浦島夜想曲:マリーの仕事(2)

 しかし事態はまたまた思わぬ方向に展開します。まず加納さんが協力してくれるの話だけで、現場の士気は見違えるように上がりました。これも新製品開発で一度は盛り上がったものの、開発予算の乏しさと、開発期間の短さで、

    『ムチャ言われても、無理なものは無理』
 こういう空気が漂っていたのです。カメラや写真業界で加納志織の名がどれほどビッグ・ネームなのかを改めて思い知らされた気分です。

 期待していなかった加納さんの協力ですが、マリーでさえ頭が下がる思いでした。基本コンセプトから関わり、自分がプロとして使ってきた、様々なレンズの使い心地、その特性を技術者たちに熱く語り、自分が本当に欲しいレンズの具体的な要望を納得いくまで何度でも語ってくれています。

 これは開発作業が始まってからも同じで、お忙しいはずなのに必ず週に一度以上は開発現場を訪れ、

    「どう、上手く進んでる?」

 こうやって声をかけて回られます。加納さんが現れるたびに社内の士気の高まりが熱気に変わっていくのをヒシヒシと感じます。もっとも製品の評価は厳しくて試作品を自らテストされ、

    「これがわたしの理想だって。舐めてもらったら困るわよ」

 現場もこれに応えるために懸命です。マリーも大変で開発費がドンドン膨れ上がります。こういう時の判断として、ここまでの開発品で妥協するのも十分考えられるのですが、ここは勝負に出るべきだと判断しました。判断はしたものの、カネが湧いてくるわけではなく、万策尽きて立花副社長に相談にうかがいました。

    「マリー、ロッコールはクレイエールHDの子会社やで」
    「それはわかってますが、クレイエールHDもこれ以上の投資について難しいとの判断がありまして」

 もちろんクレイエールHDにも何度も足を運びましたが、まさに剣もホロロ終わっています。他の金融機関に頼るにも、既に会社の資産は何重もの担保になっており、どこも門前払い状態です。

    「ムダ金はビタ一文も会社にないで」
    「そうなんですが、このプロジェクトは・・・」

 立花副社長はニコニコしながら、マリーの話を聞き、

    「クビかけなアカンで、自信あるんやな」
    「もちろんです」
    「おもしろそうやから、なんとかしたるわ」

 なんとか開発費を確保しました。そしてついに加納先生が納得してくれる新しいモデルが完成しました。ここでなんですが、この新たなフラッグ・シップ・モデルのネーミングも会議でもめにもめていました。そんな時に加納先生が現れ、

    『加納志織モデル』

 これを自ら提案してくれたのです。それだけでなく、そのレンズを使っての作品まで撮って頂き、

    「宣伝に必要でしょ。わたしの名前のモデルのデモ写真を他人に撮らせるわけにはいかないからね」

 新製品の発表も苦悩していました。JJ時代の悪評はしっかり続いています。そんなメーカーの新製品発表にどれほど注目してもらえるかなのです。そうしたら加納先生は、

    「乗りかかった船だから協力するよ」
 まるで魔法を見ているようなものでした。ロッコールの新製品開発に加納さんが深くかかわり、なおかつその発表会に加納さんも出席するとなっただけで、取材申し込みが殺到しました。業界誌や、経済紙はそれこそ全社、これに加えて一般紙、スポーツ紙、週刊誌、さらにはテレビ取材の申し込みがゴッソリです。

 当初は自社ロビーで行う予定でしたが、そんな規模では収まるはずもなく、クレイエール記念ホールを借りての大々的なイベントになりました。その席上で加納さんはレンズの印象を聞かれたのですが、

    「わたしの理想がここにあります」

 この一言の反響がまた凄かった。その日の夕方のニュースとして報じられるぐらいで、流行語大賞の候補にもなったぐらいです。広告費の捻出にも四苦八苦していましたから、本当にありがたかったです。製品評価も上々で、ある批評誌などは、

    『ロッコールの新たな伝説の始まり』
 手放しに近い絶賛の嵐です。超どころでない高級品にも関わらず、予定生産量を大幅に上回る受注が舞い込み、嬉しい悲鳴状態です。マリーの狙いは当たりました。加納志織のブランド力を利用して、ロッコールの不評を吹き飛ばす計画でしたが、これは想定以上の大成功を収めたと言えるでしょう。

 次なる展開は、加納志織モデルより幾分質を落としたライン・アップをそろえて行くことです。加納志織モデルを一〇〇点とすれば、まず九〇点、八〇点クラスのモデルです。とにかく加納志織モデルの価格はトンデモないものでしたから、いくら売れてもたかが知れているからです。

 加納志織モデルが百点の超高級クラスとすれば、九十点・八十点モデルは高級クラスになります。ここも成功を収めましたが、まだこれでは売り上げとしては不十分で、本命はその下のクラスになります。

 マリーは六十点クラスを中級品と位置づけ開発を進めました。この六十点モデル開発は加納志織モデル以上に重要で、質の維持と大幅なコストダウンの並立という難問でしたが、ロッコール技術陣は見事に期待に応えてくれたのです。辛口で有名な批評誌でも、

    『この価格で加納志織モデルに匹敵する出来栄えとは信じられない。まさに夢のモデル。ロッコールの本気がここに詰まっている』
 マリーの戦略は高級品モデルでブランド力をV字回復させ、その品質に近い中級品で販路を拡大するものでした。実際のところはこんな単純な話ではありませんが、ついに単年度ですが赤字から脱却し、経営が軌道に乗りそうなところまで漕ぎ着けました。次はJJが閉鎖したカメラ部門の復活が検討されています。


ロッコール再建も目途が着いた頃に社長にバーに誘われました。

    『カランカラン』

 香坂常務に連れて行ったもらったバーです。なんか社長と二人で飲むのは怖いのですが、

    「まずまずね」
    「立花副社長が支援を決断してくれたのに感謝しています」
    「クレイエールHDが渋ったのは仕方ないわ。でもコトリはマリーの計画を認めてたわよ」

 副社長も一度『ウン』と言ってからは、追加支援も含めて満額回答でした。

    「それと加納先生の協力が得られたのがラッキーでした」
    「シオリもあそこまでやってくれるとはね」
    「本当に感謝しています」

 どうしても謝礼が気になっているのですが、

    「それはこっちで処理しとくから心配しなくてイイわ」

 話は変わって、

    「マリー、ロッコールへのテコ入れは期待通りだったけど、マリーにロッコールに行ってもらったのは他にも目的があるのよ」
    「他とは」
    「ミサキちゃんに聞いてるでしょ。女神の仕事よ」

 ああ、そんな話もあったけど、

    「ロッコールは写真文化振興協会に慣例的な理事枠を一つ持ってるのよ。マリーが社長になれば自動的に理事になってるでしょ」

 十年前はまだロッコールにも余裕があり、協会設立にかなりの資金協力を行ったためです。

    「そうなんですが、あの指示の理由はなんなのですか?」

 これもロッコールに派遣される時に受けていた指示で、理事会ではとにかくたどたどしくしゃべり、話が少しでも込み入ればわからないフリをするように言われてました。理事会は、ほとんどシャンシャンですからとくに不都合はありませんでしたが、

    「マリーは白人じゃない」
    「そうですが、エレギオンHD並びにグループで人種や国籍は・・・」
    「そうなんだけど、言葉の問題で便利なの。白人なら日本語が不十分でも怪しまれないじゃない」

 エレギオンHD本社の公用語はなんと日本語です。マリーもルナに言われてかなり勉強しました。でも国際化時代に今さらと思ったのも確かです。そしたら社長からルナと同じことを言われました、

    『この会社は日本にあるのよ。日本語ぐらいしゃべれなくてどうするの』

 公用語こそ日本語ですが、英語ともう一つぐらいは誰でもしゃべれます。社長なんてしゃべれない言葉がないんじゃないかと思うぐらいしゃべれます。

    「マリーが日本語を話せないのが有利なのですか」
    「ちょっとした駆け引きよ」

 香坂常務に言われた女神の仕事は加納賞に関わることで、その加納賞の主催団体が写真文化振興協会になります。そこの理事として、なんらかの影響力を揮えらしいのはわかりますが、

    「まずね、ロッコールとシオリとの関係は周知のものになったでしょ」
    「はい」
    「マリーが理事としてシオリの味方になっても不自然に見えなくなったじゃない」

 その通りですが、

    「でも理事一人では影響力が限定される気もしますが」
    「まともにやればね。だから大暴れしてもらう。材料はシノブちゃんが整えてくれてる」

 暴れ方はとにかく角を立てろの指示です。ぶっちゃけ大喧嘩して来いみたいですが、

    「そうなれば解任される可能性はありますが」
    「理事の中で、松原理事長、竹本理事、梅木理事、桜田理事の四人は敵よ。でも栗田理事は隠れた味方よ」
    「味方って?」
    「買収済みってこと」

 うわぁ、

    「バレると拙くないですか」
    「問題になるはずないよ」

 社長が買収っていうものだから、賄賂でも贈ったのかと思ったら、スケールが違いました。栗田理事はクリタ製作所の社長なのですが、ここの筆頭株主は丸菱HD。戦前からの名門財閥ですが、グループ企業の丸菱重工のさらに子会社の丸菱航空機が新型旅客機の開発で大きな損失を出しています。

    「資金調達のためにクリタの株を買ってくれって話が前からあったのよ。イマイチ乗り気じゃなかったから保留にしてたんだけど、丸菱さんも困ってたみたいで、値を下げてきたんよね」
    「で、買ったのですか」
    「だいぶコトリに叩かせた」

 これまたうわぁ、丸菱HDも大変な目に遭ったと同情したくなります。とにかく副社長のこういう時の交渉はエゲツナイぐらい辣腕です。

    「まあクリタの二割ぐらいだけど、筆頭株主だからこっちの味方ってこと。もし裏切ったらTOBかけて買収してクビごと飛ばしてやるって釘刺しといた。」

 クリタごときにTOBは大げさ過ぎると思わないでもありませんが、社長が有言実行、いや断行の人であるのは有名ですから、栗田理事も震え上がったはずです。

    「でも過半数はありませんが」
    「そこも考えてある」
    「かしこまりました。具体的にはいつから」
    「もうすぐよ」

 社長から当面の策を授けられましたが、そこまで準備しているのに内心驚かされました。女神の仕事って、こういうものを指すみたいです。

    「もうすぐあると思うわ。その時を見逃したら承知しないよ」
 かなりの臨機応変の力量が試されそうで、期待に応えられなかった時のことを思うと、背筋がゾッとする思いです。

浦島夜想曲:マリーの仕事(1)

 社長に小会議室に呼び出されました。本来なら社長室のはずですが、なぜか使えないので小会議室です。呼び出されたのはマリーとJJことジョナサン・ジョンストン。

    「JJ、あなたのロッコールの仕事は終りよ。マリーに代わってもらう」
    「えっ、もう少し時間を下さい」
    「もう時間と費用の無駄よ。あなたには別の席を用意させてる」

 JJの顔が真っ青になっています。社長がこう言う時は左遷通告なのですが、段階分けがあるのも周知のことで、ちなみに『相応しい席』なら左遷ながらも挽回のチャンスが与えられ、『あなた向きの席』なら努力次第でチャンスはゼロではありません。これが『別の席』となれば、

    『あなたは無能だから不要』

 こう言ってるのと同じ意味です。JJだって良く知っていますから、

    「社長、ちょっと待ってください。今準備を進めてる計画には絶対の自信を持っています。その結果が出るまでは・・・」
    「JJ、話は終ったわ。出て行きなさい」

 怖かった。社長の怖い顔は良く知っていますが、あれが話しに聞く社長の睨みなんだ。関係のないマリーまで震え上がります。JJも口をパクパクさせてるだけで声が出ません。JJは後ずさりしながらドアに近づき、まるで放り出されるように、飛び出していきました。

    「JJも期待外れだったわ。マリー、任せたわよ」

 ロッコールはレンズを主力にした精密機械メーカー。五年前に経営難からクレイエールHDに買収されています。買収後も経営の方は赤字続きで、三年前にテコ入れのために投入されたのがJJです。エレギオンHDでも、これをどうするかが問題になっています。

    「わかりました。お任せ下さい」
 こういう人材派遣による立て直しはしばしば行われ、マリーも初めてはありません。でもロッコールは手強そう。レンズというかカメラ業界はスマホの普及により業界のパイが縮小しています。そりゃ、スマホで撮っても十分綺麗ですし、わざわざカメラを別に持って行くのは荷物になりますからね。そのうえ、スマホなら撮ったその場でネットにアップするのもお手軽です。

 ロッコールも歴史ある企業で、フィルム時代からカメラも販売しており、今でもマニアの間では歴史的名機と珍重されているのもあります。しかしデジタル化には乗り遅れてしまっています。そのために高級品分野での生き残りを目指していたようですが、ニッチもサッチモいかずに身売りとなっています。

 エレギオンHDが買収してからも経営は振るわずJJが送り込まれていますが、JJが何をやったかの検証は重要です。まずは完全なお荷物状態のカメラ部門を閉じています。その上で大規模なリストラを断行し人件費の節減を行っています。

 ここまでは定石通りの支出の削減策です。しかしその程度の支出削減ではまだ赤字で、次は収入の増大策が必要になります。単純には何を売るかです。JJの判断は従来の高級品路線から、中級品・普及品へのシフト・チェンジでした。

 JJの狙いは、高級品イメージのロッコール製品が手頃に手に入るようにしたで良さそうで、この路線チェンジは当初は成果を挙げています。JJの次なる戦略は大幅なコストダウンによる売り上げ増大です。

 そのために中国への委託生産を積極的に展開しています。これも流行の手法ですし、中国製のレベルも高くなっているのですが、JJはやり過ぎたと見て良さそうです。大幅なコストダウンを狙う余りに、製品の質の低下を招いています。ネット時代ですから、欠陥品が一つ出るだけで画像付きでアップされる時代です。出てきた評判が、

    『ロッコール製品にはハズレが多いから買うな』

 このために業績はじりじりと低下。焦ったJJはさらなるコストダウンに走りましたが、質はさらに低下。次には、

    『あれは単なる安物、粗悪品』

 社長がJJをあれほど怒ったのはこの点です。エレギオン・グループは超高級ブランドであるエレギオンの金銀細工師をシンボルとして、高級・高品質をグループ・イメージとしています。これは信用・安心にも連動するので大切に守り育てているのです。この点について社長は何度も強調しており、

    『ミクロ利益の追及に走り過ぎ、マクロ利益を失うことは決してあってはならない』

 JJはエレギオン・グループから見ればミクロであるロッコールの利益を追求するあまり、グループ全体の利益を損ねただけでなく、ロッコールの立て直しすら出来ない無能者と社長はベッタリと烙印を押されています。


 マリーはJJの失敗を繰り返してはなりません。マリーに求められているのは単なる業績回復だけでなく、JJが貶めたブランド・イメージの回復も必要なのです。そのうえ、経営自体に余裕はまったくなく、ある程度の短期間で成果を挙げる必要もあります。

 マリーはロッコールに乗り込んでから、ひたすら現場を見て回りました。これはパリのルナに叩きこまれています。現場を知らずして、経営なんて出来ないってところです。もちろんマーケティング調査も並行して行わせています。

 現場はJJが行ったドライなリストラ、厳しいコスト・カットで疲弊と士気低下がありましたが、意外なほど熱いものを感じます。単純化すれば、

    『うちの力はこんなものじゃないはず』

 現場の声としてJJの行った安物路線への反発は強く、高級品路線で勝負したいの思いが、かなり強いと受け取っています。マーケティング調査の方も似たような結果で、

    『名門ロッコールに相応しい製品なら買う』

 ならば高級路線に戻せば話が済むかといえば、そうではありません。その路線で行き詰まり身売りになってるからです。ルナに教えられた経営哲学を思い起こしていますが、

    『売りたいものと、買いたいものは同じじゃない』
 今回であれば客が求める高級品を出せば、それなりには売れるでしょうが、それだけではロッコールの再建は無理です。客層を広げて、売り上げを増大させる戦略が求められるのです。

 マリーの判断として、まず新たなフラッグ・シップ・モデルを開発し投入することにしました。これについて社内は沸き立ちました。JJ時代はひたすら安いものを作る事を求められた反動だと見て良さそうです。

 ここでマリーが求めるフラッグ・シップ・モデルは、単なる新製品ぐらいじゃダメなのです。JJ時代の不評を一掃し、世間が驚かせる強烈なインパクトが不可欠なのです。この点に苦慮する事になります。

 そんな時に耳寄りなニュースが飛び込んできました。あの加納さんが現役復帰をするというのです。このニュースは大きな話題になっています。加納さんは三度ほど会った事があり、顔見知りです。さらにエレギオンの四女神と一緒に旅行をするぐらい親しいですし、香坂常務によると。

    『エレギオンHDのVIPぐらいに思ってたらイイわ』

 調べてみると加納さんはロッコール製品の愛用者でもあるようです。マリーはオフィス加納復活祝いをかねて秘策を抱いて挨拶に伺いました。

    「マリー、かつてのロッコールはわたしも好きだったわよ。でもね、今のロッコールには魅力は無いわ」

 これが現状であるのは良く知っていますが、話はここからです。

    「では先生の求める理想のレンズとは・・・」

 これについてはさすがで、語り始めると段々に熱を帯びてきます。脈はあると見て、マリーの秘策を出すことにしました。

    「先生が理想とするレンズを一緒に作り上げたいのです」

 ここが難関で、加納さんはCM関係には出たことがありませんし、こういう協力は好まないの評判があったからです。でも思いがけない展開となり、

    「おもしろうそうじゃない。ロッコールには愛着あるし、やってもイイかな」
 最大の難関があっさり越えられたのでホッとしたのですが、次の難関はギャラです。加納さんへの撮影依頼料は日本一、いや世界一として良いものです。こういう協力に相応しい依頼料はいくらかがまずあります。

 それと悔しいですが、ロッコールにカネがありません。マリーはエレギオンHDからロッコール再建のために派遣されていますが、ロッコールはクレイエールHDの子会社で、金融支援はクレイエールHDからになります。

 これも買収以来の赤字続きで、クレイエールHDの財務責任者はマリーの顔を見るだけで、これ以上はないぐらいの渋面になります。エレギオン・グループ全体の方針としてロッコールはまだ潰さないだけは決定していますが、

    『余計なお荷物、無駄飯食い』

 こういう状態で、マリーが打ち出したフラッグ・シップ・モデル開発資金の調達も泣き落とし状態で、まさに冷やかに、

    『アンダーウッド社長、クレイエールHDは打ち出の小槌ではありません。日本には、仏の顔も三度までって言葉がありますから覚えておいて下さい』

 そうやって調達した開発資金もお世辞にも十分とは言えません。要求額の半分をなんとか引き出せたに過ぎないのです。そうなんです、そもそも加納さんに顧問料なり、監修料を払う余裕さえロッコールにはないのです。でも、タダってわけには行きません。どこから切り出そうと悩んだのですが、直球勝負で挑んでみました。

    「先生、申し訳ないのですが、協力料は・・・」

 これまた加納さんの反応はマリーを驚かせました。

    「ああ、ギャラ。写真じゃないからいらないよ。ボランティアにしとく」
    「それではあまりにも」
    「カネないんでしょ。この加納志織がチンケなカネで仕事を引き受ける方が名を穢すわよ。まあ、いくら稼いでも棺桶まで持って行けないのもあるしね」

 ボランティアならカネはかかりませんが、その代わりに、どれほどの協力があるかが不安になりました。ここはもう割り切って考えるしかなさそうで、新製品の開発に加納さんが関わっただけで満足しないといけなさそうです。

浦島夜想曲:バーでの密談

 夢中で半年ほど過ごして、

    「サトル、飲みに行くよ」

 食事の後に連れて行かれたのはバー。

    『カランカラン』

 白髪の老マスターが

    「これは加納先生、お久しぶりです」
    「マスターも元気そうでなによりね」

 バーなんて慣れてないもので、

    「わたしはマンハッタン。サトルは」
    「えっとえっと。こういうところはあんまり縁がないもので」
    「そうだったわね。マスター、モヒートにしてあげて」
    「かしこまりました」

 カクテルが来てカンパイしたところで、

    「お待たせ」
    「こっちも今来たばっかりよ」

 あの若い二人組です。

    「どう星野君は」
    「頑張ってるけどね・・・まだまだね」

 やっぱり、まだそれぐらいの評価か。

    「ダメなの」
    「そうじゃないよ、技術だけならとっくに一流よ。でもね、技術だけじゃ食えないのがこの世界。殻を破って自分の世界をつかむまで、もう少し時間がかかるかも」
    「厳しいのね」
    「あったりまえよ。そんなに簡単に食えるのなら、世の中カメラマンだらけになっちゃうでしょうが」

 シオリ先生がボクに期待してるのは、そこまでのレベルと改めて思い知らされました。

    「で、毎晩なの」
    「なんの話よ」
    「もちろん燃えるほうよ」
    「ユッキーやコトリちゃんと同じにしないでちょうだい」
    「ホントに」

 なんの話だろう。

    「ホンマにシオリちゃんは最後に必ずさらっていくからなぁ」
    「さらってないよ。写真の弟子だよ」

 それにしても三人並ぶとまさに美の競演。

    「星野君、悪かったね」
    「なにがですか」
    「加納賞、落選しちゃったでしょ」
    「力不足でした」

 ここでシオリ先生が、

    「あの審査腐ってるわ。なんであれが入選で、サトルが落選なのよ」
    「あれっ、下の名前で呼び合う仲なんだ」
    「だから、カズ君を裏切る気なんてあるわけないじゃない」
    「どうだろ」

 お二人にもオーダーが来たのでカンパイ。

    「ユッキー、難しそう?」
    「ちょっと細工に手間取っちゃって。時間がもう少しあれば加納賞に間に合ったのだけど」

 ここでもう一人の方が、

    「さらわれたんは悔しいけど、星野君に取ってはシオリちゃんの弟子になって良かったとは思とるで。加納賞とるよりエエんちゃうか」
    「だから、さらってないって。まあ、来年からの応募資格なくなっちゃったけど」

 これはオフィス加納の内規みたいなもので、シオリ先生の弟子は応募しない事になっています。

    「でも時間をかけた分だけ、おもしろなってる部分もあるで」
    「でしょうね。また聞きたいわ」
    「近いうちにね」

 ここでお二人が突然ボクに向かって、

    「それにしても星野君が年上趣味とはね」
    「そうやそうや、コトリとユッキーの方が見た目が若いから絶対有利やと思てたのに。ここまで年増好みとはおもわへんかった」
    「油断だったよね、コトリ」
    「ホンマやでユッキー、やっぱりあの夜にお月見とシャレこんだんが失敗やった」

 お月見ってなんの話だろう。

    「そういえば、請求書がまだ来てないんだけど」
    「あれは復活祝いよ」
    「うちは乞食じゃないよ」
    「もちろん元は取らせてもらうわよ」

 そこから何やら相談があり、

    「それだったら費用払うわよ」
    「でも受け取ってるじゃない」
    「やったな」
    「でもオモシロそうでしょ」
    「まあね、ある意味、フォトグラファーの夢みたいなものだし」

 そこで二人は笑いながら、

    「シオリ、ひょっとして結婚祝いと勘違いしてたとか」
    「するわけないでしょ」
    「そうや、勝負はまだ終わってへんで。あれは敵に塩を送る余裕やからな」
    「だから・・・」

 再びボクに話が、

    「五人の中で誰が一番好みだったの?」
    「えっ、その、誰って言われても」
    「やっぱりシオリだったの?」
    「先生は尊敬する師匠です」

 でも本音で言うとシオリ先生が一番です。シオリ先生は口癖のように、

    「八十のババア」

 こう仰いますが、どう頑張ってもそう見えないのです。なんだかんだと話がありましたが、

    「ボチボチご老公の出番があるかもしれへん」
    「誰が御老公なのよ」
    「その時は頼むわ」
    「わかってる」

 それにしても誰なんだろう。帰りに、

    「あのお二人は誰なのですか」
    「香坂さんの上司よ」

 たしか香坂さんは会社のエライさんだったはず。エライさんのさらに上っでどういうこと。

    「サトルにそんな事を考えてる時間はないわよ。ここで伸びなきゃ、ただのカメラ小僧で終わっちゃうよ。二十四時間、寝てる時でも考えててちょうどイイぐらいだよ」

 これも前にシオリ先生に聞かせてもらいましたが、先生が自分の世界をつかむ時には、素っ裸で写真を撮っているのさえ気づかなかったそうです。

    「見られたのが、死んだ旦那だったから良かったようなものだけどさ」
 よっしゃ、明日こそシオリ先生をギャフンと言わせてみせるぞ。

浦島夜想曲:加納志織復活

 加納先生が仕事を再開されたのはビッグ・ニュースとして報道されました。記者会見も開かれたのですが、

    「突然の復帰の目的は」
    「写真を撮るため」
    「復帰の理由は」
    「写真を撮るため」
    「ブランクの影響は」
    「あれは充電期間。これからの仕事を見てもらいます」

 ここで若手の記者がやらかしました。

    「加納志織は八十歳のはずですが、あなたは本当に加納志織なのですか」

 そしたら加納先生は、

    「君、若いね。若いってイイことだよ。疑うなら、そのあたりのオジサン記者に聞いてごらん」

 その日から事務所の電話は鳴りっぱなし状態です。予定は見る見る埋まっていきます。これも、なかなか呼べなかったのですが、

    『シオリ先生』

 なんとか呼べるようになりました。シオリ先生はボクにも仕事をバンバン回して来ます。仕事が終わると必ず指導が入ります。ボクが撮った一枚一枚すべてです。

    「サトルの仕事は甘いよ。プロは一枚の写真に命かけてるんだ。まだアマチュア気分が残ってるから、この程度の仕上がりで満足しちゃうんだよ。わたしを唸らせる写真を撮るんだよ。弟子は師匠を踏み越えるのが仕事だよ」
    「先生を越えるなんて・・・」
    「バカ言ってんじゃないよ。越えなきゃ、一生わたしの下のランクで燻るだけだよ。二十四時間写真のことを考えるのよ。他はなにも考えなくてイイからね。そのために事務所復活させてるんだ」

 弟子なら必須の仕事であるはずの下働きはここではありません。雑用はすべてスタッフがやり、ボクは一人前として扱われ、写真に専念する体制があります。例外かと思ったのですが、

    「シオリ先生はいつもあんな感じよ。下働きが必要なレベルの弟子にはさせるし、そうじゃなければ写真に専念させる。サトルはかなり買われてるよ」

 シオリ先生の弟子に、誰もがあれだけなりたがったのが良くわかります。これだけ手取り足取り教えてくれるところなんてないと思います。そのうえ、今の弟子はボク一人。あの世界の加納志織が付き切り状態なのです。でも甘くなくて、

    「わたしのマネをするんじゃない。わたしの技術を盗むんだよ。盗んで自分の物にして、誰にもマネのできないものに育て上げるのよ。だからこの写真はダメ。小手先の小細工しすぎ。この仕事はやり直し」
    「何度いったらわかるの。サトルは加納志織のコピーじゃないよ。サトルの写真を撮らなきゃ価値はないのよ。サトルだけにしか撮れない世界を撮るのよ。その世界が切り開けないのならプロなんてやめちまいな。これは全部ボツ。一からやり直し」
    「こんなものじゃ商品にならないよ。小綺麗なだけじゃない。この程度だったら、高校の写真部のカメラ小僧だって撮れるわよ。プロはアマチュアが撮れない写真を撮れるからオマンマが食えるんだ。顔を洗って出直しな」

 シオリ先生は安易に型にハマるは毛嫌いされておられ、

    「だから前にも言ったでしょ。アングルは角度で決めるんじゃなく。結果としてベストになるのが正解。サトル、あんたは入り方を間違えてるよ。まず被写体を見るのよ。見れば自分の写真にしたいアングルが見えるし、決まるんだ」

 シオリ先生は光の写真でも有名ですが、独特の構図をもたらすアングルがあり、加納アングルとも呼ばれています。カメラ好きなら誰もがマネをするのですが、誰もシオリ先生には遠く及びません。ボクもチョット真似したらこのザマです。そんなシオリ先生の写真哲学ですが、

    「今どきの写真は後で小細工がたくさん出来るけど、ローの時点で完成しているぐらいのものを撮るのよ。連写も使うなとは言わないけど、機関銃をぶっ放して、その中で一発の当りを期待してるようじゃ伸びないよ。基本は一発で撃ち抜くこと。写真は動画じゃないんだから」

 シオリ先生が撮った写真は、この言葉通りのものです。作品に出すのは一枚ですが、ボツにしている写真でさえ、その完成度の高いこと、高いこと。そのハイ・レベルの中から、さらに最高の一枚を選び出すのですから、今の地位があるのがわかります。ボクの腕ではいつになったら追いつくのか想像も出来ないのですが、とにかく仕事を次々に任されるもので、つい、

    「先生、これじゃ、足を引っ張るばかりで申し訳ありません」
    「泣き言は聞かないよ。サトルに一番足りないのは真剣勝負の心構え。そのシャッターを押す指に命を懸けてる? 失敗すれば死ぬぐらいの覚悟を持ってる? それが普通に出来るがプロだよ。サトルにはそれが全然足りていない。いつになったら遊び気分が抜けるんだ。イイ加減にしやがれ」

 もうボロカスですが、でもこれに重ねて、

    「サトルもオフィス加納の看板背負ってるのよ。サトルわかってる。わたしが死んだら、あんたがこのスタジオを食わせなきゃいけなんだよ。根性ださんかい」

 言葉とは裏腹にどれほどの期待をかけられてるか怖いほどです。スタッフからも、

    「サトルは見込まれてるで。あれだけ熱心なシオリ先生は久しぶりや」
    「よほど期待してるんだと思うわ」
    「あのレベルでダメだしするのなんて滅多に見ないもの。頑張りなさいよ」
    「サトルならシオリ先生の跡を継いでオフィス加納の看板を背負えるかもよ」
 心温かい励ましをいつももらっています。これだけの先生とスタッフに囲まれて物にならなかったら男じゃありません。いつの日か、いや一日でも早くシオリ先生を唸らせる写真を撮ってみせます。

浦島夜想曲:弟子入り

 熊野古道で出会った五人組の女の子のグループはこの世のものとは思えません。マジで現実に自分の身に起った出来事とは思えないのです。世の中には美人とか、美女と呼ばれる女性はいますが、そういうレベルを越えてるのです。

 ボクだってカメラのプロを目指してスタジオに勤めていた時期があり、そこでモデルさんとか、女優さんとかの撮影現場に立ち会ったことがありますが、そのクラスの美女でさえ吹き飛ばすぐらいです。それも五人そろってです。彼女らは人じゃなくて、天使とか女神クラスだと確信しています。

 そういう美女に出会っただけでもラッキーなのに、向こうから声をかけられて、熊野古道をガイドしながら一緒に歩き、偶然とはいえ同じ宿に泊まり、夕食まで御一緒しています。あのお昼のお弁当タイムで、

    「ほら、ア~ンして」
 これを二人がかりでやられた時は、このまま死んじゃうんじゃないかと思うぐらい幸せでした。翌日は、ボクが大雲取越、彼女らは熊野川下りで別れましたが、今回ほど大雲取越が味気なかったことはありません

 カメラは中学の時から熱中していまして、大学を中退して東京の新光スタジオの飛び込んだのが二十歳の時。そこで認められたのか大手のスタジオ・ピーチに引き抜かれた時は、これでプロになったと舞い上がったものです。

 でも現実は厳しかった。自信をペシャンコにされて一年で退職。あの時は心身ともにズタボロで一年ぐらい引きこもり状態になり、カメラなんか二度と触るものかと思ってたものです。

 でもカメラ好きなんですよね。実家の手伝いをしながら趣味と半分割り切りながらまた再開しています。美女五人組にプロを目指していると言ったのは半分ぐらいはウソで、半分ぐらいはホントです。最後の未練が加納賞への応募でした。結果ですか? やはり落選でした。さすがに潮時の気がしています。


 美女五人組の中でとくに気になったのがシオリさん。理由はカメラ女子だったことです。どうしてもカメラにこだわる自分がいますが、それにしても凄いカメラ持ってました。あれはライカのMPですよ。本体だけで軽く百万円を超えるもので、ちょっとやそっとで持つことなんて出来ません。

 恥ずかしながらあのカメラはスタジオ勤務時代に見た事だけはありますが、触ったことがなかったのです。ですから集合写真を撮らせてもらった時にはちょっとした感動ものでした。それがカメラ係を頼まれて、あの日はずっと使わせてもらったのです。あれはあれで夢のような時間になりました。


 シオリさんって何者なんだろうと思っています。ライカMPを持ってるぐらいですから、お金持ちのお嬢さんかもしれませんが、それでもファッションで気楽に持てるようなカメラじゃないのです。それに明らかに使い込んでるのもわかります。

 それとカメラを構えるあの姿勢。民宿の時に見ましたが、あれは相当どころでない年季が入っています。ボクだってプロの端くれですが、あれだけ自然にあの構えが出来る人はそうはいません。

 もっと決定的というか、あれは衝撃的とした方が良いかもしれませんが、悪いと思ったのですが、シオリさんが撮っていた分をコッソリ見たのです。なにかアドバイスでもして、話をするキッカケにしようの下心です。

 数枚しか見れなかったのですが、アドバイスなんかできるレベルじゃありません、アングル・構図・色出しとも文句のつけようがないのです。それも撮ってる写真がすべてそうなのです。そうなんです、何枚かに一枚の偶然ではなく、すべてそう撮るように計算され尽くされているのです。

 あれはカメラ女子なんてレベルじゃありません。カメラ談義もしましたが、今から考えると本とかで読んだ知識でなく、実際に使い込んでの経験談としか思えないところがあります。それもあれだけ多彩な機種についてです。

 請川で美女五人組と別れる時にシオリさんにお願いしました。熊野古道でボクがライカで撮った写真を送ってくれないかです。自分がどう撮ったのかも知りたいのがありましたが、五人組の写真が欲しいのもありました。

 もっと本音で言うと、なんとかつながりを持ちたかったからです。シオリさんは快く了承してくれて、連絡先の交換に応じてくれています。ただ、連絡はなかなかありませんでした。やっぱり旅の途中の通りすがりに過ぎなかったとあきらめかけていた頃にシオリさんから手紙があったのです。

    「良ければ、撮った写真を一緒に見ませんか」
 こういう内容だったのです。ビックリした、ビックリした。喜んで連絡を取って、シオリさんがお住まいの神戸を伺う事にしました。精いっぱいオシャレして、これもシオリさんのリクエストで、これまでボクの撮った写真も持参してです。

 自宅に来て欲しいと言われて余計に心臓がドキドキしてたのですが、住所を目当てに訪ねてみると立派過ぎる豪華マンション。それも最上階で、これも腰を抜かしそうになったのですが、この豪華マンションの最上階はシオリさんの部屋しかないのです。まさに何者って謎だけが深まります。表札には『山本』ってあるので山本シオリさんが本名かな。

    『ピンポン』

 現われたのはシオリさん。旅先で見た時も綺麗でしたが、さらに綺麗で大げさでなく目が潰れそうです。世の中にこれほど美しい人が存在するんだと心臓は完全にバクバク状態です。広いなんてものじゃないリビングに案内されて、お茶を頂いたりしましたが、

    「写真見ようか」

 連れて行かれたのは別の部屋ですが、これも写真編集専用の部屋のようです。そこからまず旅行の時の写真の批評が始まったのですが、実に的確でかつ手厳しいものです。

    「これはなかなかイイよ。でもね・・・」
    「こういう表情のとらえ方はセンスだね。欲を言えば・・・」
    「これは失敗ね。日の丸構図が全部悪いわけじゃなけど、こういう場合はね・・・」

 続いてボクが撮ってきた写真も見てもらったのですが、

    「ほぅ、思った通りだわ。なかなかやるじゃない」
    「これはイイね。こういう狙いは好きだよ。でもどうせなら・・・」

 夢のような時間です。ここでシオリさんの写真をせがんで見せてもらいました。

    「こ、これは・・・」

 完全に絶句。雑誌や写真集で見たことがあるものですが、それが次々と、ようやく絞り出せたのは、

    「光の写真・・・」
    「良く知ってるね」
    「世界の写真家でこの写真を知らない人がいればモグリです。でも、でも・・・」
    「騙したみたいで悪かったね。そうだよ加納志織だよ」

 シオリさんが加納志織に良く似ているのは旅行の時から気づいていました。加納志織が年齢より異常に若く見えるのも聞いたことがあります。それでもですよ、どこをどう見たって二十代半ば過ぎ。肌だってツヤツヤ、シワ一つありません。

    「若く見えるから驚くよね」
    「あ、はい」
    「八十のババアだよ」

 そう言って見せてくれたのが旦那さんとのツーショット写真。旦那さんは二年前に亡くなられたようですが、結婚当初からのツーショットが並べられます。御結婚されたのが三十五歳の時だそうですが、旦那さんは歳とともに老けられていくのに対し、シオリさんは結婚当初からまったく変わっていません。

    「体質かな? 敬老パスも使いにくいし、優先座席も使いにくいからイイ迷惑だよ」

 そう言って敬老乗車証も見せてくれましたし、運転免許証も見せてもらいました。

    「免許の更新も大変で高齢者講習とか認知症のテストとかあってウンザリよ」

 もう信じるしかありません。とにかく光の写真が撮れるのは世界で加納志織ただ一人なんです。おもわず、

    「不老不死なんですか」
    「不老なのはそうだけど、不死じゃないみたいよ。だからいつ死んでもおかしくないってこと」

 リビングに戻ってから、

    「星野君、知ってると思うけど今は引退して隠居状態なのよ」
    「は。はい」
    「隠居のままで朽ち果てようと思ってたけど、あの旅行でちょっと気が変わったんだ」
    「一緒だったのは同級生みたいな話でしたが」
    「それは機会があれば教えるかもしれない。今は聞かないでくれる。それと星野君はわたしの事を好きかもしれないけど、悪いけどやめてね。八十のババア相手にお熱じゃシャレにもならないよ」

 どうにも見た目と実年齢のギャップが物凄すぎて、

    「その代りにチャンスをあげたい」
    「なんですか」
    「弟子になる気はある?」

 えっ、えっ、えっ、ボクが加納さんの弟子。現役の頃の加納さんには弟子入り希望者が殺到してました。ですから弟子になるには、かなりどころでないハードルがあったのは知られています。ボクも聞いただけであきらめています。

    「江戸紫のとこにいたんだってね」

 さすがは加納さん、桃屋先生のニックネームをよくご存じで、

    「あそこで一年もいて潰されなかった根性は褒めてあげる」

 たしかにひどかった。

    「で、どうだい?」
    「加納先生、よろしくお願いします」
    「甘くないよ、しっかり付いておいで」

 そこからあちこちに電話をかけ始めて、

    「今日はどうするの」
    「和歌山に帰る予定ですが」
    「このままいなさい」

 バタバタと自分の人生が変わる気がしています。翌日は下宿探しと生活必要品の購入です。そうしたら先生から、

    「明日中にケリつけなさい。明後日から忙しくなるよ」
    「仕事ですか」
    「大掃除だよ」

 先生に指定された住所に行って見ると。そこはなんとあのオフィス加納。

    「やっと来たか。しばらく閉めてたから、今日は大掃除だよ」

 先生以外にも何人かいますが、

    「無理言って手つだってもらってる」
    「シオリ先生、無理なんかじゃありません。呼んでもらえてどれだけ嬉しかったか」
    「先生がスタジオを再開されるのなら、何をさて置いても飛んできますよ」

 どうも以前のスタッフみたいです。手伝いは時間とともに増えて行き、

    「どうして、ボクに声をかけてくれなかったのですか」
    「私だってそうですよ。聞かされてビックリして飛んできました」
    「先生、冷たいじゃありませんか。真っ先に声をかけてくれると思ってたのに」

 オフィス加納ってこんな雰囲気なんだ。ボクも紹介されましたが、

    「星野君っていうのか、頑張ってね」
    「再開したオフィス加納の将来は君の肩にかかってるよ」

 日も暮れた頃に、

    「シオリ、ずるいぞ」
    「やっぱりさらって行く気やろ」

 あの二人は民宿で一緒だったお二人。

    「星野君、特別に教えてあげるわ。シオリちゃんは若そうに見えるけど・・・」
    「八十歳ですよね。先生に教えて頂きました」

 そしたら笑い出し、

    「今日はコトリとユッキーが腹いっぱい食べさしたるで。オフィス加納の復活祝いや」

 連れてかれたのは、なにやら高そうなお店です。

    「ユッキー、悪いわねぇ」
    「これぐらいはしないとね。そうそう、ここのお肉はコトリの推薦よ」
    「美熊野牛」
    「ちがうよ神戸ビーフ」

 鉄板が備えられたカウンター式で、コックが目の前で大きな肉を焼き上げてくれます。肉だけでも凄いのですが、アワビや伊勢海老などの海鮮も次々に焼かれます。そのうえ店はなんと貸し切り。お二人は、

    「何人になるかわからなかったからね」

 盛大に食べて飲んで大満足です。なにやら三人で話をしてましたが、

    「傷んでるでしょ」
    「六年も閉めてたから、さすがにね」
    「明日、行かせるわ」
    「悪いわね」
    「これも開店祝いの内だよ」
    「香坂さんが怖いんじゃない」
    「それはそれ、ミサキちゃんとの駆け引きも楽しみのうちよ」

 翌日にはリフォーム関係の業者やら、水回り関係の業者やら、カメラ機材の業者やら、広告や看板業者やらドット押し寄せて来ます。旧スタッフも対応にてんてこ舞い状態。そこに熊野古道でこれも御一緒した香坂さんがヒョッコリ現れて、

    「ちょっとお手伝いさせてもらいます」

 香坂さんはいきなり仕事を仕切り始めたのです。オフィス加納の旧スタッフに小声で聞いたのですが、

    「どうなんですか」
    「いやぁ、あれこそプロの仕事だ、ボクではあそこまでは・・・」

 それは見ているだけで感じます。まさにオーケストラの指揮者のように仕事に段取りを付けて行きます。香坂さんは物腰も物言いも穏やかで柔らかいのですが、業者の反応がまるで怖がってるというか、腫物に触るような感じで、

    「もうちょっと早くならないのですか」
    「申し訳ありません、この予定の半分、いや三分の一で仕上げさせます」
    「内装デザイン案は明日出来ますか」
    「必ず朝一番に、いや今日中に必ず」
    「看板案は持って来てないのですか」
    「もうしわけありません。午後には必ず」

 加納先生に、

    「香坂さんって何者なんですか」
    「あん、会社のエライさん」

 オフィス加納の再開はハイ・ピッチで整っていき、やがて打ち上げ、

    「みんな悪かったね。明日からはもうイイよ」

 そしたら、

    「シオリ先生、それはないですよ」
    「そうですよ、星野君と二人でどうしようって言うのですか」
    「でもみんな仕事があるでしょ」

 そしたら、一斉に立ち上がり、

    「シオリ先生、今勤めてるところがクビになりました。こちらに就職できませんでしょうか」

 シオリ先生は豪快に笑って、

    「みんな馬鹿だねぇ、あたしは八十のババアだよ。明日死んだって不思議ないし、そうなりゃ失業だよ」
    「それでもかまいません、一緒に仕事をさせて下さい」
 オフィス加納が日本一のスタジオと呼ばれた理由が良くわかりました。