シノブの恋・倶楽部の名誉

 ここは甲陵倶楽部の会議室。今日は臨時の理事会です。

    「黒田君、今回の失態の責任をどう取るつもりかね」
 尋ねているのは跡部大吉。跡部家は政治家の一族として知られ、跡部大吉も衆議院議員を十期勤め、与党総務会長、政調会長から文科相、総務相を歴任しています。議員時代は『剛腕』『寝業師』とも呼ばれた実力者。

 地盤を息子の太郎に譲ってからは甲陵倶楽部の理事長に就任しています。未だに政界に隠然たる影響力を持つと怖れられ、うるさ型の多い甲陵倶楽部であっても理事長にあえて逆らう者はいません。

 議題は団体戦での北六甲クラブに対する敗北。甲陵乗馬倶楽部は正式には付属の馬術会であり、黒田理事はその会長を兼任しています。

    「先に言っておく、スポーツ競技であるから勝ち負けについては問わない。それは全力を尽くした選手への侮辱になるからだ。白田君も、栗岡君も、松本君も慣れない貸与馬戦でベストを尽くした。悔しい敗戦ではあるが、これは受け止めなければならない」

 跡部理事長の声は野太く迫力があり、聞く者の心を震え上がらせます。

    「黒田君と北六甲クラブの小林社長との間に長年の確執があるのは聞いておる」
    「確執と言うほどの・・・」
    「そのために試合を君の私的な報復に使ったのは問題だ」

 跡部理事長は試合の結果ではなく、試合に込められた意図を問題にしているのは明白です。そう馬術会の看板と、名称をその勝負に賭けたことです。

    「結果として小林社長の温情で看板は奪われず、名称も残ったが、あの時に約束の履行を迫られたらどうするつもりだったのかね」

 黒田理事は返答に迷いました。求められている回答は潔く受け入れてウンコ・クラブになるか、突っぱねるかです。これは倶楽部の品位問題に関わります。

    「そんな約束は無視すれば終わりますし・・・」
    「あの約束は市内の乗馬倶楽部の役員会議で為されたものだ。それを平然と破ると君は言うのかね」

 老いても跡部理事長の眼光は鋭く、黒田理事は背中にベットリと冷汗をかきます。

    「黒田理事は私的な諍いに馬術会の名誉を安易に賭けた。これだけで引責辞任は当然である。さらにだ、信義に基づいた約束を守らないとした。これはなにより品位を重んじる我が倶楽部の会員の資格問題に抵触する」
    「ちょっと待ってください。たかが親善試合の結果一つに・・・」

 抗議の声を上げかける黒田理事の声を、跡部理事長の野太い声がねじ伏せます。

    「黒田理事は会員除名が相応しいと考える。異議のある者はいるか」

 怒りを含んだ跡部理事の声に黒田理事さえ声が挙げられず、そのまま承認可決され、黒田理事は退席を余儀なくされます。

    「これで終りとはいかない。伝統ある甲陵倶楽部の名誉は奪われたままだ。なんとしてもこれを取り戻さないといけない」
    「ではリベンジ・マッチを」
    「それしかないが、北六甲クラブの三番手の腕前は驚異的だ。松本君でさえ大差で敗れておる。返り討ちに遭えば恥の上塗りになる」

 あの試合を見に行った理事の脳裏には、怪物的な快走を見せた姿が映ります。勝てるかと言われれば、それこそ時の運になります。ここで安易な提案をし、再び敗れるような事態になれば責任問題が発生します。静まり返る会議室ですが、ある理事が思いついたように、

    「理事長。帰って来ております」
    「そ、そうなのか・・・だが」

 跡部理事長の表情に曇りが、

    「理事長のお言葉通り、失われた名誉の回復は必要です。松本君でも難しいとなれば他にはいません。ここは理事長が自ら要請する以外にはないかと」
    「ワシがか? 他に手はないのはわかるが、厄介じゃな」

 数日後、理事長室にて、

    「失礼します」

 入って来たのは若い女。

    「・・・どうだ、やってくれんか」
    「そんな座興のような勝負に出ろと仰られるのですか」
    「そうだ、甲陵の名誉が懸っておるのだ」

 その女は冷やかな表情で、

    「名誉? 理事長、あなたはどうなのです。あの試合のあることは周知されております。なにを賭けているのかもです。止めることも可能であったにも関わらず、黙認し、あまつさえ会場まで足を運ばれておられるではありませんか。まだ理事長でおられるのが不思議なぐらいです」

 痛いところを突かれた理事長でしたが、

    「辞めることだけが責任の取り方ではない」
    「黒田前会長に全責任を押し付けるのがそうですか」

 さらに追い打ちをかけるように、

    「辞任されずに理事長職にしがみつき、この私にリベンジ・マッチをさせ、御自身は傷つかれないところで高みの見物をするのが甲陵の品位とでも。よくもまぁ、これで品位を口実に会員除名など出来るものだと感心します」
 ここまで言われた跡部理事長は怒りで顔がどす黒くなります。ところが女の方はどこ吹く風で出された紅茶をゆっくりと楽しみます。その態度に怒り心頭の跡部理事長でしたが、ここで怒鳴れば女は理事長室から出て行くだけです。

 そうなればリベンジ・マッチは出来ず、理事会での自らの面目を失うことにもなりかねません。理事長室に気まず過ぎる空気が満ちたところで女が、

    「条件によっては座興へのお付き合いも考えて宜しいかと」

 跡部理事長は不愉快さを押し殺すように、

    「どんな条件だ」
    「会長杯への招待です」

 会長杯とは馬術会内部の大会。

    「あの大会は馬術会会員にのみ参加資格がある」
    「そんなことはありません。かつては外部からの招待選手も参加しております」
    「それは大昔の話だ」

 理事長室のショウ・ケースに飾られた金杯こそが会長杯です。

    「先の団体戦では名誉として看板と名称を懸けて敗れております。リベンジをするならこれに匹敵する名誉を用意する必要があります」
    「それが会長杯だと言うのかね」
    「大会規則の第一条を御存じですね」

 大会規則第一条は不思議な内容で、

    『金杯の誓言は永遠に不変なり。何人もこれを変えること能わず』

 こうなっています。

    「第一条にある金杯の誓言とはそもそもなんだ」
    「あの金杯は一九三二年のロサンゼルス・オリンピックの西竹一男爵の障害飛越優勝を記念して作られたもの。金杯の台座に彫られている馬はウラヌスです」
    「だと聞いておる」
    「当時の会員であった鷲尾伯爵はこれに感銘してこの金杯を寄贈し、甲陵倶楽部から次のメダリストが出ることを願いました。あの金杯の台座の裏にはこう刻まれています。
    『この金杯に馬術会の名誉を込める
    これが守られぬ時は
    潔く贈呈し
    その栄誉を称えよ』
    そう、外部からの招待選手に敗れるような事があれば金杯は贈呈するとしています」

 跡部理事長は思わぬ話に驚きながら、

    「それが金杯の誓言か」
    「当時の馬術会は鷲尾伯爵の意志を受け、国内の強豪をあえて招き熾烈な戦いを行っています。あの西男爵さえも招待しようとしたほどで、これが会長杯のデュエロの伝統になっております」
    「それがどうして」
    「金杯流出を惜しんだ甲陵倶楽部理事会が馬術会に命じ百年前に外部招待を中止させたからです」

 女は跡部理事長の目を真っ直ぐに見据えながら、

    「外部招待を再開し、金杯を懸けてのデュエロこそ、名誉を取り戻すリベンジとして、もっとも相応しい舞台と賞品かと存じます」
    「もし、敗れて金杯を失えば」

 女は嘲笑うように、

    「たいした事は起りません。外部招待をあえて再開させ、金杯を失った責任問題を問われるぐらいです。そうですね、理事長のクビが飛ぶ程度でしょうか」
    「なんだと。理事長であるこのワシのクビを懸けろと言うのか」

 女は軽蔑を隠しもせず、

    「北六甲クラブの小林社長は、あれだけ不利な条件でも名誉のために敢然と勝負を受けておられます。それなのに理事長は金杯一つを惜しみ、理事長職にあることに連綿とされる有様。勝負はやるまでもないかと」

 女の言葉は相手が跡部理事長であっても辛辣を極めます。

    「理事長は倶楽部の名誉とか伝統がお好きですが、やられている事は、百年前に金杯流出を怖れて外部招待を中止した理事会と同じ。あの時に金杯の名誉は既に失われております。どうぞ腐りきった名誉と伝統とお戯れください」

 跡部理事長はここまで侮辱された記憶が思いだせない程でしたが、リベンジ・マッチを行うには、どうしてもこの女が必要であり、腹を括ることにします。

    「わかった。金杯の名誉を取り戻すためにも外部招待を復活させよう」
    「御英断と存じます」

 ここで跡部理事長に一つの疑問が、

    「外部招待をするのは良いとして、会長杯は自馬戦だ。そもそも参加しないのじゃないのかね」
    「そこでもう一つ条件があります。北六甲クラブから招待するのは三番手ではなく二番手の騎手にしてもらいます。そうすれば必ず参加してきます」

 跡部理事長は少し考えてから、

    「君でもあの三番手騎手には勝てないとか」

 女はソファから立ち上がり、跡部理事長を見下ろしながら睨みつけ、

    「私とメイウインドを侮辱することは、理事長であっても許されません」

 跡部理事長でさえ身じろぐほどの迫力です。

    「座興に参加する条件は以上です」

 後は振り返りもせずに女は靴音だけを残して部屋から出て行きました。その姿を見送りながら跡部理事長は、

    「いつもの事とはいえ、なんて女だ」

シノブの恋:決着

 最終組は甲陵倶楽部が先攻。松本さんだけど、これは鮮やか。まさに危なげないって、こんな感じかも。あのオクサー障害も難なくクリア。一六〇センチの垂直障害もあっさりと。

    「さすがはアジア代表ね。レベルが違うわ。減点無しでクリアしちゃったよ」

 松本さんの競技終った後に甲陵倶楽部の応援席に勝ったの空気が、

    「ユッキー社長、これでコトリ先輩が減点無しでクリアしたら引き分けですよね」
    「そうはならないの」

 勝敗の第一基準は減点数だけど、もし同点なら総タイム数になるんだ。

    「えっと、えっと、二組までの差が十八秒ぐらいで、松本さんのタイムが五七・八九秒だから・・・コトリ先輩は四〇秒を切らないと勝てないじゃありませんか」
    「そうだね」

 なにを気楽な。ユッキー社長が八三・五九秒だから足を引っ張ってるんじゃない。

    「シノブちゃん、誰が馬を走らせると思ってるの。よ~く見ておきなさい」
 コトリ先輩は颯爽とスタートじゃなく、あれは猛然とスタートじゃない。すごいスピードだけど、あれじゃ、障害を飛んだ後の方向転換が出来ないよ。あれっ、なんて鮮やかな方向転換。殆ど速度を落とさずに次の障害に向ってる。

 速度は凄いんだけど、乗ってるコトリ先輩の騎乗姿勢は優美。見ようによっては乗ってるだけに見える。それなのに馬は猛然と走り、勝手に方向転換して、跳んでいるようにしか見えないもの。会場もあまりの速度に騒然。

    『ゴール』

 タイムは、タイムは、

    『三九・七五秒』

 驚異的なんてもんじゃない記録だけど、どっちが勝ったんだろう。えっ、タイムも同点だとすると、

    「ユッキー社長、やっぱり引き分け」
    「いや北六甲の勝ちだよ」

 勝敗の基準は

  • 減点数
  • 合計タイム

 この二つが同じなら、

  • 減点ゼロの選手が多い団体

 こうなるのだけど、これもまた同数。そうなると次の基準の、

  • 最小減点者(同点の場合は時計の早い者)が所属する団体

 勝っちゃった。松本さんのタイムを十八秒以上も上回っての勝利なのよ。北六甲の応援席は奇跡の逆転勝利に狂喜乱舞状態。小林社長も泣いてる。奥さんも、娘さんも。表彰式で、松本さんがコトリ先輩に握手を求めてる。

    「完敗です。このコースで、あの馬で、あの時計は信じられません。あなたならオリンピックでも勝てます」
    「ありがとう。でもオリンピックには興味ないから」

 もう一つの焦点はこの勝負に賭けられたもの。クラブの看板と名称変更なんだけど、

    「黒田、看板はいらん。名前も変えんでエエ。勝利と言う名誉だけ頂く」
 えっ、要らないの。まあ、看板もらっても役に立たないし、甲陵倶楽部をウンコ・クラブに名前を変えるのも趣味悪いし。それにしても、負けてたら黒田会長はホントにクソ駄馬クラブに変えてたんだろうか。

 でもね、そう言ってのけた小林社長は格好良かった。小林社長はどうみても田舎のおっさんにしか見えないけど、間違いなく漢よ。奥さんや娘さんが、あれだけ小林社長を愛している理由が良くわかった気がする。夜はクラブの食堂、もといレストランで祝勝会。その時に、

    「それにしてもコトリ先輩は凄かったですね。社長やシノブのコーチに手を取られて、ほとんど練習してなかったのに」

 ユッキーさんは少し寂しげに、

    「コトリならあれぐらい当然よ。でも乗りたくなかっただろうな」
    「どうしてです」
    「昔を思い出しちゃうからだよ」

 そこにコトリ先輩が来て、

    「ユッキー、ハンデやりすぎやで」
    「イイじゃない、勝ったんだから」
    「そういう問題か」
    「そういう問題じゃない」

 でもユッキー社長が参加してなかったら勝てなかった。六人の中ではダントツに遅かったけど、曲りになりにも大障害を完走したんだもの。これは他の会員じゃ到底無理だもの。小林社長が向こうで泣いてる。もう泣きっぱなしじゃない。

    「今日は積年の怨みつもりが吹き飛んだ気分や。あれだけのメンバー相手にうちが勝ったんやで」
    「そうよ、あなた。負けた瞬間の黒田の顔見てスカッとしたわ。表彰式の時も格好良かった。看板いらんと言ってのけたもの。惚れ直したわ」
    「そうやお父ちゃんの勝利や」
 えっと、実際に競技をやったのはシノブたちなんだけど、ま、いっか。懸けてたのはクラブの名誉だし。シノブもクラブ員だし。今回は女神の仕事じゃないけど、なんかイイことした気がする。これだけ喜んでもらったもんね。

 それとシノブもスッキリした気がする。たしかにあの夜に伊集院さんに振られたけど、これで終わらせてなるものか。そうよ、欲しいなら奪いに行くのが女神の恋。たった、あれだけの事で終わらせてなるものか。

 女神に取って恋は至上の楽しみってコトリ先輩も言ってた。いや生きがいだと言ってた。恋は一直線に実ることもあるけど、あれこれあった末に結ばれるのあるのよ。伊集院さんとの恋もまだ続きがきっとあるはず。落ち込んでる場合じゃない。

 コトリ先輩だって、婚約指輪までもらいながら別れ、さらにユッキー社長と結ばれてもなお追いかけたじゃない。シノブもあれを見習う。もっとも、最後にシオリさんがさらっちゃうところだけは真似したくない。いないよね、そんなバカ強力なライバル。

シノブの恋:団体戦

 当日は社長のクルマで野路菊クラブに。とは言うものの年季の入った軽ワゴン。車中で、

    「コトリ先輩、作戦は」
    「そやな、まずユッキーはアテにしてへん」
    「そりゃ、ないでしょ」
    「どこに期待できるとこがあるねん」

 ユッキー社長の馬術は上手い。でもコトリ先輩に言わせると、

    『ユッキーは何をやらせても覚えるのは早いし、コトリより器用やねんけど、馬はあんまり得意やない』

 コトリ先輩はほとんど付き切りでユッキー社長の練習を見てた。

    「対戦相手は?」
    「甲陵さんも大人げないで、素人相手にゴッツイのを出して来てる」

 まず白田さん。メンバーの中で一番若いけど、ジュニア時代から鳴らしてたみたいで、県の国体強化選手にも選ばれてる。若手のホープってところ。次が栗岡さん。去年の国体の代表選手で全日本にも出場して十位の実力者。最後は松本さん。アジア大会代表で、全日本でも四位のトップ・ライダー。

    「手強いで、つうか、勝ったら奇跡や」
    「ホントだね」
    「気楽そうに言うな」

 こういうもめ事をコトリ先輩は好きなはずだけど、今回は最初から気乗りしてないみたいなのよ。

    『あのなシノブちゃん、コトリは馬に愛着あるけど、辛い目にもあってるからな』

 エレギオン騎馬隊を、それこそ馬の輸入段階から作り上げたのは次座の女神。アングマール戦でも騎馬隊の活躍は合戦の命運を左右したのは聞いたことがあるの。当時の騎馬隊の威力は強烈で、これをいかに運用し、さらに相手の騎馬隊の脅威をいかに封じ込めるかで知恵を絞り抜いたみたい。

    『人も仰山死んだけど、馬も仰山死んだんや』

 騎馬隊は馬も騎手も養成するのに手間ヒマがかかって、これを維持するのは大変だったみたい。でも相手が持っているので、持たないと負けるから懸命になってそろえたみたいだけど、

    『とにかく一回作戦やったら、どれだけ損害でたことか』

 だから競技であっても『馬で戦う』のに気が向かないで良さそう。

    「とにかくシノブちゃんが、最低でも引き分けてくれたらなんとかする」
    「なんとかなるのですか?」
    「たぶんやけど」

 そんな話をしているうちに会場の野路菊クラブに到着。こじんまりしてるけど、観客席もある立派な馬場。さっそく着替えたんだけど、

    「装備ぐらい買っても良かったんじゃないですか」
    「別に使えるからエエやんか」

 服こそ自前なんだけど、ヘルメットも、プロテクターも、乗馬用のブーツも、鞍も北六甲クラブのレンタル。これも年季が入ってて、かなりみすぼらしい。それと、

    「シノブちゃんもね」

 相手が甲陵倶楽部と言うことで変装もバッチリ。肩書ばれたら面倒だって。着替えが終わったところで甲陵倶楽部の三人と顔合わせ。シノブたちの格好を見て、ギョッとしたみたいだけど、

    「今日はよろしくお願いします」

 なかなか紳士的で好感もてた。そこから貸与馬に御対面。馬はわかりやすくて、葦毛、栗毛、黒毛でこれも抽選で当てられるんだ。同じ馬が当たったもの同士が対戦することになる。抽選の結果、

    葦毛・・・ユッキー社長、白田
    黒毛・・・シノブ、栗岡
    栗毛・・・コトリ先輩、松本

 対戦順も同じで、一回戦、三回戦は甲陵倶楽部が先攻。二回戦は北六甲クラブが先攻に決まった。それぞれ二十分の慣らし時間を終えて、コースの下見。

    「障害は十二個やけど、凝ったコースやで。あの最大のオクサー障害飛ぶのに回り込まなアカンし、あそこの垂直障害も・・・」
 上り下りもあって難しそう。選手側の準備も整ったところで開会式。観客席は結構な人数が入ってる。

 小林社長だけでなく黒田会長もこの対戦を煽ったんで、双方のクラブの関係者がかなり集まったんだよね。ただ笑ったのは駐車場の様子で、甲陵倶楽部側はベンツがズラッて感じなんだけど、北六甲クラブ側はバンとトラックとタクシーがズラッ。大型トラックまで止まっていたもんね。

 観客席もそんな感じで、甲陵倶楽部側は正装で決めてるんだけど、北六甲クラブ側はもろの普段着。ガヤガヤとうるさいのも北六甲クラブ側。ありゃ、阪神の応援席にでもいるつもりの気がする。

 ただ甲陵倶楽部側のギャラリーの社会的地位が高いから、非公認の野試合みたいな大会にもかかわらず、開会のセレモニーはキッチリやってた。野路菊クラブの会長が、

    「双方、約定により今日の団体戦を行う。ルールは日本馬術連盟競技会規程に準じるものとする。なお双方がこの勝負に懸けるのは、双方のクラブの名誉である。異存はありませんか」

 そうしたら小林社長も黒田会長も、

    「異議なし」

 野路菊クラブの会長は、

    「馬術は紳士のスポーツ。フェアな戦いを希望します」

 甲陵倶楽部側の応援席からは静かな拍手が、北六甲クラブ側からは歓声が上がってた。

    「一番手はユッキー社長ですね」
    「どんだけ相手にハンデを与えるかみたいなもんや」
    「規定時間は六〇秒ですね」
    「厳しいで」

 甲陵の一番手の白田さんは滑り出しは順調だったんだけど、オクサー障害のところでリズムが崩れ出し、バーを三回落とした上にタイムは六二・七八秒で減点十三。

    「たぶんあの馬が一番難しいと思うで」

 ユッキー社長も、やはりオクサー障害のところからバタバタとバーを落とし始め、なんとこれが五本、タイムも八三・五九秒で、減点二十二。

    「まあユッキーにしたら頑張った方や」
    「九点差は大きいのでは」
    「今日は荒れ模様やから、これからや」

 予想通りとはいえ、シノブにプレッシャーがかかるのがわかる。そりゃ、シノブまで大差を付けられたら勝負は終りじゃない。

    「気楽に行きや」
 馬は北六甲に較べると格段にイイ。慣らしで乗った時の感触もイイ感じ。これだったら行けるかも。障害飛越はリズムが大事、乗り手も馬もいかにこれが乗れるかがカギ。審判の合図でスタート。

 第一障害をクリア、第二、第三障害もクリア。イイ感じ、イイ感じ。次々とリズムよく障害をクリアしたんだけど、ちょっとオーバースピードになっちゃって、問題のオクサー障害の回り込みが・・・

    『ガラン』

 引っかけた。でもここで動揺したら、馬も動揺する。イイ子だ、イイ子だ、トリプル障害でまたリズムを取り戻してくれてる。一六〇センチの垂直障害もクリア。もうすぐフィニッシュ。時間は六六・八八秒で減点六。

    「シノブちゃん、ナイス」
    「でもオクサーのところで」
    「しゃあない、しゃあない」

 そして栗岡さんのスタート。うわぁ、順調だ。リズムもイイわ、さすが全日本の十位。シノブが引っかけたオクサー障害もクリアしちゃったじゃない。これじゃ負けちゃう、

    『ガラン』

 さらに垂直障害で、あれは反抗。でも、すぐに立て直して走り出したけど、

    『ガラン』

 リズムを完全に崩してくれたみたい。二本落としてタイムは六九・五五秒。減点は十五。戻ったらユッキー社長が、

    「シノブちゃん、よく頑張った。同点で勝負はコトリになるわ」
 減点数は二組目が終わって二十八点で同じ。ここまで勝負は荒れ模様。どういう決着になるのやら。予想外の展開に甲陵側の応援席は心外の空気が漂う一方で、北六甲側は大盛り上がりって感じ。いよいよ勝負が決まる三組目だ。

シノブの恋:意外なやる気

 シノブちゃんも段々とは回復しとって、部屋からも出て来たし、仕事にも行ってる。ただ表情は暗く沈んだまま。三十階でもほとんど口も利いてくれへんし、晩御飯が終わったら自分の部屋に直行って感じや。コトリもユッキーも腫物にさわるようでピリピリしてるんや。その夜も食事が終わると、

    「ごちそうさま」

 これだけ言ってシノブちゃんは部屋に戻ろうとしたんだけど、ユッキーが呼び止めたんや、

    「シノブちゃん、ちょっと待って。話があるの」

 シノブちゃんは座り直してくれたんだけど、

    「実はね・・・」

 北六甲クラブと甲陵倶楽部の果し合いみたいな団体戦対決の話を持ちだしたんや。シノブちゃんは静かに聞いてたわ。コトリは表情見とってんけど、全然反応があらへんから、無理やと思たんや。そしたら、

    「飛べる気がします」

 えっ、出るんか。

    「覚えてる感覚と較べて、すっごく軽い感じがするのです」

 そやろな。エレギオン時代はモロの実戦馬術で、完全武装で訓練しとったからな。それこそ鎧兜着こんで、槍抱えて、剣を腰に差して、馬にまで防具付け取ったんよ。それに較べたら、今はそんな余計なもん付けてへんし、北六甲クラブの馬でもあの頃よりは立派やねんよ。そりゃ、軽く感じて当たり前やけど。

    「わたしもそうなのよ」

 ウソつけ。ユッキーも馬乗れるのは間違いないけど、

    『女神に武装は似合わない』

 とかなんとか抜かして、せいぜい剣一本だけで乗ってたやんか。甲胄着けると不細工に見えるとか、肩凝るとか言うてたんも覚えてるで。シノブちゃんは、

    「ここはお世話になっている小林社長のために一肌脱ぐべきです。それが女神じゃないですか」

 ちょっと違うと思うけど、

    「コトリ、これで決まりね」

 マジでやる気か。ほいでも失恋以来、沈み切っていたシノブちゃんがこれだけやる気になってるのを止めるのは拙いよな。ええい、しょうがない乗りかかった船や、

    「大障害は甘ないで」

 休日があったんで北六甲クラブに行ったんやけど、いきなりシノブちゃんが、

    「コトリ先輩、ちょっとやってみます」
    「やめとき、怪我するで。やめとき言うてるのに、その馬じゃ無理やて・・・」

 ああ、行ってもた。シノブちゃんはいきなりギャロップにして、

    『ポ~ン』

 ありゃ、飛んでもた。社長が目を丸くしとった。あのなぁ、目を丸くするぐらいやったら、こんな勝負を挑むなよまったく。そしたらユッキーまで、

    「ちょっとやってみる」
    「やめとき、怪我するで。ユッキーの腕とその馬じゃ無理だって。アカン言うとるやろが・・・」

 ああ行ってもた。

    『ガタン』

 やっぱりな。

    「ちょっと引っかけちゃった」
    「ちょっとやないやろ、横木二本落ちてるで。だから無理って言ったのに」
    「でも馬が良くなれば飛べるんじゃない」
    「ユッキーじゃ飛べへん」

 落馬して怪我せんかっただけでもラッキーと思いやがれ。こりゃ、不安がテンコモリや。そんなコトリの心配をよそに練習コースは着々と作られて行ってもたんや。小林社長は他所のクラブから馬まで借りてきた。

    「うちのよりだいぶマシなはずや」

 たしかにかなりマシやった。やはり問題はユッキーで、

    『ガタン、ガタン、ガタン』

 障害飛越は、障害を飛び越える競技やちゅうのに、障害物倒しみたいになってもてる。

    「コトリ、案外難しいね」
    「一つぐらい、まともに飛んでや」

 シノブちゃんも苦戦してるわ。前の時はギャロップに加速して飛んでたけど、競技となるとそこまでの助走をする余裕がないんよね。キャンターぐらいで飛ばんとアカンねんけど、そうなりゃ馬の能力がモロにでる。

    「ユッキー、飛ぶ前に馬にタメを作らせんとアカン」
    「なるほどタメね」
    『ガタン』
    「だからタメと言ってもスピード落としたらアカンねん」

 あんまり横木を落とすさかい、馬が傷つかんように、横木は紙テープにしてもうた。垂直障害もラクやないんやけど、オクサー障害も難物。高さに加えて奥行というか幅があるんよね。

    『バリッ、バリッ、バリッ』

 どんだけ破ってるねん。もうユッキーとシノブちゃんの指導に手いっぱい状態。

    「コトリさんは指導も上手ですな」

 気楽に言うな。こんな無茶な勝負持ってきやがって。

    「ガンバレ、お嬢ちゃん。オレらがついとるで」

 あの夜の話は広まってるんよね。そりゃそうで、レストランにデッカイ貼り紙がしてあって、

    『北六甲クラブの勝利を疑う者に食わすメシはない』
 まったく堪忍してくれや。それだけやなくて、レストランの常連客がにわか応援団みたいになって、練習中もギャラリーが多いんよね。どっちゃでもエエけど、そこに弁当売って、ビールまで売って回ってるわ。ちゃっかりしてるで。


 最近の馬術大会は自馬戦が多いけど、少ないけど貸与馬戦もある。学生の大会とか、社会人の大会とか。この辺は学生や社会人に自馬を持たせるのが経済的に難しいのはあるからやと思てる。

 自馬戦が主体となってるんは、やはり馬術の特徴で馬の能力の比率の高さや。馬をどれだけ自分の好みに合わせて調教するのも勝負のうちやねん。格好良くいえば人馬一体となることで、どれだけ能力を示せるか競い合ってるぐらいかな。

 これに対して貸与馬戦は、騎手の即応能力が求められるのが特徴かもしれん。そりゃ、会場で初対面の馬に乗っていきなり競技をするんやからな。短時間の間に馬の特徴やクセを把握せんとアカンのよ。見ようによっては騎手の能力の比重が高いかもしれん。

 たぶんやけど、勝機はそこにあると見ている。甲陵倶楽部の騎手のレベルは高いけど、あれはあくまでも自馬で鍛え上げたもんやんか。あそこの騎手やったら、貸与馬戦の経験は少ないやろから、そこで弱点を出してくれるかもしれん。

 そやけど、こっちも不安はテンコモリ。ユッキーの技量は落ちるし、シノブちゃんも昔の技量を全部取り戻してる訳やない。勝つにはユッキーかシノブちゃんが対戦相手に勝ってくれんと話にならん。

 団体戦の方式やけど、総減点法になっとるけど、一対一の対決方式にもなっとんるんや。同じ貸与馬を二人の騎手が使うんやけど、これを先攻後攻でやるんよ。勝ち点方式ではないにしろ、ユッキーとシノブちゃんが両方負けたら終わりになってまうんよね。

    『バリッ』

 ユッキーよりマシやけど、シノブちゃんもこんな箱庭みたいなところでの障害飛越に苦労してるわ。

    「コトリは練習しないの」
    「そんな時間があるか! ユッキーとシノブちゃんがもうちょっとマシにならんと勝負にもならへんやろが」
    「そうだね」

 それにしてもお気楽やな。そこに小林社長も顔を出したから、

    「やっぱり無理あるで。負けたらクソ駄馬クラブになってまうんやろ」
    「勝利は確信しとる」

 こら他人に丸投げしといて胸張るな。

    「ところで、野路菊クラブの馬のレベルは」
    「悪ないで。野路菊さんも甲陵倶楽部に貸与するから、エエのん出して来ると思うで」

 そやろな。

    「貸与馬の練習時間は?」
    「二十分や」
    「そんだけ!」

 ほいでもちょっとやけど有利な材料かもしれん。ユッキーはともかくシノブちゃんなら出来るはず。もっとも体が思い出してくれたらやけど。

    「勝ったら御褒美は?」
    「御褒美? えっと、えっと・・・」

 そこにユッキーとコトリちゃんが来て、

    「御褒美でるの、なになに」
    「御褒美楽しみ」

 社長はグッと詰まって、

    「レストラン三%引き」
 三人とも転んだわ。

シノブの恋:大障害

    「・・・そういうことで貸与馬での大障害A勝負になった」
    「冗談やろ、大障害Aいうたら最高難度やんか」

 コトリたちが馬に乗った後に社長室に呼ばれたんや。社長室言うても四畳半ほどの部屋で、どこから拾ってきたかわからへん、くたびれきった応接セットがあるぐらいやねん。ちなみに大障害Aとは、

  • 高さ一六〇センチ以内
  • 幅一八〇センチ以内
  • 平均分速で三七五~四〇〇メートル
  • 障害個数は十三個まで
  • ダブル障害とトリプル障害が一個ずつ
  • 最大級のオクサー障害が一個以上、同じく垂直障害が二個以上

 垂直障害とは横木が並んでる幅のないやつと思えばエエねん、オクサー障害とは横木が二列あって幅のあるやつのこと。そやから最大で高さ一六〇センチで幅が一八〇センチの障害まである。競技の採点は、

  • バーとかブロックを崩したら四点減点
  • 障害物を飛び越えるのに躊躇したら四点減点、これは不従順とか反抗って言うんやけど二回やったら失権
  • 反抗時間が四十五秒以上になったら失権
  • タイム制限もあって、規定時間を四秒越える越えるごとに一点減点

 だいたいはこんなもん。とにかく障害が高くて幅も広いから危険で怪我もしやすいから、馬術協会も参加できる資格のハードルを上げてて、公認大会ならA認定が必要だったはず。

    「このクラブでA認定なんておったっけ」
    「おらん。でも公認の競技会やないからOKや」
    「そういう問題じゃなくて、A認定ぐらいの技量がないと危ないやんか」

 だいたいやで、中障害でも完走するのがやっとレベルやのに、大障害なんて無理に決まってるやんか。

    「社長は大障害飛べるん?」
    「やったことないから自信がない」

 こら、だったら誰が出る言うんよ。とりあえず試してみると社長が言いだして、一六〇センチの垂直障害を廃材使って作っとった。

    「コトリ、ありゃ壁だね」
    「ガチで人飛び越さなアカンからな」

 出来上った垂直障害に社長は挑んだけど、馬が回避してもた。そりゃ、そうするやろ。あんなもん飛び越えようとは馬でも普通は思わへんやろ。

    「やっぱりアカンで」
    「アカンですまへんのや」
    「そんなもん、社長が勝手に変な勝負もうてくるからや」

 小林社長の腕も問題やけど、あの馬じゃな。何回か挑戦しとったけど、馬は単なる壁と思い込んで横を走り抜けるだけ。

    「コトリ、あれじゃ勝負どころじゃないわね」
    「ホンマに」

 インストラクターの面々も挑戦したけど馬は飛ぶなんて念頭にもなく回避。

    「障害を飛ばずに回避しちゃったら、どうなるんだっけ」
    「一回目は減点四で、二回目は失権や」

 貸与馬やから、ここより馬は良くなるやろけど、勝負するだけ無意味な気がするで。それもやで、今回の勝負は何を考えたかしらんけど団体戦。団体戦のやり方は二つあって、

  • 勝ち点法
  • 総減点法

 勝ち点法は一組ずつの勝負で二勝あげた方が勝つ方式で、総減点法は団体の総減点数の少ない方が勝つ方式。ほいでもって今回は何故か総減点法。

    「失権者が一人出ただけで最低でも四十点やから、それでアウトや」
 失権の減点規定も色々あるんやが、四十点の上にそれまでの減点と、残ってる障害一つに付き二十点なんや。コンビネーションも障害の個数としては一個と数えるけど、減点の時はダブルで四十点、トリプルで六十点加算や。

 だいたいやで、団体戦言うても三人どころか、一人もおらへんやんか。どないするつもりやろ。ユッキーとクラブのレストランでメシ食べとってんけど、

    「これでクソ駄馬クラブになるのは確実ね」
    「ならへん可能性が思いつかへんぐらいや」

 勝負の話は常連さんにも伝わってて、

    「看板やったら、うちの倉庫に隠しといたらどうやろ」
    「あんなボロ看板、新調したらしまいやんか」
    「ほんでも、クソ駄馬クラブに名前が変わってまうで」
    「あんまり嬉しないな」

 誰も勝つ予想してへんわ。そしたら、いつもニコニコ愛想の良い奥さんが突然怒りだし。

    「うちの人は勝つ。必ず勝ってくれる」

 娘さんまで、

    「お父ちゃんが負けるもんか」

 顔見たらガチで怖いぐらいやった。

    「でも相手は甲陵やで」
    「お父ちゃんが負ける言う客に出すもんはあらへん。帰ってか」

 あまりの剣幕に、レストランの営業どころじゃなくなってもたんや。その時に二人はワンワン泣き始めて大変。騒ぎを聞きつけた小林社長が来て宥めてまわっとった。なんとなく帰りそびれたコトリとユッキーやってんけど、気を取り直した奥さんが、

    「少し聞いて欲しいことが・・・」

 小林社長夫婦が知り合ったのは甲陵倶楽部時代。社長は厩務員で、奥さんがレストランのウェイトレスやってんて。今じゃ想像しにくいけど、奥さんはけっこうな別嬪さんで、もててたらしい。だから娘さんは可愛いのかも。

    「黒田と私は付き合ってました。少なくともそのつもりでした」

 自然に関係を持つところまで進んで、

    「真剣に結婚まで考えていたのですが・・・」

 妊娠までしたところで、黒田の態度が豹変、

    「遊びだと言われて、冷たく捨てられたのです」

 そんな傷心の奥さんを慰め、励まし、勇気づけたのが小林社長。

    「うちの人はキズモノを嫁にしてくれたんです」
    「そんなこと、思たこともあらへん。世界一の恋女房や」

 小林社長が馬より愛してるのが奥さんなのは有名。コチコチの愛妻家。

    「うちの人は、いつの日か黒田を見返してやると約束してくれたのです」

 当時の小林社長は騎手を目指していて、爪に火を灯すように倹約しまくって馬の購入費を貯めてたんやて。その馬に乗って競技会で黒田会長に勝つためにや。やっとこさ馬を手に入れて、これからと言う時に、

    「娘が大きな病気になってしまって・・・」

 小学校ぐらいまで入退院を繰り返してたで良さそう。治療費も必要だったんだけど、奥さんが看病のために働けなくなってしまい。

    「馬を売らざるを得なくなったのです」
    「当たり前やろ。馬より娘の方が百倍も、千倍も、万倍も大事に決まってるやんか」

 そしたら、娘さん。エミさんていうんだけど、

    「うちは知ってるんや。うちはお父ちゃんの子どもやない、本当は黒田の娘だって」

 これは絶叫やった。戸籍上は小林社長の娘やそうやが、あの時の子どもを産んでたんや。

    「憎い黒田の娘のために自分の夢を売ってもたんや」
    「なに言うんや、世界中の誰がなんと言おうとエミは一〇〇%オレの可愛い娘や」

 小林社長がどれだけエミさんを可愛がってるかはみんな知ってるけど、実の娘じゃないだけでなく、黒田会長の娘だったとは。

    「うちの人はお腹の中にいた娘も合わせて引き取って結婚までしてくれたのです」
    「ちゃうで、オレが惚れまくったからや」
    「それだけじゃないのです。エミを産んだ時に子宮を取らざるを得なくなって。うちの人の子どもは・・・」
    「なに言うんや、子ども作るために結婚したんちゃうわい。お前に惚れて結婚したんや。子どもかってエミがちゃんとおるやんか。二人はオレの宝物や」

 ここまで言い切れるなんて小林社長も立派な漢やないか。

    「あの馬だって・・・」
    「そうや、あの馬はお母ちゃんの無念を晴らすために買ったものやったのに、うちの病気のために・・・」
    「あの馬がいても、勝てんかったから同じや」
    「そんなことはありません。あの馬は格安で手に入れましたが、あれこそ掘り出し物。うちの人の馬を見る目はさすがでした。だって、だって、あの馬は・・・」

 驚いたんやけど、転売された馬はアジア大会まで行ったらしい。

    「うちの人にはどんなに感謝しても足りんほど感謝してます」
    「日本一、世界一のお父ちゃんや」

 小林社長は騎手になる夢をあきらめて、それこそ身を粉にして働いてこの乗馬クラブを開いたそうやねん。騎手としては勝負の土俵さえ上がれんかったけど、いつか黒田会長が率いる甲陵倶楽部に勝つためにやそうや。

    「黒田は自分の血を引く娘を駄馬と罵っています。それは私が駄馬であるとの侮辱であり、そんな駄馬と結婚したうちの人への侮辱です。だから名誉まで懸けたんです。役員会議の夜にどれほど怒りまくったことか」
    「あんだけ怒ってくれたお父ちゃんを尊敬してる。だから、だから、この勝負、なにがあっても勝つんや。負けたらアカンのや」

 気持ちはわかるけど、無理なもんは無理やんか。そしたらお母さんと娘さんが突然土下座したんや、

    「お願いです。どうか代表として出てくれませんか」
    「ちょっと待ちいな」
    「このクラブで大障害を飛べる可能性があるのは、コトリさん、シノブさん、ユッキーさんの三人しかいません」
    「買いかぶり過ぎや」
    「いいえ、あなた方の技量はうちの人も仰天してます」

 参ったな。断りにくいやんか。そこに追い討ちが、

    「コトリ、やろうよ」
    「なに言うてるんや、大障害やで」
    「飛べばいいだけじゃない。矢も飛んで来ないし、槍で刺されたり、剣持って追いかけて来る奴もいないんだし」

 エライ喩えや、あちゃ、小林社長まで土下座してる。

    「でもシノブちゃんはあの調子やで」
    「なんとしても引っ張り出す」
 大障害はやる気だけで飛べるもんやないんやけど。