JSJ様からの
逆に、古代日本の地方は思った以上に豊かだったかもしれないとも思っています。
つまり中央政府にとっては、捕捉率が低いことと輸送コストが高いことが問題で、
そのため中央政府の財政に焦点を当てると日本全体が貧しいように見えただけではないか、と。
このコメントからの連想みたいなものです。当時と言うか、もっともっと時代が下っても経済の基本は米本位制です。すべてのコストは米で換算されていたと考えて良いかと思います。律令期の税制は租庸調で布も税金ですが単純化して米で考える事にします。モデルは関東からの税金としての米輸送コストの試算です。
まず輸送ルートとして陸路と水路がありますが、水路となると海路になり、当時の海運技術で遠州灘を乗り切るのは困難だったと見ます。つまり輸送ルートは陸路が主体であったろうです。で関東から京都までどれほどの日数が必要だったです。参考にしたいのは源平合戦の時の範頼軍の記録です。範頼は一の谷の後に関東に帰り、再び西上しています。この時の記録として、
- 範頼が鎌倉を出陣したのは寿永3年8月8日であった
- 範頼の京都到着は寿永3年8月27日(玉葉)
- 関東から京都は片道20日間、往復40日間必要とする
- 馬に8斗の米を載せ、馬丁が1人附く
馬の積載量は8斗を上限とすれば、自分で携帯する必要が生じます。それも往復40日分が必要になります。どれぐらいの米が必要になるかですが、養老律令の軍防令に兵役中の食糧として糒6斗の記録があります。兵役は年間に30日であったとなっていますから・・・ちょっと待った、ちょっと待った、そうなれば馬丁も馬並に食糧を背負わないと足りない事になります。40日間の旅程ですから食糧以外にも斧(薪を得るため)だとか、塩だとか、鍋だとかも必要だろうからです。ただ糒6斗を30日分の食糧とするには過剰な気はしています。どういう事かと言うと、
-
6斗(= 60升 = 600合)÷ 30日 = 20合/日
以上を含め奈良時代の升量については、江戸時代の学者によるものをはじめ各種の説があるが、いずれも律や令の記述と中国の度量衡制度からの推定に過ぎなかった。しかし、澤田吾一は、奈良時代の穀倉の大きさから割り出し、当時の1石として2,800立方寸を得た。当時使われていた尺度から現在の升量に換算すると、当時の1升は現升の0.4升に当たる(澤田吾一『奈良朝時代民政経済の数的研究』、復刻柏書房)。現在、最も信憑性の高いと信じられている升量である。
要するに奈良期では
-
1斗 = 0.4升
問題は50kgを背負えるかです。古代ローマ軍団兵は30kg程度の荷物を背負って行軍したと言われますし、旧陸軍もその程度の荷物を背負って進軍したとされています。この辺は現代人とは比べ物になりませんが、それでも30kgと50kgの差は大きいと思います。食糧自体は食べれば減りますから、段々にラクにはなるでしょうが序盤戦は・・・キツイだろうなってところです。もっとも税金としての米を収めてしまえば帰りの馬は空荷になりますから、往きより、帰りの方がピッチは速くなるので、無理やりにでも背負って出発したのかもしれません。往きは20日間より長くなる代わりに、帰りはもっと早くなるぐらいです。
なんとか関東から京都へ馬1頭に税金8斗を載せて40日間で往復は可能までは漕ぎ着けました。ただこれでは8斗の米を運んだだけです。ほいでは1万石の米を運ぶためにはどれぐらい必要かになります。馬1頭と馬丁1人を1セットと考えると1万2500セット必要です。10万石なら12万5000セットです。馬丁もそうですが、馬もそれだけ調達できるかの問題が出て来ます。馬丁の食糧自体は税金輸送に従事していようが、故郷に居ようが消費されるのは同じですからロハと言えない事はありませんが、そんなにたくさんの馬を右から左に調達できたかと言われると疑問が残るところです。奈良期の農民がほぼ馬を持っていたのかなぁ。。。実際はどうなっていたのだろうと思うばかりです。