女神伝説第4部:高野副社長との密談

 クレイエールにポッカリと大きな穴が空いています。これは大きすぎてすぐには埋めようがないものです。とはいうものの会社は動いて行かないといけません。コトリ専務が担当されていたクール・ド・キュヴェ事業は高野副社長の担当になりました。空席となった専務の椅子ですが、当面はそのままにしておくと社長は宣言されました。ミサキも仕事に励んでいるのですが、今日だってコトリ専務がひょっこりとジュエリー事業本部に顔を出されて、

    『ミサキちゃん、一緒にランチしよ』
 こうやって誘いに来る気がしてなりません。仕事中にもついつい、
    『これはコトリ専務に相談してから』
 もう何度思った事でしょう。もう相談するにもいないのです。そんなミサキが日課にしているのがコトリ専務にもらったノートを読むこと。これは仕事の参考にするためが建前なのですが、本音はどこかにコトリ専務の言葉が書き残されていないかを探しているのです。そうなんです。あれだけキッチリと物を整理されていたのに、コトリ専務の遺言らしきものはどこにも見つからないのです。これはシノブ常務も同じ思いだったようで、二人で何度か小島専務のマンションを探してみましたが、どこにも見つからないのです。
    「コトリ専務にとって死とはなんだったのでしょう」
    「ミサキちゃん、それはコトリ先輩とユッキーさんにしかわからない気がする。何百回と繰り返されておられるからね」
    「たとえば着替えと一緒とか」
    「そこまで気軽なものじゃないだろうけど。人の一回分の記憶しか受け継げない私たちとはちょっと違うと思うの。だから・・・」
 そこまで言ってシノブ常務は何かに思いを巡らされています。
    「希望的観測に過ぎないけど、コトリ先輩はクレイエールに戻ってくるつもりじゃないかしら」
    「そうなんですか!」
    「だから希望的観測だって。ただこれだけ遺言みたいな書置きがないから、それをする必要がないと考えたんじゃないかしら」
 シノブ常務の見方はミサキにも理解できます。二度とクレイエール、いやミサキたちのところに帰るつもりがなかったら、少しぐらいメッセージを残しそうなものです。それがこれだけ探しても無いとなれば、
    「でもね、ミサキちゃん、コトリ先輩はキッチリしている人だけど、時々とんでもないポカというか、妙というか変な点を見落としたりするのよね」
 これはミサキもイヤってほど経験させられました。トンデモ発想からのトンデモ分析、そこから何故か正しい結論に至る不思議過ぎる思考過程です。
    「もし、また会えたらどんな感じが聞きたいね」
    「きっと、笑いながら話してくれますよ。どうやって次の相手を選んだのかって」
 そこまで話したところで笑おうとしたのですが、心に虚しさだけが残ります。どうしてもう一度、会ってくれなかったんだって。だってコトリ専務を見れたのはあの重役会議室が最後だったのです。あの日から花時計の前で亡くなられるまで、コトリ専務が会ったのは山本先生と加納さん、それとバーのマスターぐらいだった気がしてなりません。

 どうしてミサキやシノブ常務を避けられたのか、いえ、どうしてもっと頼ってくれなかったのか悔しくてなりません。もっと会っておけば良かった、もっと話をしておけば良かったと後悔だけが次から次への湧いてくるのをどうしようもありません。


 そんな時に高野副社長からシノブ常務と食事のお誘いがありました。なかなかオシャレで隠れ家的なワインレストランです。綾瀬社長は社長に就任した時の人事で、三女神と副社長、佐竹本部長を重視する路線を打ち出していましたが、その後は高野副社長よりコトリ専務を重用する傾向がありました。

 この辺は社内力学的な話になるのですが、三女神はコトリ専務を中心に結束しており、自然にコトリ専務派的な見方が出ます。佐竹本部長は綾瀬社長の子飼いみたいなところがあるのですが、とにかく奥様がシノブ常務ですからコトリ専務というか、シノブ常務寄りの意見になりやすいところがあります。社長派は見ようによってはコトリ専務派を取り込んだような形で出来てるとも受けとれます。次期社長レースとなった時にコトリ専務が有力視された理由の一つに、社長派の多数がコトリ専務派になっていたためです。

 これに対して高野副社長は河原崎前社長派でした。これは綾瀬社長もそうなんですが、社長と副社長の関係は主従関係と言うより同志関係です。それと高野副社長も決して凡庸な人物ではありません。コトリ専務のような華々しさはありませんが、その手堅い手腕には定評があります。人柄も温厚で公平で次期社長になってもなんの不思議もありませんが、綾瀬体制が続くほど立場が微妙になっている感じが確かにありました。そんな時に起ったのがコトリ専務の急死です。

 そういう時の呼び出しというか密談ですからキナ臭いものを感じないでもありません。この辺はミサキが入社する以前のお話になりますが、シノブ常務は特命課長になる前に高野副社長に可愛がれてた時期があったそうです。コトリ専務亡き後のコトリ専務派の後継者はシノブ常務ですから、高野副社長はシノブ常務を取り込んで高野派を形成しようとしてるんじゃないかとも考えられるわけです。そんな事をシノブ常務に話したら、

    「ミサキちゃん、考え過ぎよ。コトリ先輩がいなくなったんだから、次期社長は高野副社長で決まりだし、次期社長派になっても別に損はないじゃない。コトリ先輩派って言っても、誰かを担いでいるわけじゃないもの」
 そう言われればそうで、何とか派が形成されるのは社長の椅子レースのためだし、さすがにミサキだってシノブ常務を担いで高野副社長と争う気はありません。シノブ常務が社長の椅子を目指すようなお話はまだまだ先だからです。高野副社長の話はまずコトリ専務の思い出話から始まりました。小島専務が入社されて配属されたのが総務部で、その時の総務部長が高野副社長の関係であったようです。
    「とにかく小島君はあの美貌だろ。総務部に入った瞬間から総務部の花と呼ばれ、すぐにあの微笑みですべての者を魅了したから天使の微笑みと言われたもんなんだよ」
    「やっぱり」
    「仕事を覚えるのも非常に、いや異常に早かった。三ヶ月もすれば部内でもう敵うものはいなかったんじゃないかな。とにかく美人で有能で文句の付けどころのない人だった」
    「そんなに、でも昇進は結崎常務と較べると・・・」
    「これは河原崎前社長も、綾瀬社長も悔やんでおられた。まだまだ、女性への偏見が残っていたんだ。どこかで寿退職するぐらいの見方かな」
 コトリ専務が入社した頃は、まだクレイエールはそんな感じだったんだ。
    「とくにデータ分析は凄腕だった。いや、凄腕過ぎたのかもしれない。結崎君もそうだったが、一人で五人分も十人分もの仕事を楽々とやってしまうんだよ。あまりに小島君が簡単そうにするものだから、ついつい縛り付けてた時代が長過ぎたと反省している」
 コトリ専務の入社した頃のお話はシノブ常務でさえ断片的にしか知らないものです。
    「綾瀬社長の社長就任が内定した時に呼ばれたんだ。あの時の綾瀬社長は歯切れの悪いというか、とにかく持って回った話をされてたんだ。そりゃ、もう前置きとか、仮定とか、とにかく話がさっぱり前に進まないんだよ」
    「あの綾瀬社長がですか?」
    「あははは、君たちは見たことがないと思うけど、社長がそういう話し方をする時は、頼みにくい話をする時のクセなんだ。付き合い長いからね。それでもあれほどの歯切れの悪さは私も初めてだったよ。だから、言ってやったよ。

      『次期社長に小島君を考えておられるのなら私は賛成です』

    そう言ったら社長は、そりゃ、もうこれ以上はないぐらいバツが悪そうな顔をして、

      『すまん』

    こういって頭を下げたんだ。ただ、その後がもめたんだ」
    「なにをもめられたのですか」
    「私と小島君のどちらが副社長になるかだよ。結局、社長の意見が通って私が副社長になった」
    「では、高野副社長は小島専務を副社長に推したのですか」
    「うむ。後継者であることを明示した方が良いって。でもな、社長はその前に小島君に副社長就任を断られただけでなく、次期社長も私だと一歩も譲ってくれなかったみたいなんだ」
 へえ、そんなことがあったんだ。
    「そこでの相談だったんだが、社長も早めに退任するから、高野君もそうしてくれんかって。そうすれば小島君に席を早く回すことが出来るとね」
    「そこまで・・・」
    「社長も私も小島君をずっと見ていた。あの人は常人じゃない、とりあえず最終報告書では天使となっているが疑いもなく女神だ。それも恵みの女神で間違いない。恵みの女神を部下にするより、トップにする方が良いに決まってるんだ」
 そこからワイングラスを静かに傾けられた後に、
    「社長は本気だよ」
    「あの話ですか」
    「そうだ。今日は君たちの意見を確認しに来た」
    「副社長は」
    「いうまでもないだろう」
 でもコトリ専務が復活しなければ副社長は黙っていても社長になれるのです。
    「こんなことは他では言えないが、社長も私も小島君の熱烈なファンなんだよ。あの時ほど既婚者であることを後悔したことがないぐらいかな。あの小島君が甦ってクレイエールに来てくれたら、それぐらいの歓迎は当然だろう」
 ここでシノブ常務が、
    「小島専務は次座の女神であり、香坂本部長は三座の女神、この私は四座の女神です。ただ三座・四座と首座・次座の女神の役割はまったく異なります。女神の長は首座と次座であり、この二人に本来の差はまったくありません」
    「そうなんだ」
    「私と香坂本部長は女神として小島専務に従います。たとえヒラ社員であっても従います。これが女神なのです。女神に人としての年齢や立場、肩書は関係ありません。相手がどの女神であるかだけがすべてです」
 高野副社長は少し驚きながら、
    「ところで小島君が次座の女神であるのはわかったが、首座の女神もいるのかね」
    「おられます。首座の女神だけではなく主女神もおられます。エレギオンの五女神はこの神戸の地に復活しているのです」
    「女神たちにはクレイエールを故郷と思って欲しいと考えている。これは私だけでなく社長もまったく同じ意見だ」
 シノブ常務は深く一礼して、
    「ありがたいお言葉です。女神と言えども、その前に人です。これからもよろしくお願いします」
 後は復活したコトリ専務が来るのを待つだけですが、果たして来られるのか、来られるとしたらいつなのかです。