「論」てほどたいそうなものではなく、どっちかと言うか感想とか雑感みたいなものです。御用学者の定義は比較的明瞭で、これは大辞泉からですが、
時の政府・権力者などに迎合して、それに都合のよい説を唱える学者。
これは実感とも合います。ただ注意は必要と感じています。ある問題に対する学説は、それこそ学者ごとにあるとしても良いぐらいです。人と少しでも違う学説を立てる事こそ学者である存在価値としても良いかと思っています。誰かの学説に完全服従してしまったら、それはもう学者とは言えません。もちろん大きな学説の支持グループは形成されますが、その中でも小異を懸命に立てるのが学者だと思っています。
テンコモリある学説ですから、その学説が「政府・権力者」に同じか非常に近い時もありえます。逆に「政府・権力者」が学説を全面的に取り上げる事もあります。「政府・権力者」の主張を支持したからと言って、それで御用学者であると言うのは慎みたいところです。そんな扱いをすれば、いかなる学者の学説でも「政府・権力者」が取り上げた途端に御用学者になってしまいます。
学者は学説を自由に立てられます。自由にと言うか、学説を立てる事が学者の仕事そのものとしてよいでしょう。自由には立てられますが、これが評価され認めてもらえるかは別問題です。学説には自由と言うか容赦ない批判が加えられますし、そういう批判を乗り越えてこそ評価され認められていくと言う事です。たいした話ではないですが、学説に対して批判が行なわれる事は「あって当然」なのは言うまでもありません。
ただし批判は学説の内容に対する論理的なものであるべきです。学説の理論展開の欠点の指摘であったり、考え方の基本的方向性に対してのものであったり、根拠としているものへの疑問であったりとかです。理想は白紙状態でまず学説を拝聴し、そこから自分の考えと相違するところの理論的な説明を問い質すみたいな形が望ましいんじゃないかと考えています。
なかなか理想通りにはいかないのが現実ではありますが、批判するためには兎にも角にも元の学説をなんとかでも理解しないといけません。理解もせずに批判は不可能です。たとえ批判が他人の受け売りであっても、批判の対象と成っている元の学説、さらに元の学説を批判した主張の内容を可能な限り咀嚼する努力は求められます。
あんまり良くないのは、元の学説も読まず、さらには批判した主張も読まず、元の学説が批判されたと言うだけで、その批判だけを鵜呑みする姿勢かと考えます。私も常々自戒している所です。
さて話を御用学者に戻しますが、真の御用学者とたまたま自分の学説が「政府・権力者」と合致したものは分けるべきだと考えています。実はこの辺も微妙で、「政府・権力者」に最初から擦り寄る意図で学説が立てられたりもしないとは言えませんが、そこの分別はそれこそ眼力になるように考えています。
では真の御用学者はどんな者かと言えば、「政府・権力者」が立てた方針に後から追随するものであると考えています。つまり「政府・権力者」がゴールを設定し、そのゴールに合うように学説を構築するものです。何が一番良くないかと言えば、学者でありながら、自分の学説を立てていない点です。学説のゴールを作ると言うのは、学者にとって生命みたいなものですが、そのゴールを自分で作っていない点です。
何回か御用学者ならぬ御用会議批判を行いましたが、御用会議には御用委員もいます。さらに御用委員も2種類いると思っています。
- 御用会議のゴールと同じ意見を持つ者
- とくに思想はないが、とにかくゴールに賛成する者
あるテーマに副って賛否両論が闘わされるわけですから、賛成派の委員、反対派の委員がいても良いわけです。さらに御用会議のゴールは事前に決定されているわけですから、コチコチの賛成派を委員にするぐらいは許容範囲かもしれません。御用委員と言うより原案推進派ぐらいとした方が良いかもしれません。もちろんそういう委員は自分の考えで、そういう意見が正しいと信じているわけです。
問題は賛成派、反対派以外のb.の御用委員です。本来ならこれは中立派になり、賛否両論を聞いた上で、どちらかを支持して会議を決定付ける役割を担っているわけです。ところが中立派であるべきはずのこれらの委員は、実はゴールである原案支持派です。隠れ賛成派としても良いかと思います。これは自分の考え、信念で賛成しているわけでなく、そうする事が自分の今後の立場にメリットがあると考えているだけです。
こういう御用委員が学者であれば立派な御用学者であると私は考えています。
私が考える御用学者の定義は、
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自分の考え、信念を横に置いて、「政府・権力者」の意見に付和雷同する学者
御用学者はそうではなく、むしろ積極的に「政府・権力者」の意見に迎合します。こういう学者は学者としての本分を売り渡しているわけですから、その報いとして御用学者のレッテルを貼り付けられるのだと考えています。ただかなりの蔑称ですから、貼り付ける時には少しでも慎重でありたいものです。