨には次から次へと結婚話が持ち込まれたそう。これは愛梨が美人であることも理由だけど、それより神崎工業と婚姻関係を結ぶ政略がらみがプンプンするものばかりだってさ、

    「お嬢様稼業も大変ね」
    「そうなのよ」

 変な結婚話を蹴飛ばし続けていたんだけど、だんだん蹴りにくくなったで良さそう。そりゃ愛梨も三十歳になってたからね。そこに断り切れそうもない話がセッティングされちゃったみたいで、

    「スグルに頼んだの」

 既に新進気鋭の研究者となっていた伊集院さんに仮の彼氏になってくれって。こんな立派な彼氏がいるという理由でなんとか断ったそうだけど。

    「そしたらね、今度は神崎と伊集院の家が盛り上がっちゃって、婚約話が蒸し返されちゃったのよ」
    「もてる女は辛いね」
    「神崎の看板付きだからね」

 困った二人なんだけど、

    「スグルが言うんだよ、不仲説を流そうって。愛梨は止めたんだよ。でも、気分転換にもなるからって」
    「それが伊集院さんが研究を中断した理由?」
    「すぐに話は収まるはずだったんだけど」

 愛梨はこれに合せるようにドイツに一年間の馬術留学。予定では日本に帰った頃には婚約話は終ってる計算だったんだそう。

    「それがね、なかなかしつこくて」

 仕方がないから、もう一回半年の馬術留学したんだってさ。

    「そんな時にスグルが出会ったのがハルカだよ」
    「でも・・・」
    「愛梨もまさかだったんだ」
    「やっぱり」

 愛梨も自分の鈍さを悔やんでた。

    「いくら友だちでも、スグルが一時でも研究を中断した意味を考えるべきだった。それにだよ、愛梨から逃げるフリだけだったら、それこそ海外に研究の拠点を移せば良いだけじゃない。スグルが研究者として、どれだけ優秀かは愛梨だって良く知ってたはずなのに」

 だから伊集院さんは神戸から動かなかったんだ。

    「スグルが堅物なのは知ってるでしょ。だから恋愛も思いっきり不器用でさ、愛梨の手も握った事がないぐらいなの」

 それはシノブにもわかる。

    「そんな堅物なのに、愛梨とハルカの二人を同時に愛してしまってさ、アイツ極限まで悩んでたみたいのなのよ」
    「愛梨は結局どうなの」

 愛梨はしばらく考えてた。

    「中学の時に婚約話が出てから、ずっとスグルがいたんだよね。白状しとくと誰も恋人は出来なかったんだ。愛梨もスグルのことは言えないかもね。恋愛は不器用なんだよ」

 かもしれない。会長杯の時のフェア精神は立派だったけど、裏返せば強すぎる正義感というか、潔癖感がありそうだものね。単にプライドが高いでもイイけど、あれだけ強いと男も近寄りにくいかも。

    「やっと気づいたんだ、再会してからずっと好きだったのをね。愛してるんだスグルのことを。そしたらね、生れて初めてジェラシーを感じたんだ」
    「だからハルカを会長杯に招待したの」
    「デュエロで叩き潰してやろうと思ってね」

 こりゃ、ユッキー社長並のツンデレだ。

    「でもね、ハルカと会ったら気が変わった。なるほどスグルが魅かれるはずだってね」

 ありゃまあ。

    「スグルの奥さんに相応しいのはどっちだろうって考えたんだけど、愛梨よりハルカの方が良いとしか思えなかった」

 ここまで愛梨のフェア精神は強いんだ。

    「そんなことないよ」
    「だからせめて馬だけは勝ちたかったんだ。勝った後に、
    『あの程度の男が欲しいならくれてやる』
    こんな捨てセリフを残して去って行ってやろうってね」

 愛梨の目に涙が。好きなんだ、愛してるんだ。なんだかんだと言いながら、愛梨は伊集院さんを待ってるんだ。

    「告白したの」
    「まさか。愛梨じゃスグルを幸せにできない」

 このツンデレ女め、素直にならんかい。

    「好きな男がいたら、奪いに行くものよ。愛梨は好きなんでしょ、伊集院さんと結ばれたいんでしょ。相手を幸せにしたいと思うのなら、そうするように努力するのよ。やりもしないで逃げてどうするの。それでも女なの。伊集院さんは今でも待ってるよ」

 愛梨の涙が次々と、

    「ハルカはどうするの」
    「愛梨が行かないなら奪うわよ」
    「渡したくない」
    「じゃあ、行きなさい」

 この後の愛梨は凄かった。その日のうちに伊集院さんを呼び出していきなりプロポーズ。戸惑う伊集院さんを押し倒すように口説き落として、そのまま自分の家に連れて帰ったって言うから驚き。両親の前で、

    『愛梨はスグルと結婚する』
 こう宣言しちゃったそうなのよ。婚約話自体は前からあったから、後はトントン拍子。正式に婚約となり、伊集院さんは神崎工業の寄附講座の特任教授に。伊集院さんが研究に復帰したのはニュースにもなってたものね。


 それにしても不器用な恋。中学・高校時代は置いといても。再会してから十二年じゃない。伊集院さんは愛梨がずっと好きだったんだよ。好きだったからこそ、仮の恋人を引き受けただけでなく、研究の中断までしてるんだ。でも待ってるだけ。

 愛梨も愛梨だよ。自分が伊集院さんを愛していることさえ気づいてないんだよ。その証拠に結婚は愚か、恋人さえ作ってないじゃない。何かを待ってたんだろうけど、その何かさえわからず待ってたんだよね。そんな愛梨からのお願いが、

    「一度だけ勝負させて欲しいの」
    「またやるの」
    「ハルカじゃない、月夜野副社長と」

 団体戦の時のビデオを見て驚嘆したそうなの。

    「愛梨もヨーロッパの大会を転戦したけど、あれほどの名手は見たことがないのよ。それも貸与馬じゃない。馬の質だって、あれぐらいなのに、あそこまで乗りこなすのは神業としか思えない」

 まあ神の業なのはそうなんだけど、

    「副社長は馬での勝負は好きじゃないのよ。だから勝負じゃなく模範演技ならやってくれるかもしれないよ」
    「それでもイイからお願い」
    「がんばって見るけど、あんまり期待しないでね」

シノブの恋:ジャンプ・オフ

    「コトリ、今さらコース変更ってなによ」
    「そういうルールらしいわ」

 でもこれで有利になったかもしれん。森のコースは結構な直線があるから、あそこでスピードに乗ればシノブちゃんは完全に目覚めるかもしれん。ほほう、ジャンプ・オフは先攻後攻が入れ替わるんか。

    「シノブちゃんが」
    「ついにここまでなったか」
 四座の女神は極度に集中するとホンマに輝くんや。なんであないなってもたか後でユッキーと首ひねったんやけど、どっかでミスったんやと思てる。今は昼間やから目立たへんけど、かなり輝いてるで。

 まずは馬場からか。今日五回目やけど、どんどんスムーズになっとるわ。馬場内最後のトリプル・コンビをクリアして、森のコースに突入や。観客席からは見えにくくなるけど、ここの馬場はスコアボードがヴィジョンに変わるんや。贅沢なもんやな。

    「シノブちゃんのスピード」
    「ああ、あれや、ああなったシノブちゃんはやるで」
 あれはキャンターじゃない、もうギャロップや。そうや、その速度のまま飛ぶんや。そうや、その調子や。まだまだ加速するで、これぐらいの障害やったらギャロップで全部飛べるんやから。

 シノブちゃんはテンペートを全速力で走らせてる。これこそがエレギオン馬術の神髄、四座の女神の馬術なんや。ありゃ、神崎愛梨がゴールのとこに馬乗って出て来たけど、なにするつもりやねん。

    『フィニッシュ』

 あれれ、神崎愛梨が馬降りたで、

    「夢前さん、あなたの勝ちよ。私とメイウインドじゃ、あそこまでの走りは無理。走るまでもないわ」
    「ありがとう。ではデュエロの勝者として神崎さんに言っておくわ。恋の勝負と馬の勝負は別よ。欲しければ奪いに行くのが恋よ」
    「そのセリフ、私が言う予定だったんだけど、謹んで受け取るわ」
 その後に表彰式。そしたらクラブハウスからデッカイ金杯が出てきて、シノブちゃんにホンマに授与贈呈された。そう言えば授与する理事長の顔が強張ってた。責任問題は確実やもんな。

 ほいでやけどコトリも金杯持ってみたけど、重いのなんのって二十キロどころやないで。そのまま金杯抱えて北六甲クラブに帰り、大祝勝会。小林社長も、奥さんも、娘さんも大喜びしとった。

    「北六甲クラブの栄光の日や」
    「また勝ったのよね」
    「そうや、この金杯見てみい」

 どうでもエエけど、金杯使い過ぎやろ。最初にシノブちゃんが日本酒入れて飲んだけど、大相撲の賜杯やないっちゅうねん。その後もビールや焼酎ドンドン入れて、ひたすら回し飲みやんか。コトリももちろん飲んだけど。それだけやあらへんかった。しばらくしてからクラブに行って食堂入ったら、

    『あの金杯で乾杯』

 こんな大きな貼り紙してあって、カネとって使わせとった。これが結構な人気みたいで、

    『まだ金杯、空かへんか』
    『こっちはまだか』

 こればっかりは甲陵倶楽部さんに悪い気がしたわ。だってやで、甲陵倶楽部にあった時は表彰式にさえ持ちださず、理事長室に大事に飾ってあったんやで。あん中にホンマに酒入れて飲むなんて考えられへん扱いやったのに。

    「エミちゃん、次はコトリのとこやけど、中身はビールで頼むわ」
    「は~い、三番テーブルさんの金杯、ビールです」
 所有者はシノブちゃんやから、貸出料取ってたわ。ちゃっかりしてる。

シノブの恋:決勝

    「コトリ、どう見る」
    「エエ勝負やで。シノブちゃんも神崎愛梨もまだ余裕残しとるから、三十秒台の勝負は確実やな」

 コトリも神崎愛梨とメイウインドには驚いてる。ユッキーと無理してテンペート買っといて良かったわ。あん時はルナを馬の話に引きずり込んで、

    『馬術に使うんやったら、やっぱりハノーバが一番やな』
    『なにを仰いますか。セルフランセこそ世界一』

 こうやってフランス至上主義者のルナを挑発してテンペートを紹介させ、ユッキーと二人がかりで口説き落としたんや。ルナがどんだけ渋ったか。これは内緒やけど、最後にフランス大統領まで動かしたんや。

    「シノブちゃんに良く合ってるね」
    「そりゃ、リル・ガルやで」
 リル・ガルとは大きな風、嵐の意味もあるけど、四座の女神の愛馬の一頭。あの馬はホンマに気性が荒くて、コトリでさえ乗りこなすのに往生したぐらいや。それが四座の女神が乗るとピタッと納まるんよね。ありゃ、相性としか言いようがあらへん。

 あの頃のエレギオン騎馬隊は悍馬を珍重しとってん。馬が小さいから気性の荒さで補おうぐらいかな。そやけど悍馬を乗りこなすのは大変やってんよ。振り落とされて大怪我した奴は仰山おったわ。そんな中で四座の女神の乗りこなし術は卓越しとった。リル・ガルでさえ四座の女神にかかると猫みたいに大人しくなったぐらいやねん。

 テンペートはリル・ガルに較べたら遥かに大人しいけど、馬術用にしたらチト荒い方や。その点を突きまくってルナにウンと言わせたようなもんやけど。もっともあれぐらいの荒さなんてシノブちゃんには感じもせんやろけどな。

    「でもシノブちゃんは全開の感じになってないね」
    「そこら辺が勝負の鍵になるやろけど、このコースじゃ難しいやろ」
 エレギオン馬術の訓練は馬場での障害飛越より、今ならクロスカントリー。それもホンマのクロスカントリーで、道なき道を突破する感じや。それが実戦で求められる馬術やからな。

 四座の女神の馬術の真骨頂は豪快さ。荒馬を自由自在に操り、どんな悪路でも平地を行くように駆け抜ける姿はエレギオン馬術の神髄とまで言われたんや。あれが甦ってくれたら誰にも負けへんはず。

 そうやねん。本気の四座の女神のスピードはあんなもんやないんよ。あの上の加速があってこそのものやねん。まだ上品に乗り過ぎてる。とは言うものの、あんな狭いとこじゃ、あれ以上の加速は難しいやろな。

 先攻は神崎愛梨か。これが現代馬術のワールド・クラスやと思う。上手いもんや。華麗さと力強さを併せ持っとるわ。ジャンプは高いし、中間疾走もスピードを殺さんようにしとる。メイウインドも噂に上がるぐらいの馬なんもようわかる。

    『三五・六六秒』

 会場も大歓声や。三十秒台は予想しとったけど、後半やなく半ばで来るとは、さすがは今度のオリンピックのメダル候補の実力やろな。

    「シノブちゃんならだいじょうぶよね」
    「五分の勝負やな」

 シノブちゃんも気合入っとるわ。このコースも四回目やから、スピードの乗りがちゃうわ。シノブちゃんの飛越は軽やかやとは言えんけど、豪快そのもの。だんだん昔の感覚が戻って来てるんや。もうちょっと、もうちょっとやねんけど。

    『三五・六六秒』

 えっ、なんやて同タイムやないか。

    「コトリ、こんなことって」
    「珍しいな」
 百分の一秒まで計測して同タイムなんか滅多にあらへんで。会場も興奮の坩堝や。


 えっ、同タイムだって。勝ったと思ったけど、足りなかったみたい。次は負けない。審判長が出てきて、

    「同点、同タイムにより十分後にジャンプ・オフを行う」

 休憩時間はここの慣例により対戦相手と同席。

    「さすがは夢前さんとテンペートね」
    「神崎さんとメイウインドこそ」

 ここで意外な提案が。決勝の前に二人の恋をデュエロの条件にしてたんだけど、

    「ジャンプ・オフですが、本来のコースでやりませんか」
    「本来とは森のコースも含めるってことですね。でもジャンプ・オフは同じ条件でやるはず」
    「原則はね。ただしデュエロとなれば対戦者の意志で変えられます」

 あれだけフェアにこだわった神崎愛梨がなぜ、

    「夢前さん、同じ条件なら私が有利だからです。あなたの走りは障害飛越のものじゃない。クロスカントリーのものです。その代り、このコースは私もメイウインドも良く知っている。これで五分です」

 ここまでフェアにこだわるのか。

    「わかった。それでやりましょう」

 神崎愛梨とシノブは審判席に、

    「ジャンプ・オフを元のコースでやるだって。そんなことは・・・」
    「審判長、これは会長杯であり、デュエロです」
    「デュ、デュエロか・・・ならば拒否できない」

 審判長は係員に指示を下し、

    「ジャンプ・オフは対戦者がこれをデュエロとしており、両者の合意により森のコースを含むものに変更します」

 コースは馬場内の通常の障害を飛び越えた後に、森のコースに入るんだけど、これが約三キロメートル。その間に二十の各種障害が設けられており、再び馬場内のゴールに飛び込むことになる。

    「夢前さん、デュエロの結果は対戦者の誇りに懸けて守るものになっています」
    「わかった」
 シノブは神崎愛梨に勝ちたい。恋の勝負だけじゃなく、騎手としての神崎愛梨とメイウインドに勝ちたい。もう余計なことは考えない、思いっきり集中してこのレースに臨む。