シノブの恋:テンペート

 吹っ切れた感じはするのだけど、当面はどうしようもないのよね。さすがに押しかけ女房をやるのもどうかと思うし。なにかアクションが起こすにはキッカケが必要だけど、見当たらないから馬に熱中してる。

 それとだけど、シノブは伊集院さんに天秤にかけられたのはわかる。ただね、その相手はどう調べたって神崎愛梨なのよ。神崎愛梨なんてお金持ちのワガママお姫様じゃない。そんな神崎愛梨から伊集院さんは逃げ回っていたはずなのに、どうしてシノブを選ばなかったんだろう。

 だからチャンスは十分にあると期待してる。あの夜に、ああなったのは、伊集院さんの本心じゃなくて、世間のしがらみって奴に違いない。それが何かを突き止めて、解してやれば逆転できるはず。いや、逆転してやるんだ。


 ひとしきり馬を走らせて、スッキリしてクラブハウスに戻ると小林社長に呼ばれたんだ。

    「エライもんが来てるんや」

 へぇ、甲陵倶楽部附属馬術会長杯障害馬術大会からの招待状か。

    「あそこの会長杯は本物の金杯やねん」

 戦前からあるものだそうだけど、

    「あの金杯は甲陵倶楽部の門外不出の秘宝とされて、表彰式にさえ出てけえへんねん。出るのはレプリカだけで、授与されるのは保持者の栄誉だけやねん。理事長室にあるそうやけど、オレも見たことないぐらいや」

 えらい御大層なカップだけど、実物も見れない金杯じゃ意味ないじゃない。

    「ところがやな、あの金杯には伝説があって、もし外部招待選手が優勝したら贈呈される決まりになっとるそうや」
    「贈呈って、まさかそのまま貰えるとか」
    「そうなっとるって話や。そやけどオレの知っとる限り、外部招待選手なんか見たことも、聞いたこともあらへんけど」
 金杯を失うリスクを冒してまでの招待となると目的はミエミエで、前の団体戦のリベンジ・マッチしかないじゃない。それにしても妙なのは招待相手がコトリ先輩じゃなくシノブなんだよね。

 そこはともかく参加するにしても甲陵倶楽部の馬の質は抜きん出ていて、前に貸与馬として乗せてもらった野路菊クラブより格段にイイらしい。そもそもだけどシノブは馬持ってないし。

    「自馬戦じゃ、出場は無理です」
    「そうやけど、この際買ったら」
    「気楽に言わないで下さい」
    「まあ、そうやねんけど、出場して勝ったらあの金杯もらえるかもしれないんやで」

 招待についてはその日に即答の必要もなかったので、馬を買う話も含めて保留にして三十階に帰宅。ここのところユッキー社長もコトリ先輩も出張続きで乗馬クラブはお休み。

    「海外出張はかなわんわ」

 相も変わらずの時差ボケで、海外出張の度にボヤく、ボヤく。

    「ユッキー、大きし過ぎたんちゃうか」
    「なっちゃったものは、しょうがないし」

 大きくなったのはユッキー社長の手腕も大きいんだけど、それを手助けしたコトリ先輩の功績も巨大。二人が組んだら世界最強ってところ。大げさにいえば、この二人がどこに海外出張に出かけ、どこを視察して、どんな感想を漏らしたかだけで世界経済に影響するぐらい。

    「政治家もかなわんな」
    「でも断りにくいし」
 エラン宇宙船騒動では地球側全権代表、さらにはエラン協力機構の代表を務め、見ようによっては地球大統領的な地位に就き、小うるさい有力国を丸め込み、押さえ込んだ手腕は世界中に轟いています。

 エラン問題が片付くと、なんの未練もなく代表の座を退いたのも驚かれています。あの時のリスペクトは未だに残っており、海外出張の訪問国に行くたびに首脳との会談が申し込まれるものだから、

    「ユッキー、あのまま地球大統領やってりゃ、良かったのに」
    「政治はコリゴリよ」
    「そやねんけど」

 コトリ先輩は時差ボケだけでなく、妙に有名人になってしまっているのも海外出張を嫌う理由になってるぐらいかな。会長杯の招待状の話をしたんだけど、

    「・・・へえ、そんな事があったんや」
    「甲陵倶楽部の会長杯って、すっごい立派な金杯で十五キロぐらいあるのよ」
    「いや二十キロって話もある。台座に馬が彫ってあるけど、台座まで全部金やねん」

 そっか、殆ど顔出さないけど、ユッキー社長もコトリ先輩も甲陵倶楽部のメンバーだから見たことあるんだ。聞くと理事長室の防犯装置付のショウ・ケースに飾られているみたいで、誰も手にしたことがないから重さもわかんないんだって。

    「あれでビール飲んだら旨そうやな」
    「やっぱり、シャンパンじゃない」
    「焼酎は合わんやろな」

 そういう問題じゃないでしょうが。

    「でも、どうしてコトリ先輩じゃないのでしょうか」
    「あら、知らなかったの。今度の大会には神崎愛梨が出て来るのよ」
    「えっ、帰って来てるのですか」

 神崎工業と伊集院製作所のトラブルの調査をやった時に知ったんだけど、意外なことに乗馬をやってたんだよね。それも趣味じゃなくて本格派。いや、そんなレベルじゃなくて甲陵倶楽部随一の実力者。これでも言い足りない、アジア代表の松本さんさえ凌ぐ日本のトップ・ライダーの一人なのよね。なんと言ってもオリンピック強化指定選手だものね。

    「あん時に神崎愛梨がおったら勝てへんかったやろな」

 だろうな。あの時に甲陵倶楽部に減点ゼロがもう一人いたら勝ち目ゼロだったもの。

    「しっかし自馬戦とはね」
    「神崎愛梨の馬は凄いで」
 神崎愛梨の持ち馬はメイウインドっていうのだけどウエストファーレンの葦毛。馬術用馬はハノーバが多いんだけど、ウエストファーレンもハノーバと原種が近くオリンピックでも優秀な成績を収めてるのよね。あの馬は甲陵倶楽部の中でも群を抜いている。

 相手が神崎愛梨ならやりたいけど、メイウインドに匹敵する馬がいないと勝負にもならないよ。あれだけの馬は単にカネを積んだだけじゃ手に入らないのよね。

    「神崎愛梨のメイウインドに対抗する馬をそろえるとなると、右から左に行かないですよね」

 そしたらユッキー社長がニッコリ笑って、

    「だったらちょうど良かったかも」
    「なにがですか?」
    「今回の出張のお土産」

 今回の欧州出張はフランスが中心だったのですが、

    「パリのルナも歳取ったけど生きとったで」

 もう幾つだったっけ、ミサキちゃんが語学留学に行ってたはず。

    「ルナも馬が好きなんよ。フランス馬術連盟の会長やっとった事もあって今でも理事や。庭に馬場まであるもんな。そやから最近乗ってる話をしたら盛り上がってもて」
    「まさか、買ったとか」
    「ルナのお勧めや。今は検疫中」

 お土産に馬まで買うかと思ったけど、買ったのは

    「セルフランセや」

 セルフランセが成立したのは一九六五年とまだ歴史が浅く純系化がまだイマイチで、体型や性質のバラつきが多いのだけど、逆にセルフランセとして登録されたのは非常に優秀なものになってるって話。とにかく登録の条件がジャンプ力になってるぐらい。

    「登録されたセルフランセとなると・・・」
    「お土産の値段を聞くのは野暮よ」

 何千万円は確実にするはず。

    「ルナもフランス至上主義のとこがあるから、日本に売るのは国家的損失とか抜かしとった」
    「だったら勧めなきゃイイのにね」

 こりゃ、セルフランセの中でも特級品とか、

    「コトリ先輩はどう見ましたか」

 すると含み笑いをしながら、

    「ルナがそこまで言うのがわかったぐらいや」

 これは、もう間違いない。一億越えてるはず。

    「馬の名前は?」
    「テンペート」

 英語で言えばテンペスト。嵐って意味だけど、

    「セルフランセにしたら少々気性が荒いとこもあるけど、シノブちゃんにはピッタリやと思うで」

 ここはわかんないけど、古代エレギオン時代のシノブの馬との相性を知ってるコトリ先輩がそう言うのなら、きっとそうなんだろう。

    「北六甲クラブで飼えるでしょうか」
    「それは心配ないやろ。厩舎はボロやけど、馬の世話は一流と見て良いはずや」

 見た目は確かにボロだけど、しっかりしてるのは間違いない。台風被害の時に、屋内馬場は倒壊し、クラブハウスの屋根も吹っ飛んだけど、厩舎はビクともしなかったそうだもの。それと小林社長は厩務員上がりだから、

    『馬の世話やったら日本一や』
    『でもあの厩舎やんか』

 そうコトリ先輩が言ったら、

    『そんなことないで。そりゃ、見た目はボロッちいかもしれんが、馬のために・・・』

 はいはい、どれだけ考え抜いてるかの講釈を何度も聞いてるのよね。検疫も終ってテンペートを運び込んだら小林社長は驚嘆してた。

    「間違いない。エエか悪いかは目を見ただけでもわかるけど、これは一級品、いや特級品や。よく、まあ、これだけの馬を」
    「掘り出し物やねん」
 コトリ先輩が嘘八百の掘り出し秘話をやってました。よくあんだけ、壮大なウソ話を即興で作り上げるものですよ。毎度のことながらで、聞いてるとシノブもホントはそうじゃなかったかと信じてしまいそうなぐらいリアリティに富んでます。

 シノブもさっそく乗ってみましたが、モノが違うのがヒシヒシと伝わります。それだけでなく、乗った瞬間に馬と心がピタッと合ってる感じさえします。この馬がいれば神崎愛梨にも対抗できるはず。

    「小林社長、例の招待受けます」
    「わかった。大会までにバッチリ仕上げといたるで」
 ここで気づいたこと。シノブへの説明もウソが混じってること。お二人の今回の出張は馬が目的だったんだ。だからルナに頼み込んで最高のセルフランセを紹介させたんだ、

 これはリベンジ・マッチを予想してたに違いない。あれほどの敗北を甲陵倶楽部が放置するとは思えないものね。そして出てくるとなると随一の実力者である神崎愛梨とメイウインドになり、神崎愛梨が出てくるとシノブに挑戦状を送るところまで読んでたんだよ。

 そして見つけ出してくれたのがテンペート。これは何かの運命。この勝負の行方がシノブの恋の行方を大きく変えるはず。最高のプレゼントを確かに受け取った。

シノブの恋・倶楽部の名誉

 ここは甲陵倶楽部の会議室。今日は臨時の理事会です。

    「黒田君、今回の失態の責任をどう取るつもりかね」
 尋ねているのは跡部大吉。跡部家は政治家の一族として知られ、跡部大吉も衆議院議員を十期勤め、与党総務会長、政調会長から文科相、総務相を歴任しています。議員時代は『剛腕』『寝業師』とも呼ばれた実力者。

 地盤を息子の太郎に譲ってからは甲陵倶楽部の理事長に就任しています。未だに政界に隠然たる影響力を持つと怖れられ、うるさ型の多い甲陵倶楽部であっても理事長にあえて逆らう者はいません。

 議題は団体戦での北六甲クラブに対する敗北。甲陵乗馬倶楽部は正式には付属の馬術会であり、黒田理事はその会長を兼任しています。

    「先に言っておく、スポーツ競技であるから勝ち負けについては問わない。それは全力を尽くした選手への侮辱になるからだ。白田君も、栗岡君も、松本君も慣れない貸与馬戦でベストを尽くした。悔しい敗戦ではあるが、これは受け止めなければならない」

 跡部理事長の声は野太く迫力があり、聞く者の心を震え上がらせます。

    「黒田君と北六甲クラブの小林社長との間に長年の確執があるのは聞いておる」
    「確執と言うほどの・・・」
    「そのために試合を君の私的な報復に使ったのは問題だ」

 跡部理事長は試合の結果ではなく、試合に込められた意図を問題にしているのは明白です。そう馬術会の看板と、名称をその勝負に賭けたことです。

    「結果として小林社長の温情で看板は奪われず、名称も残ったが、あの時に約束の履行を迫られたらどうするつもりだったのかね」

 黒田理事は返答に迷いました。求められている回答は潔く受け入れてウンコ・クラブになるか、突っぱねるかです。これは倶楽部の品位問題に関わります。

    「そんな約束は無視すれば終わりますし・・・」
    「あの約束は市内の乗馬倶楽部の役員会議で為されたものだ。それを平然と破ると君は言うのかね」

 老いても跡部理事長の眼光は鋭く、黒田理事は背中にベットリと冷汗をかきます。

    「黒田理事は私的な諍いに馬術会の名誉を安易に賭けた。これだけで引責辞任は当然である。さらにだ、信義に基づいた約束を守らないとした。これはなにより品位を重んじる我が倶楽部の会員の資格問題に抵触する」
    「ちょっと待ってください。たかが親善試合の結果一つに・・・」

 抗議の声を上げかける黒田理事の声を、跡部理事長の野太い声がねじ伏せます。

    「黒田理事は会員除名が相応しいと考える。異議のある者はいるか」

 怒りを含んだ跡部理事の声に黒田理事さえ声が挙げられず、そのまま承認可決され、黒田理事は退席を余儀なくされます。

    「これで終りとはいかない。伝統ある甲陵倶楽部の名誉は奪われたままだ。なんとしてもこれを取り戻さないといけない」
    「ではリベンジ・マッチを」
    「それしかないが、北六甲クラブの三番手の腕前は驚異的だ。松本君でさえ大差で敗れておる。返り討ちに遭えば恥の上塗りになる」

 あの試合を見に行った理事の脳裏には、怪物的な快走を見せた姿が映ります。勝てるかと言われれば、それこそ時の運になります。ここで安易な提案をし、再び敗れるような事態になれば責任問題が発生します。静まり返る会議室ですが、ある理事が思いついたように、

    「理事長。帰って来ております」
    「そ、そうなのか・・・だが」

 跡部理事長の表情に曇りが、

    「理事長のお言葉通り、失われた名誉の回復は必要です。松本君でも難しいとなれば他にはいません。ここは理事長が自ら要請する以外にはないかと」
    「ワシがか? 他に手はないのはわかるが、厄介じゃな」

 数日後、理事長室にて、

    「失礼します」

 入って来たのは若い女。

    「・・・どうだ、やってくれんか」
    「そんな座興のような勝負に出ろと仰られるのですか」
    「そうだ、甲陵の名誉が懸っておるのだ」

 その女は冷やかな表情で、

    「名誉? 理事長、あなたはどうなのです。あの試合のあることは周知されております。なにを賭けているのかもです。止めることも可能であったにも関わらず、黙認し、あまつさえ会場まで足を運ばれておられるではありませんか。まだ理事長でおられるのが不思議なぐらいです」

 痛いところを突かれた理事長でしたが、

    「辞めることだけが責任の取り方ではない」
    「黒田前会長に全責任を押し付けるのがそうですか」

 さらに追い打ちをかけるように、

    「辞任されずに理事長職にしがみつき、この私にリベンジ・マッチをさせ、御自身は傷つかれないところで高みの見物をするのが甲陵の品位とでも。よくもまぁ、これで品位を口実に会員除名など出来るものだと感心します」
 ここまで言われた跡部理事長は怒りで顔がどす黒くなります。ところが女の方はどこ吹く風で出された紅茶をゆっくりと楽しみます。その態度に怒り心頭の跡部理事長でしたが、ここで怒鳴れば女は理事長室から出て行くだけです。

 そうなればリベンジ・マッチは出来ず、理事会での自らの面目を失うことにもなりかねません。理事長室に気まず過ぎる空気が満ちたところで女が、

    「条件によっては座興へのお付き合いも考えて宜しいかと」

 跡部理事長は不愉快さを押し殺すように、

    「どんな条件だ」
    「会長杯への招待です」

 会長杯とは馬術会内部の大会。

    「あの大会は馬術会会員にのみ参加資格がある」
    「そんなことはありません。かつては外部からの招待選手も参加しております」
    「それは大昔の話だ」

 理事長室のショウ・ケースに飾られた金杯こそが会長杯です。

    「先の団体戦では名誉として看板と名称を懸けて敗れております。リベンジをするならこれに匹敵する名誉を用意する必要があります」
    「それが会長杯だと言うのかね」
    「大会規則の第一条を御存じですね」

 大会規則第一条は不思議な内容で、

    『金杯の誓言は永遠に不変なり。何人もこれを変えること能わず』

 こうなっています。

    「第一条にある金杯の誓言とはそもそもなんだ」
    「あの金杯は一九三二年のロサンゼルス・オリンピックの西竹一男爵の障害飛越優勝を記念して作られたもの。金杯の台座に彫られている馬はウラヌスです」
    「だと聞いておる」
    「当時の会員であった鷲尾伯爵はこれに感銘してこの金杯を寄贈し、甲陵倶楽部から次のメダリストが出ることを願いました。あの金杯の台座の裏にはこう刻まれています。
    『この金杯に馬術会の名誉を込める
    これが守られぬ時は
    潔く贈呈し
    その栄誉を称えよ』
    そう、外部からの招待選手に敗れるような事があれば金杯は贈呈するとしています」

 跡部理事長は思わぬ話に驚きながら、

    「それが金杯の誓言か」
    「当時の馬術会は鷲尾伯爵の意志を受け、国内の強豪をあえて招き熾烈な戦いを行っています。あの西男爵さえも招待しようとしたほどで、これが会長杯のデュエロの伝統になっております」
    「それがどうして」
    「金杯流出を惜しんだ甲陵倶楽部理事会が馬術会に命じ百年前に外部招待を中止させたからです」

 女は跡部理事長の目を真っ直ぐに見据えながら、

    「外部招待を再開し、金杯を懸けてのデュエロこそ、名誉を取り戻すリベンジとして、もっとも相応しい舞台と賞品かと存じます」
    「もし、敗れて金杯を失えば」

 女は嘲笑うように、

    「たいした事は起りません。外部招待をあえて再開させ、金杯を失った責任問題を問われるぐらいです。そうですね、理事長のクビが飛ぶ程度でしょうか」
    「なんだと。理事長であるこのワシのクビを懸けろと言うのか」

 女は軽蔑を隠しもせず、

    「北六甲クラブの小林社長は、あれだけ不利な条件でも名誉のために敢然と勝負を受けておられます。それなのに理事長は金杯一つを惜しみ、理事長職にあることに連綿とされる有様。勝負はやるまでもないかと」

 女の言葉は相手が跡部理事長であっても辛辣を極めます。

    「理事長は倶楽部の名誉とか伝統がお好きですが、やられている事は、百年前に金杯流出を怖れて外部招待を中止した理事会と同じ。あの時に金杯の名誉は既に失われております。どうぞ腐りきった名誉と伝統とお戯れください」

 跡部理事長はここまで侮辱された記憶が思いだせない程でしたが、リベンジ・マッチを行うには、どうしてもこの女が必要であり、腹を括ることにします。

    「わかった。金杯の名誉を取り戻すためにも外部招待を復活させよう」
    「御英断と存じます」

 ここで跡部理事長に一つの疑問が、

    「外部招待をするのは良いとして、会長杯は自馬戦だ。そもそも参加しないのじゃないのかね」
    「そこでもう一つ条件があります。北六甲クラブから招待するのは三番手ではなく二番手の騎手にしてもらいます。そうすれば必ず参加してきます」

 跡部理事長は少し考えてから、

    「君でもあの三番手騎手には勝てないとか」

 女はソファから立ち上がり、跡部理事長を見下ろしながら睨みつけ、

    「私とメイウインドを侮辱することは、理事長であっても許されません」

 跡部理事長でさえ身じろぐほどの迫力です。

    「座興に参加する条件は以上です」

 後は振り返りもせずに女は靴音だけを残して部屋から出て行きました。その姿を見送りながら跡部理事長は、

    「いつもの事とはいえ、なんて女だ」

シノブの恋:決着

 最終組は甲陵倶楽部が先攻。松本さんだけど、これは鮮やか。まさに危なげないって、こんな感じかも。あのオクサー障害も難なくクリア。一六〇センチの垂直障害もあっさりと。

    「さすがはアジア代表ね。レベルが違うわ。減点無しでクリアしちゃったよ」

 松本さんの競技終った後に甲陵倶楽部の応援席に勝ったの空気が、

    「ユッキー社長、これでコトリ先輩が減点無しでクリアしたら引き分けですよね」
    「そうはならないの」

 勝敗の第一基準は減点数だけど、もし同点なら総タイム数になるんだ。

    「えっと、えっと、二組までの差が十八秒ぐらいで、松本さんのタイムが五七・八九秒だから・・・コトリ先輩は四〇秒を切らないと勝てないじゃありませんか」
    「そうだね」

 なにを気楽な。ユッキー社長が八三・五九秒だから足を引っ張ってるんじゃない。

    「シノブちゃん、誰が馬を走らせると思ってるの。よ~く見ておきなさい」
 コトリ先輩は颯爽とスタートじゃなく、あれは猛然とスタートじゃない。すごいスピードだけど、あれじゃ、障害を飛んだ後の方向転換が出来ないよ。あれっ、なんて鮮やかな方向転換。殆ど速度を落とさずに次の障害に向ってる。

 速度は凄いんだけど、乗ってるコトリ先輩の騎乗姿勢は優美。見ようによっては乗ってるだけに見える。それなのに馬は猛然と走り、勝手に方向転換して、跳んでいるようにしか見えないもの。会場もあまりの速度に騒然。

    『ゴール』

 タイムは、タイムは、

    『三九・七五秒』

 驚異的なんてもんじゃない記録だけど、どっちが勝ったんだろう。えっ、タイムも同点だとすると、

    「ユッキー社長、やっぱり引き分け」
    「いや北六甲の勝ちだよ」

 勝敗の基準は

  • 減点数
  • 合計タイム

 この二つが同じなら、

  • 減点ゼロの選手が多い団体

 こうなるのだけど、これもまた同数。そうなると次の基準の、

  • 最小減点者(同点の場合は時計の早い者)が所属する団体

 勝っちゃった。松本さんのタイムを十八秒以上も上回っての勝利なのよ。北六甲の応援席は奇跡の逆転勝利に狂喜乱舞状態。小林社長も泣いてる。奥さんも、娘さんも。表彰式で、松本さんがコトリ先輩に握手を求めてる。

    「完敗です。このコースで、あの馬で、あの時計は信じられません。あなたならオリンピックでも勝てます」
    「ありがとう。でもオリンピックには興味ないから」

 もう一つの焦点はこの勝負に賭けられたもの。クラブの看板と名称変更なんだけど、

    「黒田、看板はいらん。名前も変えんでエエ。勝利と言う名誉だけ頂く」
 えっ、要らないの。まあ、看板もらっても役に立たないし、甲陵倶楽部をウンコ・クラブに名前を変えるのも趣味悪いし。それにしても、負けてたら黒田会長はホントにクソ駄馬クラブに変えてたんだろうか。

 でもね、そう言ってのけた小林社長は格好良かった。小林社長はどうみても田舎のおっさんにしか見えないけど、間違いなく漢よ。奥さんや娘さんが、あれだけ小林社長を愛している理由が良くわかった気がする。夜はクラブの食堂、もといレストランで祝勝会。その時に、

    「それにしてもコトリ先輩は凄かったですね。社長やシノブのコーチに手を取られて、ほとんど練習してなかったのに」

 ユッキーさんは少し寂しげに、

    「コトリならあれぐらい当然よ。でも乗りたくなかっただろうな」
    「どうしてです」
    「昔を思い出しちゃうからだよ」

 そこにコトリ先輩が来て、

    「ユッキー、ハンデやりすぎやで」
    「イイじゃない、勝ったんだから」
    「そういう問題か」
    「そういう問題じゃない」

 でもユッキー社長が参加してなかったら勝てなかった。六人の中ではダントツに遅かったけど、曲りになりにも大障害を完走したんだもの。これは他の会員じゃ到底無理だもの。小林社長が向こうで泣いてる。もう泣きっぱなしじゃない。

    「今日は積年の怨みつもりが吹き飛んだ気分や。あれだけのメンバー相手にうちが勝ったんやで」
    「そうよ、あなた。負けた瞬間の黒田の顔見てスカッとしたわ。表彰式の時も格好良かった。看板いらんと言ってのけたもの。惚れ直したわ」
    「そうやお父ちゃんの勝利や」
 えっと、実際に競技をやったのはシノブたちなんだけど、ま、いっか。懸けてたのはクラブの名誉だし。シノブもクラブ員だし。今回は女神の仕事じゃないけど、なんかイイことした気がする。これだけ喜んでもらったもんね。

 それとシノブもスッキリした気がする。たしかにあの夜に伊集院さんに振られたけど、これで終わらせてなるものか。そうよ、欲しいなら奪いに行くのが女神の恋。たった、あれだけの事で終わらせてなるものか。

 女神に取って恋は至上の楽しみってコトリ先輩も言ってた。いや生きがいだと言ってた。恋は一直線に実ることもあるけど、あれこれあった末に結ばれるのあるのよ。伊集院さんとの恋もまだ続きがきっとあるはず。落ち込んでる場合じゃない。

 コトリ先輩だって、婚約指輪までもらいながら別れ、さらにユッキー社長と結ばれてもなお追いかけたじゃない。シノブもあれを見習う。もっとも、最後にシオリさんがさらっちゃうところだけは真似したくない。いないよね、そんなバカ強力なライバル。

シノブの恋:団体戦

 当日は社長のクルマで野路菊クラブに。とは言うものの年季の入った軽ワゴン。車中で、

    「コトリ先輩、作戦は」
    「そやな、まずユッキーはアテにしてへん」
    「そりゃ、ないでしょ」
    「どこに期待できるとこがあるねん」

 ユッキー社長の馬術は上手い。でもコトリ先輩に言わせると、

    『ユッキーは何をやらせても覚えるのは早いし、コトリより器用やねんけど、馬はあんまり得意やない』

 コトリ先輩はほとんど付き切りでユッキー社長の練習を見てた。

    「対戦相手は?」
    「甲陵さんも大人げないで、素人相手にゴッツイのを出して来てる」

 まず白田さん。メンバーの中で一番若いけど、ジュニア時代から鳴らしてたみたいで、県の国体強化選手にも選ばれてる。若手のホープってところ。次が栗岡さん。去年の国体の代表選手で全日本にも出場して十位の実力者。最後は松本さん。アジア大会代表で、全日本でも四位のトップ・ライダー。

    「手強いで、つうか、勝ったら奇跡や」
    「ホントだね」
    「気楽そうに言うな」

 こういうもめ事をコトリ先輩は好きなはずだけど、今回は最初から気乗りしてないみたいなのよ。

    『あのなシノブちゃん、コトリは馬に愛着あるけど、辛い目にもあってるからな』

 エレギオン騎馬隊を、それこそ馬の輸入段階から作り上げたのは次座の女神。アングマール戦でも騎馬隊の活躍は合戦の命運を左右したのは聞いたことがあるの。当時の騎馬隊の威力は強烈で、これをいかに運用し、さらに相手の騎馬隊の脅威をいかに封じ込めるかで知恵を絞り抜いたみたい。

    『人も仰山死んだけど、馬も仰山死んだんや』

 騎馬隊は馬も騎手も養成するのに手間ヒマがかかって、これを維持するのは大変だったみたい。でも相手が持っているので、持たないと負けるから懸命になってそろえたみたいだけど、

    『とにかく一回作戦やったら、どれだけ損害でたことか』

 だから競技であっても『馬で戦う』のに気が向かないで良さそう。

    「とにかくシノブちゃんが、最低でも引き分けてくれたらなんとかする」
    「なんとかなるのですか?」
    「たぶんやけど」

 そんな話をしているうちに会場の野路菊クラブに到着。こじんまりしてるけど、観客席もある立派な馬場。さっそく着替えたんだけど、

    「装備ぐらい買っても良かったんじゃないですか」
    「別に使えるからエエやんか」

 服こそ自前なんだけど、ヘルメットも、プロテクターも、乗馬用のブーツも、鞍も北六甲クラブのレンタル。これも年季が入ってて、かなりみすぼらしい。それと、

    「シノブちゃんもね」

 相手が甲陵倶楽部と言うことで変装もバッチリ。肩書ばれたら面倒だって。着替えが終わったところで甲陵倶楽部の三人と顔合わせ。シノブたちの格好を見て、ギョッとしたみたいだけど、

    「今日はよろしくお願いします」

 なかなか紳士的で好感もてた。そこから貸与馬に御対面。馬はわかりやすくて、葦毛、栗毛、黒毛でこれも抽選で当てられるんだ。同じ馬が当たったもの同士が対戦することになる。抽選の結果、

    葦毛・・・ユッキー社長、白田
    黒毛・・・シノブ、栗岡
    栗毛・・・コトリ先輩、松本

 対戦順も同じで、一回戦、三回戦は甲陵倶楽部が先攻。二回戦は北六甲クラブが先攻に決まった。それぞれ二十分の慣らし時間を終えて、コースの下見。

    「障害は十二個やけど、凝ったコースやで。あの最大のオクサー障害飛ぶのに回り込まなアカンし、あそこの垂直障害も・・・」
 上り下りもあって難しそう。選手側の準備も整ったところで開会式。観客席は結構な人数が入ってる。

 小林社長だけでなく黒田会長もこの対戦を煽ったんで、双方のクラブの関係者がかなり集まったんだよね。ただ笑ったのは駐車場の様子で、甲陵倶楽部側はベンツがズラッて感じなんだけど、北六甲クラブ側はバンとトラックとタクシーがズラッ。大型トラックまで止まっていたもんね。

 観客席もそんな感じで、甲陵倶楽部側は正装で決めてるんだけど、北六甲クラブ側はもろの普段着。ガヤガヤとうるさいのも北六甲クラブ側。ありゃ、阪神の応援席にでもいるつもりの気がする。

 ただ甲陵倶楽部側のギャラリーの社会的地位が高いから、非公認の野試合みたいな大会にもかかわらず、開会のセレモニーはキッチリやってた。野路菊クラブの会長が、

    「双方、約定により今日の団体戦を行う。ルールは日本馬術連盟競技会規程に準じるものとする。なお双方がこの勝負に懸けるのは、双方のクラブの名誉である。異存はありませんか」

 そうしたら小林社長も黒田会長も、

    「異議なし」

 野路菊クラブの会長は、

    「馬術は紳士のスポーツ。フェアな戦いを希望します」

 甲陵倶楽部側の応援席からは静かな拍手が、北六甲クラブ側からは歓声が上がってた。

    「一番手はユッキー社長ですね」
    「どんだけ相手にハンデを与えるかみたいなもんや」
    「規定時間は六〇秒ですね」
    「厳しいで」

 甲陵の一番手の白田さんは滑り出しは順調だったんだけど、オクサー障害のところでリズムが崩れ出し、バーを三回落とした上にタイムは六二・七八秒で減点十三。

    「たぶんあの馬が一番難しいと思うで」

 ユッキー社長も、やはりオクサー障害のところからバタバタとバーを落とし始め、なんとこれが五本、タイムも八三・五九秒で、減点二十二。

    「まあユッキーにしたら頑張った方や」
    「九点差は大きいのでは」
    「今日は荒れ模様やから、これからや」

 予想通りとはいえ、シノブにプレッシャーがかかるのがわかる。そりゃ、シノブまで大差を付けられたら勝負は終りじゃない。

    「気楽に行きや」
 馬は北六甲に較べると格段にイイ。慣らしで乗った時の感触もイイ感じ。これだったら行けるかも。障害飛越はリズムが大事、乗り手も馬もいかにこれが乗れるかがカギ。審判の合図でスタート。

 第一障害をクリア、第二、第三障害もクリア。イイ感じ、イイ感じ。次々とリズムよく障害をクリアしたんだけど、ちょっとオーバースピードになっちゃって、問題のオクサー障害の回り込みが・・・

    『ガラン』

 引っかけた。でもここで動揺したら、馬も動揺する。イイ子だ、イイ子だ、トリプル障害でまたリズムを取り戻してくれてる。一六〇センチの垂直障害もクリア。もうすぐフィニッシュ。時間は六六・八八秒で減点六。

    「シノブちゃん、ナイス」
    「でもオクサーのところで」
    「しゃあない、しゃあない」

 そして栗岡さんのスタート。うわぁ、順調だ。リズムもイイわ、さすが全日本の十位。シノブが引っかけたオクサー障害もクリアしちゃったじゃない。これじゃ負けちゃう、

    『ガラン』

 さらに垂直障害で、あれは反抗。でも、すぐに立て直して走り出したけど、

    『ガラン』

 リズムを完全に崩してくれたみたい。二本落としてタイムは六九・五五秒。減点は十五。戻ったらユッキー社長が、

    「シノブちゃん、よく頑張った。同点で勝負はコトリになるわ」
 減点数は二組目が終わって二十八点で同じ。ここまで勝負は荒れ模様。どういう決着になるのやら。予想外の展開に甲陵側の応援席は心外の空気が漂う一方で、北六甲側は大盛り上がりって感じ。いよいよ勝負が決まる三組目だ。

シノブの恋:意外なやる気

 シノブちゃんも段々とは回復しとって、部屋からも出て来たし、仕事にも行ってる。ただ表情は暗く沈んだまま。三十階でもほとんど口も利いてくれへんし、晩御飯が終わったら自分の部屋に直行って感じや。コトリもユッキーも腫物にさわるようでピリピリしてるんや。その夜も食事が終わると、

    「ごちそうさま」

 これだけ言ってシノブちゃんは部屋に戻ろうとしたんだけど、ユッキーが呼び止めたんや、

    「シノブちゃん、ちょっと待って。話があるの」

 シノブちゃんは座り直してくれたんだけど、

    「実はね・・・」

 北六甲クラブと甲陵倶楽部の果し合いみたいな団体戦対決の話を持ちだしたんや。シノブちゃんは静かに聞いてたわ。コトリは表情見とってんけど、全然反応があらへんから、無理やと思たんや。そしたら、

    「飛べる気がします」

 えっ、出るんか。

    「覚えてる感覚と較べて、すっごく軽い感じがするのです」

 そやろな。エレギオン時代はモロの実戦馬術で、完全武装で訓練しとったからな。それこそ鎧兜着こんで、槍抱えて、剣を腰に差して、馬にまで防具付け取ったんよ。それに較べたら、今はそんな余計なもん付けてへんし、北六甲クラブの馬でもあの頃よりは立派やねんよ。そりゃ、軽く感じて当たり前やけど。

    「わたしもそうなのよ」

 ウソつけ。ユッキーも馬乗れるのは間違いないけど、

    『女神に武装は似合わない』

 とかなんとか抜かして、せいぜい剣一本だけで乗ってたやんか。甲胄着けると不細工に見えるとか、肩凝るとか言うてたんも覚えてるで。シノブちゃんは、

    「ここはお世話になっている小林社長のために一肌脱ぐべきです。それが女神じゃないですか」

 ちょっと違うと思うけど、

    「コトリ、これで決まりね」

 マジでやる気か。ほいでも失恋以来、沈み切っていたシノブちゃんがこれだけやる気になってるのを止めるのは拙いよな。ええい、しょうがない乗りかかった船や、

    「大障害は甘ないで」

 休日があったんで北六甲クラブに行ったんやけど、いきなりシノブちゃんが、

    「コトリ先輩、ちょっとやってみます」
    「やめとき、怪我するで。やめとき言うてるのに、その馬じゃ無理やて・・・」

 ああ、行ってもた。シノブちゃんはいきなりギャロップにして、

    『ポ~ン』

 ありゃ、飛んでもた。社長が目を丸くしとった。あのなぁ、目を丸くするぐらいやったら、こんな勝負を挑むなよまったく。そしたらユッキーまで、

    「ちょっとやってみる」
    「やめとき、怪我するで。ユッキーの腕とその馬じゃ無理だって。アカン言うとるやろが・・・」

 ああ行ってもた。

    『ガタン』

 やっぱりな。

    「ちょっと引っかけちゃった」
    「ちょっとやないやろ、横木二本落ちてるで。だから無理って言ったのに」
    「でも馬が良くなれば飛べるんじゃない」
    「ユッキーじゃ飛べへん」

 落馬して怪我せんかっただけでもラッキーと思いやがれ。こりゃ、不安がテンコモリや。そんなコトリの心配をよそに練習コースは着々と作られて行ってもたんや。小林社長は他所のクラブから馬まで借りてきた。

    「うちのよりだいぶマシなはずや」

 たしかにかなりマシやった。やはり問題はユッキーで、

    『ガタン、ガタン、ガタン』

 障害飛越は、障害を飛び越える競技やちゅうのに、障害物倒しみたいになってもてる。

    「コトリ、案外難しいね」
    「一つぐらい、まともに飛んでや」

 シノブちゃんも苦戦してるわ。前の時はギャロップに加速して飛んでたけど、競技となるとそこまでの助走をする余裕がないんよね。キャンターぐらいで飛ばんとアカンねんけど、そうなりゃ馬の能力がモロにでる。

    「ユッキー、飛ぶ前に馬にタメを作らせんとアカン」
    「なるほどタメね」
    『ガタン』
    「だからタメと言ってもスピード落としたらアカンねん」

 あんまり横木を落とすさかい、馬が傷つかんように、横木は紙テープにしてもうた。垂直障害もラクやないんやけど、オクサー障害も難物。高さに加えて奥行というか幅があるんよね。

    『バリッ、バリッ、バリッ』

 どんだけ破ってるねん。もうユッキーとシノブちゃんの指導に手いっぱい状態。

    「コトリさんは指導も上手ですな」

 気楽に言うな。こんな無茶な勝負持ってきやがって。

    「ガンバレ、お嬢ちゃん。オレらがついとるで」

 あの夜の話は広まってるんよね。そりゃそうで、レストランにデッカイ貼り紙がしてあって、

    『北六甲クラブの勝利を疑う者に食わすメシはない』
 まったく堪忍してくれや。それだけやなくて、レストランの常連客がにわか応援団みたいになって、練習中もギャラリーが多いんよね。どっちゃでもエエけど、そこに弁当売って、ビールまで売って回ってるわ。ちゃっかりしてるで。


 最近の馬術大会は自馬戦が多いけど、少ないけど貸与馬戦もある。学生の大会とか、社会人の大会とか。この辺は学生や社会人に自馬を持たせるのが経済的に難しいのはあるからやと思てる。

 自馬戦が主体となってるんは、やはり馬術の特徴で馬の能力の比率の高さや。馬をどれだけ自分の好みに合わせて調教するのも勝負のうちやねん。格好良くいえば人馬一体となることで、どれだけ能力を示せるか競い合ってるぐらいかな。

 これに対して貸与馬戦は、騎手の即応能力が求められるのが特徴かもしれん。そりゃ、会場で初対面の馬に乗っていきなり競技をするんやからな。短時間の間に馬の特徴やクセを把握せんとアカンのよ。見ようによっては騎手の能力の比重が高いかもしれん。

 たぶんやけど、勝機はそこにあると見ている。甲陵倶楽部の騎手のレベルは高いけど、あれはあくまでも自馬で鍛え上げたもんやんか。あそこの騎手やったら、貸与馬戦の経験は少ないやろから、そこで弱点を出してくれるかもしれん。

 そやけど、こっちも不安はテンコモリ。ユッキーの技量は落ちるし、シノブちゃんも昔の技量を全部取り戻してる訳やない。勝つにはユッキーかシノブちゃんが対戦相手に勝ってくれんと話にならん。

 団体戦の方式やけど、総減点法になっとるけど、一対一の対決方式にもなっとんるんや。同じ貸与馬を二人の騎手が使うんやけど、これを先攻後攻でやるんよ。勝ち点方式ではないにしろ、ユッキーとシノブちゃんが両方負けたら終わりになってまうんよね。

    『バリッ』

 ユッキーよりマシやけど、シノブちゃんもこんな箱庭みたいなところでの障害飛越に苦労してるわ。

    「コトリは練習しないの」
    「そんな時間があるか! ユッキーとシノブちゃんがもうちょっとマシにならんと勝負にもならへんやろが」
    「そうだね」

 それにしてもお気楽やな。そこに小林社長も顔を出したから、

    「やっぱり無理あるで。負けたらクソ駄馬クラブになってまうんやろ」
    「勝利は確信しとる」

 こら他人に丸投げしといて胸張るな。

    「ところで、野路菊クラブの馬のレベルは」
    「悪ないで。野路菊さんも甲陵倶楽部に貸与するから、エエのん出して来ると思うで」

 そやろな。

    「貸与馬の練習時間は?」
    「二十分や」
    「そんだけ!」

 ほいでもちょっとやけど有利な材料かもしれん。ユッキーはともかくシノブちゃんなら出来るはず。もっとも体が思い出してくれたらやけど。

    「勝ったら御褒美は?」
    「御褒美? えっと、えっと・・・」

 そこにユッキーとコトリちゃんが来て、

    「御褒美でるの、なになに」
    「御褒美楽しみ」

 社長はグッと詰まって、

    「レストラン三%引き」
 三人とも転んだわ。