光秀と言えば本能寺なんですが、今日は信長公記の該当部分からピックアップしてみます。
話は武田攻めからしたいのですが、天正10年3月11日に勝頼自害、3月13日に首実検となっています。その後に信長は駿河を回りある種の遊覧を行い4月21日に安土城に帰還しています。信長公記でも駿河遊覧部分は詳しく書かれていますから、太田牛一も同行していたんじゃないかと思われます。武田攻めの後に駿河が家康の領国となるのですが、その礼として家康と穴山梅雪が安土を訪問します。
信長公、当春、東国へ御動座なされ、武田四郎勝頼・同太郎信勝、武田典厩、一類、歴々討ち果たし、御本意を達せられ、駿河・遠江両国、家康公へ進めらる。其の御礼として、徳川家康公、並びに、穴山梅雪、今度上国侯。一廉御馳走あるべきの由侯
家康は5月14日に番場宿(現在の米原あたり)に到着し、ここでは惟住五郎左衛門(丹羽長秀)が仮御殿を建てて接待しています。安土には翌日到着したようで、
五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。御宿大宝坊然るべきの由、上意にて、御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、京都・堺にて珍物を調へ、生便敷結構にて、十五日より十七日まで、三日の御事なり。
安土での家康の接待係は光秀であったようで、5月15日から5月17日まで担当したと太田牛一は記録しています。
この日が一つのポイントで備中高松から秀吉の使者がやって来たようです。秀吉からの連絡は備中高松城の水攻めが順調に進行し、毛利の主力軍の釣り出しに成功しているから信長の出馬を要請したぐらいで良さそうです。これに対して信長は、
信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふるところに侯間、御動座なされ、中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨
決戦で毛利主力軍を叩き潰す絶好の機会と判断したと見て良さそうです。そのために
上意にて、堀久太郎御使として、羽柴筑前かたへ、条々仰せ遣はされ、惟任日向守、長岡与一郎、池田勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛、先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だれ、則ち御暇下さる。
家康接待から突然の中国出兵による接待役解任のあたりは、光秀怨恨説の原因の一つとして歴史小説や時代劇でよく描かれるシーンですが、実際のところはどうなんだろうってところはあります。少し日を遡らせるのですが
四月廿一日、安土に御帰陣。さる程、四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ侯につきて、御人数御催なされ、五月十一日、住吉に至りて御参陣。四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意半に候。
4月21日は信長が武田攻めの後に駿河遊覧を経て安土に帰還した日ですが、さっそく新たな戦略目標として四国作戦を発令しています。御大将は信孝となっていますが、実質的な方面司令官は丹羽長秀です。この事は光秀も知っているはずで、長秀が四国担当となると織田家の主要軍団は、
この頃の織田家は五大軍団とされますが、そのうち四つが使用中で手が空いているのは明智軍団だけです。光秀も中国戦線のあらましは把握しているはずなのと、信長はいざ決戦となると兵力の集中を行うのも良く知っているはずで、光秀なら毛利との決戦に動員されるのは容易に予想できそうな気がします。つうか明智軍団は丹波攻めの後は手空き状態ですから、信長から準備命令が予め下っていても不思議とは思えません。光秀が中国出陣を命じられた事が「予想外」で憤慨したというのはどうだろうってところです。それと人使いが荒いのは信長の特徴で家康接待役も光秀の後任は、
五月廿日、惟住五郎左衛門・堀久太郎・長谷川竹・菅谷玖右衛門四人に、徳川家康公御振舞の御仕立仰せつけらる。
丹羽長秀は四国作戦準備中の真っ最中ですが呼び出され、堀秀政は5/17に秀吉への使者に立ち、とんぼ返りで接待役を命じられています。世は戦国ですから家康接待より毛利作戦が優先されて当然であり、また武士としての功名手柄は殿中でなく合戦場にありますから、光秀がそれほど遺恨を抱く要因になりにくいってところです。光秀も昨日今日に信長の臣下になったわけではありませんからね。つうか織田家ではこの程度は日常茶飯事の気がしないでもありません。
安土から近江坂本には命令を受けた5/17に帰還していると思いますが、本能寺に至るまでの光秀と信長の動きです。
月 | 日 | 光秀 | 信長 |
5月 | 17 | 中国出陣の命令により坂本に到着 | 光秀に中国出陣を命じる |
18 | * | * | |
19 | * | 総見寺にて能興業 | |
20 | * | * | |
21 | * | 家康上洛 | |
22 | * | * | |
23 | * | * | |
24 | * | * | |
25 | 坂本から丹波亀山に出発 | * | |
26 | 丹波亀山到着 | * | |
27 | 愛宕山参籠 | * | |
28 | 連歌興行 | * | |
29 | * | 上洛のために安土出発 | |
6月 | 1 | 本能寺 |
神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度まで籤を取りたる由、申侯。
このエピソードは太田牛一が目にするはずもないので後日談として聞いたと思われますが、書き留めるぐらいですから実際にあった話だと見て良さそうです。太田牛一も本能寺と合わせて
惟任日向守心持御座候や
愛宕山参籠の時点で光秀が本能寺を決断したんじゃないかぐらいの感想を書いています。でもって連歌興行の発句には有名すぎる歌を光秀は詠んでいます。
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ときは今あめが下知る五月哉
光秀が最終行動を起こした部分の描写です。
六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心を企て、、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り侯ところを、引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津の国の地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申しつく。
亀山から本能寺のルートは足利健亮氏の考察が面白かったのですがそれは置いといて、ちょっとだけ気になったのは光秀は最初に西に向かってから引き返したとしています。最後まで決断に迷ったのでしょうか。最後に本能寺での有名なシーンの部分です。
是れは謀叛か、如何たる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し侯と、言上侯へば、是非に及ばずと、上意候。
信長が「是非に及ばず」と言ったのは有名ですが、その前の森蘭丸の返答は
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明智が者と見え申し侯