続問題の根っこは

書くのも気が重いテーマですが、昨日筆が滑った責任上続けます。医療の問題の根っこは、日本における医療の社会的位置づけの社会的的合意が曖昧なためではないかが昨日の提言です。

まず医療は必要かと問われれば「不要」と答える人は少ないでしょう。社会にとって医療は必要不可欠なものです。次に医療に求めるものはとなると「病気を治す事」との返事が最も多いと思います。この点については目覚しい成果をあげてきたと考えます。かつて不治の病と見なされてきた多くの病気が治癒可能になってきています。またこれからも様々な病気に新たな治療法が研究されるでしょうし、たゆまぬ努力が続けられています。これは医学と言う科学の問題であり、これについては過去も現在もそして未来に於てさえ、医療がある限り果てしなく続けられていくと考えています。

次はどんな医療形態が望ましいかです。あくまでも最大公約数的なものですが、

  • 日本のどこであっても不自由なく医療を享受できる。
  • いついかなる時であっても必要な医療を受けられる。
  • 医療にかかる費用は公平で誰でも負担可能なものである。
私はこの点の実現を目指して日本の医療は構築されてきたと考えます。もちろん完成はされていませんが、費用の公平さはある程度実現していますし、医療施設についてはそれこそ一歩一歩整備が進められてきたのではないかと思います。かつて話題になった、無医村の解消のために自治医大が創設されたのも「どこでも」の達成のためであると思います。「いつでも」についても救急医療の整備は近年の医療政策の重要課題の一つであり、成果はともかく各種の施策が厚生労働省から打ち出され、医者からは評判が悪い新研修医制度の目的の一つも、救急医療の整備が主眼のひとつであった事は周知の事実です。

「いつでも」、「どこでも」、「公平な負担」についての方向性についてもまた異議がある人は少ないのではないかと考えます。現状の施策の有用性の評価や、短期展望における見識の問題などにはいくらでも批判の声はあるかもしれませんが、これらの方向性での医療の充実に関しては社会的合意があると私は考えますし、それを推進していく事こそが正しい医療の方向性でしょう。

ところで「いつでも」、「どこでも」を目指すためには医療施設の建設や充実も必要ですが、当たり前ですが医者が必要です。いくら箱物を作っても医者がいないと活動できないのは自明の事です。「いつでも」のためには夜間や休日のための要員が必要です。「どこでも」になると数が増えた分だけ配置する医者の数が増えます。

かつて医者の絶対数が不足していた時代があり、これを速やかに解消するために一県一医大政策が取られました。これにより日本の医学部の数は100近くになっています。これだけの医学部があれば必要な数の医者を養成できるであろうとの考えです。そのため医者の数はそれなりに増えました。厚生労働省の見解では「十分である」との事です。

十分と言う言葉の解釈は何を指してだと考えます。患者を治療するのに十分な体制であるとの事でしょうか。医療は人の生命健康を預けられる職業です。医療はどこまでも純手作業の世界から抜け難い職種であり、判断のほとんどは医者が最終決定を行ないます。この判断をする時に求められる望ましい条件は、医者が十分な健康と余裕をもてる勤務条件が必要です。疲労困憊の状態で下す判断が望ましい医療とは思えません。

「十分である」との現体制での医療はどんなものかはこれまでも何回か触れています。実態は勤務である宿直、当直。さらに本来は宿直、当直であっても翌日は休まなければならないのに勤務をしなければならない体制。実質24時間365日拘束される勤務前提。他にもいろいろありますが、労働基準法をまったく無視した勤務条件で辛うじて成り立つ勤務環境が「十分である」は異常です。「いつでも」「どこでも」のためには、常識的な勤務条件で働けるだけの医者の数が必要なのは理の当然です。そうする事により患者にも充実した医療が提供できます。

ブログなので話のまとまりが悪いですが、日本が目指した医療はその理想に向かって整備が進められてきたと思います。方向性や施策も細かい点はいくらでも論議はありますが、おおよそ間違っていない方向で進んできたと思います。ところが近年おおきく方向性がぶれ始めたのではないかと考えます。こういう医療整備は都市部の方が先行します。先行してある程度充実してくると患者は医療の質を望みます。「より良い医療」という言葉で象徴されます。

俗に言う患者意識の向上です。これは医療の充実過程で必然的に現れてくるものだと考えます。この現象は医療だけでなくすべての分野で起こりうるものです。たとえば飢えている時には食べれるだけで満足ですが、食糧が充足してくると食材の質や調理のすべてに注文が厳しくなります。同様の事が医療にも起こったと考えます。

これはあくまでも私見ですが、まずとくに都市部でそこそこの医療の充実があり、充実したがために医療の質に注文が強くなり始めた。医療の質の向上の要求に対し、医療サイドがこれに応えるためには医者の数の充実が必要です。ところが医者の数自体は「十分である」との見解の下、抑制されます。質の要求に対応できる医療を提供できない状態に陥ったとみます。

また現在は高度の情報化社会です。都市部での医療の質の要求運動は速やかに地方に広がります。数が増えないところに要求のみが高くなれば医者はパンクします。医者のほうはパンク状態になっても、厚生労働省の「十分である」との見解は患者サイドには根拠となり、質の要求のみがどんどん高まる事になります。「足りているならもっと働け」と。

このギャップは年々高くなっていると感じます。つまり医療者側の条件の改善はある水準で政策的に停止されたにもかかわらず、患者側は幻想の医療充実に基づいて質の向上を要求しているのが現状ではないかと言う事です。このギャップの改善には二つの方法があると考えます。患者が求める質の医療が提供できる環境を整えるか、現状で提供できる医療に患者が我慢してもらうかです。

ところが現実に医療に要求されているのは、現状の体制で患者の要求を満たすようにせよとの事です。現状の体制すらさらに削減縮小しようと言うのが現在の政策です。さらに言えば削減縮小しても、今よりもっと高度の満ち足りた医療を提供せよとの事です。その要求は患者の要求に見合うだけの医療の充実が伴って初めて実現する事なのに、充実をなおざりにして要求だけ満たせは根本的に無理があります。

この無理のカバーを医者は必死でやっていたと思います。それはここを耐えればやがて充実するだろうと考えていたからです。しかし国は充実方針を放棄しています。放棄が聞こえが悪いのなら、現実に対しすべて目を瞑って、「これで十分」とし、十分と言う幻想の下に充実の要求だけをしている構図だと考えます。

これが根っこのような気が私はします。これだけでは無いかもしれません。でも根っこの一つではあると思います。