続医療事故究明機関設置構想

昨日のエントリーを書いた後、少し反省しました。この機関の設置への疑問点を挙げたつもりでしたが、批判と懸念ばかりで余りにも建設的でなかったからです。出来上がって、動き始めて実際に問題が出てきてならともかく、構想段階なのですからもう少し前向きに意見をした方が良いと考え直しました。現実的にはこのブログで何を力説しても洟も引っ掛けられないでしょうが、しないよりもマシでしょう。なんと言っても待望の専門家による第3者審査機関みたいなものが出来るわけですから。

昨日も書きましたが現在の情報量では具体的な構想の全体像がつかみきれません。どれだけ厚生労働省内部で構想が固まっているかも知る由もありません。ただ少なくともまだ検討中であり、現場の医師の意見が入る可能性はありますから、個々の医師に出来ることは自分の意見を公表していくことが大事だと思います。個々の医師が意見を発表すると言っても、現実にはネットにするのが精一杯ですが、ネットでの影響力を測る指標ぐらいにはなりそうな気もしています。

意気込んでは見たのですが、これがなかなか難しい。例えばこの機関の規模はどれ程のものが必要かと推測するだけでも大変です。記事では厚生労働省は医療関連死は1万件前後としていますが、もちろん死亡事故だけではなく、重大な後遺症が発生した場合にもこの機関は動くと考えるのが妥当です。それが全部で何件になるかとなるとこの場では雲をつかむような話ですが、ここで数字が出ている1万件の事故を処理すると考えただけでも眩暈がする規模が必要です。

土日や祝日を除いて年間の稼働日数を200日とすると1日50件の処理が必要です。審査委員が10人必要として、もし10人の委員会が1日1件処理するとすれば500人の委員が必要です。1日では難しそうなので3日とすれば1500人必要です。もちろん委員だけで運営できるわけは無く、これをバックアップする事務局も必要です。そうなれば数千人規模の機関が最低必要となります。どうにも現実感が湧いてこないのですが、どんなものなんでしょうか。

どこから手をつけたら良いか途方に暮れそうになるのですが、まず手をつけられそうな事を考えてみたいと思います。どんな事業を行なうにも理念が必要です。事業が目指す理想を決める事です。理想がすべて一遍に具現化すれば言う事はないのですが、現実と照らしあいながら方向性は理念に向かって常に進んでいく事が必要だからです。またこの理念が明快で無いと機関の性格、働きが鵺化してしまう事がしばしば起こるからです。これについてはおそらく医者側と患者側でスタンスがかなり違うであろう事は容易に推測されます。私は医者ですから、これから書く意見はある程度医者側に立ったものであることを御了承いただきたいと思います。

医学には失敗は付き物です。現代医学も数え切れないぐらいの失敗、試行錯誤の上に築かれたものであるのは間違いありません。だから失敗が許されるわけではなく、失敗を教訓として同じ失敗を二度と繰り返さないようにするのが医学です。そのために失敗があった時、これを分析し、失敗の原因を明らかにし、次に同様のケースがあった時にどうすればその失敗を防げるかを考え、これを広く公表して周知徹底しようとしてきました。こういう対応が医学の医療的な失敗に対する基本的な態度です。

失敗があった時にこれを調査分析した結果は、直ちに現場の医療にフィードバックされなければならないと言う事です。医療は生きた科学ですから、こういうフィードバックが医療レベルの向上にどれだけ資してきたかわかりません。ここで結果が医療レベル、医療常識に極端に反し、実行不可能なものであってはならないと言うことです。分かりやすく言えば、日本で1ヶ所しか行う事の出来ない治療を、全国どこでも出来るという前提で物事を決めるとトンデモナイ事になります。もちろんその治療が全国どこでも出来るようにした方が良いと判断するのなら、そうするように勧告しても良いでしょうが、事故発生時に望んでも無い状態であればこれを罪に問うのは医者の限界を超えています。

今後の治療に生かせる分析結果という視点が司法判断に乏しいのが、現在の医療訴訟の問題点ではないかと私は考えています。訴訟では原告、被告の利害に問題を矮小化して考えてシロクロを判定するのがどうも原則のようです。医療での問題点も、起こった事件に極限まで限定して考え、必ずしも医療全体への影響は考慮しないとある法曹関係者は語っています。今度出来るとされる機関はそうであってはならないと考えます。つまり審査の過程は司法的慣習の上の手続きであってはならず、医学的慣習の手続きであるべきだと考えます。また審査結果も法律的整合性が優先されるのではなく、医学的整合性が優先されるべきだと考えます。

つまりこの機関の性格付けが法律的シロクロに傾きすぎると、プレ裁判所みたいなものになり、そんなところには医学的判断に必要な情報を医療機関は積極的に提供しなくなるのは目に見えていると考えます。プレ裁判所になってしまうと、いくらこの機関で審査をしても、結局純司法手続きの本物の裁判が次に待っているのですから、本物の裁判を見越しての意図的な情報操作が行なわれるは確実です。この辺の兼ね合いを理念として十分に煮詰めておく必要があると考えます。