今日は視点を変えて

医療危機について食い散らかすようにあれこれ書いてきました。医療危機の原因なんてものは積もり積もった医療構造の矛盾が多層的複層的に重なり合い、それぞれが重大な問題であり、たとえ一つの問題を解決しても他の問題の解決にはつながらず、その上たった一つの問題を可決する糸口さえ容易に見つからない状態だと感じています。

容易には解決への糸口が見つからない原因として、ほとんどの問題が医者個人の努力では手に負えない大問題であり、さらに言葉を重ねれば多くの問題は、医者が個人的努力で補ってきた問題を支えきれずに発生しているということです。既に医者の倫理観や使命感でどうなる問題で無いものが非常に多いと言う事です。

医療は医者の個人技が目立つ職業ではありますが、高度化された現在ではチームプレーと言うか、システム、環境として考えなければならないものです。例として去年のJR西日本脱線事故を挙げたいのですが、電車を走らせるのは運転手です。強いて言えばこれが医者に当たります。あの事故も極論すれば運転手が速度超過を起さなければ発生しなかった事件です。

運転手が速度超過をしなければ事故は起こらなかった代わりに、運転手はダイヤの乱れの責任を厳しく追及され、本人には厳しい処分が下されるでしょうが、人命は失われなかったはずです。つまり運転手は人命を守るために未然に事故を防いでも、その点を会社に評価される事は全く無く、目に見える失策である「ダイヤの乱れ」の一点だけを厳しく責任を問われる事になります。

もちろん未然に事故を防ぐためにダイヤを乱すのは無罪放免かといえばそうでもないでしょう。問題の本質はダイヤを守るという作業が過酷な条件になっていないかと言う事です。言葉の使い方がやや曖昧になる嫌いはありますが、運転手として通常の技量であれば普通に守られるダイヤ編成であることが前提条件として必要です。プロの運転手であれば守れて当然のダイヤであれば、これを守れないのは運転手の失策です。

ダイヤ編成が熟達の運転手であっても曲芸のような技量を要するものであれば、これを並みの運転手が時に守りきれない事を厳しく追及するのはどこかおかしいという事です。つまり運転手にとってダイヤ編成は与えられる環境であり、この環境が苛酷な物になったとき、これを守れないのを運転手個人の責任にすべて帰することは間違っているという事です。

この理論はJR西日本列車転覆事故の時には厳しく適用され、事故を起した運転手の責任より、事故を起こる環境を作り、これを現場に強制した経営陣の責任が本当に厳しく問われました。この辺は誰もが知っている常識です。

私は医療にもこれは当てはまると考えています。医師は与えられた職場環境で全力を尽くします。設備不足、バックアップ体制の不備、決定的なマンパワーの不足などがあっても、与えられた環境として、さして文句も言わず適応しながら医療を支えてきたと思います。この医療環境の整備は医師個人の努力ではほとんどどうしようもない物がほとんどです。

設備一つにしても、医療機器は例外なく高額で、旧式の設備を現在の医療レベルに相応しいものに更新することさえ、非常な努力を要します。またスタッフの充実も一人増やすだけで病院側と全面対決するぐらいの覚悟が必要となります。すべては経営が圧し掛かっており、新式の設備を入れたらどれだけの売り上げがあるか、増員したらそれを十分に補うだけの収入が確保できるかなどを根掘り葉掘り追及されることになるのです。

医療現場は勤務しているほとんどの医者が悲鳴をあげるほど過酷です。過酷ではありますが、医療に課せられている前提条件はその状態を当たり前と見なされています。今の状態に設備や人員などの投資をしても回収の見込みはほとんどなく、投資された分だけ経営負担が増えるとの認識が常識としてまかり通っています。

えらく長い前置きですが、開業医はともかく勤務医の勤務環境が正常な診療を行うにあたり、非常に支障のある状態であるところが多いのは事実として良いと思います。医療は言うまでもなく患者の生命、健康を預かる責任ある仕事です。責任ある仕事の勤務環境が働くのに相応しくない、もしくは事故を誘発する可能性が高い状態に放置するのは経営者の責任という事となります。

この場合の経営者ですが、医療については種々の規制や基準が厳重にあり、これを監督指導をしているのは厚生労働省であり、一病院の経営者もしくは院長といえどもこの指導に忠実に従う以上の事はほとんどできないという事です。過酷な勤務条件を放置し、なおかつそのためと考えられる医療事故が発生する状態の責任者は、監督官庁である厚生労働省に帰すると言うことです。

JR列車事故に当てはめると、やはり運転手が医師、経営陣が厚生労働省であると理解してよいと私は考えます。監督官庁厚生労働省、経営陣が病院の構図ではありません。そうなると医療危機回避の大きな鍵を握るのは極めて平凡な結論ではありますが、厚生労働省にあると考えるのが妥当です。

肝心の厚生労働省の姿勢ですが、これを見ると絶望的なるのは私だけでしょうか。さすがに産科医の不足は認めざるを得ないようですが、小児科医は十分足りているとの事です。もちろん他の診療科も含めて医師は十分足りているとの事ですし、足りているとの前提から医師の数を増やすつもりは毛頭無いとの意思表明を明確に繰り返し行なっています。

建前としての理想は望ましい方向かもしれませんが、現状では様々な、物によっては致命的な弊害を起している新研修医制度も「良好で狙い通り、是正の必要は全くなし」でニベもありませんし、散々批判して潰しにかかって衰弱させた医局人事制度亡き後の医師配置システムも、手を拱く以上の対策を打ち出していません。これなどは「医者が足りているが、偏在が問題である」との言葉と完璧に矛盾しているとは思うのですが、さして気にもせず答弁しています。

やはり医師の皆様が主張しておられるとおり、小泉医療改革は現在の医療制度を「ぶっこわす」のが主眼で、壊れて荒廃して医師だけではなく、患者も困る事態は「痛みに耐える」で終わりなんでしょうか。それにしても小泉首相の得意のフレーズの「痛みに耐える」ですが、まさか「痛みを永遠に耐えろ」もしくは「痛みに慣れてしまえ」と同義語であるとは気がつくのが遅すぎたのかもしれません。