日曜閑話15

今日のお題は「本能寺」。でかいテーマなので場合によっては明日なり来週に続くになるかもしれませんが、とりあえず初めてみます。

本能寺といえば信長と光秀なんですが、光秀像は後世の創作や憶測が多くどれが真実であるか見分けるのが非常に困難になっています。そもそもになりますが、信長と光秀を結ぶ一つの線である斎藤道三すら有名な割りに経歴がハッキリしない人物です。有名な説では光秀の叔母が道三の正室であり、その娘が信長の正室濃姫であるというのがあります。つまり従兄弟の関係というわけです。

光秀が明智の一族であったのは確かと考えますし、明智一族が道三に最後まで味方して滅亡したのは信じてよい史実と考えていますが、光秀と濃姫が従兄弟かどうかを確認できる資料はないかと思われます。さらに言えば濃姫は歴史上では有名ですし、信長の正室ではありましたが、具体的にどういう役割、もう少し言えば信長にどういう影響を及ぼす地位にいたかを示す資料がありません。分かっているのは子供が出来なかったことで、当時は正室とは言え子供が出来ない女性の地位は微妙だからです。

時代小説には信長と濃姫は睦まじく描かれている事が多いですが、これも何の資料の裏付けも無かったかと思います。道三健在の間は強大な隣国からの正室として大事にされたかと思いますが、道三滅亡後の地位は実家の後ろ盾及び婚姻による同盟関係の消失により、これも地位低下を起こしたと考えるのが妥当です。もっとも信長の美濃攻略に当たっては「道三の譲り状」が大義名分の一つとされていますから、そういう意味での利用価値は残っていたとは考えます。

時代小説では濃姫と光秀が従兄弟関係で光秀もその血縁関係で道三に可愛がられたになっています。これも有名な話ですが、実際のところどうなんでしょうか。


少し道三を考えて見たいのですが、最近は道三二代説が有力のようですが、やはり英雄と考えるのが妥当です。戦国期でも道三時代はまだまだ室町体制が濃厚に残っています。美濃は土岐家が歴代支配していますが、これを奪取するのは当時としては明らかな反逆です。それを成し遂げて、なおかつ美濃支配を強固に行なって国人衆を従わせた手腕は傑出しています。

ここで道三の美濃支配のカラクリが分かっているようでサッパリ分からないのですが、どうもなんですが手法として主君であった土岐頼芸を放逐する時に頼芸の血を引く義龍を利用したと考えるのが妥当です。ここも時代小説では頼芸の愛妾との微妙な関係が書かれていますが、もっとドライに養子として貰い受け、道三支配が強くなってもその後継者は土岐家の人間であると言う宣伝を行い美濃の国人衆を安心させたと推測します。

戦国期に入りかけていますから、美濃の国人衆としても有能かつ強力な指導者が待望され、さらに忠誠を尽くしていた土岐家との関係を納得させる人物が求められていたと考えます。道三自身は土岐家の一門ではありませんし、国人衆でも無いよそ者です。よそ者が国人衆の支持を集めるためには、旧支配者の土岐家の血統を迎え入れる必要があり、迎え入れて後継者にしておけば道三支持が広がる計算です。

そういう道三と明智氏の関係はどうだったかもおもしろいところです。明智氏は伝承を信じるなら土岐家の一門です。これは光秀も出自を語るときに頻用した形跡があります。しかし明智氏が道三と義龍が争った時には道三と一族の運命をともにするぐらい加担しています。道三と義龍の争いは血統的には「土岐家 vs よそ者」の構図です。この構図であったから美濃の国人衆は土岐家支持のために義龍に多く加担したと考えています。

明智氏も土岐の流れを汲む家ですから、脊髄反射的には義龍サイドに加担するのが妥当です。戦略的にも義龍側に加担する兵力が圧倒的でしたから、家の存続のために義龍に味方する方が有利ですし、名分として土岐家の一門ですから義龍についても何の文句も言われません。それでも加担したのは道三側です。

なぜ明智氏がそこまで道三に加担したかは謎です。これを明らかにする資料も無いと思います。無いために時代小説では道三と明智氏当主との個人的友情に重きを描いていたりします。個人的友情も無いとは言えませんが、もうちょっと戦略的理由があったんじゃないかと考えています。道三支配は土岐家からの権力奪取が基本です。道三が勢力を伸ばしたのは土岐家との血縁関係の薄い国人衆であったと考えます。

道三は国人衆を味方にする一方で土岐家とのつながりを作ります。一つが義龍を養子にする事で、もう一つは正室に土岐家の血縁の者を迎えることです。ここで土岐家の血縁の正室でもあまりに有力な家では邪魔になるので、邪魔にならない程度の規模の家である必要があります。明智氏はどう考えても大きな一族では無さそうなので、道三はこれに利用価値を認め、明智氏も道三と結ぶ事により家の興隆を図ったと考えます。

明智氏は道三と婚姻関係を結ぶ事により美濃国内に道三シンパの宣言を行なったと事になり、道三と義龍が争った時には義龍側に走れない状況になっていたと考えます。土岐家の一族ではありますが、道三シンパを宣言している手前、義龍側につくことは裏切り行為になる構図です。こういう構図があった上で、個人的友情も絡んで道三と運命を供にしたと考えています。

推測の上で話が展開しますが閑話なのでお目こぼし頂きたいところです。道三と明智氏の関係は利害関係が非常に深かったならば、道三が明智氏の人間を重用したとしても不思議ありません。光秀が非常な教養人であったことは事実と考えますが、その教養は美濃時代に身につけたと考えるのが妥当です。明智氏滅亡時に光秀は28〜30歳ぐらいと推測されますから、これも教養人であったと考えられる道三の影響、さらには薫陶を受けた可能性はあります。正室の一族であり、道三の美濃支配の大事な鍵になる一族ですから可愛がっても不思議ありません。


道三の美濃支配のマジックの一つの明智氏との関係、明智氏濃姫の関係、信長の美濃支配での濃姫との利用価値を考えると、信長にとって明智氏は他人でなくなります。もっとも信長は血族重視が薄い人間でありますが、有能な血族であれば重用してもおかしくありません。光秀は明智氏滅亡後、母方の縁続きである若狭の武田氏に身を寄せていたと伝えられています。そこで足利義昭とのつながりができるのですが、ちょっと年表をまとめてみます。光秀の年齢は1528年説を取ります。

光秀の年齢 事柄
28 長良崩れで明智氏滅亡
光秀、若狭武田氏を中心に諸国を武者修行
39 信長美濃を奪取
41 光秀、京都で政務を執るとの記録が出る


光秀が美濃から逃れてからの足跡は曖昧です。朝倉氏に仕えていた時期もあるのは確認されていますが、結局のところ芽の出ない日々を送っていた事が推測されます。光秀にとっても辛い時期であったようで、実際のところ滅亡した小豪族の一族と言うだけでは、どこも重用してくれない悲哀を舐めていたと考えています。光秀は自分の才能、教養に深い自信を持っていたことは推測されますが、その自負に対する反応は乏しいというところです。

これは戦国期とは言え、各地に勢力派を張る大名は基本的に自分の領国出身者を重視する傾向が著明であったためと考えています。よそ者は信用できない、もしくはよそ者の活躍は結束を崩すの考え方です。うがって言えば、道三の行動は他の国にとっても脅威であり、光秀の有能さは道三を家に引っ張る込む行為と見なされたのかもしれません。

結局のところ光秀が世に出るのは美濃の支配が信長に移ってからと考えられます。美濃の光秀の地位は反義龍派でしたから、義龍(及び龍興)支配が続く限り美濃に居場所はありませんが、広い意味の道三系の信長が美濃を支配すれば一族として迎えられる余地が出てきます。そのうえ、信長は出自に全くこだわらず能力重視で人を見ますから光秀もようやく世に出られた言うわけです。しかし改めて確認すると光秀はもう40歳になっています。


光秀が有能な武将であったのは論を待ちません。それは能力万能主義の信長が光秀を重用したことから分かります。信長配下の武将のうちで異例の出世を遂げたのは言うまでも無く秀吉ですが、光秀の出世はある時期まで秀吉より早く、少なくとも同等の速度で大抜擢されています。

信長の家臣団はその末期に五大軍団となっています。柴田勝家丹羽長秀滝川一益明智光秀羽柴秀吉が軍団長として君臨し、同時に重臣として並んでいます。このうち柴田勝家を筆頭家老、丹羽長秀を次席家老として扱うのが一般的ですが、最初に領国を与えられたのは光秀であり、次が秀吉となっています。つまり信長は柴田勝家丹羽長秀より光秀を重視した証拠と考えます。

光秀が信長に使えたのが40歳前後で、領国を与えられ大名となったのが44歳ぐらいと考えられますから、わずか4〜5年でここまでの抜擢を信長から受けた事になります。こういう待遇は能力重視の信長人事であったとしても異例の出世と受け取る事は可能です。信長人事の特徴は有能な人物はトコトン酷使されますが、それに応えて成績を挙げればキチンと応えるのが特徴です。そこに門地とか血縁関係はほんとんど考慮されません。そういうものに苦しめられていた光秀にとって嬉しくないはずは無いと考えます。

もう一度年表を示しますが、

光秀の年齢 事柄
40 この頃光秀、信長に仕える
41 光秀、京都で政務を執るとの記録が出る
44 南近江に所領を与えられ坂本城を築く
51 光秀、丹波攻略終了
54 本能寺の変


光秀は信長の多方面作戦に酷使されながら主目的としての丹波攻略を51歳の時に終えます。そこからしばらくは光秀は方面軍司令官ではなく遊軍的な役割に回っているかとみます。この時点で他の軍団長の動きは、柴田、滝川、羽柴は作戦の真っ最中。丹羽長秀も本格的な方面司令官の準備中と言うところです。丹羽長秀の四国遠征は実現しなかったので置いておいて、信長がもっとも重視したのは中国方面と一般的に考えられています。信長が中国方面を重視したのは宿敵石山本願寺との関連と考えてよいと思われます。石山本願寺が現実としてもっとも頼りにしたのが毛利であり、毛利も石山本願寺を自国の防波堤として重視していています。

頑強な本願寺を崩すには最有力支援国である毛利を叩くのが戦略として有効ですし、毛利を滅ぼせば一挙に九州への道が広がります。秀吉は播磨から備前、さらに因幡、備中に着実に攻略していきます。本能寺の変は有名な備中高松城の水攻めの最中に起こります。備中高松城の攻防戦は毛利にとっても重要な戦いであり、ここを抜かれると毛利の本拠地である安芸への道が開いてしまう地点です。

史実は御存知のとおりなんですが、信長の戦略は本当はどうであったかに興味があります。あくまでも一説ですが、秀吉は因幡鳥取城を巧妙な戦略で落城させていますが、信長はこれを余り喜ばなかった言う話があります。つまり秀吉が行なった鳥取城攻略は信長の戦略上余計な行為であったと言う説です。中国方面重視はこの時点の信長戦略で重視されていたのは間違いありませんが、なぜ鳥取城攻略を喜ばなかったかです。

一般に秀吉は中国方面担当であり、対毛利戦のすべての責任者と考えられていますが、信長の腹積もりとして秀吉は対毛利の山陽方面担当としていたとも考えられます。信長にしてみれば秀吉はひたすら山陽方面で驀進すればそれでOKで、鳥取城に手を出したのは「無駄である」と見なされた可能性を考えています。

あくまでも推測ですが、信長の対毛利戦略は山陽方面からゴリゴリと秀吉が圧迫を加えるのが第一段戦略です。秀吉軍の侵攻が備中高松にまで及べば毛利は総力を挙げてこれの守りに入るはずです。毛利の主力が備中高松に釘付けになった頃を見計らって、第二段作戦を発動します。温存していた光秀軍を山陰方面に投入し、手薄になっているはずの山陰道を西に向って驀進させる計画です。山陽・山陰のニ方面から圧迫を受ければ毛利といえども一挙に覆せるという戦略です。

史実もそれに近い形で進行しています。しかし幾つかの誤算が生じます。光秀軍が丹波攻略を終えたのは光秀51歳の時です。秀吉が中国侵攻を始めたのがその翌年です。信長の戦略では中国の入口である播磨はスムーズに掌握して通り抜けるはずだったと考えています。つまり播磨ではできるだけ戦いは避け、調略によって支配下に置く計算です。そのためにその手の才能では突出している秀吉を起用したとも考えます。

しかし秀吉をもってしても播磨の無血掌握に失敗します。失敗したどころか血みどろの攻防戦を2年にわたって余儀なくされます。信長にしても秀吉でも無理だったのでこの失敗を咎めてませんが、この間は光秀軍を遊ばせなければならなくなります。信長にすれば播磨を平定すれば出来るだけ早急に備中高松に向って秀吉軍が進んで欲しいところだったのに、鳥取城に秀吉が手を出したので気に入らなかったと考えています。

信長の当初の戦略では1年程度で秀吉軍が備中高松に進撃し、毛利の主力と対峙するはずだったのが、結局3年もかかってしまったのは誤算ではあったと思います。それでも漸く目論見どおり、毛利の主力を備中高松に釘付けにしたので第二段作戦を光秀に命じます。山陰作戦の発動です。秀吉の余計な行動のお蔭で、因幡まで道が開けていますから、一挙に伯耆、出雲、石見からさらに長門、周防方面への進撃が可能になります。


ここで日本史の謎が起こります。本能寺です。信長の対毛利戦略は若干の誤算はありましたが、備中高松に主力を集めた毛利軍は山陰方面まで防御を固める余力がありません。光秀軍はやすやすと西に進み占領地を拡大できると考えます。一方で毛利は眼前の秀吉軍を打ち破れず、山陰方面からの援軍要請にも応えられず立ち往生したかと思いますし、最悪一挙に総崩れの可能性も出てきます。

そういうシチュエーションは光秀にも見えるはずなのに何故に本能寺かとなります。謎であるからロマンとなって、次々と本能寺の真相説が出てきて楽しいのですが、私も仮説を立てたいと思います。私の使う鍵は光秀の年齢54と丹波攻略からの3年の月日です。何が言いたいかですが、

    光秀はくたびれていたのではないか
ベタな仮説ですが、光秀は道三滅亡から10年以上諸国を放浪するという辛酸を舐めています。そしてやっと世に出られたのが40歳になってからです。当時の40歳は今より老けた感覚では無いかと思います。その後、信長の抜擢を受けて東奔西走の日々を送ります。その結果として丹波と南近江に所領もち坂本城に君臨するという成果を手にします。丹波攻略の終了は信長に仕えておおよそ10年間の出来事です。この時点で光秀は既に50歳に達しています。

信長の謡う敦盛ではありませんが、当時の感覚として「人間50年」はあったと思いますし、今では普通とも言える60歳の還暦も非常にめでたい事とされます。幾多の戦場を生死をかけて駆け回ってますから、よくここまで生き延びた、よくここまでの出世を遂げたの安堵感が出てもおかしくありません。そこに秀吉の対毛利戦の遷延があり、ポッカリ3年ほどの期間が空きます。遊んでいたわけではありませんが、援軍としての出陣は心理的にはやや余裕がもてる3年でなかったかと考えています。

光秀は教養人、それもどちらかというと古典的な教養人の傾向がありますから、この3年の内に無常観が生まれたとしても不思議ありません。平たく言えば「もう戦はこりごり」みたいな感覚です。戦陣から戦陣を駆け巡る間に光秀の神経はくたびてれしまった可能性です。くたびれたは無理がありますから、がむしゃらに突き進んでハイテンション状態であったのが、一段落がついての反動が訪れた感覚です。誰にでもそんなものはありますが、年齢と持って生まれた性格が拍車をかけた可能性です。

そういう心理状態の上に最近さかんに唱えられている陰謀説が華を咲かせた可能性はもちろんあります。ただ陰謀説が実現するにはそれを受け入れる素地と言うか、心理状態が光秀に必要です。それが3年間と54歳じゃないでしょうか。本能寺の光秀は信長と信忠を殺すところまでは綿密に行ないましたが、その後の処置が杜撰だったのは史実に有名です。とても本能寺の後の計画を考えていた様に思えません。

秀吉が嵐のように中国大返しをしたのは光秀の完全な誤算でしたが、迎撃作戦も光秀らしくない疎漏なものです。つまりくたびれていた光秀は発作的に信長を殺したものの、発作が終われば思考停止状態に陥ってしまっとも見る事が出来ます。神経症に陥っていた人間の発作的な行為であるがために誰にも合理的な説明は不可能になり、不可能であるが故に諸説だけが乱れ飛んでいるのが本能寺の様な気がします。

この辺で本日は休題にさせて頂きます。