昨日の続きを少し

昨日は高砂の「医療事故」記事について触れました。それについて幾つもコメントを頂いたのを読んで感じたのですが、医師ですら見事に引っ張られるのに改めて驚きました。「引っ張られる」は言いすぎですが、記者の読者に思わせたい印象を目論見どおり抱かせられている事です。私も引っかかった一人ともいえますが。

記事内容のうち肝心の「医療事故」については思いっきり空疎です。医師が読んでも一体そこで何が起こったのか推測する事さえ困難です。推測するのさえ非常に困難な「右足の人差し指が紫色に腫れる病気」(糖尿病だと思うのですが真相は??)、当然元の病気が分からないから、どんな治療をどんな目的で行なったかも不明、どんな治療か分からないので、その治療と問題の頭痛の因果関係も不明、頭痛にしてもその程度、経過の時間関係も全く不明。なんにも分からないのですが、記事は読者に「医者が漫然と治療した」のイメージを見事に与えています。

頭痛という症状がその時にどれほどの比重をもって現場で考えられていたかはまったく分かりませんが、記事では結果であるくも膜下出血をしっかり強調し、結果として患者の死命を決定づけた「頭痛」を医療現場が非常に軽視したという印象に巧みに誘導しています。記事を読む人間の大部分は、医者がくも膜下出血による頭痛を軽視し見落としていたから重大な結果をもたらした以外に感じざるを得なくなっています。

一般の方がこれを読めば、ごくごく素直に医者の失策の印象を強く持つと思います。それ以外受け取り様がないように構成されているからです。医者がヘマの連鎖を続けた挙句に患者治療が手遅れになったという印象です。「右足の人差し指が紫色に腫れる病気」の治療なんかに目を奪われているうちに、肝心のくも膜下出血を完全に見逃した以外に読み取りようが無いということです。

一方で最近小うるさくなってきているネット世論への配慮を忘れていません。どうも福島の事件が教訓となっているようで、医療サイドの情報を極度に統制しています。どうせ細かい事を書いても一般の読者には理解し難いでしょうし、妙に詳しく書くと医者側から専門的なツッコミが嵐のように入る危険性があるので思いっきりボカシていると言う事です。

そういう観点から言うと実に見事な記事です。一般の読者は「医者がまたやった、医者は信用できない」としか思いませんし、医者はこの事件の真相を推測しようと思ってもとっかかりさえつかめません。おそらくこの程度のベタ記事では続報なんて期待も出来ないでしょうし、神戸新聞社も出そうなんて夢にも考えていないと思います。続報があるとしたら、この後、医療サイドが訴訟に破れた時のみです。この時には詳細な解説付で、どこぞの神のような医療関係者の談話も掲載しての麗々しい記事になるでしょう。医療サイドが勝った時にはお決まりの黙殺です。

その結果として残るのは、医者が漠然とした印象で、頭痛で検査をしなくて、くも膜下出血を見逃したら訴訟になるという恐怖だけです。頂いたコメントにもそういう懸念を書いていただいた先生もおられます。

でもって神戸新聞社というマスコミは何を主張したいのでしょうか。非常に端的には頭痛にはくも膜下出血の可能性があり、全員直ちに頭部CT検査をせよと言っているのでしょうか。その主張が拡がれば、胃が重いとの訴えには全員胃カメラを、腹の調子が悪いと訴えれば全員大腸ファイバーを、咳が出るといえば全員胸部CT検査をせよにつながっていきます。どの訴えも全員調べれば、何人かは本当に病気が見つかるのは嘘ではないからです。

では医者が訴訟の恐怖に負けて防衛医療に走れば、今度は「無駄な検査、過剰な検査が医療費高騰の原因である」とまたキャンペインを行なうの目に見えています。つまり医者なら検査をする前に診察だけでその病気の有無を発見せよとの主張です。検査をしたからにはその病気が無かったなんて事は許さないと言い換えればよいかと思います。もちろん検査をせずに見逃したら「怠慢、医療ミス」で社会的に抹殺するという事です。

どうにも救い様の無い話ですが、「そうなりそうか」と言われればかなりの数の医者が自嘲的に「そのうちそうなるだろう」との感想を持つような気がします。100%なんて望みようが無い医療という科学で、化学方程式のような100%の結果を、物理公式のような常に同じ結果を当然の要求とし、要求が満たせない時は犯罪であるという世界に、後どれぐらい医者は耐えられるでしょうか。