ツーリング日和14(第35話)三十階の夜

 コウもシドニーから帰ってきて、

「ユッキーさんから呼ばれてるんだけど・・・」

 ああ、あの話の続きだ。どこかのレストランかと思ったら、

「三十階に来てくれって」

 三十階って、まさかクレイエールビルの三十階じゃないでしょうね。

「そこだよ。ユリは初めてだったね」

 初めてもクソも、あんなところに入るのは皇居の松の間に入るより大変なところじゃない。

「松の間はボクも入った事がないな」

 コウならないか。ユリはあれこれあって、なにかあれば松の間とか竹の間だったものね。さて行くとなればTPOだけど、やっぱりロープ・デ・コルテで完全武装が必要なの?

「見苦しくない程度の普段着で良いよ。あそこは私宅だからね」

 そうは言うけど困ったな。約束の日が来てコウと一緒にクレイエールビルに。ここも中に入るのは初めて。かなり古いビルだそうだけど、何度も大改修がされてるらしくて、古さは感じないかな。受付に行くと、あれは霜鳥常務じゃない。

「ようこそ侯爵殿下。社長も副社長もお待ちです。コウも久しぶりだけど、入り方を覚えてるよね」

 侯爵殿下は頼むからやめてくれ。それはともかく、コウとエレギオンの女神は親しいのよね。これだけ親しいのにコウでさえ三十階の正メンバーじゃないらしい。正メンバーって誰だと思うもの。エレベーターに乗り汲むとコウがなにやら操作してた。そしたらどこにも止まらず三十階に。

 ここがエレギオンHDの心臓部、魔女の館とまで呼ばれるところ。三十階の様子はコウでさえ詳しくは話してくれないぐらい。まさに現代のミステリーゾーンだ。ドキドキしながら扉が開くと、

『コ~ン』

 これって鹿威しなのか。そしてエレベーターのドアの前には朱塗りの木橋がある。

「変わってないな。昔のままだ」

 橋の向こうに見えているのは、

「梅見門と光悦垣だよ。この辺はユッキーさんの趣味だ」

 門を潜るとふかふかの苔に飛び石があって、立派な格子戸の玄関がある。まずは御挨拶だけどドアホンが見当たらない。

「ここは勝手に入って良いんだよ」

 ホントに良いのかな。中は洋風みたいだけど、コウは手慣れた様子で靴を脱いで入り込むじゃない。廊下の突き当りのドアを開くと・・・うわぁ、豪華なシャンデリアにグランドピアノまで置いてある。ここは応接室なの?

「リビングだよ。ほらキッチンも付いてるだろ」

 オープンキッチンと言うより、あれだけ広ければ厨房じゃない。中に人がいるけど、

「ユリ、いらっしゃい。よう来たな」
「コウも久しぶり、適当にビールでも飲んでて」

 缶ビールでも出て来るのかと思ったけど、ビールサーバーが五本もあるじゃない。ここが三十階なの。

「ここも変わってないな。昔のままだ」

 この部屋のあのピアノでコウはユッキーさんからピアノのレッスンを受けたのよね。

「そうだ。でもあれはレッスンなんて生易しいものじゃなかった」

 コウだってそれまでにピアノのレッスンをして来ていたはずだけど、

「粗すぎて話にならないって言われてさ」

 コウのピアノのテクニックは世界でも指折りとされてるけど、

「ユリならわかると思うけど、ピアノを弾く時には誤魔化しがあるだろう」

 誤魔化すというか、曲の難度が上がるとどんな名人、達人でもミスタッチは避けられないのよね。それをカバーするのもテクニックになるけど、

「ユッキーさんはそれが嫌いでね」

 嫌いと言ってもネコふんじゃったを弾いてるのじゃないでしょ、

「ラ・カンパネラは泣くほどレッスンされたよ」

 あの超が付く難曲をミスタッチ無しで弾けるまで練習させられたって! そんなものは不可能でしょうが。

「ユッキーさんは出来た。出来ると言うより、それが当然みたいに弾いてたよ」

 どんな超絶レベルの話なんだ。だからこそコウのラ・カンパネラの評価があそこまで高いのか。そんな話をしていると、

「コウ、もうちょっと時間がかかるからBGM頼むわ」

 コウが弾き始めてしばらくしてから、

「お待たせ」
「ちょっと手間がかかってもた」

 テーブルにずらりと並ぶ料理のヤマ、ヤマ、ヤマ。

「ここのルールは遠慮せんこっちゃ」
「足りなければいくらでも作るからね」

 道理でツーリング中も良く食べるわけだ。コウがここでレッスンを受けていた時代の話を聞いてみたんだけど、

「とにかく雑で粗っぽくてヘタクソだったのよ」
「才能はあったけどな」

 ミスタッチの話は、

「あんなものミスする方がおかしいでしょう」
「そういうけど、練習させ過ぎて鍵盤が血に染まってもたやないか」
「あれはヘタクソだからマメを潰すのよ」

 どれだけ練習させたんだ。

「十時間ぐらいよ」
「なに言うてるねん。十六時間ぐらいやらせた時もあったやないか」

 こいつら殺す気か。コウも良く逃げ出さなかったものだ。

「そんなものさせるものですか」
「あん時は糸掛けとったんちゃうか」

 糸ってなんだ。それはともかく、逃げようとするコウを押さえつけてでも練習させたみたいだ。コウもピアノから戻ってきて、

「あの橋のところまで逃げたのだけど、そこで身動きが取れなくされて、そのまま一日放置されたりもあったよ。それだけじゃく、ユッキーさんの空恐ろしい睨みをどれだけ浴びせられたか」

 なんかよくわからないけど、スパルタなんてレベルじゃなさそうだ。でもホントにユッキーさんって上手なの。当時は上だったかもしれないけど、今は世界のコウだよ。

「いや今でもユッキーさんの方が上だよ」
「ユッキーのは神の業みたいなもんやからな」

 それだけ弾ければ、

「コトリの歴史趣味と同じ。楽しむだけのものだよ」

 コウが言うには、それこそ何をやらせても達者なんてレベルじゃないみたいで、

「料理だってプロも裸足で逃げ出すぐらいだし、遊びだって達者なんてものじゃない。ダンスを踊らせても、歌をうたわせても、そうそう羽子板とか、カルタだって」

 お正月にカルタ対決、羽子板対決をするのが恒例みたいだけど、

「あれは羽子板じゃないよ。バトミントンの世界選手権みたいだし、カルタなんて札が壁に突き刺さるのだから」

 なんだよこいつら。ところで他の三十階メンバーって、

「シオリちゃんのとこや」

 シオリちゃんって誰なの。

「麻吹つばさや。あそこのアカネさんとか、マドカさんとかや」

 麻吹つばさってあの光の魔術師の麻吹つばさなの。だったらアカネさんて渋茶のアカネの泉茜で、マドカさんって白鳥の貴婦人の新田まどかなの。

「みんなシオリちゃんの弟子や。もっともアカネさんは来るのを嫌がるけどな」
「マルチーズで揶揄いすぎたかなぁ」

 泉茜って犬は苦手なのか。

「最近やったらミサトさんも入ったな」

 ミサトって、実在する妖精の尾崎美里だって。フォトグラファーとしての超一流だけど、大ヒットした幻の写真小町の主演女優じゃない。ユリも見たけど、妖精って言葉がピッタリの美少女だったもの。

 美人と言うだけなら、麻吹つばさも、泉茜も、新田まどかもモデルじゃなくてカメラマンをやっている方が不思議なぐらいに綺麗なんだよ。それを言えばコトリさんだって、ユッキーさんだってそう。ここはなんてとこなのよ。

「ユリもコウの婚約者だから招待しておかなといけないと思って」
「新年会は家族連れでみんな来るから賑やかで楽しいで」

 夢前専務も霜鳥常務も当然メンバーなのか。そりゃ、女から見ても腰を抜かしそうな程の美人だもの。ユリなんかがこんなところに、

「侯爵殿下がなにを仰られます」
「恐悦至極に存じ奉ります」

 それはやめてくれ。ユリの生まれ持った災難なんだから。