安土城屏風絵さがし

医療とか政治関係のネタはどうしても生臭くなってしますが、こういう話題は良いですね。安土城は「狂気の天才」織田信長が、時の権勢と天下統一後の政治構想を込めて作り上げたと言われる幻の城です。

安土城とそれまでの城の大きな違いはいくつもありますが、まず城の象徴とも言える大天主のの存在です。城に天守閣はつきものと私たちは考えていますが、現存している天守閣はすべて安土城からの系譜を引いていると言っても良いでしょう。安土城に先駆して近代天守閣にちかいものを完成していたもに、松永久秀の多聞城や信貴山城が上げられますが、そのスケール、完成度において安土城は突出しています。

さらに安土城は、現在見ることの出来る姫路城の天守閣とはこれまた異質の物であったと考えられています。姫路城の天守閣の外観は美しいですが、内部は正直なところかなり陰鬱な建物で、日常生活を送る場でない事ぐらいはすぐにわかります。姫路城だけではなく他の城もまた同様です。正直な感想で言えば使いにくそうな倉庫ぐらいにしか思えません。

ところが安土城はそうでなく、内部に吹き抜けの大空間を設け、華麗な高層宮殿であったのではないかと推察されています。この構想はこれまた消滅してしまいましたが、秀吉の大坂城に受け継がれと考えられていますが、家康の江戸城となると知識はないのですが、現存天守閣風の倉庫になっていたのではないかと考えます。

安土城天守閣が完成してわずか3年で焼失しています。3年の間に信長は多数の人間にその天守閣を見せつけています。国内の大名衆だけではなく宣教師にもこれを見せ、その華麗さ勇壮に驚愕した文章がいくつか残されています。現在安土城の復元想像図はすべてこの記録に基づいて作られています。有名なものは太田牛一信長公記ルイス・フロイスの記録が有名です。また加賀の大工棟梁家に伝えられる天主指図と言われるものがあり、これが安土城天守閣の設計図の一つではないかと研究も行なわれています。

ロマン溢れる安土城ですが、断片的資料の積み重ねでは、どうしても重要な復元のためのピースが欠けています。仕方がないので当時の技術、同時代の建築物などから類推しての想像図となってしまっています。もっとも参考になるはずの秀吉の大坂城でさえ、安土城よりマシとはいえ想像部分が大きい事を考えるといたし方ありません。

ところで安土城も、大坂城もそうなんですが、その外見を精密に模写した絵図が残っていないのです。江戸期の城は軍事的な要請もあって、どうやらそういうものを書き残すのがタブーであった事が推察されるのですが、信長も秀吉もそんなケチ臭い事を考えるような人物ではなく、むしろ自らの権力を誇示するためにある程度自由に書かせていたはずだと私は思います。

ところが秀吉の大坂城でも黒田屏風ほか数点しかなく、安土城にいたっては全くに近いほど無いとされます。ところが無いとされる安土城に1点だけ精密に描写された屏風絵があると記録されています。作者は狩野永徳、献上先は時のローマ法王グレゴリオ13世であり、後世に有名な天正少年使節団が持参し、間違いなく渡した事が公式に記録されています。ところがこの直後にグレゴリオ13世が急死し、その行方が以後不明となっています。

行方不明になったとはいえ、これがヴァチカンに保存されている可能性は高いと考えられています。ヴァチカンはそれ以後も激しい政争や、戦争、時代の波に翻弄されてはいますが、焼き討ちや異教徒による占領時代があったわけではなく、一貫してローマンカソリックの総本山として存在を誇示しています。献上品をはじめとする財宝も流出したものもある程度あるかもしれませんが、財政難から大量売却された時代があったわけではありませんから、ヴァチカンの保管庫の奥深くに眠っていても何の不思議もありません。

あったら良いですが、見つけるのは至難の業でしょうね。ヴァチカンの保管庫となると収蔵している財宝も文字通り莫大でしょうし、未整理の財宝なんてそれこそ数え切れないぐらいあるに違いありません。うちの家だって一旦紛失したらなかなか出てこないですから、ヴァチカンで紛失物を探すとなれば、まさにわらの中の一本の針を探し出すぐらいの幸運が必要かもしれません。

でも見つかって欲しいですね、私も歴史ファンですから、幻の安土城の幻の屏風絵が見られたらどんなに興奮するか想像できないですからね。