ツーリング日和13(第20話)ライダーの夢

 翌朝はワゴン車でパドックに乗り込んだ。

「あそこだ」

 パドックとはピットガレージの後方のバックヤードみたいなところと言えば良いかな。ここでバイクや機材を下ろしピットガレージに運び込む。今日は練習走行だけだからたいした荷物はないけど、本番のレースになれば整備工場みたいになるところだよ。

「杉田さんへの取材は任せた」

 ちょっと待ってよ、昨夜会ったばかりじゃない、それより清水先輩は何するの。

「オレは走る」

 まあそうなんだけど。先輩の顔つきと言うか気合は今朝から違う。まるで本番のレースに臨むかのようにも感じるぐらい。この辺は練習走行と言っても三十分しかないから、少しでも時間を有効に使いたいのはわかるけど、先輩のは単なる練習で四耐とか関係ないじゃない。そんなことを思ってるうちに練習走行がスタート。

 なるほどピットの前から順番にコースに出て行くのか。レースじゃないものね。杉田さんところは篠原アオイが走るのか。それにしても結構な台数が走るものだ。この練習走行に出て来てるのはナンバー無しのマシンだ。

 そんなバイクの750cc未満だから、レースのカテゴリー的に600CCと250CCが多くなるはずだけど、四耐が近いから600ccが殆どみたいだ。それもSSじゃなくSTだと思う。見てもわからないけどね。

 先輩からは練習走行中の取材も頼まれたけど、ちょっと難しいかな。ナンバー付きの市販車とレース用のバイクは性能が違うのはもちろんだけど、とにかく音が違う。市販車の音は長年の規制で大人しいけど、レース用のはまさに爆音。

 ピットってコースに一番近いとも言えるから、爆音で話しにくいったらありゃしない。だからレース中はスタッフもインカムなのがデフォなんだよ。杉田さんのところもそうで、インカムをしていない双葉がのこのこ行っても取材なんか出来るものか。

 練習走行はレースであえて言えば予選のタイムアタックに似てるかも。一周ごとにタイムが出るから、それを目安に走っている気がする。だけど毎周タイムアタックしているわけでもなさそう。

 コーナーのチェックに主体を置いている人もいる。そうやって最後はタイムアタックもするのだろうけど、いわゆる鈴鹿を覚えるをやってる感じかな。こればっかりは実際に走ってみないとわからないものね。

 何周か回ってピットに戻って来たのはトラブルかな。それともセッチングの微調整か。三十分しかないからトラブルだろうな。貴重な時間なのに可哀想だ。でもそれもまたレースぐらいとしか言いようがない。

 とにかく猛スピードで走り抜けていくから、どのマシンがどうなってるかわかりにくいのだけど、今日は篠原アオイに注目だ。ついでに先輩もね。篠原アオイのマシンはウィンドミルカラーって呼ばれるのだけど見つけやすい。

 そうなのよね、杉田さんのチームはクレイエールの全面バックアップを受けてるのよね。かなりの支援みたいで、噂ではワークス並みとされてるぐらい。その代わりにクレイエールのバイクファッションブランドのウィンドミルの広告塔にもなってるかな。

 あれれ、篠原アオイの前を走っているのは先輩じゃない。フリー走行だから周回遅れはないけど、篠原アオイに追いつかれたのかな。そしたら次の周も、その次の周も篠原アオイの前にいる。

 どうしたんだろう。篠原アオイの調子でも悪いのかな。先輩が遅かったら抜くはずよね。ああまただ。もう三周だぞ。篠原アオイも流してるのかな。流してると言うには速い気がするけど。

 次の周に注目していたら先輩が見えない。抜かれたのだと思うけど、先輩のマシンが来ないのよ。どこかの集団に紛れ込んで見落としたのかもしれないけど、嫌な予感が走った。まさか転倒とか。

 ちょっと待ってよ、今日は取材だぞ。そこまで無理してどうするの。怪我なんかしたら明日からの仕事にも差し支えるじゃないの。やきもきしながら待っていたら、先輩のマシンがピットに入ってきた。

「今日は終わりだ」

 なにがあったの。

「心配ない。コースアウトしただけだ」

 これも鈴鹿の特徴だそうだけど、コース以外のところ、ランオフエリアが独特と言うか、今どき珍しいものだそう。現在ならランオフエリアも舗装になっているところが多いそうなのよね。

 ところが鈴鹿はグラベルか芝生。グラベルは砂利って意味になるのだけど、鈴鹿の場合は土と言うか砂地って感じになってるかな。ランオフエリアが舗装しているかそうでないかはレースでは大きな違いになる。

 舗装していれば走り続けてコースに戻る事も出来るけど、グラベルや芝生ならまともに走れなくなる。だから鈴鹿ではランオフエリアに入ってしまうのは、レースでは致命的なミスになってしまう。そんなところを走るだけでマシンにダメージが起こっても不思議無いぐらい。

 でも名ドライバーや名ライダーに言わせるとそこが良いのだってさ。スピードを上げるためには、ランオフエリアに入るか入らないかのギリギリのところで走る必要がある。コースアウトを怖がったらタイムは出ないもの。

 あの連中のセンスは常人とかけ離れてるところがあるけど、常にランオフエリアのリスクがあるのがチャレンジなんだって。難しいコーナーを他人より早く走り抜けるのがエクスタシーとすれば良いのだろうか。

 でも気持ちだけはわかるとことがある。バイクを乗り始めた多くの若者はまず速度に魅了される。直線の速度は馬力勝負にしかならないから、コーナーの速度を競うぐらいかな。でもそんなものを公道でやればガードレールに突っ込んだり、谷底に転落したり、溝に落ちる憂き目に遭う。

 でもクルマも似たようなものだけど、そういうスピード競争で勝ち上がった者がレーサーなんだよ。鈴鹿のランオフエリアは原点の走りを思い出させてくれるのかもしれない。

「水をくれ」

 メットを外した先輩はペットボトルをがぶ飲みだ。怪我は、

「だからだいじょうぶだ。マシンもたぶん問題ないはずだ」

 二十分ほどだったのに、どれだけ消耗してるのよ。

「オレの鈴鹿、オレの四耐だ」

 はぁ、取材だってば。マシンをピットガレージに戻し、さらにワゴンに積み込んでホテルに戻った。練習走行中の取材が爆音で出来なかったことを詫びると、

「杉田さんも忙しかっただろうから、お邪魔はしなかったのは正解だ」

 着替えてランチ。やはり気になるじゃない。

「130Rの前のスプーンで無理をし過ぎた。というか、無理に無理を重ねたツケが出たぐらいだ」

 そりゃ、篠原アオイの前を走り続けたからだよ。というか、取材だから後ろに付いてみるべきじゃない。

「それが出来れば誰も苦労しない。そもそもマシンに差がある。テクニックだって及ばない」

 言われてみれば。後ろに付いても置いてかれるだけだよね。だからあえて前に出て抑え込みにいったのか。あれだけでも出来たらたいしたものじゃない。

「いやあれはお付き合いで遊んでくれただけだ。クリアラップがとりにくい状態でもあったからな」

 タイムアタックをするには、前にマシンがいない方が望ましいものね。そうなると、先輩が前を抑え込んで、その前が開いた状態になったから篠原アオイはタイムアタックに。

「そんな感じで良いと思う。もうどうしようもなかった」

 取材なのになにやってるのやら。

「オレはレースを目指した人間だ。そういう人間が最後に目指すのはどこだ?」

 モトGPとか世界耐久選手権じゃないの。

「ああそうだ。だがな、そこまでステップアップ出来る人間は限られた天才のみだ」

 そうなるけど、

「オレのような凡人なら八耐すら遠く、四耐でさえ夢だ」

 あの、その、

「だからオレにとっての四耐だった」

 先輩の四耐チャレンジを阻んだのが篠原アオイだ。だからせめて練習走行で挑んだってことか。

「さすがだったよ。マシンの差以前なのがよくわかった。あんな極限の走りを二時間以上もするのが四耐だってよくわかった」

 えっと、えっと、

「篠原アオイに感謝だな」

 先輩は練習走行前とは打って変わって晴れやかな顔になっている。結果はランオフエリアに突っ込んだだけだけど、なにかを成し遂げたって表情だよ。

「あははは、オレの夢のステージがあの時間だった」

 なるほど。やっとわかった気がした。先輩の夢はレーサーになること。レーサーの究極の夢はモトGPとかスーパーバイク選手権、世界耐久選手権の舞台に立ちチャンピオンになること。

 だけどそんなもの、サッカー選手を目指して欧米のプロチームのレギュラーになるより難しい。現実も先輩は国内の草レースに毛が生えたぐらいのところで終わってる。それも努力不足じゃない。あんなもの剥き出しの才能の世界だもの。才あるものに才無き者は永遠に追いつけない残酷な世界。

 それでも先輩にはレーサーの夢を追いかけていた。自分の才能でも手が届きそうな鈴鹿の四耐。そりゃね、四耐にはカネがあれば出れる。でもね、でもね、そんな資金を調達するのもこれまた夢。

 先輩が最後の夢を託そうとしたのが杉田さんの四耐参加プロジェクト。あれも始まった頃は優勝どころか完走さえ難しく、参加する事に意義があるぐらいの企画だったはず。杉田さんも、

『四耐参加の空気を楽しむ企画でした』

 こう言ってたぐらい。それなら先輩だって可能と考えたのだと思う。でも公募レーサーに篠原アオイが現れてしまった。お小遣い程度のお手当しか出ない杉田さんのチームにだよ。篠原アオイなら四耐どころか、八耐のシートのオファーがあっても不思議無かったのによ。

 篠原アオイの参加は杉田さんのプロジェクトの性質まで根本的に変えてしまい、あのコラボ嫌いの杉田さんがクレイエールの全面支援まで受け入れている。それはそれで良かったかもしれないけど、結果的に先輩の四耐への最後の夢も潰えてしまった。

 そんな先輩のあきらめきれない夢が篠原アオイと走ること。今回の取材旅行の真の目的はそれで、そのためにコネを使いまくり、表向きの取材理由をこしらえたんだ。先輩にとって練習走行こそが四耐であり、篠原アオイに先行した時間はトップ争いの夢の実現だったはず。

 男は女より子どもの時の夢を持ち続けると言われてる。だから安定を捨ててまでその夢の実現に走ってしまうことが時にある。それを理解できずに笑う女も少なくないけど、双葉は笑わない。少なくとも先輩を笑おうとも思わないし、むしろ尊敬する。

 先輩がエラいと思うのは、今を壊さない枠内で自分の夢を叶えたこと。だって誰にも迷惑かけてないじゃない。ここも微妙なところはあるけど、先輩の本当の夢は杉田さんの選考会で潰えてるはず。

 そこで潰えたはずだけど、それでも何かの形で夢を叶えようとして、こんな形で叶えたと思ってる。それで良いと思う。人はね、色んな夢を持って大人になるんだよ。でもその夢が実現できるのはほんの一握りだ。

 夢を心の奥底に秘めながら人生を終える人の方が圧倒的に多いと思うんだ。これは才能とか、チャンスに恵まれなかったのもあるだろうし、家庭を持ったらそれを守るのを優先したのもあると思う。それこそ子どものためとかね。

 だから夢が叶わなかった人も立派だと思ってる。良い様に言えば自分の夢を犠牲にして周囲の人を幸せにしたぐらいかな。自分の夢を優先させるあまり、周囲を不幸に巻き込む人はどうかと思うもの。

 それでも少年の日の夢への情熱をどんな形であれ実現させようとするのは素晴らしい事だと思う。それさえ叶わない人の方が多いはずだけど、先輩は立派に実現させた。それも誰にも迷惑をかけずにだ。

 そりゃ、もともとの夢からしたらちっぽけになってるし、妥協の産物なんていう人もいるかもしれない。でもね、大事なのは自分が満足するかどうかのはず。先輩の練習走行後の晴れやかな顔は良かったもの。

 いや、格好良いと思う。先輩にこんな一面があったのを初めて知った。こんなに良い男なのにどうして元妻は浮気に走ったのだろう。やはりそういうのが理解できないタイプの女だったんだろうな。