三木合戦余話

あんまりきっちり調べていない面はご容赦ください。

湯の山街道ってものがあります。伝承では秀吉が有馬温泉に休養に行くために整備されたとなっていますが、そうでない気がしています。もちろん全くの誤りではなく、三木落城後に秀吉は三木を根拠地にする構想を持っており、その一環として整備された面は確実にあると思います。ただ湯治のためだけに整備されたのではないだろうと思いなおしています。当時の交通路の資料で良いものがなかなか手に入らないのですが、一の谷の時に使った

これは江戸時代前期の主要街道図となっていますが、見にくいですが注目してほしいのは湯山の位置です。湯山は解説するまでもなく有馬温泉の事ですが、そこから東に進めば
    船坂 − 東船坂 − 生瀬 − 米谷 − 小浜
こういう風に町の名前が挙がっていますが、この先は大雑把に言うと現在の宝塚であり、さらには川西、池田につながります。だからどうしたと言われそうですが、織田軍の本拠地である安土つうか京都方面との交通路を考えるとエライ重要な道じゃないかと思っています。京都から三木に向かうのにまず思いつくのは西国街道。これは現在の国道2号線を想定すればおおよそ「そんなもの」なんですが、京都から神戸を通り、明石に出る道になります。そこから現在の国道175号線を北上すれば三木に至ります。秀吉も最初に播磨に入るときにはこのルートを使った可能性はあると思っています。

もう一つは義経が使った丹波路を利用する方法もあります。丹波路はこれも大雑把に言うと、京都から福知山を通り、篠山・三田方面に抜けてくる道です。義経は三草山で平家軍を破り、現在の国道175号線を南下して三木方面に進出して来たとなっています。以後の義経の進軍路の考察は前に散々やったので置いときます。ポイントは義経時代でも使えたのだから三木合戦当時も当然使えたはずだぐらいです。


大雑把には2つのルートが考えられるのですが、丹波路は基本的に使えない、もしくは非常に使いにくいと考えます。理由は丹波が戦場だからです。明智光秀丹波攻めは1579年までかかっています。一方で三木合戦は1578-1580年です。光秀の丹波平定後は通行可能になっていますが、2年近い攻防戦の前半は安全な交通路とは言いにくいと見ます。ではでは西国街道はどうかと言えば、荒木村重の謀反が起こります。これが1578-1579年ぐらいです。この間は西国街道の現在の兵庫県部分が通りにくくなります。村重の本拠は伊丹であり、さらに尼崎、花隈に有力な支城があったわけで到底通れるものではありません。

村重の反乱の意味は秀吉にとって非常に大きかったと考えます。おそらくですが、秀吉の戦略として西国街道は安全な交通路として計算していたはずだからです。これが完全に遮断されるのは秀吉にも、それこそ官兵衛にも計算外だったと推測します。村重が謀反を起こした時点で、完全ではありませんがある種の雪隠詰状態に追い込まれたと見る事も可能かと思います。これを理由に撤退してもおかしくないぐらいとも見えます。

三木から京都方面の交通路は一時、不安定な丹波路一本だったかもしれません。そこでクローズアップされたのが湯の山街道だった気がなんとなくしています。湯の山街道は三木から西国街道の迂回路になりえそうだからです。このルートが確保されれば村重の勢力圏も丹波の反織田勢力も回避しながら京都方面への交通路を確保出来る事になります。ただ湯の山街道も別所氏の勢力圏であり、補給ルートの一環になります。交通路確保の大きな障壁となったのが淡河城、丹生山(明要寺)になったかと思われます。


・・・と思ったのですが、秀吉のこの方面への攻略はかなり遅いものです。三木落城は1580年の1月で、淡河城は1579年5月です。合戦は1578年3月ぐらいから始まり、村重の謀反が1578年10月です。淡河城を落とし湯の山街道の交通路を確保したのがその半年以上後である史実が厳然としてあります。そうなると秀吉はそこまで交通路の確保に困ってなかったと考えるしかありません。理由としては丹波路が戦場ではあったが交通路(補給路)として十分に機能していたぐらいでしょうか。

この問題を煮詰めるには光秀の丹波攻略状態の進展をオサライしないといけないのですが、これがまた手間がかかるので余話ぐらいにさせて頂いています。湯の山街道で言えるのは、有馬温泉を知った秀吉がこれを非常に気に入ったのだけは間違いないと思います。もちろん負傷した兵の治療にも有用と判断したのでしょうが、それ以上に温泉遊びが気にいったぐらいです。これはその後にも秀吉が有馬を訪れている点からも確認できます。

秀吉が三木ではなく姫路を戦略拠点に選んだのは妥当ですが、少々渋ったのは有馬温泉から遠くなる点もあったんじゃないかと勝手に想像させて頂いています。