ツーリング日和19(第29話)チサの過去

 直球勝負では無理か。これで決まって欲しかったな。チサの過去には秘密があり、その過去がチサに翳を落としている。けどさぁ、それを知ることに何の意味があるかは疑問なんだ。ボクは再会してからのチサを見てプロポーズした。

 ボクが結婚したいのは今のチサで、それで十分じゃないか。チサが話さなければボクは知らずに済む。どんな過去があろうとも今からボクがチサを幸せに出来ればそれがすべてじゃないか。でも世の中そこまですんなり行かないよな。

 チサの返答からすると、どうしたって正面から受け止めさせられそうだ。もっとも天橋立で話すって言ってたからな。これはかなり厳しくて辛い時間になりそう。そしたら俯いていたチサがポツリポツリと話し出した。

「離婚したのはホントだし、それがチサの不妊症から始まって旦那の浮気になったのもウソじゃない。でもね、浮気したのは旦那だけじゃなくチサもそうだったのよ」

 ダブル不倫の末の泥沼の離婚騒動だったのか。そんな予感はしていた。たしかに婚家はややこしい家なのは知っているけど、やっぱり実家から追い出され勘当状態になったのはやり過ぎだと感じていたんだ。

「あの時は家から追い出されたというより、不倫相手の男のところの転がり込んで呆れられて見放されたのが真相だよ。ついでに家の金を盗んでいたから、そんな出来損ないの尻軽娘に二度と家の敷居を跨がせないと激怒され勘当されたのよ」

 ここも、もうちょっと根は深かったみたいで、不倫している時にその相手に完全に溺れこみ貢いでいたのか。そういう時には縋っても捨てられるケースも多いはずだけど、

「不倫だから慰謝料も発生したのだけど、その男はそれを払ってまでチサを受け入れた」

 本気だったとか。

「チサは結婚もしてたし、結婚する前だって男性経験は何人かある。でも果てるとこまで感じたことはなかったのよね。その男はチサに女の喜びを教えてくれた事になる。だから夢中になったし、離婚しても追いかけたし、結婚だってする気だったのよねぇ」

 えっと、えっと、

「でもね、すべてが罠だった。男は慰謝料こそ払ってくれたけど、それはすべてチサが背負わされた。それもだよ、どう聞いても筋が悪いところから借金だったのよね」

 ヤバイ流れだぞ。その借金を返すために風俗で働かされたのか。

「今から思えば、そっちだったらどんなに良かったかと思うよ」

 風俗で働かされる方が良かったって・・・

「まずチサは徹底的に狂わされた」

 なんだって! エクスタシーを使ったキメセクをされたのか。

「ヤクって怖いよ。本当に狂わされてしまうからね」

 そうなってしまうぐらいは聞いたことがあるけど、

「あれはね、もうそれしか考えられなくなるのよね。わかんないだろうな、男を与えてもらい、果てたい以外は頭からすべて消し去られてしまうの。それがこの世のすべてになり、そのためならなんで差し出すというか、命じられるままにすべてを差し出した」

 そんなに効果があるものなのか。

「あると思う。この辺は個人差とかエクスタシーと言ってもあれこれ種類があるけど、あのヤクではチサはそうなった。それとヤクの効果も大きいけど男の手腕も凄かった」

 そうだった。チサはその男にヤク無しでも女の喜びに溺れさせられてた。その上にヤクの効果が加わったから狂ってしまった部分もあったのかもしれない。

「男を与えてもらうためならなんでもやった。男を喜ばすテクニックも徹底的に叩き込まれたけど、あれだって懸命になって身に着けたもの。あれも出来なきゃ、男をお預けにされるからね」

 なんてことに、

「男が欲しいばっかりにあの契約書にだってサインしたし、そうなれたことを感謝する宣言もビデオに撮られた」

 その契約書ってまさか、

「ご想像の通りだよ。奴隷契約書ってやつ」

 でもそんな契約書なんか無効のはずだ。

「法的にはそうなんだけど、チサは狂わされてたからね。ああいうものは屈辱のサインじゃない。でもチサはそうじゃなかった。サインさえすれば男を与えてくれるしか頭になかったし、奴隷宣言だってそれさえすれば男にありつけるから進んでやったぐらい」

 なんてこったよ。人は異常な環境に置かれると、それに過度に適応してしまう事があるとされる。チサの置かれた状態は常に人として、女としての誇りとのせめぎ合いになるはずだけど、誇りより覚えさせれられてしまった体の喜びに完全に屈してしまったぐらいなのか。

「そいつはチサだけを食い物にするヒモ男じゃなかったんだよね。それが目的なら本番専科の奴隷ソープなりで働かされるぐらいで済んでたのかもしれないけど、あそこまで手間ヒマかけてチサを狂わせ性奴隷にするのが本当の目的だったのよ」

 それって、

「そいつの商売はチサの心も体も快楽に漬け込み性奴隷に堕とし売り飛ばすこと。そうだよ、チサはそうなっていた。あの最低野郎はその点だけで言えばプロ中のプロだったな」

 プロってなんだよそれ、

「チサも最初はヤクで狂わされた。だけどさぁ、そいつはチサをヤク無しでも狂う状態にまでしたのだよね。そうだね、究極の淫乱にされてしまったってこと。そこまでにしたのも理由があって、ヤク無しで狂った奴隷の方が高く売れるらしい。ヤク代の節約かな」

 ヤク代の節約って・・・

「異常すぎる世界の話だからね。そこまでにされて売り飛ばされたのだけど、ヤク無しで狂いまくれる淫乱にされたから生き残れたのはあると思う」

 異常なんてものじゃないレベルの世界の話だけど、その売り飛ばされたところって、本当にこの世に実在するのかよ。

「実在してたよ。カネと権力を持つ狒々親父達の趣味の権化みたいな地下秘密クラブぐらいを想像したら良いよ。秘密クラブと言ってもビルの一角みたいなものじゃなくて、高い塀と大きな門もある立派なお屋敷みたいなもの」

 絵に描いたような性奴隷屋敷みたいだ。

「そこで監禁されてひたすら男の相手をした。とにかくああいう連中はひたすら強い刺激を求めるし、相手が性奴隷だから情けも容赦もなくすべてやらされたかな」

 さぞかし悔しかったんだろうな、辛かったんだろうな。こんなもの女の生き地獄そのものじゃないか。

「辛いこと、苦しいこと、屈辱的な事はいくらでもあったよ。でもさぁ、とにかく異常過ぎる世界じゃない。チサは契約書付きの性奴隷だし、売られたところだってモロみたいな性奴隷屋敷じゃない。淫乱に狂わされていたチサはさらに狂って開き直ってた」

 そんなところでどう開き直れるのだよ。

「チサは淫乱だからとにかく男が欲しいじゃない。あそこはチサが欲しくてたまらない男を次々に与えられるところよ。そういう世界だと思うと楽しめるって思っちゃったぐらいかな」

 女の生き地獄を楽しむのが開き直りって・・・チンケな想像を超え過ぎる異常世界だ。そうでもしないと気が狂いそうだけど・・・えっ、男と寝るだけじゃないのか。

「だからいくらでも刺激が求められるって言ったじゃない。あそこでは週末になると女の生き恥をさらすショーが行われていたのよ。それに興奮した男たちが品定めをして性奴隷を買うって流れで良いと思う」

 女の生き恥って、

「ショーの見世物として果てる姿を見せること。無理やりみたいに果てさせられたり、自分で果てることを強制されたりかな。とくに無理やりは色んなバリエーションがあって感心したぐらい」

 バリエーションに感心って、

「そうなのよね。毎週のように舞台で果てさせられるのだけど、えっ、こんな事までやらされるのって手法が毎回のように出てくるのよ。そういうアイデアを次から次へと編み出せるプロっているものね」

 まさかそれも楽しめたのか。

「チサはヤク無しだったから、舞台で客の目の前で果てさせられるのに羞恥心が残ったのよね。だから人気が出たのは皮肉だったけど、ショーも辛かったけど、その後の方がキツかったな」

 そう言えばショーは品定めとか言ってたけど。

「そうなのよ、ショーでは二十回ぐらいは余裕で果てさせられるのだけど、そうなった体で興奮した客の相手をしないといけないからね。朝までかかって大変だったもの」

 それこそ女の生き地獄だろうが。ショーで果てさせられるだけ果てさせられるだけでも想像を絶するのに、そうされてしまったチサに興奮した男どもが群がるんだぞ。

「チサは淫乱の男狂いだったから男を与えられるのに不満はなかったけど、あの状態から引き続きであれだけの相手をするのは、さすがに過ぎたるはなんとかだったもの。ショーの日が来るのはホントに憂鬱だった」

 ああ、なんてこった。

「チサはヤク無しで狂えたけど、他の女は必ずしもそうじゃなかったのよね。そうなるとヤク頼りになるけど、あれだけ毎日使われると影響が出ないはず無いじゃない。入れ替わりが多かったのよ。入れ替わりと行ってもあそこから解放される訳じゃないでしょ」

 ヤクを使われ過ぎると廃人になって性奴隷として役に立たなくなったり、それこそ死ぬのも多かったそうだ。死ななくても廃人になってしまえば用済みとなり、

「やつらは処分と言ってたけど殺されてたと思うよ。あそこは十人ぐらい常に性奴隷が飼われてたけど、一年もしたら殆ど入れ替わってたもの。チサだっていつまで生き残れるかの不安は常にあったのよ」

 でも生き残り助け出された。

「ドリームクラブ事件って聞いたことはないかな」

 えっ、あんなところにチサはいたのか。あれは猟奇殺人事件から始まり、チサのいた性奴隷屋敷の拉致監禁事件へと発展し、そこで婦女暴行なんて甘いレベルではない狂ったような性の饗宴が繰り広げられているのがわかり、ワイドショーとかで興味本位で連日のように大騒ぎしていた。

 それだけでも余裕のスキャンダル事件だったのだけど、そこに通っていた客に政財界の大物がいて何人も逮捕され、それこそ世紀の大スキャンダル事件になってしまったぐらいだ。あれだけ報道されればボクだけじゃなく知らない人の方が少ないと思う。

 それにしてもあれが良く表沙汰になったものだ。あそこまでの大物が関与してると警察だってそうは簡単に動かないはず。そうだな、せいぜい猟奇殺人事件で留められ権力者が関わる性奴隷屋敷への捜査は控えられたりするのが世の中なんだけど、

「たぶんだけど死体処理に不手際があったんじゃないかな。とにかく数が多いものね。警察は失踪事件なら、なかなか動かないけど死体が見つかればさすがに動くじゃない。他にも政治がらみの複雑な事情があったらしいけどわかんないな。チサは中にはいたけど、男の相手をしてただけだもの」

 週刊誌程度の情報だけど、政敵の追い落としに利用されたとかなんとかは書いてあった。あの事件だけで政権が結局倒れたようなものだったから、裏舞台はドロドロなんてものじゃなかったぐらいは言えそうな気がする。

 チサは女の生き地獄を体験させられ、なんとか生き延びたのか。でも救い出されたのは本当にラッキーだ。耳を塞ぎたくなる気持ちに何度もさせられたけど、そこからなんとか生還できてホントに良かった。

「それは言える。チサはヤクで死ぬ心配こそなかったけど、あそこの賞味期限は短いのよ。廃人や死人にならなくても、人気がなくなればお払い箱になって処分されていたはず」

 客層が客層だから奴隷の転売みたいなものは秘密を守るためになかったらしい。

「女にとってあそこは、入り口はあっても出口のないところ。その中で生き残るためには、男の相手をしているだけではダメで、その男を喜ばせ、また買いたいと言う気分を持たせなければならないの」

 なんてところだよ。

「それも聞かされていたから男が望むならなんでもやったよ」

 時間の問題でチサも人知れず殺されていたかもしれない。まさに命の瀬戸際の状態にいたことになる。ドリームクラブ事件が起こらなかったら、こうやって再会することも出来なかったはずだもの。そこから今に至るだよね。

「そうは簡単に行くものか」

ツーリング日和19(第28話)宿に

 傘松公園から北上して伊根に。

「ここなのか」

 ここだけなら海辺の田舎町だけど、

「舟屋って海に向かって作られてるから陸からじゃわかりにくんだよ。でもほら、あの辺なんか舟屋っぽくない」

 たしかにあれがそうかも。

「あそこから見えるのじゃない」

 バイクを停めて見たら舟屋だ。それもあんなに並んでるのか。

「あんな写真が観光案内に良く出てたよね」

 こんな感じだった気がする。ここは遊覧船の予定だけど、そろそろのはず。あったあった。さっそく乗り込んで、

「カモメがいっぱい集まってくる」

 遊覧船に乗り込んだらたくさん集まって来た。餌付けされているみたいだ。

「きゃっ」

 チサさんも餌遣りやったけどカモメも上手に餌を取るものだ。無邪気そうにハシャいでいるチサさんお笑顔はひたすら眩しい。チサさんにはあの笑顔が必要で、それを守らないといけない。

 理由はわからないけど、それはボクなら・・・なぜか出来るそう。よくわからないけど、ボクはあれだな、選ばれた男になるのかな。伊根湾の遊覧船を満喫して、

「この辺に泊まるの? なんか雰囲気の良さそうな旅館みたいなのもあったけど」

 それも考えたけど天橋立に引き返すよ。今日、伊根まで回ったのは明日の帰路の関係もあるからね。

「帰りも遠いものね」

 そうなんだよな。明日もノンビリなんかしていたら、

「夕暮れの渋滞ラッシュに引っかかるものね」

 そういうこと。伊根から引き返して来てあそこだな。天橋立の方に行きたいから橋の側道を行くよ、

「この信号を左ね」

 一本道で行けるはずだけど、

「なんか寂しいところね」

 この辺は天橋立と山一つ挟んだ西側になるのだけどなんにもないな。観光客だってここまで回らないというか、行くのなら伊根から走ってきた国道一七八号を素直に使うだろう。それでも阿蘇海のシーサイドツーリングを楽しめると言えるけど、

「宿までもう少しだよね」

 さすがにくたびれた。朝から何時間走ってるかだもの。お腹も空いてるし、お尻だって、腰だって、肩だって痛いもの。もうゆっくりしたいのはボクだってそうだ。

「こんなんで今晩頑張れる。ちゃんとバイアグラ持ってきた?」

 そんなもの持ってきてないよ。若い時みたいにいつでも、どんな時でもスタンバイ出来るとまで言わないけど、まだまだそんなクスリに頼らなくても頑張れる・・・はず。

「あら頼りないのね」

 そう言うな。若さは戻らないんだよ。でもね、ああいうものは相手によって変わるんだ。体調も大事なのはもちろんだけど、やはり大きいのは精神だ。ましてや今夜の相手はチサさんだ。精神が肉体を凌駕するに決まってるじゃないか。

「バツイチのオバサンの裸を見て萎えませんように」

 ここは半島状になっていて、この半島から天橋立は延びてることになる。道が緩やかなカーブになってるから、もうこの辺になるはずなんだけど・・・ここみたいだ。

「えっ、ここ」

 そういうな。悪くないはずだよ。

「なるほど、ここからなら天橋立が見えるのか」

 バイクを停めて部屋に案内されたのだけど、

「メゾネットになってるじゃない。それにしても良い宿ね。チサと頑張るにはオシャレ過ぎるよ」

 メゾネットというよりロフトかな。一階はリビングで良いと思うけど、

「ここで今夜は頑張るのね」

 二階がベッドルームになっている。

「これも贅沢ね。窓から天橋立が丸見えじゃない。今夜はあんな風に繋がろうね」

 言うまでもない。ぎっちり繋がってやる。それと小さな宿だから大浴場はなくて、

「一緒に入ろうよ」

 まだダメだ。

「ホントに堅物なんだから、オバサンのヌードなんて見たくないとか」

 見たくない訳がないだろうが。でもケジメは大切だ。交代でお風呂に入ってツーリングの汚れを落としまずは夕食だ。だからタオル一枚で出てくるなって。

「どうせ今夜は全部見るし、楽しむのだから良いじゃないの」

 だからまだだって。この宿はオーベルージュとなってるけど、日本語に訳したら料理旅館で良いはず。宿泊施設だけど料理にこだわりが強い宿ぐらいになるはずだ。それとオーベルージュとなってるけど純粋なフレンチって訳じゃなく、フレンチの技法も使うけど基本は懐石のはず。

「懐石料理って日本の伝統料理なんだけど、発想が柔軟なのよね。他の料理技法を平気で取り込むもの。今晩は期待できそう」

 ああ期待してくれ。きっと満足してくれるはず。謳い文句はそうなってた。食事はダイニングルームで頂くのだけど、

「これ美味しいよ♪」

 チサさんが美味しいものを食べるときの笑顔は本当に幸せそうだ。今夜は今まで見た中でも最高で、この世の最高の笑顔を集めたぐらいに素敵だもの。

「やっと来れたね。ここまで来れただけでチサはどれだけ感謝しても足りないと思ってるもの。そのお礼じゃないけど、せめて今夜は思う存分楽しんでね。」

 もちろんだ。

「もうはっきり言うようになったんだ。だったらもうチサって呼んでよ」

 わかった。もうチサと呼ぶ。

「やっとそう呼んでくれて嬉しい」

 結局初々しいステップは踏ませてくれなかったな。でも心はもう通じ合ってるから目を瞑ることにする。食事も進んでお酒も少し入ってほろ酔い加減だ。よしボクの切り札を出すぞ。さすがにドキドキがどうしようもないけど噛みませんように。

「チサ、今夜は二人の初夜だよ。それでね、これから死が二人を分けるまで続く夜の始まりになる。チサ、結婚しよう。必ず幸せにするって誓う」

 噛まずに言えたぞ。ちょっと早口だった気がするけど満点になんて出来るものか。問題はチサのリアクションだけど俯いちゃったか。

「コウキのその言葉だけでチサは生きていける。最後の最後にそんな事を言うなんて卑怯だよ。二人に初夜も、永遠の夜も、ましてやチサの幸せなんてあるものか。今夜はチサを楽しむだけ楽しんで終わりにする夜よ」

ツーリング日和19(第27話)出発

 チサさんの思わぬ言葉を聞いてボクも覚悟を決めた。チサさんには人に言えない秘密、いや黒歴史があって苦しんでいるはず。さらにボクに救いさえ求めてる。それぐらいはボクだってわかる。

 だったらどうするかなんて決まってるじゃないか。必ずチサさんを救い出す。チサさんはボクなら救えると言った。誰が見殺しになんかするものか。運命ってね、流されてしまうのはそうだと思うけど、変えられるはずなんだ。

 そりゃ、運命を変えるのは簡単じゃないかもしれない。どんなに足掻いても逆らえないことがあるのが運命だとは思う。だけどさぁ、チサさんは運命を変えられるカギを知ってるじゃないか。

 それがどうしてボクなのかの疑問は解きようがないけど、チサさんがそこに最後の希望を託しているというのなら、それに応えるのが男だろう。ボクがチサさんの運命を変えられるというのなら、どんな手を使ってでも変えてみせる。

 きっと天橋立でチサさんは自分の黒歴史を話すと思う。それは聞くにも辛い内容かもしれない。それでもボクは受け止めてやる。受け止めてチサさんの運命を変えてやる。怖いのは怖いよ。怖いけどボクは今のチサさんを知ってるし、今のチサさんを認めてる。過去がなんだって言うんだよ。

 天気予報も万全だ。これならチサさんの再生を祝う天候になってくれるはずだ。必ずそうしてやる、失敗は絶対に許されないと思え。ボクがチサさんの新たな運命を切り開いてやる。結ばれたら死ぬまで離してやるものか。

「おはよう」

 いつものコンビニ駐車場に赤いダックスがやって来た。今日だよ、今日。今日にすべてが決まる。結果なんてハッピーエンド以外にあるものか。今日はとにかく先を急ぐから六甲山トンネルを越えることにする。そこから六甲北有料道路をひた走って三田だ。

「この時間ならコメダ一択ね」

 アロハカフェもあずさ珈琲も八時からだものな。ここも懐かしいな。ここでチサさんに再会できたのだもの。あの再会があったから今日がある。チサさんは優しく微笑んでるけど、この微笑みを二度と曇らせてなるものか。チサさんに似合うのは笑顔だけだ。

 途中のコンビニでジュース休憩を取りながら国道一七六号をひたすら北上する。篠山から柏原、氷上、春日、市島と通り塩津峠を越えたら京都府だ。福知山の市内に入り、

「あの信号を左に曲がってバイパスに入るのね」

 いよいよ未知の道になっていく。この道は国道九号と国道一七六号が重複してるのだけど牧川を渡ったところで国道九号と別れることになる。

「天橋立まで二十九キロか。まだ結構あるね」

 それでも一時間ぐらいのはず。

「へぇ、国道一七五号と重複してるのか」

 みたいだな。

「桜もほら、満開じゃないかな」

 チサさんは常に満開の桜が約束されている女じゃないか。ボクみたいなガリ勉陰キャと違って常に日の当たる場所で輝いてないといけないんだよ。

「右側に見えてるのは由良川だって。日本一低い分水嶺からの川だよね」

 そうなるな。

「コウキ、今日はなんかおかしいよ。ひょっとして怒ってる」

 怒ってなんかないけど緊張してるんだ。

「それって今夜をどうやって頑張るかを考えてるとか」

 ああそうだよ。今夜はボクの生命の炎を燃やし尽くして頑張るからな。

「あは、やっと言ってくれたね。バツイチのオバサンのヌードを見て萎えないようにね」

 萎えるどころか天までいきり立つに決まってるだろ。

「期待してる」

 この辺が大江になるのか。酒呑童子の伝説が残っているところでもあるし、ここにも元伊勢神社があるんだよな。寄りたいけど今日は天橋立だ。

「こんなところにも高速が走ってるんだね」

 京都縦貫道ってなってるけど、これに乗れば天橋立まですぐだろうけど、

「でも乗れない」

 だから由良川の河口まで国道一七六号とお付き合いだ。しっかしなんにもないところだな。道の駅は愚かコンビニもないものな。この辺で一休みしたいけど、

「ドライブインがあるよ」

 こりゃまたクラシックなドライブインだ。まあ。いっか。休むだけだし、

「見て見て、うどんの自動販売機があるよ」

 ホントだ。その隣はラーメンか。そういえば、

「あれって高校の近くにあったよね。食べて見たかったけどコウキは食べた?」

 結局行ってないな。あれもたぶん無くなってる気がする。トイレ休憩も済ませて、

「海だ、海が見える」

 ついに来たか。

「なるほど出発の時にわざわざ灘浜に寄ったのはこのためね」

 ちょっとした演出で朝は瀬戸内海だったのに昼には日本海も乙だろ。由良海岸を走り抜けたら宮津だ。

「バイパスを下りるみたいだね」

 みたいだな。左の側道を下りたら信号があって右折か。

「あの島は」

 あれは小天橋で、いわゆる天橋立が大天橋になる。どっちも砂州だけどね。

「ここだ♪」

 やっと着いたぞ、今日はノーミスのはず。ここも久しぶりだな。

「でどうするの」

 そんなもの天橋立に来たらまず渡るだろ。

「歩いて?」

 バイクでだ。天橋立は阿蘇海を横切る形になってるけど対岸まで道は通じてるんだよ。そこはクルマでは通れないけど原付バイクなら走れるよ。

「そうだった、そうだった」

 天橋立をバイクで渡り切ったら目指すは傘松公園だ。天橋立を臨むビュースポットは傘松公園と天橋立ビューランドがあるけど今日は傘松公園だ。

「リフトにする、それともケーブルカー」

 ケーブルカーに決まってる。大した理由じゃないけど、リフトだったら天橋立が背中側になるから見えにくいし、チサさんと一緒の幸せ過ぎる時間を少しでも感じたいもの。

「もう、お世辞に遠慮が無さすぎる」

 傘松公園でやることと言えば、

「これっきゃないでしょ」

 股のぞきだ。チサさんの体は軟らかいな。

「コウキが硬いって言うのよ」

 グサァ、弁明のしようがない。さてランチにしよう。ここのレストランも眺めが良いそうなんだ。窓際の席に案内してもらって、

「これも贅沢よね」

 大天橋を見ながらのランチだものな、

「昔から股のぞきをやってたのよね」

 そうでもないみたいなんだ。股のぞきをしようと思ったら天橋立を見下ろせるところに登らないといけないじゃないか。でも傘松公園にしろ、天橋立ビューランドにしろ、登るには急すぎる山なんだよな。だから傘松公園が出来た一九〇〇年ぐらいから始まったものってなってるよ。

「だったら昔の人は出来なかったのか」

 天橋立は歌にも何度か歌われてるけど、それは浜辺から見た風景になるはずなんだ。

「最初からケーブルカーはあったよね」

 いや昭和になってからのもので、傘松公園が出来たころは歩いて登っていたみたいだ。この辺に成相寺の参道があって登っていたらしい、だから明治や大正の頃は駕籠で登っていた記録も残されてるよ。

「ここからは」

 伊根の舟屋だ。

「やったぁ」

ツーリング日和19(第26話)須磨浦山上遊園

 前回のツーリングが気まずい別れ方をしたから、もう連絡はしてくれないかと思ってたのだけど連絡があってホッとした。ツーリングのお誘いだったけどエラい近いな。チサさんの希望だから嫌も応もないけど。

「待った?」

 いつものコンビニ駐車場で待ち合わせだったけど、そのリュックは、

「お花見弁当に決まってるじゃない」

 国道四三号から国道二号と走って、

「停めれて良かったね」

 ホントにそうだった。まずはロープーウェイだけど何年ぶりだろ。

「映画にも出てたよね。探偵物語だったかな」

 あははは、チサさんも思い違いをしてるとは。このロープーウェイが出てくるのはメインテーマだよ。

「そうだっけ。あの頃は二本立てだったからメインテーマの二本目が時をかける少女だ」

 惜しいけど違う。ちょっと整理しておくと八三年が探偵物語で二本目が時をかける少女、八四年がメインテーマで二本目が原田知世主演の愛情物語になる。

「角川映画の黄金時代だったものね」

 歳がばれるぞ。

「もうイイの。コウキには隠しようなんてないじゃない」

 ごもっともです。桜は麓が八分ぐらいで、登っていくと五分ぐらいの感じかな。

「そんな感じね。でもさぁ、満開も良いけど満開に向かう時も好きなんだ」

 わかる気がする。今から咲き誇りますって勢いを感じるものな。人生にたとえると、高校時代が五分咲きぐらいかな。

「女と男は違うよ。女の満開の方がどうしても早くなるもの。コウキは今だって咲いてるけど、チサなんて枯れ葉が舞ってるもの」

 そんなことがあるものか。チサさんは永遠の満開だ。

「満開か。あの時にチサが間違わなかったら人生は変わっていたはずなんだよね。あの時に間違ったばっかりにバツイチのオバサンになっちゃったもの」

 それはボクだって同じでバツイチだ。だけどバツイチになったからって人生が終わった訳じゃないぞ。桜は春に満開を迎えて秋には枯れ葉を散らしてしまうけど、次の春にはまた満開になるじゃないか。チサさんならもう一花どころか何度でも咲けるよ。

「そうだったらイイのにね。人と桜はやっぱり違うよ」

 ロープーウェイが終わると、

「カーレーターだ」

 通称日本一乗り心地が悪い乗り物。なんでもベルトコンベヤーを参考にして作ったとか。これもよく残ってるな。ガタガタと揺れまくって山上遊園に。

「次はリフトだ」

 行くのは良いけどあそこに行っても、

「つべこべ言わずにリフトに乗るの」

 リフトなんてそれこそ何年ぶりかな。子どもの頃はロープーウェイ、カーレーター、そしてリフトと乗り継ぐのが楽しかったよな。

「今だって楽しいもの。さあ次はサイクルモノレールだ」

 乗る気かよ。ま、いっか。二人並んで漕ぎながら、

「気持ちが良いよ。子どもの時に来たけど親が付き合ってくれなかったんだよ」

 何十年超しに夢が叶ったとか。

「コウキと一緒で最高よ」

 ホンマかいな。どうもチサさんもお世辞量産機に時々なるからな。

「コウキのが伝染したのよ」

 それから花の広場に行ってお弁当だ。お茶も欲しいけど、えっと、えっと、一つなの。

「それがなにか問題でも」

 ありまくりだと言ったところで聞いてもくれないから回し飲み。リフトで戻り展望閣に。

「お茶にしようよ」

 えっ、ここでと思ったし、お茶にするなら麓に降りてtooth toothの方が、

「ここもいつまであるかわからないからお茶にするの」

 はいはい、まだ残ってるのがウソみたいなところだものな。ここは喫茶室自体が回転する仕組みになってるのだけど、

「六甲山の回る十国展望台は無くなったものね」

 今日のチサさんはいつもにも増して調子が狂うな。

「あらこんなチサはお嫌い」

 そんな訳ないだろうが。大学生の時のチサさんもこんな感じだったと思う。一緒にいるだけで楽しいし、みんなが幸せを感じるもの。そんなチサさんを一人占めにしてるってなんて贅沢っていつも思うもの。

「どんな贅沢なんだよ、コウキならもっと綺麗で若い子といくらでも遊んでるでしょ。わざわざバツイチのオバサンのチサと遊んでくれるなんて恐悦至極だよ」

 話は天橋立ツーリングになったのだけど、本当にお泊りツーリングにして、部屋も一緒で良いのかよ。

「しついこいね。そうしたいって言ったのはチサだよ」

 そうなんだけど、それがもたらしてしまう結果ってものがあるじゃないか。

「そうよね。下着は気合を入れないとね」

 そうじゃなくて、

「病気も心配ないからね。ちゃんと調べてもらったから。あれだったら診断書もらって来ようか」

 そんな心配なんかするものか。

「ちょっとはした方が良いよ。それと妊娠は心配ないからコンドームもいらないから」

 だから話が飛びすぎだって。

「コウキの心配ならわかってるよ。それは安心して。やり捨てゴメンで構わないから」

 誰がチサさんをやり捨てるというんだよ。頑張ったからには喜び勇んで全責任を取らせて頂きます。そしたらチサさんはこれ以上ないぐらい寂しい顔になって、

「責任は取ってはいけない。コウキと頑張りたいのはチサの最後のワガママみたいなものだから。もうこんな体になっちゃったけど、コウキさえそれを受け止めてくれるなら、これ以上を望んだらいけないぐらいはわかってるから」

 どういう意味。

「ここではさすがにね。知りたかったら天橋立にチサを連れて行って。もっともそれまでに頑張りたかったら今からでもOKよ」

 チサさん、どうしてそんなことを、

「屋上に上がろうよ」

 今日は快晴だ。大阪湾が一望って感じだな。

「ほらこっち、こっち、神戸百景だって」

 なんだこの巨大な裁縫針の穴のようなものは。ここから見える風景が神戸百景だろうけど、

「どうも須磨の浜みたいだね」

 だな。さっきの寂しそうな表情はなくなってるけど、

「コウキ、運命って信じる?」

 やっぱりあるのじゃないのかな。人生は自分の力で切り開くものだとよく言われるけど、そんな単純なものじゃないぐらいはわかってるつもりだ。たとえばだ、人生にはどうしたって岐路が訪れる。

 どちらを選ぶかは自己責任だけど、どちらを選ぶかの結果は選んで進んでみないと自分ではわからないもの。それが成功する時もあるし、失敗することだってある。いくらその時にベストの選択と思っても失敗することはあるもの。

 その時に選択をやり直す機会があれば良いけど、多くの場合、選択はやり直せなくて、せいぜいそれなりにリカバリーするのが精いっぱいの気がする。というかさ、そういう失敗がない人生なんて滅多にないのじゃないのかな。

「人生の岐路だってあれは自分で選んでいるように見えても本当はそうじゃないと思ってる。そっちを選ぶようになっているのが運命の気がしてる。あれは避けられるものじゃないよ」

 そこまで言いたくないけど結果論で言えばそうかも。もう一つの選択は選ばないのじゃなくて選べないのかもしれない。

「それとね、人の運命って様々過ぎるところがあるのよね。ある時点の選択を間違えても、その次、またその次と選んでるうちに良い方に戻るのはあるはずなのよ。だってたった一度の選択ミスで自分の人生が終わってしまうなんて悲しすぎるでしょ」

 それはそうかもしれない。ボクもバツイチの失敗をやらかしたし、あの初婚時代の時間も若さも永遠には取り戻せない。だけどだよ、もし再婚できて、それが幸せだったらトータルとして良い人生だったぐらいは言えると思うもの。

「でもね、人によっては選んでも、選んでも悪い方にしか行かない人生だってあるのよ。そんな運の悪い人でも一度ぐらい良い方になれるチャンスはあるのよ」

 そういう人生は辛いだろうけど。

「チサはそのチャンスをもらってたの。そのためのお膳立てまで全部してくれていたのに選ばなかった女なの。あれこそ運命だとしか言いようがないと思ってる。そんなチサに現れた最後の希望がコウキなの」

 えっ、どういうこと。

「でもね、最後の希望だけど、それにすがる資格はチサには無くなってしまってる。そうよ、コウキをこれ以上振り回すのは、本当は良くない事なの。でもね、でもね、チサは我慢できなかった。だから最後のワガママよ。コウキには本当に悪いと思ってる」

 ダメだ。最後の最後のところがボクにはわからない。チサさんはボクが思っている以上に辛い人生を送ってきたらしいのはわかる。だったらボクと再婚してやり直したら良いじゃないか。

 そりゃ、ボクがチサさんを幸せに出来るかどうかはわからないよ。こればっかりはやってみないとわからないし、もしかしたら再婚することでチサさんをさらに不幸にしてしまうかもしれない。

 でもボクにチサさんが希望を見出しているならチャレンジすべきだろ。それぐらいならいくらでも協力する。それでもダメだったらそれこそ運命じゃないか。

「コウキはやっぱり希望の人だったのがよくわかる。だからあそこまで・・・後悔って本当に先に立たないものだね。チサの不幸はチサだけが受け止めていれば良かった。それなのに、それなのに・・・」

ツーリング日和19(第25話)天ぷら談義

 帰り道の話だけど、

「お昼のうどんは美味しかったけど、天ぷらとうどんの組み合わせも良かったじゃない」

 ああそうだった。釜玉うどんだったから天ぷらうどんになるかどうか微妙だけど、今日のうどん屋はアタリだった。

「混みすぎてるのが玉に瑕だけど、行けて良かった。コウキ、ありがとう」

 迷子にならなかったのは本当にラッキーだった。

「天ぷらとうどんを組み合わせた人って天才だと思わない」

 あれは天ぷら蕎麦の方が先に成立したはずなんだ。

「どういうこと?」

 天ぷらの起源の一つとされているのが、宣教師が持ち込んだフリッターとされている。

「フリッターだったの。揚げ物は揚げ物だけど・・・」

 ああそうだよ。このフリッター系列の天ぷらも受け継がれていて、チサさんも知っているものならさつま揚げだ。

「あれが天ぷらなの?」

 ああ天ぷらさ。今でも九州の人が天ぷらと聞いて思い浮かべるのはさつま揚げみたいなもので、関西とかの天ぷらを見て驚くって話があるぐらいだもの。

「でもさぁ、さつま揚げと天ぷらって違い過ぎるじゃない」

 この辺が調べても良くわからなかったのだけど、ネタに衣を付けて揚げる料理が関西に来た時に付け揚げに変化したみたいなんだ。精進料理と融合したって説もあったけど、衣が薄くなり、野菜を揚げる料理になったぐらいで良さそうだ。

「それってさ、ひょっとしてだけど・・・」

 そこはわからないけどチサさんの説もあるとは思う。精進料理のルーツは中華料理だし、中華料理なら揚げ物だってポピュラーだったはず。中華の技法から発展した付け揚げを関西では天ぷらとなっていた可能性というか、

「付け揚げは天ぷらだったの?」

 どうもだけど南蛮船は堺にもたくさん寄港していたし、その堺には南蛮料理の店まであったのは記録にも残ってる。

「黄金の日々ね」

 その時にフリッター由来の揚げ物を天ぷらと呼び、付け揚げとは別の料理としていたフシはありそうなんだ。だから舞台は江戸に移っていく、

「江戸前の天ぷらね」

 ああそうだ。これもどうやらばかりが付くけど、江戸に流れ込んだのは関西の付け揚げだったで良さそうなんだ。それだけじゃなくネタに海鮮物を使うようになった。

「エビ天の誕生だ」

 それで良いと思う。ここでそうだとしか言いようがないのだけど、江戸で流行した付け揚げを天ぷらと呼ぶようになり定着してしまったらしい。

「はぁ、江戸で付け揚げと天ぷらのネーミングがドッキング起こったってこと?」

 だからあくまでも『らしい』だし、今もそうなっているのはわかるだろ。この江戸の天ぷらだけど庶民の料理として広まったけど、それも理由はある。江戸で店舗を構えた天ぷら屋というか、料亭みたいなところで天ぷらは調理されなかったんだよ。

「あんなに美味しいし、人気もあったのでしょ」

 理由は火事対策だ。天ぷらって大量の油を熱するじゃない、だから火が回れば火事の原因になるから幕府は家の中で天ぷらを揚げるのを禁止にしたんだ。だから天ぷらを揚げることが出来たのは屋台だけだってことになる。

「暴れん坊将軍や黄門様は御殿では天ぷらを食べられなかったのか」

 だから江戸の町をうろついたり、世直し旅に出かけた訳じゃないだろうけど。

「銭形平次とか必殺仕置人ならいつでも食べられた」

 そうなるな。この江戸だけど日本中から多くの職人が集まった都市でもある。大きな火事が定期的にあったから仕事がいくらでもあったのだろう。この職人たちを相手に多くの屋台が出ていたみたいなんだ。

「今の博多ね」

 そんな感じかもしれない。天ぷらの屋台も多かったと思うのだけど、当時の天ぷらは串に刺して売られていたとなっている。それを天つゆにつけて食べる感じかな。

「二度付け禁止ってやつね」

 当時は禁止じゃなかったろうけど、今の天ぷらの食べ方に近かったぐらいは言えると思う。さてだけど蕎麦屋の屋台も多かったのは記録にも残っているそうだけど、当時の屋台の蕎麦はかけ蕎麦だったはずなんだ。

「一杯のかけ蕎麦の世界ね」

 それは違うけど具が入ってない素蕎麦みたいなものじゃないか。その時に隣の天ぷら屋の屋台から、

「そっか、トッピングにしたのね」

 おそらく天ぷらそばのルーツはそれじゃないかとされている。それが関西に流れ込んで、

「蕎麦のかわりにうどんになり、天ぷらうどんが出来たのか」

 そんな流れだと思ってるよ。

「コウキって本当に物知りね」

 雑学はだけはな。

「雑学だけじゃないよ。本当の勉強だってどれだけ出来たか」

 それを言うな。なんだかんだと言いながら、灘中、灘高と落ちて、京大に入れなかったのはトラウマだし、どうしたって負い目になってるのだから。

「なに言ってるのよ! 港都大の医学部だよ」

 あそこだって一浪でやっとこさだ。

「あのね、一浪でも医学部、それも港都大だよ。普通の人じゃ絶対入れるものか。チサだったら十年かかっても入れないよ。だからあれだけの勉強が必要って良くわかったもの」

 あははは、だから塩対応のガリ勉陰キャだったんだよ。

「そんなことがあるものか。もっと誇りをもって良いし、自慢したって良いはずよ。少なくとも卑下するようなものじゃないでしょうが」

 外から見ればね。親父の京大医学部への執着は異常だったし、あれで苦しめられたのはボクの暗黒時代だけど、それでも京大卒の医者へのコンプレックスは出来たんだよな。これは医者の世界だけではなく世間的にもそうだもの。

「それは間違ってる。コウキはちゃんとしたお医者さんになってる。それで十分じゃない。少なくともチサには十分すぎるし尊敬だってしてるのだから」

 ありがと。ああは言ったけど、医者になったこと自体は別に後悔してないよ。だってだからと言って他になりたい職業もなかったし、なってもまともに仕事が出来そうにないもの。まあ開業医になってしまえば出身大学なんてとやかく言われないものな。

「でしょ、でしょ。それがすべてよ。コウキは立派な人生の成功者なんだから」

 それは言い過ぎだと思うけど敗残者じゃないとは思ってる。

「人が生きていくのに一番大事なことは、後ろ指をさされたり、後ろ暗いことを持たない事だと思ってるの。それさえ出来れば十分じゃない。それはチサが望んでも望めなくなってしまった事だもの」

 そんなことがあるものか。チサさんはそんな人じゃない。そう言ったのだけど、後は何故か話をしてくれなくなった。なんか悪いこと、チサさんの気に障ることを言ってしまったみたいだ。