完了形と時制

 今日もこのYoutube

からの受売りです。Youtubeを見てもらのが一番ですし、その方が千倍面白くて理解するのも早いと思います。以下は私の理解した範囲と感想みたいな蛇足ですから読む必要もありません。それぐらい差が歴然としています。


 中学で英語を習い始めてけつまずきそうになったのに完了形があります。それこそ、

    なんだ、なんだコイツは???
 これぐらい難解極まる代物であったのを覚えています。完了形とは何者かは、このYoutubeでも解説していますが、
    過去に始まって現在に至るものが現在完了形です
 私の頃もこれぐらいの説明だったと思いますが、怪しすぎる記憶では、
    現在完了形とは、今ちょうど終わったぐらいの意味だ。
 こういう説明を受けた気もします。それで腑に落ちたかと言えば全然落ちず、それこそ今に至るです。そうですね、過去形の特殊表現と言うか、現在形でも過去形でもないけど、過去形に近いぐらいのものぐらいで進んで行ったぐらいです。

 とは言うものの、完了形は英語学習の関門として立ち塞がり続けます。そりゃ、時制の一致系の問題の主役みたいなものです。こんな曖昧過ぎる定義、位置づけでしか理解していませんでしたから、苦労するのは当然だったとしか言いようがありません。

 これをなんとかクリアというか、受験がクリアできたのは、ひたすら受験のための解答技術の習得としか言いようがありません。ある種のパターン認識で、とのかくこういうタイプの時制の一致系の出題があれば、こう解答するの手法を暗記しまくったぐらいです。

 ここでYoutubeの解説とポイントが少しずれるのを遺憾とさせて頂きます。完了形を理解する以前に、これをそもそも知らなかったのです

    会話では時制を一致させる
 英語では時制が重視されるのは知っています。この時制に関する試験問題を何回やらされたかわからないぐらいです。時制を一致させる小手先の試験技術は詰め込まれましたが、大原則を知らなかったのに人生の黄昏でやっと知った思いです。

 英語でも日本語でも現在形と過去形はありますが、英会話では現在形で会話している時に過去形が出現した時の受け取り様が日本語と全然違うとして良さそうです。英会話では過去とは現在と切り離された事象として扱われます。これもYoutubeの例文にありますが、

    「あれ。どうしたの? 顔色悪いよ」
    「あ・・・へんなもん食った」
 日本語的には青色の文章は現在形で緑色の文章は過去形になります。だからどうだになるのですが、英会話としては、緑色の文章の問いかけに答えていないことになるそうです。それこそ、
    どうして、へんなものを食べたのが顔色が悪いと関係してるんだ?
 こんな感じになるそうです。問いかけが現在形であるのに過去形で答えると別々の事象として認知されるぐらいで良さそうです。この辺の英語概念をYoutubeでは距離として表現していましたが、現在形に過去形で返答したりすれば、そうですね、過去に決着のついた話になるぐらいでしょうか。

 時制が異なる会話とは、まったく異なる時間帯の出来事としてとらえられるぐらいです。ここら辺の概念と言うか使い分けが英語ではシビアとして良く、

    その会話はどこの時点を基準に話しているか?
 これを意識する必要があるぐらいです。ここは単純に現在、過去、未来で良いと思います。とはいえ現在の状況を説明するのに過去からの因果関係を話すのは必要です。つまりって程ではなありませんが、
    へんなものを食った →(腹こわした)→ 顔色悪い
 こういう説明です。ところが英語のルールでは過去形を持ち出しても現在とは関係のない事象とされてしまいます。そのために完了形の説明で聞かされた、
    過去に始まって現在に至るものが現在完了形です
 これが必要になるぐらいです。ここでですが、英語の過去の受け取り方として、
  • 現在と関係ない過去
  • 現在と関係する過去
 この二つがキッチリ分けられて存在していて、現在と関係する過去の表現として現在完了形が必要になっているぐらいです。完了形には時制の一致が求められるので、その正体は現在形で会話していれば現在形で過去を表現する必要が生じます。

 完了形が日本語の概念にないという説明は半分当たりで、半分外れです。日本語にも完了形はあります。ただしそれは過去形に含まれてしまっています。ですから逆に英語圏の人からすれば、大変わかりにくいものになるぐらいで良いかと思います。

 完了形は日本語にないと教えてしまうから混乱する訳で、時制が現在なら過去を二つの概念で区別しているのが英語であると理解すべきだったと思っています。さてその完了形ですが、

    have + 過去分詞
 haveという現在形の動詞を過去分詞に引っ付けることによって現在形になります。ここですがhaveが現在形ですから、文章は現在形になります。こうすることによって、過去の事象を現在形で表現できることになります。紐づけとか、タグ付けみたいな感じとしても良さそうです。それとですが、動詞変化を用いる時に、
    現在形 ー 過去形 - 過去分詞
 この三つのセットを呪文のように暗記しました。ここで現在形と過去形は動詞ですが、過去分詞は動詞じゃないのです。準動詞と表現されることもありますが、むしろ形容詞に近いともしています。過去分詞とは現在より前の時点の動作を表現するための用語ぐらいです。

 それと英語初心者が混乱するのは過去分詞の「過去」にもあります。現在形の文章ならまだ良いのですが、話す時制は現在とは限りません。過去の時もあり、未来の時もあります。過去分詞の過去とは、話している時制より前であるだけであり、たとえば未来の時制で話していれば過去分詞が示す過去は現在より先の事もあるわけです。

 完了形理解で英語初心者がつまづく要因は、日本語ではあえて分けない過去表現を英語ではキッチリ分けている点だと思います。英語とは、

    現在と過去は別物。つまり時制が違う話は関連性がないとしてしまう言語。
 これが根本にあるぐらいです。これは基礎の基礎の話でしょうが、今の今まで私は知りませんでした。よくまあ知らずに試験をクリア出来たものと感心するぐらいです。


 思い起こせば、英語学習では最初に現在形を覚え、次に過去形を覚えたはずです。この辺は文法こそ違いますが、日本語の概念の範疇です。その次に完了形を覚えることになりますが、当時は完了形の型だけ覚えた気がします。つまりは「have + 過去分詞」です。

 ただこれが英語ではどういうものかの概念を教えられなかったと言うか、そもそも何のために必要かの理解は生煮えどころか、生のままで過ごしてきています。もちろん使い方は教えられましたが、それは試験問題を解くテクニックとしてです。

 そうやって進んで行ってしまったおかげで、理解不能の完了形が英語学習のガンになり、それがひたすら巨大化し、鬼のように英語解釈の前途に立ち塞ぎ続けてくれたのが私の英語学習であったと思っています。どこかの時点で、こんな感じでザックリ知識整理をしていてくれたら、あれだけ英語の迷宮を彷徨わなくても良かったのにと、しみじみ思い返しています。

do動詞

 コロナで軟禁状態の時に見たYouTubeです。

 これが面白かったので紹介しておきます。私の解説を読むよりYouTubeを見る方が百倍面白いのですが、それでは引用条件(リンクですから必要ないのは突っ込まないで下さい)を満たさないので駄文を並べておきます。

 はるか中学生の時、それも英語を習い始めたそれも初期のころに疑問文を覚えたはずです。さすがにウロ覚えも良いところですが、これぐらいの説明だった気します。

    文頭にDoを付ける
 たいした話ではなくて、You like meなら、
    Do you like me ?
 初心者ですから英語ってそういう言葉なんだと思ったのですが、いきなりDoが出てくる理由がやっとわかりました。これって大昔は、You lile meではなく、
    You do like me.
 こうだったそうです。当時はdoではなくdahだったそうですが、そこは適宜脳内置換してください。これはもともと名詞であったlikeをdoを付けることによって動詞にしたぐらいの理解で良いかもしれません。ところがいっつも、いっつもdoを付けるのが面倒になって省略されて消えてしまったぐらいです。

 ここに時制が絡んでくるのですが、かつてのlikeは名詞であり動詞はdoです。ですから過去形になる動詞はdoになり、

    You did like me.
 こうなっていたそうです。これがdoを省略してしまったためにdidd(より正確にはed)がlikeの後ろに付けられるなったのです。そうしないと時制がわからないからです。
    You liked me.
 これが疑問文になる時にはdidが甦りますから、likeに付いていたdが不要になり、
    Did you like me ?
 こうなるわけです。ちょっと目から鱗でした。ここから三単現のSの話になるのですが、まずですが一人称とはIであり、二人称とはyouで、それ以外は三人称になります。このその他大勢の三人称ですが、これが単数であるか複数であるかの区別を付けるためぐらいで良さそうです。英語は単数か複数の区別を気にする言語です。

 たとえばsheが主語であるときにこれが単数であるか複数であるかは不明です。英語の基本はSVですから、主語に続く動詞の部分でカタを付けたいぐらいでしょうか。ですから大元は、

    She does like me.
 これで主語であるsheが単数であるか複数であるかが動詞段階でわかる訳です。これもdoが省略されたのでesが動詞の後ろに付け足され、疑問形の場合にはdoが甦ってくるので動詞部分のesが無くなるオリジナルに回帰するぐらいです。

 じゃあ、過去形は・・・ここについては三人称が複数か否かの区別をやらなくなったぐらいです。ここの語源的な話はおそらくかなり複雑みたいで端折ってました。


 こんな調子で多くの英語挑戦者が挫折した基礎の部分から応用編までを、おもしろおかしくぶった切る動画を楽しんでました。こんな動画を中学時代に見ていたら英語学習はもうちょっとラクだったかもしれないと感じた次第です。

余計な一言

 全体の論旨は悪くないのに、余計な一言があるばっかりに台無しになってしまう事があります。こんな時代ですから余計な一言に注目が集まってしまうのですが、擁護意見として、

    切り取り批判だ!
 そういうケースも良くあります。前後の文脈からすれば多少刺激的な面があるにしろさほど問題と思えないところが、そこだけ切り取られることにより、大失言みたいな印象操作です。政治関係の記事で良く見られるマスコミの常套手法です。

 ですが切り取り批判と余計な一言は別物です。切り取り批判の例としては少し古いですが東日本大震災での五百旗頭氏のケースがあります。この時に五百旗頭氏は、

今の首相がバカかどうかという問題のレベルではなかった

 たしかにこう発言されていますが、これをマスコミは高度の創作性を発揮され当時の菅首相の資質を問うべきでないとされています。そうでなかった理由はリンク先に書いてますので説明は省略させて頂きます。


 これに対し余計な一言は、その部分が完全に意味を成している部分として良いかと思います。前後の文脈、全体の文章から考えてもです。見ようによっては完全に浮いている一文であり、この一文で、他にどれだけ良いことが書いてあってもぶち壊しにしてしまうものです。

 その一文は無くてもなんの問題もありません。それさえなければ無難ですし、それどころか良文と出来るほどです。だからこそ余計な一言なのです。正直な感想として、

    どうしてわざわざ書き加えるかな
 こう感じずにいられなくなります。ただ誰にでも誤りはあります。一度のミスで全否定はよろしくありません。本当の問題は余計な一言が誤りなのか、実は本意であるかどうかです。幸か不幸か、その文章を書かれた方はSNSをやられておられたのです。

 まず出てきたのは曲解とか、切り取り批判です。個人的にはスルーにしてしまうか、余計な一言部分だけ謝って終われば良いのにと思っていましたが、あくまでも余計な一言でないと頑張られ始めたのです。

 頑張るのも言論の自由ですが、次々に展開された言い換え例が筆者の真意を強調してしまう結果になったと感じています。結果としては、

    そういう人だったんだ!
 これがしっかりと植え付けられてしまいました。もちろん自分の職業に誇りをもたれるのは良いことです。それが昂じて他の職業を低く見る人も少なくありません。この世には、職業に限らずマウンティングに血眼になられる方は珍しくもないからです。

 この世に聖人など例外的な存在です。私も例外ではありません。内心でドロドロした憎悪や侮蔑の感情を抱くことも多々あります。しかしそんな本音を抜身のダンビラとして振り回すのは宜しくないの常識をわきまえています。多くの方がそうだと考えています。それが社会人としての最低限のマナーでしょう。

 コロナ騒動で心のタガが外れしまった一事象なのかもしれません。私も他山の石として自戒としたいと思います。

政治部記者の感覚

 朝日新聞政治部記者三浦さち子氏の2020.5.24付ツイートです。

20200526090735
 
 いくつかポイントがあるのですが、取材対象である政治家との個人的な信頼関係を結ぶことを強調されています。記者と政治家が信頼関係を持たれても悪いとは言いません。たとえば鋭い質疑応答のやり取りの中でお互いが、
    あいつはやるな
 こんな感じで信頼するとかです。エライ綺麗事を書きましたが、政治に関する取材は対立関係は言い過ぎかもしれませんが、善行記事とか啓発記事のように取材対象と親密な関係を結ぶのが前提と思いにくいところがあったのです。

 政治記事も様々ですが、どうしても目に付くのは政権批判記事です。取材対象は批判されて嬉しいと思う人は少ないと思います。批判とは相手が不快感情を抱くのはセットみたいなものです。いくら記者でも親しい知人を槍玉に挙げて批判は躊躇われる部分も出るでしょうし、やれば信頼関係が崩壊するのは当たり前と思います。

 これは外野からの印象ですが、内実は違うとして良さそうです。現役記者のツイートですから素直に信じるしかありませんが、

酒を飲み、長い時間を過ごし、信頼関係を築く

 この手法って営業の接待じゃないのですか。あれは信頼を得ると言うより、覚えを目出度くしてもらって、情で仕事を取ろうとするのが目的だと思っています。金銭的な面もあるでしょうが、

    あいつには良くしてもらっているから、仕事を回そう
 こういう信頼関係に持っていこうとする行為と思っています。先に断っておきますが、そういう手法を頭から否定していません。業種によっては長年の慣行から必要と言うより、無ければ論外みたいなところもあるだろうからです。かつて医療も医師とMRの間にありましたが、これが厳しく規制されているのは医療関係者ならよくご存じかと思います。

 ここで注目すべきことは現役の政治部記者が、

政治記者のこうした努力を心から尊敬する

 手放しで礼賛されている点です。つまり、営業接待的な取材方法は昨日今日出来たものではなく、長年の努力により確立され常識化していると見るしかないでしょう。政治部記者にとって、恥ずべきことでもなく、世間に胸を張って自慢できるものとしているのは明白です。


 実は最後のところがわかりにくいのですが、

問題は、権力者が知られたくない事実を書くことよりも、「先に書く」ことが優先されていること。

 この「先に書く」ものが何かです。文脈的にはそれは権力者が知られたく事実よりも優先されるとなっています。そうなると権力者が記事にしても良いと許可した事実を他社より早く記事にすることになるのかもしれません。

 それと「先に書く」行為は問題があるとしています。これも素直に受け取れます。そりゃ、知りたいのは権力者が知られたくない事実だからです。しかし、そうすべきであると文章全体から読み取るのは無理があると見ます。

 これも当たり前ですが、権力者の知られたくない事実を記事にすれば、その権力者との信頼関係は無くなります。この点はその権力者を葬り去る代償と見れますが、事はそれだけで終わりません。いつ裏切るかわからない連中と信頼関係を築かない方向にベクトルは動くはずです。

 ツイート全体の論旨を整理しますが、

  1. 営業接待手法による信頼関係構築は尊敬すべきもの
  2. 権力者の知られたくない事実を書かないのは問題

 こう考えて見ることにします。a.は絶対前提と考えると、b.は補足事項と見てよい気がします。つまり、

    a.という手法は素晴らしいが、残念なことにb.という欠点があるのが惜しまれる
 こんな感じで良い気がします。これなら論旨も通ります。そうなると些細な問題点も含むが現在の取材手法は誇るべきものであるとしているぐらいでしょうか。

 世の中は裏も表もあるぐらいは知っているつもりですが、個人的にはツイッターで堂々と書き込める感覚に違和感を感じています。

衒学趣味

 初めて自分専用のネットを敷いたのは20年以上前になるはずです。嬉しそうに見て回りましたが、実はすぐに飽きました。理由は単純でネットにある情報量が乏しすぎたからです。当時から2chはありましたが、最初はそんなものの存在は知りようもなかったぐらいです。

 まだツイッターは愚かブログの草創期ぐらいですから、あるのはカタログ程度のHPばかり。何か調べ物をしたいと思ってもさほど役に立たなかったぐらいです。

 あれから20年。情報量の充実は目を瞠るものがあります。私が欲しい情報の質がその程度なので「とくに」ですが、ほぼほぼ手に入る感じです。この辺はブログの恩恵もあると思っています。ブログは更新するたびに新ネタを考えないといけませんが、あれこれ手を広げているうちに広範囲の分野のかなり詳しい情報が充実したお陰と思っています。


 ある時に論語の一節を調べたくなりました。こんなものはすぐに出てくるのですが、

    巧言令色 鮮矣仁
 学校の漢文レベルで習う有名なものです。解説するほどでもないですが、巧言とは巧みな言葉、おべんちゃらぐらいで良いと思います。令色は愛想笑いぐらいで間違ってないと思います。つまり愛想笑いを浮かべながらおべんちゃらを言うような人に仁は少ないぐらいになります。

 仁の解釈が難しいところですが、孔子がもっとも重んじた道徳ぐらいになります。孔子は具体的に仁の定義をしていないようですが、深い人間愛に基づいた人を思いやる心ぐらいでしょうか。

 どうにも堅苦しい話で申し訳ないのですが、ネットの素晴らしいところで孔子は巧言令色を他にも使っている事がわかりました。

    巧言令色足恭 左丘明恥之 丘亦恥之
 巧言令色に足恭が新たに追加されています。足恭はそのまま読めば足を恭しくするぐらいですが、これは媚を売るぐらいに解釈するようです。

 左丘明とは孔子と同時代の賢人で孔子も尊敬していた人物として良さそうです。春秋左氏伝の作者ともされていますが、これについては論議があるようです。その左丘明が恥じるとまずしています。丘亦恥之の丘は孔子の名で、孔子もまたこれを恥じると続くことになります。

 大意としてはですから愛想笑いを浮かべ、おべんちゃらを言い、媚びへつらうような人は、あの賢者左丘明も恥とし、孔子もまた恥とするぐらいで良いと思います。

 なかなか使い回しが出来そうなフレーズで、とくに後半部分が他に応用が出来そうな気がしたのです。あれこれ捻くり倒していたのですが、ふと気が付きました。

    元のフレーズが有名じゃないとパロディにならない
 衒学趣味も難しいものです。