ツーリング日和10(第20話)頭文字Dのタイヤ

 頭文字Dの主人公である藤原拓海のあだ名は、

『秋名のハチロク』

 これは秋名山のダウンヒルで無敵の強さを発揮したから。だけど頭文字Dで出てくる峠道で架空の地名は秋名だけなんだよね。

「架空言うけど春から秋に変えただけやけどな」

 秋名山のモデルは榛名山。ダウンヒル・バトルに出て来たスケートセンターは伊香保リンクだし、実際は四連続だけど五連続ヘアピンもある。

「デートに使ったのは榛名湖やもんな」

 背景の描写は写真から起こしたはず。それぐらい正確なんだよ。それでも架空の地名にした理由は、

「拓海の住んでる街に色を付けたくなかったんちゃうか」

 拓海は中学生の頃から豆腐の配達を毎朝やらされるのだけど、その帰り道でドラテクを鍛えたのがバトルロードの舞台になった秋名の下り。

「秋名を下ったとこに広がるのが拓海の住む街になる」

 拓海の住む町は、さして特徴のない地方都市ぐらいの設定だけど、

「榛名を下ったところに広がる街は伊香保温泉や」

 温泉街となると、温泉街の色が出る。街並みとか、人間関係とかね。その色を使うのもありだけど、作者は避けている。でも避ければ榛名じゃなくなるから、架空の秋名にしたのかもね。

 それだったら他の峠道を選んでも良さそうなものだけど、この辺になると作者の榛名への思い入れだとか、インスピレーションとかの話になって来るからわかんないな。もちろん、フィクションだからモデルはあっても、これぐらいの改変をするのは何の問題もないんだけど、

「連載が伸びたんはあるやろな」

 連載漫画は十回契約ぐらいが多いと聞いたことがある。この十回の間に人気が出れば再契約を繰り返し延々と連載は続く仕組み。連載が伸びれば秋名ばっかりでバトルさせている訳にはいかないから、

「峠道も実際のモデルがある方が描きやすいやん。そのたびに架空の地名を付けるのが面倒になったんと、他のとこは連載初期から実際の地名出してたからな」

 そうなのよね。妙義ナイトキッズとか赤城レッドサンズとか。その辺は拓海が住む街の問題もないから実名で良いと判断したぐらいかな。

「やと思うで。あの漫画は夜のシーンが多いから秋名以外で生活感はいらんし」

 話は秋名に戻すけど、秋名の下りの舞台になったのは伊香保榛名道路。もともと有料道路だったのだけど、頭文字Dの連載の頃には無料になってる。その時の料金所跡がスタート地点になる。

「ヤセオネ峠やけど、赤茶けた給水塔も残ってるわ」

 ゴール地点は第一カーブの看板があるところで良いはず。だって漫画の描写そのまんまだもの。ここで拓海は無敵のダウンヒラーの名を欲しいままにするのだけど、

「定番の強豪が現れるんや」

 そう拓海のハチロクでは勝てないようなライバルが出現するのよね。つうか、出現しないと話が盛り上がらないし、進まないものね。この時に拓海が勝てた理由の小道具に使われたのがタイヤだった。

「中里のR32も高橋涼介のFCもそれで負けた事になっとるわ」

 中里も高橋涼介も序盤から中盤にかけてバトルを有利に展開するのよ。テクニックもあるけど、クルマの性能差にかなりどころでない差があるものね。だけど中里も高橋涼介も終盤に入ったところでトラブルを抱えることになる。

「タイヤの消耗や」

 これについても説明はされてた。車体の重量差が一番大きかったかな。だけどさぁ、

「そやねんよな」

 秋名の下りの長さが問題なのよ。あれって七・七キロしかないんだよ。たったそれだけよ。

「中里は貧乏そうやから可能性はあるけど・・・」

 かなりヘタばったタイヤでバトルに臨んだ可能性でしょ。でもさぁ、でもさぁ、中里が挑んだ時点で既に注目の大一番になってたし、ギャラリーもテンコモリ。秋名のハチロクに勝つことで名を挙げようと挑んで来てるじゃない。

「セブンスターリーフとやった時に、対戦相手の末次は恋人にタイヤの無心やってるもんな」

 秋名のハチロクに勝つためにタイヤの新調をしてるのよね。中里が廃棄処分寸前のボロタイヤで挑んでいたとは考えにくいのよね。

「高橋涼介になると絶対新品や」

 高橋涼介の家は裕福を越えてお金持ち。秋名用に専用チューンまでしてるもの。それなのにタイヤだけオンボロってあり得ないもの。なのにだよ、たった七・七キロでグリップ力が深刻なレベルまで落ちるってなんなのよ。

「バトル展開からして五キロぐらいやもんな」

 トラブル発生までの走行時間だけど、平均時速五十キロでも六分ぐらいで、七十キロも出したら四分ぐらいの話なのよね。もし百キロ平均なら三分よ。距離も時間もいくらなんでも短すぎるじゃない。

 タイヤと言えば拓海のハチロクもどうかと思う。拓海は毎日秋名を走ってるのよ。そりゃ、バトルの時ほど激しくないかもしれないけど、あの超絶ドリフトをやってタイヤが消耗しない訳がない。だからと言ってバトルの度にタイヤを履き替えていたら、

「藤原とうふ店の経営に響くやろ」

 バトルだけでなく、日常の配達のタイヤだってそうよ。毎月交換でも痛いだろうし、

「毎週交換なんかやったら破産するんちゃうか。そこまで豆腐配達が儲かるとは思えん」

 だけど拓海は秋名ではタイヤトラブルはなかったはず。つうか、拓海が起こしてしまったら絶対勝てないものね。中里や高橋涼介はどんなタイヤを履いてたになっちゃうのよ。

「漫画やからスリックを履かせてもかまへんねんけど、それやったらそれで高橋涼介の蘊蓄が炸裂するやろ」

 当時だってスリックタイヤの温度管理は重要だったはず。その蘊蓄をあの高橋涼介が話さないはずがないものね。

「それにやで、スリックかっていくらダウンヒルでも五キロはないわ。十勝の一周ぐらいやないか。Qタイヤでも、もうちょっと走るで」

 Qタイヤとは予選専用のもので、グリップを重視する代わりに耐久性に目を瞑ったタイヤのこと。頭文字Dの不思議なところは、バトルの勝負のカギがタイヤマネージメントにある事を強調しながら、タイヤ自体については言及しないのよね。

「そやねん、まるでワンメイクのタイヤでバトルしとるみたいな前提になっとるねん」

 速く走れるタイヤとなれば、スリックみたいなサーキット用のタイヤを誰でも思い浮かべるけど、あのタイヤが能力を発揮できる条件は狭いのよね。

「公道レースやったらラリー用のタイヤやろ」

 ラリーはダートもあるけど、モンテカルロのような舗装路もあり、それぞれに応じたタイヤは開発されてるのよね。さらに言えば、拓海たちがやっているバトルなんか鼻息で吹き飛ばすぐらいの激しい走りをしているとして良いはず。

「そやけど五キロあらへんで」

 世界トップクラスのラリー車だってSSぐらいはタイヤ交換無しで走り抜けるものね。そんなタイヤは当時でもあったはずだもの。

「バリ伝に引っ張られたんやろな」

 バリ伝の後に頭文字Dは描かれてるけど、バリ伝でもタイヤの勝負はあった。だけど、そうなるだけの必然性もちゃんと描いていた。

「鈴鹿が典型的やな。序盤で大きく出遅れたの挽回するために、猛烈な追走劇をやるんやが、追いついた頃にはタイヤが限界みたいな設定や」

 これはわかるのよ。猛烈な追走劇がなくてもレースの終盤になればタイヤは消耗してるだろうって。作者がタイヤマネージメントのエピソードを使いたかったのはわかる。峠のバトルでも長期戦になるものがあったから、そういう時は説得力はあると思う。

「それをたった七・七キロの一発勝負に無理やり持ち込んでもたからな」

 作者はタイヤマネージメントをエピソードに使いながら、タイヤ自体に触れなかった理由はわからない。強いて考えると、タイヤの種類の差まで触れると話が煩雑になると判断したのかもしれない。

「バリ伝はサーキットのレースが主体やからタイヤにあんまり差がない前提に出来るからな。それと当時でも高性能タイヤを使えば圧倒的な差になるからやったかもしれん」

 高性能になるほど高くなるし消耗も早い。高橋涼介なら用意できても、しがない豆腐屋の息子の拓海に、それを買わせ続ける設定に無理があると考えたのかもしれない。

「こんな重箱考えるのも名作やからやろ」

ツーリング日和10(第19話)十勝スピードウェイ

 帯広の豚丼屋から四十分ほどで十勝スピードウェイに到着。

「メインゲートやのうてサウスゲートから入るで」

 メインゲートは入場客用で、サウスゲートは走行車両用みたい。えっと、あのサーキットを走らないんですけど。

「関係者用のゲートや」

 ゲートを通るとトンネルを潜りサーキット内に入ったんだろうな。ここが駐車場だけど、シャッターが並んでるのは倉庫かな。

「あれはピットや」

 なるほど、レースの時はこの駐車場側から競技車両や、整備機材、スタッフが乗り込むわけか。一つだけシャッターが空いてるピットに行くと、

「エレギオンHDの月夜野や。今日は無理言うたな。篠原アオイは来とるか」
「お呼びしましょうか」
「悪いな。頼むは」

 連れて来られたのは六花だ。

「用意は出来たか」
「エエ、いつでも」

 へぇ、上から下までレーシングスーツをビッチリじゃない。でも杉田さん来るのかな。

「来んかったら、それまでの男や」

 待っている間に、六花の気持ちだけ聞いておこう。

「必ず勝ちます。そのために今日まで生きて来ました」

 ちょっと大袈裟だけど、顔は真剣を通り越して悲壮感に溢れてるよ。このレースにかける気迫がヒシヒシと伝わってきて、これ以上話をするのも怖いぐらい。待つこそしばしで、二台のバイクのエンジン音がして杉田さんと加藤さんが到着だ。杉田さんは、

「レースをすると言っても・・・」

 コトリは杉田さんの話を強引に遮り、

「ああレースをしてもらう。マシンは用意してある。六花のは乗って来たやつを使うてもらうが、杉田さんのはこっちや」

 コトリがガレージを開けると、そこにはピットクルーと一台のYZF。これって、

「杉田さんにはTカーを使ってもらう。クルーも文句あらへんやろ」

 クルーのツナギの背中には、

『Team Sugi-san』

 杉田さんのチームだ。

「六花のバイクは朝からレース用に準備はさせとるが、コースは走らせとらへん。十五分後に三十分のフリー走行をやってもらい、十五分の休憩を挟んで一時間の耐久レースや」

 呆気に取られる杉田さんだけど、

「フリー走行も本番もタイヤは1セットですか」
「そうや。本番は給油もなしや。着替えも全部持って来とる。コントロールタワーから観戦させてもらうで」

 そう言い終わるとコトリはすたすたと。後ろにサーキットの幹部がゾロゾロ付いてるけどね。それにしてもいつの間に、

「松見大橋で杉田さんと六花が話した時に決めた。中の川の白樺並木を撮ってる時に手配は頼んどいた」

 ミサキちゃん、御苦労様。お土産代をはずまなきゃ。だってだよ、次の日のサーキットを借り切りするだけじゃなく、杉田さんのスタッフをTカーも一緒に運び込んでるんだもの。

「松山にも帯広にも空港あるからな」

 輸送機と旅客機の手配までやってるんだからよくやるよ。この十勝のコースの特色だけど、とにかくフラットなんだって。

「高低差が十五メートルしかあらへんからな」

 鈴鹿なら五十二メートルだから確かにフラットだ。全長も五千百メートルで、

「鈴鹿の五千八百二十一メートルに次ぐ国内二位や」

 メインストレートは鈴鹿とほぼ同じで、コーナー数は十六個、これも鈴鹿は二十個だ。

「堂々たるサーキットや」

 高低差がないから、メインスタンドの上の方なら全コースが見られるのも特徴だそうだけど、見ようによってはゴーカートのコースにも見えるな。ところで杉田さんはタイヤにこだわったけど、

「そりゃ、レーサーやからな」

 市販のタイヤとレース用のタイヤはまるで違うそう。市販のタイヤだってグリップは重視されるけど、それより全天候に対応できて、なおかつ耐久性も重視されるんだって。そりゃそうだろ、雨の日も走るし、あんまり早くタイヤが擦り減ったら財布が泣くもの。

 レース用のタイヤはサーキットという極めて限られた場所で、レースというこれまた限定された用途に能力を発揮するように作られてるそう。理屈はわかるけど、

「まずやけどタイヤの温度が性能を大きく作用する。タイヤウォーマーなんてものがあるのもそのためや」

 タイヤにもよるそうだけどタイヤウォーマーで八十度ぐらいまで温めて、走行中は六十度ぐらいは必要だそう。だから、あんまりゆっくり走るとタイヤ温度が落ちて性能が落ちるんだって。

「落ちるどころかタイヤが割れてまうこともあるらしい」

 今日使うのはST600レースの指定タイヤだけど、これで公道は走れないんだそう。いわゆるスリックタイヤになるけど、

「ほいでもグリップ力は驚異的に上がるらしいわ。レーサーは膝どころか肘まで擦るけんど、あれは六十五度以上倒した産物らしいで」

 六十五度って、ほとんど横倒しじゃない。どれぐらいグリップ力が上がるかだけど、初めてスリックを履いて走った人は愕然とするレベルだとか。感覚としてタイヤが路面に張り付いてる感じで、普段の走行では考えられないぐらい倒しこんでも不安をまったく覚えないとか。

 その分だけ摩耗も激しくなるのだろうな。でもさぁ、今回なら練習と本番で一時間半じゃない。心配するほど変わるのかなぁ、

「走り方次第やろ。杉田さんも六花との一時間バトルになるとタイヤに不安を感じたんやないか」

 それでもタイヤの条件は同じだから文句は言えないはず。

「そや。そもそも杉田さんのチームは、レース用のタイヤ交換なんかあんまり練習してへんはずやからな」

 四耐はタイヤ交換無しだものね。でね、タイヤにさえチューンがあるのに驚いた。

「ああ空気圧や。低くする方がグリップ力は上がるけど、その代わりにタイヤの傷みが早くなって、バーストの危険性も高くなるらしい」

 いやはや大変なタイヤだよ。走る最高級消しゴムと言われてるのわかる気がする。それでどれぐらい走れるの、

「条件で変わるやろうけど・・・」

 鈴鹿八耐は二百十五周、千二百キロぐらい走るそうだけど、タイヤ交換を八回するから、ワンセット当たり百五十キロぐらいにはなる。

「二百キロぐらいは走れるんちゃうやろか」

 前後ワンセット五万円ぐらいらしいけど、八耐を完走するだけで四十万円かかるとは恐れ入るよ。ちょっと待って、四耐はワンセットでしょ、

「四耐は九十五周ぐらいやから五百五十キロぐらいは走るねん。八耐のタイヤより持ちがエエのやろな」

 それでも六百キロぐらいしか走らないのか。公道で走れないのは性能もあるだろうけど、そんなタイヤを公道で走らせるのは高価すぎるのはあると思うよ。タイヤと言えば、

「頭文字Dやろ。あれは作者がタイヤの話をデフォルメしすぎとる気がするわ」

ツーリング日和10(第18話)帯広の豚丼

 朝食は和洋バイキング。野菜料理が多くて、

「パンも焼き立てなんが嬉しいな」

 糠平の菩提樹の蜂蜜とかミルクジャムは他で食べられないかも。八時過ぎには出発。まず向かうのは、

「ナイタイ牧場です」

 これもアイヌ語でナイ・エタィエ・ペッから来てるそうで、奥の深い沢ぐらいの意味だそう。国道二七三号を南下して上士幌の街の手前ぐらいで右折。

「突き当りみたいなとこを右みたいやな」

 今日も杉田さんが先導してくれるから安心だ。

「だ か ら、聞こえてるで」

 小さなことは気にしないの。橋を渡るとそれまでの畑の中の道から林間ロードに変わり、そこを抜けると、

「北海道の道はこんなんばっかりやけど、こんな道を内地で見れへんもんな」

 それこそ地平線まで続くような直線蕗。北海道がツーリングの聖地と呼ばれるのは、どこかに名物ロードがあるってレベルじゃなくて、どこを走っても内地レベルなら絶景ロードがゴロゴロしてるからだと教えられたようなもの。

「そやから毎年来るのも多いんよな。あそこを左みたいやな」

 ナイタイ高原展望台入り口ってなってるものね。そこに見えて来たのはハイジの世界だ。緩やかな牧草地に点在する木と森。なにより見渡す限りの大草原。だって遥か向こうの山まで草原になってるんだよ。杉田さんはバイクを停めて、

「申し訳ありません。ここから仕事をしながら登りますから、展望テラスで待っていて下さい」

 そりゃ、これを撮りたいだろ。青い空、白い雲、緑の大草原。あちこちに咲いている薄紫の花はエゾフロウ草かな。あれがレストハウスか。

「九時からみたいやから、もうすぐ開くわ」

 それまでウッドデッキで牧場を見下ろしてた。広大、雄大、遥か向こうに広がってるのは十勝平野だものね。レストハウスが開いたら展望カフェに。全面ガラス張りになってるよ。

「こういうとこで食べるのはソフトクリーム」

 ソフトクリームを堪能してしばらくしたら、杉田さんたちも上がってきて、

「次は音更町の駒場白樺並木に行きます」

 牧場から下りて五十分程で到着。こ、これはまるで映画の一場面のよう。牧場の中を真っすぐの道が伸びて、両側が白樺並木。それでもって砂利道だよ。よくこんなもの知ってるものだ。

「ロケ地によう使われとこやそうや」

 そりゃ、使うだろ。十時半も回ったけど、このペースならお昼は帯広かな。これも北海道の特徴で良いと思うけど、街を外れるとホントになにも無いことが多いのよね。下手すりゃ一時間ぐらい民家さえ見かけないとか。

「ホンマにそうや。内地みたいに街を抜けてもダラダラと家とかがあって、そこに食べ物屋とか、コンビニがあるわけやないもんな」

 神戸辺りの感覚でいれば確実に食いはぐれると思う。だから帯広で食べるのは良いと思うけど、帯広もイメージないな。なにか名物料理でもあるの。帯広ラーメンとか。

「帯広言うたら」
「豚丼ですね」

 帯広ではトンドンじゃなくてブタドンと読むのだそうだけど、それって牛肉の代わりに松屋とかが出していた代用品の元祖みたいなものとか。

「帯広の人に石投げられるで。帯広市民熱愛グルメや」

 松屋とか吉野家の豚丼は牛丼の牛肉を豚肉に置き換えたもので、割り下で煮込むすき焼き風のもの。だけど帯広の豚丼は豚肉を甘辛いタレで焼いたものだそう。

「発想は鰻丼からやそうや」

 そう言われると食べたくなるけど、

「杉田さん、どこ行くの」
「とん田です」

 元祖とされる店は、ばんちょうらしいけど、杉田さんと加藤さんのお気に入りは、とん田みたい。ここなのか、中は定食屋風とでも言えば良いのかな。メニューは、あははは、シンプルだ。ロース、バラ、ヒレとあるけど値段は同じじゃない。お勧めは、

「オレはロース」
「なに言うてんねん、ここでバラ食わんでどうするんや」

 加藤さんが推しまくるからバラにしてみた。こ、これは豚丼の概念をひっくり返しそう。厚切りの大きな肉が丼の上にテンコモリ敷き詰められてるじゃない。こっちの壺は、

「秘伝のタレですが、足りなければ足して下さい」

 こういう地元ならではのグルメは楽しいな。こういう・・・

「コトリでも帯広の豚丼にしとったで」

 ありゃ、先に言われちゃった。でも帯広までだいぶ時間がかかったな。杉田さんたちの仕事があるから仕方がないけど、

「午後はそれほど時間はかからないはずです」
「ナイタイ牧場と音更の白樺並木でエエ絵が撮れたましたさかい」

 一路襟裳岬だよね。襟裳の春は~、何もない春です。

「今日は襟裳まで行かん」

 なに言ってるのよコトリ。

「さすがに時間があらへん」

 あるわよ。帯広からナビで百二十キロぐらいじゃない。少々杉田さんの仕事に付き合ったって三時間もあれば着くはずよ。ノンストップで走ったら二時間で着いてもおかしくない。

「寄り道するからや」

 はて? 帯広から襟裳の間に、そんな観光名所あったかな。まだ知られていない隠れたツーリング・スポットとか。あれ、コトリの顔から微笑みが消えてるじゃない。

「杉田さん、見損なったで」

 いきなり何を言い出すの。

「こんな小さな男やと思わへんかった」
「なんの話ですか」

 そうよなんの話よ。杉田さんはロンドン・ブーツなんて履いてないよ。

『ドウォーン!!』

 コトリは机を叩きつけ、

「好きな女は好きと言わんかい!」

 座が固まった。店中固まった。

「メソメソしやがって、そんな男はコトリは好かん」

 六花の話か。ここで持ち出すの。

「過ちは取り戻せん」
「だから」
「だからもヘッタクレもあらへん。取り戻せんけどやり直せるんや。その気がないとは言わせんぞ。杉田さんのやってるのは、子どものチンポみたいな小さな見栄や。そんな短小包茎に価値なんかあるかい」

 どうでも良いけど比喩がおかしすぎるよ。

「短小包茎抱えて一生送りたいんやったら、ここでバイバイや。もう旅の仲間やあらへん。二度と会う事もあらへんやろ」

 コトリのトレードマークは微笑みだけど、実は怒ると氷の女神のわたしより怖いのよね。普段がニコニコ顔だからギャップが物凄いもの。ああ言わんこっちゃない、杉田さんや加藤さんだけでなく店中が固まっちゃったじゃない。どうするのよ、

「十勝スピードウェイで六花と勝負や。杉田さんが来んかったら終わり、六花が勝ったら言うこと聞いてもらう。とりあえず六花と鈴鹿や」

 杉田さんは物凄く苦しそうに、

「オレが勝てば」
「一億くれてやるわ」

 立ち上がったコトリは、

「お騒がせしてすみません。これは迷惑料です」

 テーブルに何枚かの万札置いて出て行ったよ。わたしも追いかけたんだけど、ちょっとやり過ぎじゃないの。

「あれぐらいせんと変わらんわ。変わるんやったら、加藤さんがなんとか出来てるで」

 たしかに。杉田さんのことを一番よく知り、一番の親友のはずの加藤さんが、あそこまで頑張ってもダメだったものね。

「六花だけやない、四耐プロジェクトのスタッフも待ってるんや。カネ出したんは杉田さんかも知れんけど、みんな鈴鹿の夢を追って頑張って来とるんやんか。それさえ見えへんようになってるのは情けないわ」

 そうだよね。杉田さんはおカネを出してるけど、殆どのスタッフは事実上の手弁当みたいなものだと加藤さんも言ってたよ。鈴鹿の晴れ舞台に立つのを夢見て頑張ってたんだものね。

「それを短小包茎で潰すような男はこっちから願い下げや」

 どうでも良いけど短小包茎は下品だからやめなさいよ。

「杉田さんが男やったら立派に剥けてそそり立つ」

 見たことあるの?

ツーリング日和10(第17話)四耐参戦プロジェクト

 杉田さんの四耐参戦プロジェクトが始まったのは、四耐も含めた八耐の特集番組を杉田さんが放映したからか。コメント欄で盛り上がって、

「最初は軽い企画やったんです」

 八耐は無謀だから四耐にしたのだけど、費用の問題もあるから参加する事に意義がある程度の企画だったそう。つまりは個人が四耐参戦を目指し、仲間を集め、鈴鹿の晴れ舞台に立つドキュメント企画で良さそう。

 そうだね、限られた予算で鈴鹿四耐を目指す企画としても良いかな。この辺は、もし本気で上位入賞を目指すなら費用は必要条件で、何度も出場を重ねる経験が十分条件になるのを杉田さんも良く知っているからだと思う。

「仰る通りで、完走出来たら御の字ぐらいです」

 現実的には完走さえハードルが高いから、少しでも走行時間を長くしたいぐらいが目標だったとか。それ以前に鈴鹿にたどり着くのも大変だものね。

「それが六花ちゃんが現れて杉田は変わったんです」

 それこそ湯水のように四耐企画に予算を投じたで良さそう。

「ST600でもマシンの差は確実に出ます。杉田は・・・」

 人脈をたどって腕扱きのメカニックを雇い入れ、メカニック以外のサポート体制も充実させ、総勢で二十人にも及ぶ体制を作ったのか。そうやって作り上げたのがあのCBRだよね。

「ちゃいま。杉田の乗っとるCBRはノーマルでっせ」

 えっ、そっかそっか、レース仕様に仕上げているのをツーリングに使うわけないか。

「杉田が作り上げたマシンはYZF。あいつはケニー・ロバーツのファンでっから」

 杉田さんはケニーのファンか。ちょっと待って、六花はマシンが変更になったって、

「六花ちゃんが乗っているYZFが杉田が仕上げたマシンでんねん」

 えっ、えっ、どうなってるの。

「杉田はアオイが六花ちゃんだとわかった瞬間にチームから叩き出し、マシンを廃棄処分にすると言いだしたんですわ」

 杉田さんはチームのリーダーだから決定には逆らえなかったけど、作り上げたマシンを惜しんだスタッフは密かに六花に渡したのか。でもそんな事をしたら、

「わてが全責任を被る事でそうしてま」

 六花とマシンがなくなれば、新たなレーサーを探し、新たなマシンを作らないといけないはずだけど、

「六花ちゃんが抜けてから四耐プロジェクトは止まってまんねん。そやなかったら、こんなところでツーリングなんかやって油売ってまへんがな」

 えっと、えっと、それって、

「簡単なことでっしゃろが」

 加藤さんがやろうとしているんは四耐プロジェクトの実行。そのために六花をチームに戻し、YZFを使えるようにすること。この二つが実現すればまた鈴鹿を目指せるけど、

「杉田は六花ちゃん以外の女を受けつけんぐらいベタ惚れでんがな。そやけど高校時代のもつれが邪魔しとる。それさえなんとかしたらすべてはハッピーエンドでっしゃろが」

 北海道での長期ツーリングで杉田さんの心を解きほぐそうとしたのか。そのために六花を呼び寄せ、

「旅先で巡り逢えば変わるはずやったんやが・・・」

 発想としては悪くないけど、結果はこれだものね。ところで杉田さんのレーサーとしての技量はどうなの。

「レーサー運が無いぐらいでっしゃろかな」

 技量だけで言えばかつてファクトリーから声がかかった事もあるとは驚いた。ファクトリーってワークスのことだけど、製造業者のチームをファクトリーとかファクトリー・ワークスって呼ぶぐらい。

「ぶっちゃけ日本でファクトリーいうたら四大メーカーや。そうは簡単に声なんか、かかるかい」

 それはそうだけど、ファクトリーが故にワークスの規模も大きくて、様々なレベルに選手を送り込んでいる面はある。杉田さんの時は二人競わせて一人採用みたいなものだったらしいけど、

「相手が悪かった。殿崎でしてん」

 殿崎ってモト1でも走っていた殿崎駿馬なのか。そりゃ、相手が悪いよ。

「殿崎はシュワンツ型でっから評価がどうしても・・・」

 加藤さんもたとえが古いね。ケビン・シュワンツは二十世紀の末ぐらいに活躍したレーサーで、

『優勝か転倒か』

 こうされるぐらい派手なライディング・スタイルで名を馳せた名レーサーなんだ。ドッグファイトが無類に強くてコトリに言わせると、

「バリ伝のグンのイメージにも確実に投影されてると思てるわ」

 じゃあ杉田さんはレイニー型だったの。

「レイニーいうよりエディでっしゃろな」

 エディことエディ・ローソンも偉大なレーサーの一人だけど、あだ名は『ステディ』なんだよね。

「杉田はあれだけレースに出て、練習も含めて転倒したことはなかったはずぐらいですねん」

 こりゃ、エディ以上にステディかも。その代わりに見た目の派手さに劣る部分は確実にあるか。でもレーサー運が悪いのはそれだけでは、

「杉田はスプリントよりエンデュランスが合うてると思いまっけど・・・」

 へぇ、八耐にも出てたんだ。それは知らなかった。もっともそれぐらいじゃなかったら、ファクトリーに声をかけられたりしないよね。でもステディ杉田でも完走すら無しなのか。

「マシントラブル、コンビ相手の転倒はどうしようもありまへん」

 八耐クラスのレースになると、レースは極限の綱渡りをやってるようなものだよ。それを八時間渡り切るには勝利の女神が微笑まないと無理なのかもしれない。もちろんと言ったら失礼だけど今の杉田さんにその頃の技量はないとは思うけど、

「そやから四耐でんがな。そりゃ、八耐とはレベルが違いまっけど、八耐で叶えられなかった夢を六花ちゃんと目指していたはずでんねん」

 杉田さんもアラサーだものね。レーサーに限らずスポーツ選手の天敵は年齢。これに勝てる者はこの世にいないのよ。残されたチャンスに燃えたから、そこまで四耐参戦プロジェクトに力を入れてたはず。

「それはわてもスタッフもみんなよう知ってまんねん。とくにパートナーに六花ちゃんが現れてからそうでしてん。それが、あないな事になってもて・・・」

 その綻びをなんとかしようと走り回ってるのか。加藤さんも漢だよ。

「悔しいですやんか。杉田があのYZFを仕上げるのにどんだけ精魂を傾けていたことか」

 ホントに予算は苦しいの。

「ウソやおまへん。今からCBRを仕上げるのは予算があっても時間的にも無理でっしゃろ。そや言うて来年まで今の体制を維持しようとしたら破産ですわ」

 今年がラストチャンスなのか。そしたら加藤さんは姿勢を正して頭を下げて、

「わてでは力足らずです。こんなことをお願いするのは筋違いなのは百も承知でっけど、力になってくれまへんか」

ツーリング日和10(第16話)糠平温泉

 白樺並木の撮影、士幌線の橋梁の跡の撮影を重ねながら・・・あれ、ここは橋梁跡の展望台となってるけど見えないじゃない。

「ここも鉄オタには有名でな。夏は湖に沈んどって冬になると姿を現すタウシュベツ川橋梁や」

 冬に歩いて近くまで行く人もいるそうだけど、

「四キロぐらいあって、クマも出る」

 それでも見事なアーチ橋だそう。鉄オタの世界もディープだな。さて今夜は糠平温泉だ。

「幌加温泉にしょうかと思うてんけど、素泊まりの上に布団も出えへんからやめた」

 それはさすがにディープすぎるよね。寝袋抱えてツーリングやってないし、

「完全に山奥の一軒宿でメシを食うとこどころか、コンビニも近くにあらへん」

 それでもって今日の宿だけど、これなんと表現したら良いのだろう。とりあえず後ろの青いビルは新館かな。

「ちゃうと思うで。もともと五十五室あって団体さん向けの旅館やったんを、十九室に絞ってリニューアルしたそうや」

 十九室だけだったら後ろのビルで十分だものね。それと三階建てなの。

「二階建てらしい。あの三階部分は張りぼてやて」

 よくわからんセンスだ。それにしても作りが、

「昭和三十年代からの建物らしいわ」

 そんな感じのオーラが飛びまくってる。中に入ってみると、これは・・・山小屋風で良いよね。なにかレトロで懐かしいけど穏やかな雰囲気。外から見たら潰れそうな旅館だけど、中は本当に綺麗にリフォームされてる。

 部屋も良いじゃない。へぇ、一部屋ごとにデザインが違うのか。でも基本的に木にこだわったリフォームで良さそう。こうなるとお風呂が楽しみ、えっ、露天風呂に行かないの。

「まあTPOや。鉢合わせしたらあっちが気を使うやろ」

 混浴で裸を見せるのは前提みたいなものだけど、杉田さんたちはわたしたちが何者か知ってるのよね。別に裸を見てもらっても構わないのだけど、あっちはそりゃ気を使うし、気まずいよね。

 内風呂の脱衣場もひたすら木にこだわってるのが良くわかる。こういうのは嫌いじゃないよ。さて浴室は、あははは、湯船の真ん中に太い柱が立ってて、そこからお湯が出てくる趣向なんだ。

 糠平温泉はこの宿だけじゃなく全館がかけ流しだそう。かけ流しが出来るかどうかは温泉の温度や湧出量で変わるから、出来ないところを貶す気はないけど、でもやっぱりどっちが良いかと言われたらかけ流しかな。

「エエ湯やな」

 風呂から上がって食事はレストランのテーブルだ。これはなかなかのコースだよ。上士幌ポークの陶板、切り干し大根と黒豆の出汁浸し、ニジマスのマリネ、牛乳の冷製茶碗蒸し、白株の風呂炊き、天ぷら、

「天ぷらのタネがおもろいやん。メマツヨイグサ、ミント、アカツメクサ、ヤマブドウ、オオバコ、ドクダミって野草ばっかりやんか」

 他にも蝦夷鹿のローストとか、八到とうきびのムースとか、

「こっちかって、わかもろこしのグリルにアキタブキとコンブの甘辛、川エビの佃煮やぞ」

 聞くと十勝産の食材にこだわってるで良さそう。うん、渾身の山の幸って感じがする。食前酒代わりの選べる果実酒もなかなかだもの。なるほどさすが杉・・・

「コトリが選んだ」

 だと思った。

「杉田さんと言いかけたやろ」

 それはコトリの思い過ぎ。部屋に戻って飲み直し。上士幌町には地酒がないみたい。まあ、米が取れないから根室にある方が不思議だよ。その代わりに地ビールがある。その名も、

「上士幌エールビールや」

 やっぱり北海道と言えばビールだよ。そしたら加藤さんが部屋を訪ねてきた。杉田さんはと思ったら、

「不貞寝してま」

 夕食の間も黙ってたものね。昨夜はあんなに楽しそうだったのに。

「六花ちゃんと話してまへんから」

 えっ、それって、もしかして、

「北海道に来て初めて楽しそうな夜でしたわ」

 あちゃ、加藤さんも大変だ。毎晩機嫌が悪くなった杉田さんの相手をしてたのか。そこまでやらなくとも、

「六花ちゃんに聞いたかもしれまへんけど・・・」

 高校時代に恋人関係にあったこと、それが飛行機墜落事故で杉田さんの家が貧しくなり、イジメに加担してしまったこと、それを今でも後悔してること・・・でもさぁ、杉田さんの気持ちもわかるのよ。今さら関わりたくないって。

「わても最初はそう思たんですけど、杉田は今でも独身でっしゃろ」
「加藤さんもやんか」
「わてのことは置いといてください。話がややこしゅうなります」

 杉田さんはやはりモテるそう。そりゃ、モテない方が不思議だけど、

「誰も振り向きまへんねん。わてが見ても十分可愛いとか、綺麗で性格の良さそうな娘が寄って来ても見向きもしまへん。なんかその辺のゴミ見てる気がするぐらいです」

 あらわたしたちは、

「誰が本物の神さんに恋しまっかいな。バチが当たりまっせ」

 そんなことはともかく、加藤さんも杉田さんが女嫌いじゃないかと思った時期さえあったそう。

「そんな杉田が六花ちゃんだけは気に入ったんですわ。あれは間違いなく惚れた目です」

 でもそれは偽名を使い、変装もした六花じゃ、

「偽名を使おうが、変装しようが中身は六花ちゃんですやんか」

 それって、もしかして、

「どっちかでっしゃろ。六花ちゃんと気づいたのか、六花ちゃんの雰囲気に惚れたんか」

 どっちかだけど、

「わては気づいとった気がしてまんねん」

 それってわざと騙されてたとか。でも正体がわかった時には追い出してるじゃないの。

「杉田は騙されたかった気がしまんねん。そのまま死ぬまで。そやけど六花ちゃんと確認されてもたら悪夢が蘇るみたいです」

 よほど高校時代は辛かったんだろうな。いや、それ以上に六花に裏切られたのが忘れられないんだろう。だったら六花以外の女を相手にすれば良いじゃない。

「杉田の心は歪んどるでっしゃろ。アイツは真面目過ぎるところがあるし、不器用でんねん」

 それは言えてる。ユーチューバーの才能で言えば加藤さんはまさに天才型。次々にまあ、あれだけ、しょ~もない企画を湯水のように産み出せるものだと感心するぐらい。

「あのぉ、それって褒め言葉でっか」

 当然よ。それに対して杉田さんは努力型。それも半端な努力型じゃない。あそこまで努力できるのもある種の才能かもしれない。一つの企画を入念に練り上げ、他の者が容易なことでは真似できない領域にまで仕上げてる。恋愛もまたそうだとすれば、

「わてもそう思てま。杉田の事やから六花ちゃんが初恋で、六花ちゃん以外を受け付けへんようになっとると思うてますねん」

 なんて不器用な恋なんだよ。

「ユッキーも似てるやんか」

 ほっといてよ、その話をするとややこしくなるじゃない。

「ちいとややこしい話でっから、最初から話したいのでっけど、時間は宜しいですか」

 イイよ。夜は長いもの。