ツーリング日和(第33話)飼いならされた時代

 あの二人だがコトリさんが月夜野社長、ユッキーさんが如月副社長だった。如月副社長はまだしも月夜野社長の若さは驚愕ものだ。加藤も、

『そういう話は聞いてたけど、見惚れてもた』

 二人とも息を呑むような美人ではあるが、月夜野社長は五十歳を超えているんだぞ。だが世間で良く言う美魔女じゃない。昼の光の中で見ても美少女で二十代の如月副社長とどう見ても同年代。

 エレギオンHDには創業時から四女神と呼ばれる女性のトップ・フォーが君臨し、創業時の四女神は既に全員亡くなっているが、その後継者もすべて女性で、なおかつ歳というものをまったく取らないと言われている。

 オレも都市伝説ぐらいに思っていたが、実物をあれほど近いところで長時間見たのだから都市伝説ではない。間違いなく歳を取らない女神は存在する。それよりもっと不思議と言うか、違和感があったのは昔のことを知り過ぎている。

 知識として知るのは記録を読めば可能だが、あの話しぶりは知識だけとは到底思えなかった。実際に見て、実際に触れて、バイクなら実際に乗った者にしか語れないとしか思えない。それぐらいの臨場感が溢れていた。加藤は、

『エレギオンの女神は不老不死とも言われてるけど、ホンマにそうやと思てもたぐらいや』

 不老不死などあり得るわけがないが、月夜野社長に不老を見てしまい自信がなくなったぐらいだ。それと話に聞く怖さはなかったが、

『それはちゃうやろ。石鎚の走り屋連中の怯えようを忘れたんかい』

 そうだった、そうだった。あの連中がその場だけでなく、今でも怯え切っているからな。チームも解散して、今では平和にツーリングをやっていると聞いて驚いた。

『女神は信じた人に対して恵みを与えるって話かもしれんな』
『だったら、宿代だけじゃ寂しいな』
『アホ言え・・・』

 加藤が言うには、オレたちを信じたからこそ接近し、認めたからこそ、あのバイクの秘密をあそこまで教えてくれたはずだとしていた。その上、試乗までさせてくれたのは半端な厚意じゃないとした。

 たしかにそうで、オレたちの事を避けたいのなら、宿ぐらい簡単に変えられたはずだ。バイクの謎も話してくれなければ永遠にわからなかったはずだ。それだけじゃない、その気になれば、吹けば飛ぶようなオレたちのようなユーチューバーなど、社会的に抹殺するのは赤子の手を捻るより容易のはず。

『惚れられたとか』
『おう、抱いてもエエとまで言ってたやんか』

 あの言葉を信じて抱いていたら・・・あそこまで酔わされたら無理だったがな。まあ言葉の遊びだが、なぜか好意を持ってくれたのだけは間違いない。ここは敵意をもたれなかったから、命拾いしたのかもしれない。


 今から考えても夢のような時間だったが、あの二人の女神はオレたちに何かを伝えたかった気がする。バイクの正体をこれ以上は追うなを伝えたかったのもあるだろうが、それだけならわざわざ会って話までする必要はないはずだ。

 オレたちに伝えたいのならバイクについてのはずだ。そりゃ、オレたちに政治や経済の話をしたところで意味がない。いくらそれでオレたちを動かしたところでなんの力にもならないからだ。

 バイクを取り巻く環境は甘くない。はっきり言わなくとも日本のバイクのマーケットは縮小の一方だ。メーカー的には海外輸出でカバーしているが、海外の主力は実用バイクだ。これは日本でもそうだ。

 だがクルマよりはマシとは思っている。クルマは完全に飼いならされてしまい、実用品としての存在価値しかない。それが全部悪いとは言わないが、月夜野社長はこう言っていた。

『つまらんやん』

 バイクはクルマと較べるとシンプルな乗り物だ。自転車にエンジン付けて走らせたのが原型のはずだ。実用バイクも作られたが、クルマに較べて安価だから、若者が飛びついた時代がある。

 そうだあのバリ伝の時代だ。ところが日本では暴走族の問題が過度に重視され過ぎて、抑圧というより弾圧が繰り返されたとなっている。その結果として、世界一のバイク生産国であるにも関わらず、実用バイク以外は目の仇にされてしまった。

 日本の暴走族排除が何をもたらしたかだが、若者をバイクから遠ざけただけでなく、バイク文化さえ貶めたと考えている。バイクのレースなど暴走族の成れの果てがやっているヤクザなスポーツぐらいの認識だ。

 だが欧米のバイク文化は違う。バリ伝にもあったが、WGPのライダーの社会的地位は高く、誰もにリスペクトされる存在だ。だったら欧米に暴走族もどきがいないかと言えばそうではない、これまたバリ伝にもあったピレネーの賭けレースだ。

 暴走族が好ましい存在だとはオレも思わないが、それを含めて許容するのがバイク文化だ。これはバイク文化だけの特異な話じゃない。オリンピック種目にもなっている柔道や、空手だって、これを習得して悪用する連中は必ず一定数は存在する。悪用する連中がいるから空手や柔道の撲滅運動など誰も考えないはず。

 バイク文化への日本の姿勢こそ特異すぎたと思う。あれは頂点のレーサーの地位を高めることが必要だった。それを叩き潰した結果としての今があると思っている。そうだ、そうだよ、だったらあきらめるかの話だ。

 月夜野社長はバイクもまた飼いならされてしまうのを憂いている気がする。謎のバイクを作った経緯を聞かせてくれたが、あんなバイクになってしまったのではなく、最初からあんなバイクにする気だったとしか思えないんだよ。

 あのバイクのコンセプトはバリ伝の時代のものだ。ありったけの最新技術を詰め込んで、ただ走ることだけを考えたバイクだ。尖がりすぎているために、メリットの引き換えにデメリットもまたテンコモリあるってことだ。

 バリ伝の時代はメリットが何より重視され、デメリットは腕で乗りこなすのがバイク乗りの誇りだったのだ。ケニーのYZRも、フレディのNSもそうだったはず。常人ではとても乗りこなせないようなバイクで、WGPの覇権に鎬を削ったからこそリスペクトされ伝説になったのだ。

 今はどうだ。デメリットを打ち消すことがコンセプトだ。これも一概に悪いと言えないが、メリットを平気で犠牲にしてまでデメリットを打ち消しているだけじゃないか。デメリットを打ち消した末にあるのはなんだ。今のクルマ同然に自動運転で整然と走るのが理想なのか。

 バイクは違う、絶対に違う。バイクは飼いならされてはならない乗り物だ。そんなバイクに誰が乗る。飼いならされたバイクでは、この世から消え去るだけとしか思えない。その流れを変えるのがバイク乗りの使命のはずだ。

 オレにしろ、加藤にしろ、しがないモト・ブロガーだ。しがないとは言えモト・ブロガーだ。ただのバイク乗りより声は大きいはずだし、オレたちが声を上げずに誰が上げるだ。月夜野社長はそれを託したかったのかもしれない。キリスト教では、

『人はパンのみに生くるにあらず』

 こうなっている。パンとは物質的なもの象徴で、精神的な充実も必要ぐらい受け取る。もっとも聖書では、この言葉に引き続いて、

『神の口から出る一つ一つの言葉による』

 これが入ると説教臭くなる。だがな、神ってなんだ。キリスト教ならイエスか。イスラム教ならアラーか。仏教なら御仏か。だがな月夜野社長だってエレギオンの女神だ。どの神の言葉を聞こうがオレの勝手だ。加藤も、

『キリストはんや、お釈迦さんには会うた事もあらへんけど、エレギオンの女神には会うて話までして、メシまで奢ってもろてるやん。誰を信じるか言われたら女神しかおらへん』

 オレもそうだ。信じられる神は女神だ。なにが出来るかは、これからだが、これこそがオレの一生の目標になる。

『月夜野社長や如月副社長はバリ伝の時代を肌で知ってるな』

 そんな気がする。だがバリ伝の時代のそのままの再来ではないはずだ。いかなる時代も過ぎてしまえば、二度と取り戻せない。取り戻したいのは熱気のはずだ、どう言えばわからないが、今の時代にあのバイクへの熱気を取り戻したいはずだ。

 バイクの魅力はレースだけじゃない。ツーリングだけじゃない。それも含めて自分で風を切って自由に走らせることだ。自動運転が欲しければクルマでも、電車でも乗れば良い。そうじゃないのがバイクだ。

 飼いならされる時代はいらない。バイクこそ自由へのツールなのだ。誰が羊になるものか、狼の気概こそ若者の特権だ。