アルコール依存症じゃなかったみたい

 お酒は好きで毎日飲んでます。あれこれ飲んだのですが、今は酒飲みの終着駅とも呼ばれるジンをロックで飲んでます。量としてはオールドファッショングラスになみなみと入れて2~3杯ぐらいです。酒はケモ中の味覚異常の時期さえ欠かさなかったぐらいで、今年だってつい先日まで連日と飲んでました。

 どこかでアルコール依存症になっている可能性を考えていたのですが、そこに持病の癪が起こってしまいました。癪とは上腹部から胸部に起こるキリキリした痛みですが、何年か周期で起こります。だから持病です。これは学生時代からあり、そのたびにのたうち回らされていたのですが、何度目かの胃カメラで、

    逆流性食道炎です
 なるほどと納得はしましたが、だからと言って根治法があるわけじゃありません。ただ癪が起こればPPIが有効ぐらいは判明したぐらいです。ですから癪の気配があれば間髪置かずにPPIが対処法になります。

 でもって先々週に癪が起こりました。直ちに対応はしたのですが、十年ぶりぐらいに症状が強めで連日のPPIでもヤバそうぐらいな状態になりました。

 さすがにそこまでになれば酒は中止せざるを得ません。あの状態で飲めば悲劇しか待っていません。そのまま今に至るです。それでわかったのは、

    酒を飲まなくても眠れるんじゃないか
 酒を飲む理由で一番大きかったのは、軽い不眠症傾向があり、飲まないと寝られないのがあったのです。ハルシオンを使っていた時期もありましたが、あの手のクスリの入手のハードルが高くなり酒を眠剤代わりに使っていた部分はあります。

 それが酒無しで眠れるのであれば不要ぐらいです。となるとアルコール依存症は無いぐらいで良さそうです。たった、それだけで2週間も休肝日を作れましたからね。

 酒無しになって生活がどう変わったかですが、就寝時刻が早くなりました。夕食を食べたらやることがないのです。テレビは見なくなっていますし、スマホで画面を見るのも辛くなって来てます。それなら寝ようって。

 禁酒をする気は1mgもありませんが、これからは休肝日をちゃんと作ろうかな。

六甲山

 毎日見ている六甲山ですが、ここはかつては走り屋の聖地みたいな時代がありました。とにかく聖地過ぎて二輪噺さんより、

 赤線のところが二輪車通行禁止で、紫色のところが土日休日二輪車通行禁止です。こんな地図を見せられても土地勘のない人にはピンと来ないでしょうが、神戸市街地に住んでる人間からすると、六甲山に上がろうと思えば表六甲しかないじゃないかの感覚になります。

 私が知らなかっただけですが、奥摩耶が二輪車通行禁止なのは意外でした。ここは六甲山牧場があり、終点は掬星台があるところですが、こんなところをとは思いましたが、ここは盲腸道路ですからレースもどきをするバイクが集まっていたのかもしれません。

 こういう状況でバイクで六甲山に登るには表六甲一択みたいな感じにはなるのですが、モンキーで登りたくないのが本音です。それぐらいキツイですし、これでもかのヘアピンが待っています。

 表六甲は六甲山トンネルを使う時に走りますが、モンキーには辛いので最近は回避してしまうぐらいだからです。登れるのは登れますがカメになるってところでしょうか。そこでぐらいの話ですが、有馬街道からアプローチしてみました。具体的には山麓バイパスの天王谷料金所下車です。

 有馬街道も混みますし、休日の六甲山も混みますから早朝も早朝、5時半スタートでトライです。有馬街道から東に稜線伝いに走り県道82号で西宮に下り、山手幹線で無事帰ってきました。


 感想は甘くない。延々とワインディングですし、とくに丁字が辻を越えてからのアップダウンはモンキーにはきつかったぐらいです。ちゃんと六甲山を走った証拠として、

 一軒茶屋と言われてもハイカー以外にはピンと来ないかもしれませんが、魚屋道にある休憩拠点みたいなところです。ここから少し上がれば六甲最高峰で、この辺りで標高は900m弱ぐらいのはずです。砥峰高原と良い勝負ですが、麓からの標高差からしたら六甲山の方が上ぐらいでしょうか。


 早朝ですから空いていましたが、店はまだどこも開いていませんでした(当たり前か)。ただ少ないながらも走っているクルマもバイクも気合が怖かった。あんな時間帯に六甲山を走るぐらいですから、そりゃ、もうってぐらいの勢いでした。

 なんかかつては、ああいう感じのが夜になるとゴッソリ集まっていたんだろうなと思った次第です。こちらとしては、

    走ったことがある
 このメモリーが刻めたのに満足出来ましたから、もう来ないだろうな。モンキーにも私にも楽しめるとは言いにくい道でした。

近隣四府県制覇

 モンキー乗りですから日帰りツーリングの限界があるのですが、それでも、

    京都府・・・福知山までは行った
    岡山県・・・因幡街道で大原宿までは行った
    鳥取県・・・戸倉峠を越え若桜までは行った
 端っこなので自慢にもなりませんが、モンキーの轍を刻んでいます。そうなると残りの一つも行きたくはなります。それはどこだって、そんなもの東隣の大阪府です。

 神戸から一番近いですし、新快速なら20分かからないのですが、とにかく気が進まないのが大阪府です。だってですよ、まともに行けば、

    芦屋 → 西宮 → 尼崎
 この3つの市街地を走り抜けて神崎川を越えてやっと大阪府です。国道2号でも、国道43号でもご遠慮申し上げたいコースです。そこでって話じゃないですが、要は大阪府のどこかに入れば良いわけで、市街地をひたすら避けて、どこかの隅っこに入ってやろうと考えました。

 ということで三田から北東に田舎道をひた走り、猪名川沿いの道に出て、さらに東に入って、じゃじゃ~ん、

 能勢町に入ることが出来、これで近隣四府県のすべてにモンキーが轍を刻めたことになります。だからどうしたのツッコミはホドホドでご容赦下さい。

 ここから国道173号に入り北上したのですが、途中の峠がモンキーにはなかなかのものでした。それとなのですが、どうにもバイクが目に付きます。どうも大阪のバイク乗りのツーリングコースになっているようです。

 峠を越えると福住の入り口あたりにあるローソンに出るのですが、その時に一つの謎が解明しました。そのローソンの駐車場は多くのバイクが停まっているのですが、前に福住に来た時には福住観光のためぐらいに漠然と思っていました。

 ですがそうじゃなくて、国道173号の峠道を楽しむバイク乗りの休憩拠点だったのです。ここから往復して峠道を楽しむぐらいでしょうか。

 それとは別に国道173号をさらに北上するバイクもいます。このまま北上たら綾部じゃないかと思ったのですが、綾部までに京都縦貫自動車道に乗れます。それに乗れば天橋立に行けます。中型以上なら大阪からでも日帰り圏内のはずです。

 そんなことを思いながら篠山経由で神戸に帰りました。

オートバイ神社

 冬の間に企画していた鳥取県にモンキーの轍を刻むツーリングに行ってきました。ルートは山崎から国道29号を引原川沿いに北上し、


 新戸倉トンネルを潜って無事鳥取に入れました。さすがにそれだけでは愛想が無いので若桜の道の駅まで足を伸ばしています。ここまで来たら鳥取市までと言いたいところですが、まだ30キロぐらいあり、さらに二時間もかかると帰れなくなるので引き返しています。

 若桜の道の駅で昼食休憩を取ったのですが、そこで見つけたと言うか、目に付いたのが駐車場の一角にあった、


 見るからにチャチそうに見えるかもしませんが、私も正直なところそうでした。これが何かと言えば左側の幟に書いてあるのですが、
    オートバイ神社
 なんだそれって思いながらこの日は帰っています。調べると記事にも若桜のオートバイ神社は出ていて、国道29号に因んで29番目のものだとか。そうなると若桜の道の駅が臨時で仮設したものじゃない事になります。というか、あれで常設施設にするのかと思ったのは白状しておきます。

 とにもかくにも29番目のオートバイ神社ですから、どこかが認定しているはずです。これもすぐに見つかりまして一般社団法人 日本二輪車文化協会のランドマーク認定部会が行っている事業のようです。趣旨は、

    ■ツーリングライダーの拠点となる全国オートバイ神社®の認定
    ■宗教的な目的ではなく、ツーリング拠点として、地域活性化にも貢献する

 主催しているところがそういう団体ですから宗教的な目的でないとしてるのはまだしも、神社を名乗るからには祭神が必要じゃないと思うのが昭和の爺です。それでもって第零号で総本宮とされるのが道開神社です。ここは昔からの神社の様で祭神として、

    中央 猿田彦大神
    天宇受賣大神(妻神)
    右側 市杵島姫大神(水の神)
    左側 埴安媛大神(土の神)
 どうもですが猿田彦が天下りをした邇邇芸命の道案内をしたから道開神社で、それにちなんでオートバイ神社のようです。若桜のオートバイ神社も祭神は猿田彦なのかな。


 ちなみについでにライダー神社も、バイク神社もあるようです。それぞれ商標登録の関係もあって別建てで活動しているで良さそうです。そう言えばどこかにバイク寺もあったような。

 どこも活動歴は浅いようですが、できれば大同団結したら良さそうぐらいに思った次第です。とうのも、こういうところはバイク乗りならツーリングの目的地に良く設定します。そういうところを訪れるのもツーリングに余裕でなります。

 その延長線上で出て来るのは巡礼です。モトブロガーなら企画でやりそうですし、そうでなくても手近で回れるならバイク乗りなら考えます。ですから、あれこれ繋ぎ合わせて西国三十三か所とか、四国八十八か所みたいに発展させればなんて思った次第です。

 そうなるかもしれませんし、いつしか消えてしまうかもしれません。そこまで生きて見れるかは厳しい年代に入っているのが玉にキズです。寿命もそうですが、いつまでバイクに乗れるかになるとカウントダウンの音が聞こえそうですからね。

三春街道

 この峠は京都の三和から兵庫の春日を結ぶ三春街道にあります。ツーリングでは三和から春日に走ったのですが、峠には見晴らしの良くない休憩所と記念碑があります。

 読みながらまず苦笑したのが署名されていた知事名です。

    京都府知事 蜷川虎三
    兵庫県知事 金井元彦
 悔しいですがこのお二人が知事をされていた知っているのです。まず京都府の蜷川知事は7期28年に渡り府政を担った当時の有名知事でしたから覚えてる人もおられるかもしれません。

 兵庫県の金井知事は全国的な知名度ではマイナーですが、県民でそれなりの年齢の方は坂井時忠知事の前任者と言えばわかる人もおられるかもしれません。

 文字の方は読みにくいと思いますが、なかなか興味深いもので、冒頭部を紹介すると、本三春峠は春日町(大路地区)と三和町(細見地区)を結ぶ近道で、その改修は住民多年の悲願であったが、

 昭和41年度に改修事業が始まり昭和45年度に完了したと記されています。それぐらいの多年悲願の近道だったはずですが、

 こんな感じのなかなかの県道と言うより険道です。YouTubeの中にも出てきますが、落ち葉が多いだけでなく、日陰部分には苔がビッシリって感じで生えてまして、スリップしないかヒヤヒヤで走りました。

 もちろんそうなるだけの理由もあるわけで、三春峠を含む三春街道を走ってる間に出会ったのはバイクが2台とクルマが1台だけでした。まあ、あんなに細くて急勾配が続く道を走りたい人は日常的に少ないのは走ればわかります。

 走り終わった後に素直に思ったのは、どうしてこんなルートを整備したんだろうです。というか、整備改修するならもうちょっと力を入れても良かったのじゃないかと。

 これは推測に過ぎませんが、時代的背景もあった気はしています。日本のモータリゼーションの到来ですがトヨタ自動車75周史に、

なかでも、乗用車需要は急成長し、1965年の59万台が1970年には237万台と、年平均32%の成長を遂げる。国内の自動車保有台数は、1965年の630万台が1967年には1,000万台を突破し、全国いたるところで自動車が活躍するようになった。

 三春峠の道路改修事業が決定されたのが1966年です。その時には何がこの峠を走るかを考えて計画は決定されたはずです。自動車は普及段階の入り口にあったと後世からは言えますが、当時はそこまでのものになるとは考えなかった可能性です。

 この辺は予算とか地形の問題もあったとは思いますが、実際に走った感想として自動車の交通をそれほど意識したものとは思えませんでした。だったらと何を想定したかですが、人が歩くとか、馬車とか、オート三輪ぐらいかもぐらいです。

 だからどうした程度のお話ですが、立派な記念碑まで立てた住民多年の悲願の道路も、今はこうなってしまったぐらいの感想が頭に浮かびました。おそらくですが、この記念碑の除幕式の時は春日町と三和町のお偉いさんたちが賑々しく立ち並んでいた思うと、時の流れの速さを感じてしまいました。