明智光秀ムック の検索結果:

明智光秀ムック15

明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)のムックの続きです。 ■熊本安国寺の土岐系図津々堂のたわごと日録が文字を起こしてくれてますので引用します。 信周子多クアリ嫡子進士美作守晴舎ト云部屋住ニテ将軍家ニ直勤ス 次男岸勘解由信舎ト云 三男進士九郎三郎賢光ト云ウ 四男乃チ明智光秀也 以下ノ子略之 右各母ハ明智光隆ノ姉也 又信周ノ嫡子進士晴舎是ヲ山岸ノ総領トス 始終在洛セリ 数子アリ嫡子ヲ進士主女首輝舎ト云 次男を進士作左衛門貞連ト云 三ツ同六郎大夫貞則ト云 四ハ養子ト成テ安田作兵衛…

明智光秀ムック14

明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)の意図を見直してみます。宮城系図は歴史資料としては悪書の評価がありますが、理由としては正しい歴史を現していない点になります。とくに光秀関連部分について創作・捏造部分がかなり多く、肝心の光秀がどういう出自であったのかがサッパリわからないからです。ただ見方を変えればなんらかの意図をもって作られた系図であり、その意図を推測してみるのも一興かもしれません。 ■誰のために作られたか宝賀寿男氏の分析を再掲します。 明智本宗の最後の当主が大永六年(15…

明智光秀ムック13

明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)からの周辺ムックです。 ■明智頼弘頼弘の系譜としては 奉仕将軍義政義尚義稙三代公列外様衆八家之内也 応仁文明乱土岐右大夫成頼倶与力山名左右衛門佐持豊入道宗全戦細川勝元然是覚近于犯上而帰国以全其嗣云々 年代的に義政から義稙の時代に生きていた人であるのは確認できますし、土岐成頼が西軍に属して応仁の乱で京都に出陣したのも史実です。ここで気になるのが、 然是覚近于犯上而帰国以全其嗣 その前が「宗全戦細川勝元」なのですが、どうも何かの理由で帰国して…

明智光秀ムック12

明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)からの仮説の再整理です。 ■山岸光信明智頼弘までの明智氏と山岸氏との関係です。明智頼弘は嘉吉元年(1441)生まれ、永正5年(1508)死亡と宮城系図ではなっています。この頼弘の妹と山岸光信は結婚するのですが、頼弘の妹は文安3年(1446)生まれとなっています。問題は山岸光信の生年で宝賀寿男氏によると道三から龍興時代に活躍した美濃十八人衆の一人となっています。そこで永禄10年(1567)の稲葉山落城を起点に考えて 稲葉山落城時に60歳なら…

明智光秀ムック11

明智氏の系図の一つに明智氏一族宮城家相伝系図書(宮城系図)があります。宝賀寿男氏の明智光秀の出自と系譜−「宮城系図」等の検討を通じてみる−での評価は、 「宮城系図」については、多くの学究によってあまり信頼できない系図史料とみられてきたようである。たとえば、國學院大教授であった高柳光寿氏が著した吉川弘文館人物叢書『明智光秀』(昭和33年〔1958〕刊行)は、光秀研究の原点ともいうべきものであるが、そこでは、「宮城系図」が悪書と評価されている。明智(三宅)弥平次秀満などの記事に誤…

明智光秀ムック10

光秀出自と明智家の家系について宝賀寿男氏の明智光秀の出自と系譜 −「宮城系図」等の検討を通じてみる−をもう一度ご紹介します。宝賀氏は歴史研究家ですが、歴史研究の中でも家系図を重視して研究されているぐらいに理解してもらったら良さそうです。 ■宝賀氏による明智系図の推測考察についてはリンク先を御参照いただくとして,。青地が美濃守護で赤字が宝賀氏が比定した明智家当主です。まず土岐頼貞は建武の新政で功績があり美濃守護に任じられ、美濃土岐の実質的初代みたいな人物と思えば宜しいかと思いま…

明智光秀ムック9

進士氏を少しムックしてみます。 ■進士氏の起こりこれがはっきりしないのですがwikipediaより、 鎌倉時代には、吾妻鏡に御家人として進士基度・進士光政・進士隆邦などが現れる。 鎌倉御家人として進士氏がいた事だけはわかります。 室町期には、番帳類に進士氏一族の名がみえ、幕府の奉公衆であったことがわかる。広島大学文学部に進士文書が所蔵されており、これらによると南北朝・室町期の進士氏は足利将軍ゆかりの地に所領を有していたことがわかる。将軍の食膳の調理を進士氏が世襲しているのは、…

明智光秀ムック8

時宗関連を少しムックしてみます。 ■時宗と武家駒沢女子大学研究紀要第21号「時宗総本山清浄光寺所蔵史料にみる東国武将と時衆」皆川義孝より、 中世における清浄光寺は、室町時代以降、鎌倉府より鶴岡八幡宮に並ぶ寺院として遇されてきた。第四代鎌倉公方の足利持氏(1398〜1439)は、遊行十四代・藤沢八世の太空に深く帰依した。特に応永三十三年(1426)二月十四日に清浄時仮寺が火災で焼失し、永享七年(1435)十一月二十一日に持氏が百二十坪の仏殿を造営するなど、清浄光寺再建に対して援…

明智光秀ムック7

本能寺は一応やったので、明智氏のルーツをたどってみます。 ■通説の明智氏のルーツ明智氏は土岐氏の一族となっていますが、具体的には美濃守護の土岐頼貞(1271〜1339)の九男とされる九郎頼基の子の頼重から始まるとなっており、諸説でもこの辺は一致しています。以後は 頼重 − 頼篤 − 国篤 − 頼秋 − 頼秀 官位として 頼重:従五位下民部少輔 頼篤:記載なし(氏王丸、十郎とのみ) 国篤:従五位下刑部少輔 頼秋:従五位下式部少輔・民部大輔 どうも頼篤は早世し、国篤が養子に迎えら…

明智光秀ムック6

前回は信長公記での本能寺の変を紹介しましたが、信長公記をいくら読んでも光秀謀反の真意は見えてきません。理由は他にもあるでしょうが、本能寺の変が6月1日、天王山で敗れて小来栖で死んだのが6月13日なので、 光秀から真意を聞いて記録した者がいない ほいじゃ周囲の状況から思い当たる「フシ」ってのも太田牛一にして思いつかなかったぐらいです。もちろん戦国の世ですから、この時期の信長を倒すというのは天下を狙うのと同義語になるので信長公記の 信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め …

明智光秀ムック5

光秀と言えば本能寺なんですが、今日は信長公記の該当部分からピックアップしてみます。 ■家康の接待話は武田攻めからしたいのですが、天正10年3月11日に勝頼自害、3月13日に首実検となっています。その後に信長は駿河を回りある種の遊覧を行い4月21日に安土城に帰還しています。信長公記でも駿河遊覧部分は詳しく書かれていますから、太田牛一も同行していたんじゃないかと思われます。武田攻めの後に駿河が家康の領国となるのですが、その礼として家康と穴山梅雪が安土を訪問します。 信長公、当春、…

明智光秀ムック4

光秀の越前時代については「遊行三十一祖 京畿御修行記」から称念寺門前に10年間住んでいたのだけはわかりますが、その次に記録に現れるのは永禄六年諸役人付の足軽衆末席になります。この間がどうなっていたのかは推測するしかないのですが、JSJ様の指摘を参考に再構築してみます。 ■称念寺門前の10年間とにかく10年間は長いのがまず問題です。称念寺の寺伝には寺子屋をやっていたとなっていますが、時代的に寺子屋なんて成立するかどうかは正直なところ疑問です。歴史小説や時代ドラマでは兵法指南とし…

明智光秀ムック3

復習・補充・まとめ編です。■遊行三十一祖 京畿御修行記光秀関係の記載部分を大谷学報 52(1), 54-74, 1972-06に「遊行三十一祖 京畿御修行記」〔天正6〜8年記録〕橘 俊道(校註)より再掲します。 正月廿三日御行事成就し七条へ御帰寺。同廿四日坂本惟任日向守へ六寮被遣、南都御修行有度之条筒井順慶へ日向守一書可有之旨被申越。惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申。折…

明智光秀ムック2

■遊行三十一祖 京畿御修行記私の勉強不足で光秀が朝倉家に仕えていた資料があるのを初めて知りました。wikipediaより、 『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の旅行記)に知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人だったが、越前国の朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十年居住していた」と記述 原文に近いものが読みたいと探していたら大谷学報 52(1), 54-74, 1972-06に「遊行三十一祖 京畿御修行記」〔天正6〜8年記録〕橘 俊道(校註)があり…

明智光秀ムック

ツヨシ様より、 小林正信氏の学説です。「明智光秀は進士氏」の経緯 織田信長が美濃で基盤作りの為に、室町幕府奉公衆の進士晴舎の長男である進士藤延に美濃の名族である明智氏(明智光秀)を名乗らせたのが真実だ。 室町幕府奉公衆の明智氏は当時、内紛によって菅沼氏と妻木氏に別れて明智氏は既に滅亡していた。 進士藤延は母方の妻木氏の前の本姓である明智氏を名乗り美濃の勢力を基盤に織田信長の信頼を得る事に成功したのだ。 進士氏は鎌倉幕府の頃より続く名門であり室町幕府の諸作法を伝える包丁式で有名…