明智光秀ムック3

復習・補充・まとめ編です。

遊行三十一祖 京畿御修行記

光秀関係の記載部分を大谷学報 52(1), 54-74, 1972-06に「遊行三十一祖 京畿御修行記」〔天正6〜8年記録〕橘 俊道(校註)より再掲します。

正月廿三日御行事成就し七条へ御帰寺。同廿四日坂本惟任日向守へ六寮被遣、南都御修行有度之条筒井順慶へ日向守一書可有之旨被申越。惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申。

折節大和筒井方安土へ年始之出仕、則惟任取次なれハ来儀幸、六寮直行合遊行上人南都御修行日州助言故順慶無別儀御請被申キ。同晦日六条御影堂へ入御、日中行事以後種々取成申上候ツる。

候文を読むのも我流なんですが、

    坂本惟任日向守へ六寮被遣
ここは坂本の光秀に同念上人から使者を出したと読めます。
    南都御修行有度之条筒井順慶へ日向守一書可有之旨被申越
ここは使者への用命が書かれており、奈良に遊行すると聞いたので筒井順慶宛にに書状を書いたので取りに来てくれで良いはずです。
    惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申。
ここの部分に関しては、光秀がなぜ同念上人のために筒井順慶宛の書状を書いたかの理由と解釈します。長崎称念寺門前に10年間住んで居たのは判りやすいですが、
    念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申
とくにこの部分に注目したいところです。橘俊道氏は「念珠」に「ねんごろ」のルビを振られています。そうなると念珠は「旧情」にかかると読みたいところです。つまり光秀は称念寺門前に住んで居ただけでなく、称念寺にも世話になったと受け取って良いはずです。光秀が称念寺門前に住んで居た10年間は牢人時代と解釈するのが自然で、寺子屋を営んで生計を立てていたと称念寺の寺伝にありますが、称念寺から物心両面の援助も受けていたで良いかと思います。苦労した時代に世話になった恩返しってところと私は解釈します。

この記録のポイントは伝聞情報でなく、直接光秀から聞いた話を記載している点でしょうか。


越前の10年間を考える

称念寺時宗ですが、時宗は遊行が基本となります。つまりは時宗の寺では遊行僧が全国各地の情報もってくる一種のセンター的な機能も持っていたとしても良さそうです。光秀の逸話に各地の大名の情報に詳しかったがあり、これを歴史小説では光秀が全国各地を武者修行として回った結果としているものがありますが、そうではなく称念寺で情報を聞き集めていたのかもしれません。また光秀は礼法から古典教養まで通じていたとなっていますが、それらも称念寺での10年間で身につけた部分も少なからずあった可能性はあります。

ただなんですが10年間は長いんですよね。光秀も武士であり、仕官して出世する野望をもっていたはずです。光秀が本当に土岐明智の嫡子であったなら、御家再興を悲願にしているはずです。通説では既に保守化・門閥化していた朝倉家が渋ったためともしていますが、世は戦国ですから朝倉家のみにこだわる必要はありません。それこそ織田家に仕官する選択もあったはずです。ただどの家に仕官するにしても、足軽ぐらいなら容易ですが、士官としての採用はハードルが高かったというのはあったと思います。士官としていきなり採用されるには、常識的に考えて

  1. 大名の縁者
  2. 大名の有力家臣の縁者
  3. 他家にも聞こえるほどの名門の縁者
  4. 他家で高名を既に得ている者
戦国期では主家を代えるのに抵抗が薄かったとされますが、転職を繰り返すには実績が必要です。無名のどこの馬の骨かわからない人物を士官に採用したりはまずしません。こういう風に考えると、光秀が土岐明智を名乗ったのは名門の縁者としての仕官を狙っていたのかもしれません。しかし明智の名じゃ朝倉家は乗ってくれなかったぐらいでしょうか。そうなれば足軽からの出世を狙うことになりますが、光秀はそれを嫌がったというか、別路線を狙ったと見るのも面白そうです。

光秀にしてみれば土岐明智の名が通用せず、戦場での高名の実績もないですから、自分の能力を高めて売り込もうとしたぐらいです。元からある程度の教養はあったとは思いますが、これを高めるのと戦国期で重視された情報通も狙ったはあるかもしれません。情報に関しては称名寺でも得ることができますが、ひょっとしたら時宗の僧に化けて全国を回った可能性もありそうな気がします。どの時代であっても僧なら旅をしやすいですし、時宗なら全国にネットワークがあるだけでなく、そこも情報センターになっていますから便利ぐらいです。そうでも考えないと称名寺門前で10年間も燻っていたと想像するのは哀愁が漂いすぎるってところです。

そんな光秀の志を称名寺は熱心に支えてくれたんじゃないかと想像します。当時だけでなく江戸期でもそんなところがありますが、地方の有力者は優秀な人物を見つけると、それを後援し世に送り出す行為を熱心に行う事がしばしばあります。光秀にすれば称名寺だけでなく時宗教団にも長い間世話になった訳ですから、同念上人が奈良に遊行すると聞けば、感謝の念の一つも言いたくなったのが「遊行三十一祖 京畿御修行記」のエピソードの気もします。


朝倉家 → 将軍家

光秀の能力を高める路線のネックは、そんな能力を持っていることを相手に知ってもらい評価してもらう必要があります。まず朝倉家に仕官したのはごく素直に称名寺からのコネを利用したぐらいで、仕官には成功したものの朝倉家からの評価は非常に低かったと見て良さそうです。wikipediaより、

太田牛一の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している。

「一僕の身上」とは部下を持たない一人奉公の身分を指すそうで、あくまでも想像ですが称念寺の推挙があったので仕官は認めたものの、足軽より少し上程度の扱いであったぐらいを考えます。光秀の能力を買ったというより、称名寺の面子を立てたぐらいに採用待遇です。光秀にとって不本意であったと思われます。

ここからは想像が飛躍するのですが、義昭が金ヶ崎に転がり込んで来ます。金ヶ崎と一乗谷の間で使者の往還はそれなりにあり、使者として細川藤孝が立つ事もあったぐらいは許されると思います。使者と言っても藤孝は次期将軍有力候補の最重臣の一人ですから、一乗谷に来れば接待も行われたと見るのが自然です。当時の事ですから連歌の会なんてのはポピュラーな催しです。そこに光秀も呼ばれ、藤孝と知り合った可能性があります。称名寺の寺伝では朝倉家仕官の時に連歌の会を催して才能示したとなっていますから、朝倉家も光秀の歌の才能だけは評価していたぐらいの想像です。

人物評価も一つの才能ですが、光秀は藤孝を「出来る男」と見たんじゃないかと思います。もう少し付け加えれば、自分の能力を正しく評価できる人物と見たぐらいです。朝倉家に留まっていても、せいぜい和歌の才能ぐらいしか見てくれないのは痛感していましたから行動を飛躍させwikipediaより、

ルイス・フロイスの『日本史』や英俊の『多聞院日記』には、光秀は元は細川藤孝に仕える足軽・中間であったと記す

これの考察は色々あるようですが、ごく素直に藤孝の足軽になったと見てもエエんじゃなかろうかです。光秀の計算としては、

  1. 藤孝なら自分の才能を正しく評価してくれるはず
  2. 今の藤孝なら直接の家臣も無に等しいので、足軽であっても、いつまでもタダの足軽扱いのままではないはず
  3. 今の藤孝の身上は小さいが、義昭が将軍になれば大きくなり、自分の待遇も上がるはず
ただ藤孝も身分は重いし、勝龍寺城も持ってはいましたが、金ヶ崎時代は無収入に近かった可能性はあると思います。あくまでも想像に過ぎませんが、金ヶ崎時代の義昭一行の生活費の主体は朝倉家からの援助と、その他の大名からの寄付で成立していたぐらいです。重臣の藤孝でも、実質的にそこに寄食している状態であったぐらいです。藤孝は光秀の才能を見抜いたとものの、金ヶ崎では自分の足軽として雇うことが難しかった可能性はあります。そこで食べ物があたるように将軍家の足軽衆に付け加えたぐらいを想像します。実質としては藤孝の足軽ですが、食い扶持の出どころとして義昭の足軽衆にしたぐらいの見方です。

ドンドン想像を飛躍させますが、藤孝も称名寺のような役割を光秀に果たした可能性は十分にあります。藤孝も光秀の能力を高く買い、自分のところに留めるよりも、もっと才能を伸ばせるところに光秀を送り込むことに腐心したんじゃないだろうかです。永禄11年に信長は上洛するのですが、信長の懸念の一つに京都外交官を誰にするかはあったはずです。とにかく京の貴顕紳士はうるさ型の塊みたいなものであり、そこで下手打つと木曽義仲の二の舞になるぐらいです。

なんとなく信長は藤孝を直接引き抜こうとしたんじゃないかと思わないでもありませんが、ここはもう少し穏和に適当な人物の推挙を藤孝に求めたぐらいはあっても良さそうに思います。そこで藤孝が信長に推挙したのが光秀であったぐらいでしょうか。信長もまた鋭すぎるほどの具眼の士ですから、光秀の才能を見抜き抜擢を決断したぐらいです。


謎は多いが・・・説明してみる

とにかく光秀が信長の上洛後に頭角を現すまでの期間については謎が多いのは間違いありません。言い換えれば活動の記録が殆ど残されていないと言う所です。これは逆に考えれば、うだつの上がらない生活を送っていたぐらい見れるとは思っています。そんな光秀の謎の一つに織田家の京都外交をソツなく行った事実があります。京都外交の難度の高さは前にも書きましたが、これは才能だけで一朝一夕になんとかなるものじゃないと考えています。どうしたって経験と培った人脈が必要ってところです。

小林正信氏もその点に注目されて進士藤延説を立てられたと思っていますが、光秀に強固な藤孝ラインがあれば出来たんじゃないかと思っています。藤孝なら京都でも十分すぎる有名人ですし、人望や信頼も厚かったと思われます。藤孝が光秀の信用の裏書をやってくれれば、光秀の活動は非常にやりやすくなったと思います。こういうものは滑り出しがもっともハードルが高いですから、そこを藤孝の後押しで通り抜ければ、才能は折り紙付きですから後は史実に残る成績を収めたぐらいです。

光秀の地位が織田家でも重かったのは、それだけ京都外交が大変だったの裏返しの気がしています。信長は光秀の外交の才だけではなく軍事の才も見出して活用しますが、京都担当外交官の代わりがなかなか出てこなかったぐらいを想像しています。代わりを置いても光秀ほどの手腕は発揮できず、こじれかけると光秀を投入せざるを得なくなるぐらいの状態です。信長が光秀に近江坂本とか丹波亀山に所領を与えたのも、他にも理由はあるかもしれませんが、何かあれば京都外交に呼び出しやすいってのもあった気がしています。信長にすれば勝家や一益、さらには秀吉のように遠征軍の司令官に光秀は任じにくいってなところでしょうか。つまりは呼び出せる範囲に光秀がいないと不便で仕方がないぐらいの関係です。

幕臣が光秀軍に集まる傾向があったのは、これまた光秀と言うより藤孝の影響と説明しても良い気はしています。光秀と藤孝の関係は、外形的には光秀が上で藤孝はこれに従う与騎ですが、個人としての関係は光秀が恩人である藤孝を立てる関係ではなかったと思っています。そういうところであれば旧幕臣であってもそれなりの待遇が期待できますし、光秀もそれに相応しい振る舞いをしていたぐらいで、だから自然と集まっていったぐらいです。集まった旧幕臣畿内に所領を持つ者が多く、結果として旧幕臣勢力は光秀の命に従っているような格好になり、畿内管領みたいな呼ばれ方にもなったぐらいです。

この話を本能寺につないで行きたい野望はあるのですが・・・難しいなぁ。。。