日曜閑話13

今日のお題は「小牧・長久手」です。非常に有名な戦いで天下統一を目指す秀吉と家康が実際に戦った唯一の合戦です。

小牧・長久手の遠因は本能寺です。本能寺で重要な事は信長が殺されたのは言うまでも無いことですが、嫡子の信忠も同時に殺された事が大きいと考えています。信長は後継について十分な配慮を巡らした人で、後継者争いが起こらないように早い段階で信忠の歳の近い弟とを他家の養子にしています。養子にする事により織田家の後継レースに参加できないようにした計算かと考えています。

これは信長自身が後継で血まみれの争いを行なった教訓に基づいたものと考えますが、さすがの信長もセットで殺される事までは計算外であったと思っています。織田家の後継は信忠一本に絞っていたため、信忠まで殺されてしまうと後継者不在となり、結局のところ織田家は実質信長の代で瓦解してしまう事になります。瓦解した織田家は草刈り場と化す事になります。

本能寺前の織田家の五大軍団は、秀吉、明智光秀柴田勝家丹羽長秀滝川一益が率いています。本能寺の後、光秀は秀吉に粉砕されます。関東侵略のため上州厩橋にいた滝川一益は北条氏の反撃に大敗し、本拠地である伊勢に逃げ帰り清洲会議では格下げを食らい発言権を低下させます。光秀が死に、滝川一益が力を落とし、丹羽長秀が秀吉支持の形勢で清洲会議が行われ秀吉が主導権をとったのは歴史の通りです。

勝家は滝川一益と結んで秀吉と決戦を挑みますが賤ヶ岳で大敗し北の庄に滅びます。この時点で秀吉は信長の後継レースの勝者になります。天王山が1582年の6月で、賤ヶ岳が1583年の6月ですからわずか1年の間の事です。秀吉は信長の覇者としての地位を継いだだけではなく、天下統一事業も受け継ぐ事になります。

地位を受け継ぐと言っても信長と秀吉では少々立場が違います。まず信長の織田家も怪しい出自ですが、秀吉となると話しにならないほどの怪しさです。戦国期は実力主義が確立していたとは言え、どこかで出自は重視されます。このリカバリーに秀吉は奔走しなければなりません。また率いる軍団も織田家は信長の独裁オーナー経営であり、軍団長である秀吉といえども織田家からの借り物の軍勢です。これを織田家の軍勢から、秀吉の軍団に忠誠を切り替えなければなりません。

これらの内部体制の確立を大車輪で行なう中で1584年に小牧・長久手は起こります。戦いは秀吉と家康・信雄連合軍で行なわれるのですが、秀吉はこの時点で家康と本当に戦う気であったかどうかに疑問を持っています。秀吉の戦略は信雄を叩きたいだけであって、家康参戦は計算外でなかったかと言うことです。

秀吉がこの時期に信雄を叩きたいのは政治的理由です。秀吉にとって大きな問題の一つは織田家との関係の精算です。信長死後瓦解した織田家の中でまとまった勢力を保っていたのは信雄1人です。形として織田家を代表する残存勢力である信雄を屈服させる事が秀吉の天下統一事業には重要な意味を持ちます。信雄が織田家を代表して屈服すれば完全に織田家から秀吉に権力継承が行なわれた証明になります。

この政治的アピールは織田家から秀吉配下に就いている旧織田家の将にとっても大きなものがあります。当時の人心が天王山から2年足らずでどう傾いていたかは推測するしかありませんが、秀吉にとって信長からの権力継承で重視された選択であったと考えます。

秀吉は戦いをするにあたり周到な準備を行なう人です。基本的に見込みで突撃するなんて粗雑な戦略は行ないません。十分に下準備を行い、必勝の戦略で戦に臨みます。しかし対信雄戦は少々雑だったと考えています。雑になった原因は稀代の英雄である秀吉をもってしても、時間と知恵を十分費やせなかったためと考えます。それほど信長の権力継承の内部固めに手を取られていたと考えます。

秀吉軍は数は動員できますが、配下の武将の多くはまだまだ秀吉に協力する雑多な連合軍の域を脱していません。軍団の統率と言う点で大きな弱点を抱えた状態です。そんな状態ですから戦略は勝てる相手に大軍で短期で押し潰すのが基本になります。信雄の人物は二流以下ですから、信雄単独なら統率に難がある秀吉軍でも楽勝と計算したと考えます。

同時に家康は信雄に手を貸さないと秀吉は戦略の基礎を置いたのではないかと考えます。実際の小牧・長久手では紀州の雑賀・根来の鉄砲軍団が北上し、秀吉はこれに悩む事になります。これもよく考えれば対家康戦まで想定していたら、先に叩き潰して後顧の憂いを除いてから進むかと考えます。紀州を後回しにしたのは家康は参戦しないが基礎計算にあったとも考えています。この辺は実は微妙で、秀吉は紀州の勢力の方が信雄より手強いと考えていたのかもしれません。下手に紀州に手を出して時間がかかったら、それだけで新生秀吉政権の信用が揺らぎだしますから、そこのところの損得勘定を計算したとも考えられない事はありません。

家康が信雄に協力した理由も複雑そうです。最低限、信雄の能力を買って織田家再興なんかは考えていなかったとは思います。秀吉勢力が畿内で大きくなり、信長権力を着々と継承しているのも情報として入手していたかとは思います。家康の判断として、秀吉勢力が遠からず伸びてくるのは確実であり、伸びてきた時の対策を考える必要があります。

考えられる対策としてはシンプルで、戦うか降るかです。家康も氷のような計算が出来る人物ですが、感情の本音として「サルなんかと・・・」の部分は皆無とは言えないかと考えています。信雄は人物はともかく、支配している領国は尾張、伊勢、志摩、伊賀と小さくなく、秀吉政権が不安定な内なら連合すれば秀吉を覆す事は十分可能であると考えたかもしれません。

家康軍は秀吉軍と違い中核は直属の家臣による軍団です。戦場となった小牧・長久手も根拠地から近く、補給の点からも不安は少なくなります。統率に難がある秀吉軍を局地戦で叩きながら持久戦に持ち込めば、秀吉配下の武将にも動揺が広がることが期待できますし、動揺が広がったときに信雄カードが生きる可能性も出てきます。少なくとも信雄が滅亡した後で家康単独で戦うより勝機は多いと判断したのかもしれません。

実際の小牧・長久手も家康の計算通りに進んだと考えられます。兵力は秀吉軍のほうが2倍以上であったと思われますが、統率の悪さから家康軍に局地戦で手痛く叩かれます。やがて強固な陣地を構築しあってにらみ合いの膠着状態になったところまでは、家康の計算通りだったと思っていますが、その後に家康の計算違いが出たと考えます。

信雄・家康連合軍が勝つには膠着状態に持ち込んだ後、秀吉軍に動揺が出て瓦解する必要があります。ところがさすがは秀吉で巧妙にまとめ上げてボロを出さなかったのです。内部的にはいろいろあったはずですが、それを表面化させずに家康軍に対峙します。局所戦で勝ったとは言え、家康も秀吉軍に致命的な損害を与えたわけではなく、五分のにらみ合いとなれば兵力差から決定的な勝利を握る事は難しくなります。

秀吉も計算外の家康参戦のため、幾つかの泥縄式の戦術ミスによる敗戦は喫しましたがよくまとめ上げてしのぎます。ただ持久戦になって不利なのは秀吉です。元の戦略が短期決戦なので、いつまでも家康とにらみ合いをしてられない事情があります。最終的には御存知の通り、秀吉は信雄に謀略を仕掛け、家康無視の講和を成立させてこの戦いを終わらせます。


いろんな思惑で戦われたと考えられる小牧・長久手ですが、この戦いの後、秀吉は家康に対し卑屈な懐柔外交に徹する事になります。これも有名ですが妹や母を差し出してまで講和を結び、西国制覇に邁進します。紀州制圧、四国征伐、さらには九州征伐です。ここで個人的に謎なのですが、西国を平定した後、なぜ秀吉は家康に再戦を挑まなかったかです。

小牧・長久手の秀吉軍は約4万、一方の家康・信雄連合軍は1万6000とされます。家康軍は再戦となってもそうは増えないでしょうが、秀吉軍は膨れ上がります。小田原攻めの秀吉軍は15万とも言われていますから、対家康再戦にラクに10万以上を動員できます。家康も信雄の代わりに北条氏と結ぶ手はありますが、北条氏が家康のために箱根を越えて大軍を送るとは考え難いところがあります。そうなると秀吉は対家康再戦に少なくとも3倍以上、いや4倍以上であっても不思議ない大軍を動員できる事になります。

家康の野戦での才能は秀吉を上回っていると考えられているフシはあります。しかし家康が少々秀吉の才能を上回っていても、大軍同士による合戦の鍵はどれほどの軍勢を戦場に集結させるかにかかっています。この原則を確立して実践したのが信長であり、秀吉はさらに忠実に実践しています。兵力差が3倍、4倍以上になればどんな名将が指揮しても勝負にならないという事です。

では家康が籠城戦術を取ったとしたら、今度は秀吉の城攻め技術は天下第一です。それこそ圧倒的な大軍でビッシリ包囲して、家康が音を上げるまで時間をかけて締め上げます。対家康再戦の時期になれば秀吉の後顧に憂いはなく、長期戦をじっくり構えて戦えます。

でも秀吉は対家康再戦の選択はついに選びませんでした。ここが秀吉と信長の違いなんですが、秀吉は信長の弟子ですが、信長ほど徹底していないのは大きな差です。徹底しないから秀吉は短期で天下を統一できたわけですし、徹底していないから秀吉政権は一代で消えうせたとも言えます。秀吉の目には家康は味方と映っていたように思っています。だから家康を懐柔して取り込んだ。

この秀吉の見方は間違いでなく、家康懐柔に成功したから秀吉政権は早期に成立し、家康も秀吉が目の黒い間は忠実な協力者に徹しています。もし秀吉政権の後継者が秀吉と同等の力量を持っていれば、家康は天下を取ることなく忠実な協力者で終わっていたと考えます。秀吉だから家康は従ったのであり、秀吉でなくなれば家康は従う必要が無くなり天下を取ったとも言えます。

思えば戦国時代は日本史でも有数の英雄の時代です。英雄の時代を収拾するには稀代の英雄が必要であり、稀代の英雄は英雄を従わせて天下を統一する力量が必要とされます。秀吉は稀代の英雄であったから、家康を始めとする戦国期の英雄たちを自分の支配下に収め、これを有無を言わせず従わせましたが、従わせ方はシステムではなく個人の力量であったのが特徴であったと考えています。

個人の力量に依存しすぎた政権であったため、華やかではありましたが後継者にも同等の力量を要求されたのが欠点とも考えています。ここで秀吉なんですが、自分の政権の欠点をよく知っていたのではないかとも考えてます。秀吉政権の欠点は、個人の力量に依存しすぎた政権運営であるのと、後継者がいない政権である事です。秀吉はあれだけの女好きであるにもかかわらず、ほとんど子供は出来ていません。

とくに小牧・長久手から家康懐柔に至る時期は後継者について絶望的な観測を持っていた可能性があります。ですから自分が掌握した政権の後継者として家康を見ていた可能性があります。可能性だけで証拠は何も無く、さらに秀吉晩年に何故か淀君に子供が生まれて迷走する事になりますが、家康を懐柔した時の秀吉はその英気がもっとも溌刺とした時期であったのでそういう構想もあったかもしれません。もちろん歴史はそれについて何も残してくれていません。

ではこの辺で今週も休題とさせて頂きます。